夕礼拝

与えられる恵み

「与えられる恵み」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第52章3-10節
・ 新約聖書: ペトロの手紙一 第1章10-12節
・ 讃美歌: 502、481、282

預言者とは
旧約聖書には「預言者」と呼ばれる人達がおります。聖書における「預言者」というのは、私たちが聖書以外のところで聞くところの「予言者」ではありません。聖書以外のところでの「予言者」というのは、単に未来に起こることを予告する人物でありますが、聖書における、それも旧約聖書における「預言者」というのは「神様の言葉を預かる者」という意味で用いられております。預言者とは神様の意志、神様の御心、神様の言葉を示され、その言葉を様々な時代状況に生きる人々に理解することのできる言葉で伝える、それが預言者の働きであります。旧約聖書には預言者の言葉である預言書が15冊ありますが、その中でも「希望の預言者」と呼ばれた預言者イザヤの書があります。「預言者」というのは「神様の言葉を預かる者」であります、また「預言者」という言葉は「見る人」とも翻訳することができます。預言者が「見る人」であると言うのはどう意味なのでしょうか。政治上のことや人間の社会のことを見る人だったという面もありますが、人間の社会や政治的なことを通して預言者が本当に見ていたものはいつでも「神様の言葉」なのです。神様の意志、神様の御心である神様の言葉を示され、それを人々に伝えるのが預言者であります。神様の御言葉によって、御心を示され、それによって目に見えない真実をはっきりと見ることが出来たのが預言者であります。そのようにして彼らが見たことの中心は、神様による「救い」だったのです。

この救い
 本日の新約聖書のペトロの手紙1の1章10節にはこのようにあります。「この救いについては、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たち(聖書に合わせて平仮名に、以下統一せよ)も、探求し、注意深く調べました。」預言者たちは「この救いについて」探求し、注意深く調べたのです。「この救い」とは何でしょうか。それは主イエス・キリストによる救いです。預言者たちが探求し、注意深く調べたことは、結局主イエス・キリストによる救いだったのです。ここでの預言者には、旧約の父祖たち、祭司達、あるいは王達なども含まれます。旧約聖書に登場するすべての者たちが、イエス・キリストによる救いを求め、探し、注意深く調べていたのです。ルカによる福音書第11章9節から10節に、主イエスのこのようなお言葉があります。「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」この聖句は有名であり、私たちの心を捉える箇所でありましょう。この御言葉によって私たちは励ましを受けます。けれども、時に私たちは聖書の御言葉を自分の都合に合わせて解釈してしまう場合があります。聖書の一部分を取り出して、勝手な解釈をしてしまうときがあります。「求めなさい。そうすれば、与えられる。」という言葉を読むと、自分が欲しいものを何でも与えてくれるのか、などと思ってしまうのです。そして自分の望み通りに与えられないと失望したりするのです。しかし求めたら与えられるというのは、この預言者たちがそうだったように、キリストによる救いを本当に探求し、注意深く調べていくなら、与えられる、ということなのです。欲しいものが何でも与えられるということではありません。
けれども神の救いを本当に求めるならば、それは与えられます。
なぜならば、神様は独り子主イエス・キリストを私たちのためにこの世に遣わし、主イエス・キリストによる救いを私たちにお与え下さったからであります。主イエス・キリストは神様の御計画、御心によってこの世に遣わされ、私たちのために十字架にかかって死んで下さいました。そして三日目に復活して下さいました。十字架の死は、苦難で終わらずに復活につながったのです。この主イエス・キリストによる救いこそ、預言者たちが探求し、天使たちでさえ、見て確かめたいと願っている、すばらしい恵みなのです。

キリストの霊
11節にはこのようにあります。「預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光 あらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです。」預言者たちは、救いが誰によって、どの時期に与えられるのかを注意深く調べたのです。けれども、彼らは自分の考えや、自分の経験によってそれを見出したのではありません。彼らにそれを示し、与えたのは、彼らの内に働いているキリストの霊だったのです。自分たちの内に働くキリストの霊によって、キリストによる救いを探し求めたと言ってもよいでしょう。神様が預言者たちに求めさせたのであると言うこともできます。キリストによる救いは、神様が示して下さらなければ得られないものです。救いを探し求めようという思いも、神様が与えて下さるものなのです。
彼らの内にいるキリストの霊が証しして下さったのは、「キリストの苦難とそれに続く栄光」であると語られています。主イエス・キリストによる救いを探し求めるということは、キリストの苦しみとそれに続く栄光を探し求めることす。先ほど読んで頂きましたイザヤ書第52章3節から7節は、主イエス・キリストの苦しみを預言した言葉であります。イザヤは、神に選ばれた「僕」が苦しむことを、そしてその苦しみによって人々に救いがもたらされることを語ったのです。このことによってイザヤは、キリストの苦難とそれに続く栄光、すなわち勝利を預言したのです。キリストの十字架における苦しみと復活と昇天における栄光、勝利です。ここに、神様の恵み、私たちに対する救いの出来事が示されているのです。

キリストの霊に導かれて
12節では「彼らはそれらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであると啓示を受けました。それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです」とあります。預言者たちがキリストの霊によって啓示を受けて示された救いは、あなたがた、つまり私たちのための救いでもあるのです。その救いの知らせ、つまり福音が、今、私たちに告げ知らされているのです。この福音は「天使たちも見て確かめたいと願っているものである」とあります。神様のすぐ側にいて、神様に仕えている天使たちでさえも、この福音を見たい、それを確かめたいと願っているのです。私たちはその福音を、主イエス・キリストによる神様の救いの恵みを見ることをゆるされています。預言者たちを導いて、キリストの苦難とそれに続く栄光による救いを啓示して下さったキリストの霊が、今も私どもに働いて下さり、喜びへと招いて下さっているのであります。

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