夕礼拝

謙遜の試される時

「謙遜の試される時」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:民数記 第11章35-12章16節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第5章1-12節  
・ 讃美歌:166、513

人間関係におけるつぶやき
 私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書の民数記からみ言葉に聞いています。先月読んだ第11章には、主なる神様によってエジプトの奴隷状態から解放され、乳と蜜の流れる約束の地へと旅しているイスラエルの民が、荒れ野の旅のつらさの中で神様に対して、そして神様によって彼らの指導者として立てられたモーセに対して不平不満を言ったことが語られていました。本日の第12章にも、モーセに対するつぶやき、不平不満があったことが語られています。しかし12章におけるつぶやきは、11章のそれとは違います。11章でのつぶやきは食物に関することでした。主なる神様は、食べ物のない荒れ野を旅しているイスラエルの民に毎日、天からのパンであるマナを与えて養って下さっていました。しかし人々は、そのマナだけでは飽き足らず、エジプトにいた時にはこんなものも、あんなものも食べていた、と言って、奴隷だったエジプトでの生活を懐かしんだのです。それは、奴隷の苦しみから救い出して下さった神様の恵みを忘れ、あれもこれもと欲望をふくらませたということです。11章にはそういう貪欲によるつぶやきが語られていたのです。本日の12章におけるつぶやきはそれとは内容が違います。ここでは、つぶやいているのは一般の人々ではなくて、ミリアムとアロンという特定の人です。またそのつぶやきの内容も、食物のことではなくて、モーセと自分たちとの関係の問題です。つまり12章のつぶやきは人間関係におけるつぶやきなのです。

ミリアムとアロン
 まず、ミリアムとアロンという二人について基本的なことを確認しておきたいと思います。アロンが最初に登場したのは、出エジプト記の第4章です。大事な所ですので読んでおきたいと思います。出エジプト記第4章10?16節です。「それでもなお、モーセは主に言った。『ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。』主は彼に言われた。『一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。』モーセは、なおも言った。『ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。』主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。『あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる』」。ここから分かるように、アロンはモーセの兄弟です。他の箇所によれば、アロンの方が三歳年長の兄とされています。彼は雄弁な人であり、弁が立つ方ではなかったモーセのために、神様が彼を言わばスポークスマンとしてつけて下さったのです。しかし大事なことは、15節にあるように、アロンが自分で考えて何かを語るのではなくて、あくまでもモーセが彼に語るべき言葉を託すのです。神様が出エジプトの指導者としてお立てになったのはモーセであって、アロンはその補助者、助け手なのです。  次にミリアムですが、この人はモーセとアロンの姉です。出エジプト記の第2章には、赤ん坊のモーセが籠に入れられてナイル川の葦の茂みに隠され、それをエジプトの王女が見つけた時に、様子を伺っていたモーセの姉がすかさず、この子の乳母を連れて来ましょうかと申し出て母親を連れて来る、それによってモーセは、母親のもとで、しかし王女の子として育てられることになったという話があります。この姉がミリアムだったと思われるのです。つまりミリアムはある意味モーセの命の恩人です。またこのミリアムは、エジプトからの脱出において、海の水が分かれて出来た道を通ってイスラエルの民が向こう岸へ渡り、後を追ってきたエジプトの戦車軍団の上に水が流れ返って全滅した、あの大きな救いのみ業がなされた時、小太鼓を手に取り、踊りながら、民の賛美の歌を導いたことが出エジプト記第15章に記されています。そこにはミリアムが女預言者であると語られています。ミリアムはこのように、民の賛美の歌を導く預言者としての働きを与えられていたのです。

主はモーセを通してのみ語られるというのか
 このように、アロンもミリアムも、共にモーセの年上のきょうだいであり、モーセと共に、エジプトから出て荒れ野を旅するイスラエルの人々を指導し、導く働きを担っていたのです。そのアロンとミリアムが、モーセに対してつぶやいた、不満をもらしたのです。彼らは何を言ったのでしょうか。先ず1節にはこうあります。「ミリアムとアロンは、モーセがクシュの女性を妻にしていること ナ彼を非難し、『モーセはクシュの女を妻にしている』と言った」。「ミリアムとアロン」となっているのは、このつぶやきが主にミリアムのものだったということでしょう。ミリアムは、モーセの妻のことでモーセを非難したのです。モーセの妻は「クシュの女性」、つまり外国人でした。ミリアムはそのことを問題にしたのです。しかし、イスラエルの民に、神の民としての純粋性を守るために他の民族との結婚を禁止するという掟が生まれたのはずっと後のことです。この時点でミリアムがこういうことを言ったのは、はっきり言っていいがかりのようなものです。実はこれがモーセに対する非難の中心ではありません。彼らの不満の中心はもっと別の所にあったのです。それが2節に語られています。「主はモーセを通してのみ語られるというのか。我々を通しても語られるのではないか」。これが、彼らの抱いている本当の不満です。アロンもミリアムも、主なる神様のみ言葉を聞いて民を導き指導する働きにおいて、自分たちがいつも第二第三の立場しか与えられず、弟であるモーセがいつも第一となっていることに我慢がならなかったのです。きょうだいでありながら、弟のモーセだけが神様から特別の選びを与えられ、主要な地位を得ている、姉、兄である自分たちはいつも従の立場に置かれている、そこに彼らの不満があったのです。

得意な賜物において
 この不満は、主がみ言葉を語って民を導いて下さることが、モーセを通してしかなされないはずはない、自分たちも、直接主のみ言葉を聞き、それを人々に伝え、教えていくということがあってもよいはずだ、ということです。アロンは先ほど見たように雄弁な人でした。ミリアムも、賛美を導くという特別な賜物を与えられていました。語ること、賛美を歌うことは、彼らが得意とする賜物です。彼らはその賜物を用いてモーセを補佐していたのですが、得意なことを行なっていく中で、彼らは不満を覚えるようになったのです。雄弁なアロンから見ると、弟モーセは、語ることが上手ではありません。語ることにおいては自分の方がモーセよりよほど上なのです。ところが、神様がみ言葉を語りかけるのはいつもモーセであり、彼はモーセから語るべきことを教えてもらわなければならない、これでは自分の賜物が生かされない、とアロンは思ったのでしょう。ミリアムにしても、自分は賛美を歌い、導くことにおいてモーセにはない賜物を与えられていると自覚しています。しかしその賜物を用いていくに際して、いつもモーセによって示されるみ心を聞いてそれに従わなければならないことが不満に思えたのです。もっと自由に、自分の判断で賜物を生かしたいと思ったのです。つまり彼らの不満は、神の民の群れにおいて、指導される立場に置かれている者が、指導する立場に立てられている者に対して抱く不満なのです。そういう不満は私たちの中でもしばしばくすぶっているのではないでしょうか。教会において私たちは、それぞれ自分に与えられている賜物を生かして奉仕しようとします。自分で考えて、こうするのがよい、あれをしようと思うのです。ところが、それに対して、教会の指導を担っている立場の人から待ったがかかったり、修正を求められることがあります。そのために自分の思い通りにできないということを体験することがあるのです。そんな時に私たちも、このアロンやミリアムと同じ不満を抱きます。そういう意味でこの不満は私たちにとっても身近なことだと言えるでしょう。私たちの教会にこれを当てはめるなら、「主は、牧師や長老を通してのみ語られるというのか。我々を通しても語られるのではないか」ということになるのです。特に私たちが、自分はこういう賜物を与えられている、これが得意だ、と思っており、ところがその点において自分より劣っている、賜物のない人が指導者として立てられていると思う時に、このような不満が爆発するのです。

モーセは特別
 このミリアムとアロンのつぶやきに対して、主なる神様はどのようにおっしゃったのでしょうか。それが6?8節です。「主はこう言われた。『聞け、わたしの言葉を。あなたたちの間に預言者がいれば、主なるわたしは幻によって自らを示し、夢によって彼に語る。わたしの僕モーセはそうではない。彼はわたしの家の者すべてに信頼されている。口から口へ、わたしは彼と語り合う。あらわに、謎によらずに。主の姿を彼は仰ぎ見る。あなたたちは何故、畏れもせず、わたしの僕モーセを非難するのか』」。「幻によって自らを示し、夢によって彼に語る」、これは、神様が預言者にみ言葉を与える通常の仕方です。預言者は夢や幻においてみ言葉を示され、それを語るのです。「あなたがたの間に、そういう預言者としての賜物を持っている人がいるかもしれない、しかし、モーセは通常の預言者とは全く違う」、と主は言っておられるのです。「わたしは彼に、口から口へと語りかけ、あらわに、謎によらずに語り合う。主の姿を彼は仰ぎ見るのだ」。つまり神様はモーセに、ご自身との特別な関係、交わりを与えて下さったのです。そのようにしてモーセは出エジプトの指導者として立てられたのです。だからあなたがたは彼に聞き従わなければならない、それが神様がアロンとミリアムに言っておられることです。モーセが彼らの指導者として立てられているのは、神様ご自身のみ心によることであり、モーセを通して語られるみ言葉に聞き従うことこそが、神様に聞き従うことなのです。このみ言葉によって主なる神様は、ミリアムとアロンの、自分たちも直接主のみ言葉を受けることができるのではないか、という訴えを却下なさったのです。

謙遜の訓練
 主なる神様はこのみ言葉によって、神の民に主がお立てになった指導者に対して謙遜になり、その人を通して語られるみ言葉に従うことを教えておられます。私たちはしばしばそういう謙遜を失ってしまいます。特に、指導者よりも自分の方がむしろ豊かな賜物を持っている、能力がある、と思う時に、謙遜になれなくなるのです。しかし神様は、むしろ敢えてそのような人を、神の民の、教会の、指導者としてお立てになるのです。神様が教会にお立てになる指導者、それは牧師や伝道師だけでなく、長老や執事もそうです。牧師、長老、執事がそれぞれ違った働きにおいて、教会の指導者、先頭に立って人々を導く者として神様によって立てられるのです。神様はそのように人間の指導者を立てることによって、ご自分の民である教会を導いていかれるのです。主がそのようになさる理由を、宗教改革者カルヴァンはいくつかあげていますが、その一つは「謙遜の訓練のため」ということです。このように言っています。「神はわれわれを御自身の御言葉への聴従に馴れさせたもうのであるが、その御言葉がたといわれわれと同列の人間を通じてであれ、いや、ときとしてしばしば、われわれよりも威厳の落ちる人間を通じて宣べ伝えられることによってであれ、それに従うようになしたもうのである」。自分と同列の、あるいは自分より能力の劣った人間が語る神の言葉に聞き従うようにと神様はお命じになっているのです。その意味が以下のように語られています。「塵から起こされた、どこかの小さな人間が、神の御名によって語るとき、その人がわれわれに何らの点においてまさっていなくても、その人のつとめの前に、己れ自身をすなおに示すならば(つまりその人が神様によって立てられている指導者である、ということのゆえにその言葉に耳を傾けるならば)、神御自身に対するわれわれの敬虔と服従とを、最高の証拠によって明らかにすることができるのである」。このように私たちは、自分と同等の、いや時には自分より賜物の少ない、劣っている者が教会の指導者として立てられ、その指導に従うことにおいて、神様の前で謙遜になるための訓練を受けるのです。神様の前で謙遜になるとは、神様がお立てになった人間の指導者の前でも謙遜であり、その指導に従うということです。神様に対する謙遜とは、み言葉によって自分の意見や思いが修正され、変えられることを受け入れる用意をしていることです。神様に対してそのような用意をしているなら、人間の指導者に対しても同じ用意ができていなければならないのです。ミリアムとアロンにとって、自分たちの弟であり、様々な点で自分の方が豊かな賜物を与えられていると思えるモーセが、神様によってイスラエルの指導者として立てられていることは、彼らが神様に対して本当に謙遜であることができるかを厳しく試される、謙遜の訓練の場だったのです。

謙遜の試される時
 本日の説教の題を「謙遜の試される時」としたのはこのような意味においてです。教会は、私たちが、神様に対して本当に謙遜であるかをいつも試される所であると言えます。この地上を歩む人間の群れである教会には、人間による指導の体制が整えられます。私たちの教会で言えば、牧師、伝導師、長老、執事という奉仕者による指導体制が築かれているのです。しかしそこで指導者として立てられている一人一人は、欠けの多い、罪深い人間です。能力、賜物にもいろいろな違いがあり、限界があります。批判しようという目で見れば、「あら」はいくらでも見つけ出せるのです。しかしそのような一人一人が、神様によって立てられて、教会の先頭に立つ、指導者としての務めを負っていくのです。その働きがしっかり実を結ぶためには、指導を受ける教会の人々の中に、神様の前で本当に謙遜になり、それゆえに立てられた指導者たちの指導を謙遜に受けるという姿勢がなければなりません。そういうことによってこそ、教会は神様のみ言葉によって導かれていくのです。

誰よりも謙遜なモーセ
 このようにこの箇所における神様のみ言葉は、教会の指導者に対して謙遜であるべきことを教えています。その謙遜を失った悪い例としてアロンとミリアムのことが語られているのです。しかしそのように考えていく時に、この箇所において3節が大変興味深い、また重要なことを語っていることに気づきます。3節には「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった」と語られているのです。アロンやミリアムが、指導者であるモーセに対して謙遜でなければならない、ということがここで見つめられ、語られているわけですが、実は指導者であるモーセこそが、地上の誰にもまさって謙遜だったと言われているのです。モーセがそのように謙遜だったことはどこに示されているのでしょうか。先月読んだ11章の29節に、モーセのこういう言葉がありました。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」。このモーセの言葉と、12章2節の「主はモーセを通してのみ語られるというのか。我々を通しても語られるのではないか」というアロンとミリアムの言葉はまことに対照的です。アロンとミリアムは、モーセだけが預言者の務めを独占しているのはおかしい、我々にもその務めが与えられるべきだ、と言って自分たちの権利を主張したのです。しかしモーセ自身は既に、主の民全てが聖霊を受けて預言者となることを願っている、と言っていたのです。ここに、誰よりも謙遜なモーセの姿が描かれています。彼は、自分に与えられている使命を自分だけのものとして独占しようとは少しも思っていないのです。彼には、神様が立てて下さり、聖霊の賜物を与えて下さる全ての人々を受け入れる用意があります。それらの人々と共に神様から与えられる使命を担おうとしているのです。またこの12章には、モーセに対して不満を言い、批判したために神様の怒りを招き、重い皮膚病にかかったミリアムのために、モーセがその病気の癒しを神様に求めて祈ったことが語られています。つまりモーセは、預言者の務めを独占している、と自分を批判した相手の病の癒しのためにとりなし祈ったのです。そこにも、彼が誰よりも謙遜な人であったことが示されています。神様の前で本当に謙遜な人は、自分が批判され、誇りやプライドを傷つけられることを意に介さないのです。大事なのは自分の名誉やプライドを守ることではなくて、神様の栄光が現され、その救いのみ業が広められ、神様の民が皆その恵みにあずかっていくことなのだ、ということをしっかりと見つめているからです。そこにこそ、本当に謙遜な生き方が生まれるのです。  この12章は私たちに、神の民の群れである教会には、神様によって指導者として立てられた人々がおり、その指導に謙遜に従うことによってこそ、神様に対して本当に謙遜であることができる、ということを教えています。しかしそれと同時にここには、教会において指導者として立てられている者は、モーセに倣って、誰よりも謙遜な者でなければならない、指導者こそが、この謙遜の先頭に立つ者でなければならない、ということが語られているのです。教会は謙遜の訓練の場であるとカルヴァンが言ったことを先ほど紹介しましたが、教会が謙遜の訓練の場となるためには、まずその指導者たちが本当に謙遜にならなければならないのです。

柔和さの幸い
 本日は、共に読まれる新約聖書の箇所として、マタイによる福音書第5章1?12節を選びました。主イエスはここで、「このような者は幸いである」と、いくつかの「幸い」を示しておられますが、その中の5節に「柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」とあります。この「柔和」という言葉が、本日の箇所の「謙遜」という言葉をギリシャ語に訳した時に用いられた言葉なのです。つまり主イエスがここで教えておられる柔和さとは、本日の箇所における謙遜をその大事な内容として持っているのです。つまりそれは、神様の民である教会において、指導者として立てられている者も指導される立場にある者も、主なる神様の前で本当に謙遜に立ち、お互いを受け入れ合い、自分の名誉やプライドを捨てて、批判し敵対している者のためにとりなし祈っていくということです。それこそが、地を受け継ぐことができる柔和さなのです。主イエス・キリストは、まさにそのような力強い柔和さに生き、その柔和さによって十字架にかかって死なれたのです。その主イエスの柔和と謙遜とによって私たちは罪の赦しを与えられ、救いにあずかり、神の民の群れである教会に招かれています。それゆえに私たちも、神様が約束して下さっている救いの完成に向かって荒れ野を旅していく神の民の一員として、お互いの間に、柔和な、謙遜な交わりを形造っていきたいのです。様々な弱さや罪を負っている人間が教会の指導者として立てられることによって、つぶやきや不満が起ってきます。そういう現実こそ、私たちの謙遜が試される時であり、試練の時です。その試練を乗り越えて本当の柔和さ、謙遜さに生きていくところに、私たちの本当の「幸い」があるのです。

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