夕礼拝

耳を開いてくださる主

「耳を開いてくださる主」 伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; イザヤ書 第35章1-10節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第7章31-37節
・ 讃美歌 ; 299、402、77

 
耳が聞こえず舌が回らない
 本日の箇所には、主イエスが、「耳が聞こえず、下の回らない」人を癒された出来事が記されています。「聾唖者」という言葉があります。「聾」という言葉は耳が不自由なこと、「唖」というのは、言葉が不自由なことを意味しています。耳が不自由であることと語ることが不自由であることは一つのことなのです。私たちの感覚からすると、たとえ耳が不自由であっても、言葉を話すのには不自由しないだろうと感じます。しかし、そのように感じるのは、私たちの耳が聞こえていて、既に言葉を獲得しているからです。もし、生まれつき耳が不自由であれば、人が語る言葉も自分が発する言葉も正確には聞こえませんから、正しい音を身につけることが出来ないのです。ですから、耳が聞こえないことと、口が利けないことは一つなのです。 私がこのことに気づかされたのは小学生の頃でした。当時、私が通っていた教会では、先々週の青年伝道夕礼拝に来て下さった寺田先生が牧会されている海老名教会と合同でワークキャンプを行っていました。夏休みに、耳が不自由な子供達が学んでいる学校に泊まり込んで、その学校の生徒と一緒に働いたり、交わりを深めたりするのです。その時、初めて耳の不自由な人が語る言葉を聞いたのですが、私は、その人達が何を言っているのか全く聴き取ることが出来なかったのです。

言葉の獲得
 この学校は日本で唯一の私立の聾学校で「日本聾話学校」と言います。「唖」という言葉ではなく「話」という言葉を用いられています。それは、この学校の教育方針が、手話を使わずに言葉を獲得させるということにあったからです。どんなに耳が不自由であっても微かに聴力は残っているのです。その聴力を、補聴器を使って最大限に引き出して、ただひたすら愛情を持って語りかけるのです。これは根気のいることです。ですから、この学校の教育は、家族や周囲の人が、どれだけ愛情を持ってその子供に接することが出来るかにかかっているのです。現在は補聴器や人工内耳の技術が進歩していて、幼い内からしっかりと対処をすれば、相当の成果が得られるそうです。手話というのは、言葉に比べて表現出来ることが限られますし、そもそも、手話が分かる人にしか言いたいことを伝えることは出来ません。又、言葉は、私たちが物事を考えるために不可欠なものです。人間が人格的に成熟するのは言葉を聞き分け、それによって考え、表現することによってなのです。ですから、言葉を獲得し、それによってコミュニケーションが出来るようになることは耳の不自由な人にとって良いことであるに違いありません。しかし、このような教育はあまり普及しません。相当な根気と愛情がいることですし、現在は手話がブームになっています。更に、この教育が功を奏すればする程、生徒は一般の学校に転校してしまいますから、経営していくことは困難なのです。病気の人がいなくなったら医者は食べていけなくなるのと似ています。しかし、この学校は、愛情を持って語りかけることで言葉を獲得させるということを重んじ続けているのです。それは、この学校を建てた人々が、耳を開き、舌のもつれを解いて下さる主イエスの愛を信じているからなのです。

真剣に向かい合う
 この学校で生徒とコミュニケーションを取ろうとするならば、普段周囲の人々と接するのとは異なった配慮が必要です。先ず何よりも、自分がコミュニケーションを取ろうとする人と、しっかりと向かい合わなくてはいけません。「私が関わろうとしているのは他の誰でもなくあなたである」ということをはっきりさせるのです。その上で、相手が言おうとしていることに真剣に耳を傾け、自分が話す時には、その人の目を見て、普段より声を大きくだして、口をはっきり開けて話しかけなくてはいけません。そうすることで初めてコミュニケーションが取れるのです。これは、相手と真剣に関わりを持とうという愛情がなくては出来ないことです。実際、私は、生徒が発する言葉が何も聞き取ることは出来ませんでした。そして、聞くことが出来ない中で、自ら話しかけることも出来ませんでした。いつも、青年会のお兄さんやお姉さんと一緒にいて、その陰に隠れていたのです。教会の青年達を介して、耳の不自由な人と関わりを持っていたのです。自分が聞き取れない言葉で話しかけられ、何も答えることが出来ずに黙ってしまうことが怖かったのです。その為、耳の不自由な生徒と一対一で関わりを持つことを避けていたのです。それは当時の私が小学生で、それをするだけの成熟度がなかったということもありますが、根本的には、私自身に隣人と真剣に向かい合うために必要な愛情が無かったということなのです。

主イエスの対応
 今日お読みした聖書において、私たちは、今までとは違う主イエスの姿を知らされます。主イエスは、「耳が聞こえず、舌が回らない人」に対して、汚れた霊に取り付かれた人や、病人に対してされてきたのとは全く異なった仕方で接するのです。今まで主イエスが御業をなさる時、大抵の場合、癒すべき人に触れたり、手を置いて、御言葉を語るだけです。一切派手な動作を行いませんでした。主イエスは、御業をなすことで人目を引こうとしていたわけではありませんから、ただ手を置いて御言葉を告げるだけで良いのです。実際、この人を主イエスのもとに連れてきた人々は「手を置いて下さるように」と願ったのです。おそらく、主イエスがそのようにして、癒しの業をなさっているのを耳にして、触れていただきさえすれば直ると思ったのでしょう。しかし、主イエスは、ここで、手を置かれたのではありません。「この人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」のです。主イエスは、癒しの業において、これ程多くの動作をしたことはありませんでした。もちろん、ただ意味もなくこのようなことをなさったのではありません。主イエスは、先ず、この人だけを群衆の中から連れだします。それは、主イエスがこの人と真剣に、一対一で向かい合われたことを意味しています。この人を、自らを求めて来る群衆の中の一人としては扱われないのです。耳の聞こえない人は、大勢の人の中で言葉を語りかけられても、その人が果たして自分に関わりを持とうとしているのかどうか分かりません。この人は、主イエスが人々の中からこの人を連れ出して面と向かわれることによって、主イエスが他でもなく、自分に特別な業をなそうとされていることを悟ったことでしょう。それに続けて、主イエスは、指を両耳に入れ、唾をつけて舌に触られたのです。ただ御言葉を語るだけでは、この人は自分が何をされているのか分からないからです。この動作によって、この人は主イエスが、自分の耳と口に御業をなそうとしていることを悟ったのではないでしょうか。そのようにした上で「エファタ」、「開け」と語られるのです。主イエスは、人々を十把一絡げに扱われる方ではありません。主イエスは、それぞれの人にしっかりと向かい合い、それぞれの仕方で関わりを持って下さるのです。この振る舞いにこそ主イエスの愛が示されているのです。耳が見えず、舌が回らない人に愛を示し、救うためには、それまでの救いの御業と異なる仕方でなすことが不可欠だったのです。この愛の御業によって、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すことが出来るようになったのです。

耳と口を開く愛 
 この箇所が伝えようとしていることは、人々を驚かせるだけの奇跡行為者としての主イエスの姿ではありません。全ての人に対して示されている主イエスの愛なのです。私たちは愛に生きえない者です。私たちはそのような意味において、耳が聞こえず、舌が回らない者です。愛に生き得ないということと、「耳が聞こえず、舌が回らない」ということは深く関わりがあるのです。もちろん、肉体的に耳が不自由な人が愛に生きることは出来ないのだと言うのではありません。私たちは誰しも、この主イエスの愛を知らされない限り、耳が聞こえず、舌が回らない者なのです。例えば、私がかつて、耳の不自由な生徒が話す言葉を聞くことが出来ず、自分から話しかけることを拒んで、陰に隠れて沈黙していた時、私は愛に生きてはいませんでした。肉体的に不自由を経験している人を前にした私自身の方が、まさに、耳が聞こえず、舌が回らない者の一人であったのです。私たちは、もしかしたら、自分の耳は聞こえているし、自分は口が利けると思っているかもしれません。確かに、肉体的には健康かもしれません。しかし、愛の欠如によって、「耳が聞こえず、舌が回らな」くなっているという状況は、肉体的に障碍があるか、健康かということと関係はありません。愛に生き得ないという私たちの罪は、耳を聞こえなくし、口を利けなくするのです。私たちは日々の生活において、隣人の言葉を聞くための耳が開かれているでしょうか。むしろ閉ざされていることが多いように思います。隣人の語ることを、本当の意味で理解することが出来ないことがあります。そのような中で、隣人の置かれている状況に思いを寄せることなく曖昧な言葉を語ってしまったり、対話している相手を傷つける言葉を語ってしまうこともしばしば起こることです。そして、隔たりを生む言葉を語り、隣人を傷つけている自らの愛のなさに気づくことも、それを嘆くこともなく平然と日々を送っているということもあるのです。そこには、人間の罪があるのです。そして、主イエスは、罪によって「耳が聞こえず、舌が回らない」私達のもとに来られ、愛を示して下さる方なのです。

深いため息
 ここで、私たちは、もう一つの今までとは異なる主イエスの姿に目をとめたいと思います。「天を仰いで深く息をつき」と記されています。今までも、御業をなさる前に「天を仰ぐ」ことはありました。少し前の第6章には、主イエスが5千人に食べ物を与えられた時、「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子達に渡して配らせた」ことが記されています。御業をなさる前に、父なる神に向かって御心がなることを求めて祈られたのです。しかし、今回は、それだけではなく深く息をつかれたのです。この言葉は主イエスの嘆きを現す言葉です。この後、第8章に入って、主イエスが4千人に食べ物を与える記事が続きます。その後でファリサイ派の人々が議論をしかけて来ました。その時、主イエスが心の中で深く嘆かれたことが記されています。この時の嘆くという言葉が「息をつく」と同じ言葉です。この言葉には、主イエスの嘆き苦しみが示されているのです。この福音書が、息をつかれる主イエスの姿を記すのは、この箇所が初めてです。本日の箇所から、主イエスの苦しみが明確に述べられるようになるのです。主イエスは、神の国を宣べ伝える歩みの中で、徐々に苦しみを経験するようになります。人々が聞く耳を持たないということによる苦しみであると言っていいでしょう。耳が閉ざされている者は、隣人の言葉だけでなく、主イエスの語る御言葉も聞くことが出来ません。皆自分の思いで解釈してしまうのです。主イエスは、繰り返し、「聞く耳のあるものは聞きなさい」と語りながら御言葉を語っても、人々は聞く耳を持たないのです。そのような人々の罪を、主イエスは嘆き苦しまれたのです。主イエスの愛の業の背後には、人間の罪に対する嘆き、苦しみがあるのです。

十字架の苦しみ
 主イエスはご自身の地上での歩みの最後に十字架に向かいます。人間の罪を嘆かれる主は、人々を真に罪から救うために十字架へと赴かれ、そこで、誰にも理解されることなく、お一人で、人々の罪の贖いとなって下さったのです。人々の罪のための十字架の死において、主イエスの私たちへの愛が示されています。十字架において、主イエスは私たちの罪に触れ、その力から解き放って下さっているのです。なぜ、十字架なのでしょうか。もちろん意味もなく、それがなされたのではありません。それをすることなしに、人々を本当には救うことが出来なかったからです。神の子である主イエスが、十字架にかかるということでしか、ただ御言葉を語るだけでは、そこで語られることを聞こうとしない人々を罪からの救うことが出来ないからです。耳が聞こえず、舌が回らない人の救いのために、その人を連れ出し、耳に指を入れ、舌に唾をつけるということがなされなければ成らなかったように、人々の救いのために、十字架が不可欠であったのです。主イエスのため息に示される嘆き苦しみは、自らの命を投げ出す十字架の嘆き苦しみに通じています。このことに神の愛が現されています。十字架を示される時、主イエスが、嘆きつつも、私たちの罪によって閉ざされている聞こえない耳と回らない舌に触れて、「開け」と語って下さっていることを知らされるのです。

「この方のなさったことはすべて、すばらしい。」
 主イエスは、耳を開かれた後、「だれにもこのことを話してはいけない、と口止めされ」ました。しかし、主イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めたのです。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにして下さる」。ここで「すべて」と言われていますが、もちろん、ここで、主イエスの救いの御業の全てがなされているのではありません。主イエスがこの地上でなされる真の救いの御業は十字架にまで至らなくてはなりません。ですから、この「すべて」、というのは、この時、この業に触れた人々が知り得た主イエスに関することの「すべて」です。この時はまだ、主イエスの救いの御業は完全には示されていないのです。それ故、主イエスは口止めなさったのです。もし、人々が言い広めたとしても、主イエスの救いの業を本当には言い広めることにはならないのです。しかし、この人達は、たとえ不完全であったとしても、耳と口に触れられた主イエスの姿に確かに現されている救いの御業に触れて、それを語らずにはいられなかったのではないでしょうか。耳が開かれた人と共に、主イエスのすばらしさを讃えたことでしょう。 私たちは、主イエスの十字架の御苦しみを知らされています。それによって、私たちの罪は担われ、愛に生き得ない私たちの罪が赦されていることが示されています。その主イエスの愛によって、私たちは罪が赦され、私たちの耳が開かれ、舌のもつれが解かれているのです。そして、その耳と口で、先ずなすべきことは、たとえ不完全であっても主の御言葉を聞き、讃美の声を上げることなのです。たとえ、それが主の救いを、褒め称え尽くすことが出来ないものであっても、そうせずにはいられなくなるのです。 耳の不自由な青年と一対一で向かい合って、その語ることがどれだけ出来なかったことに現されている罪による破れを思います。しかし、その破れを思うと共に、キャンプの礼拝において、共に讃美を歌ったことをも思い起こします。又、日常の歩みの中で、本当に聞く耳を持って、隣人が語る言葉を聞きいているかを省みる時に心許なくなります。私たちは日々の生活の中で、自らの愛のなさを経験します。しかし、私たちは、毎主日の礼拝で、私たちの罪によって閉ざされた耳と口に触れて下さる主の愛を示され、その御声を聞き、舌のもつれが解かれる中で、この方のすばらしさを、共に、讃えることが出来るのです。そして、主の御声を聞き、主を讃美することから始める時に、私たちの間にも、真の愛の交わりが造られて行くのです。神との間で、御言葉を聞き、主を讃えることが出来るならば、隣人との間においても、聞くものとされ、愛に生きるようにされるのです。

聖餐の食卓から
 この後、聖餐の食卓に与ります。主が十字架で身を裂かれた苦しみを覚える食卓です。主の御受難を覚えるレントの時、この十字架の御苦しみの故に、主イエスの愛が私たちに注がれていることを覚えたいと思います。この食卓に与ることよって、私たちは十字架に示された主イエスの愛に触れます。肉を取り、十字架で嘆き苦しまれることによって人々を罪から解放して下さる主イエスの愛が私たちにも及んでいるのです。そして、この、十字架で愛を示された主イエスが、私たちの耳と口に触れて「エファタ」「開け」と語っていて下さるのです。ここから始めることによって、主の御声を聞きつつ、はっきりとした舌で、共に主を讃美する歩みを始めたいと思います。

関連記事

TOP