主日礼拝

結婚と独身

「結婚と独身」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 創世記 第2章18―24節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第7章1-7節
・ 讃美歌 ; 297、120、460、78

 
質問に答える
 礼拝において、コリントの信徒への手紙一を読み進めてまいりまして、本日から第七章に入ります。その冒頭に「そちらから書いてよこしたことについて言えば」とあります。コリント教会と使徒パウロとの間には、この手紙の前にも、いくつかの手紙のやりとりがあったのです。その手紙の中で、信仰に基づく生活のあり方についての、いくつかの質問、問い合わせがパウロに寄せられていたのでしょう。この後、その質問に答えていく形でこの手紙は語られていきます。「~のことについて言えば」という導入の言葉によっていろいろなテーマが語られていきますが、それは、コリント教会からの質問に一つ一つ答えているということなのです。  様々な質問が寄せられていた中で、パウロが最初に取り上げ答えているのは、結婚についての問題です。この問題が最初に取り上げられているのは、第6章とのつながりによってでしょう。第6章の後半には、みだらな行い、即ち性的な不道徳行為、具体的には娼婦と交わることについて語られていました。そこに語られていたことの中心は、キリストの救いにあずかって生きる信仰者の体は、キリストの贖いによってもはや自分自身のものではなく、神様のもの、主イエス・キリストのものとされている。その体は、みだらな行いのためにではなく、神の栄光を現わすために用いられるべきだ、ということです。キリスト信者は、キリストのものとされた体を、神様の栄光を現わすために用い、生活していくことを真剣に考え、求めていくべきなのです。その具体的なケースとして、コリント教会から質問があった結婚の問題が第一に取り上げられているのです。

結婚は是は否か
 質問の内容は要するに、結婚することは、信仰者において、よいことなのかどうか、結婚した方がよいのか、それともしない方がよいのか、どちらでもよいのか、ということです。これについてのパウロの答えはどうだったのでしょうか。1節後半に「男は女に触れない方がよい」とあります。ということは、結婚はしない方がいい、結婚における肉体的関係も避けた方がよい、ということになるのでしょうか。しかし次の2節ではこう言われていきます。「しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい」。これは結婚の容認です。いや、ただ結婚してもよい、と言っているのではなくて、ここの文章の骨格は、「男はめいめい自分の妻を持ちなさい、女はめいめい自分の夫を持ちなさい」という命令です。つまり結婚することを命じているのです。そうすると、結婚はしない方がいいという1節と、結婚せよという2節とのつながりはどうなっているのか、という疑問が生じます。そこで、それをつなげているのが、2節の始めの「みだらな行いを避けるために」という言葉だという説明が生まれます。結婚はできるだけしない方がよい、しかし、人間は性的な欲望を持っている、それが間違った仕方で発揮されてしまって、みだらな行いに走ってしまうことを防ぐために、結婚して、夫婦の間だけにその欲望を留めておく、そのために、結婚することが容認されているのだ、ということです。本日の箇所は、長い間そういうふうに読まれてきました。しかしこの読み方は果して正しいでしょうか。この読み方に基づけば、結婚は、本当はしない方がよいのだが、人間の弱さ、欲望への配慮として認められた、言わば必要悪だ、ということになります。パウロは結婚をそういうふうに考えているのでしょうか。それが、結婚についての聖書の教えなのでしょうか。教会が結婚式を行うのは、本当はしない方がよいことをやむを得ずしているのでしょうか。

結婚の祝福
 聖書において、結婚の意義について語られている箇所の中心は、本日共に読まれた創世記第2章18節以下です。ここには、人間は男と女という性別を持った者として創造されており、男女が結婚して夫婦となることも神様のみ心によることなのだ、ということが語られています。その神様のみ心とは、最初の18節にある、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」ということです。このみ心によって、男性と向かい合って共に生きる相手である女性が造られたのです。つまり神様は、男と女が結婚して共に生きていくことがよいとお考えになり、そのように人をお造りになったのです。ここに語られているのは、結婚を必要悪としてやむを得ず認める、ということではありません。むしろそこには、神様の祝福を見ているのです。これが、聖書の結婚についての教えの根本です。パウロもその教えの上に立っています。ですから彼が、「みだらな行いを避けるために結婚せよ」と言っているのは、「そもそも結婚はみだらな行いを避けるためにある」というふうに、結婚の目的を語っているのではありません。そうではなくて、結婚の効能とでも言うか、つまり結婚することによって、みだらな行いの多くを避けることができる、ということなのです。先程申しましたように、6章後半からの話は、みだらな行いを避け、自分の体を神の栄光を現わすために用いていくということです。そのためには、結婚をすることが相応しい、とパウロは勧めているのです。

互いに務めを果たせ
 それでは、1節の「男は女に触れない方がよい」という言葉は何なのでしょうか。ある説によると、これはパウロの教えの言葉ではなくて、「そちらから書いてよこしたこと」の内容ではないか、とも考えられます。そのように考えるとここの訳は、「そちらから書いてよこした、男は女に触れない方がよい、ということについて言えば」となります。最近のいくつかの英語訳聖書ではそのように訳されています。コリント教会の中に、「男は女に触れない方がよい」という、つまり結婚を否定する独身主義の人がいたのです。この独身主義は、今日見られるような、個人のライフスタイルの多様化によって起ってきた問題ではありません。宗教的な理由によるものです。教会の中にそれが起こってきたことには、いくつかの理由があります。一つには、主イエス・キリストご自身が独身であられたこと、そしてこの手紙を書いているパウロも独身であったことです。パウロは、本日の箇所の7節に、「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい」とあるように、自分が独身であることを喜んでおり、それを人々にも勧めています。それは、信仰者はそうすべきだ、ということではなくて、その方が、主に仕え、主の栄光を現わしていくためにより便利だ、ということなのですが、そのように主イエスやパウロが独身であったために、それに倣って独身を貫こうとする人々が教会の中に出て来たのです。そのこと自体は特に問題ではありません。しかしそこにはもう一つ別の要素がありました。それは前にも申しましたが、当時の流行思想であったグノーシス主義の影響です。グノーシス主義は、人間を魂と肉体に分け、魂は良いもの、価値あるものだが、肉体はその魂を閉じ込めている牢獄であって、悪いもの、価値のないものと考えます。その結果、肉体に関することを価値のない、どうでもよいこととして軽視することになります。この思想の影響によって、結婚を無価値なこととして否定する、という考え方が生まれたのです。コリント教会にはその影響がかなり入り込んでいました。そのために、パウロのように、専ら主に仕えるために独身でいる、と言うよりも、結婚など無意味だ、肉体に関わる事柄に囚われたくない、という思いで結婚しない人々が出てきたのです。そして既に結婚している人の中にも、わざわざ離婚して独身になろうとする者、あるいは結婚はしていても、肉体的な、性的な関係を拒むようになる者も出たようです。パウロが3~5節で言っていることは、そういう背景を考えるとよくわかります。そこには「夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫に、その務めを果たしなさい」と言われています。「務めを果たす」というのは、4節に「体を意のままにする」とあることからわかるように、肉体的関係を持つことです。夫婦がお互いに相手に対して、その務めを果たせ、肉体的関係を拒むな、と言われているのです。そんな余計なお節介のようなことを言うのは、今申しましたような理由で、夫婦であるのに肉体的関係を拒む人がいたからです。信仰のゆえに、性的関係を拒む、それを汚れたこと、無価値なこととして否定する、そういう傾向に対して、パウロは、それはむしろ務めだ、義務だ、それを拒むことは、自分の体に対する相手の権利を否定することになるのだ、と教えているのです。このように教えることによってパウロは、肉体的関係を含む結婚が、信仰において、決して汚れたことや罪ではなくて、むしろ神様がお定めになったこと、祝福なのだという聖書の本来の結婚理解を語っているのです。そしてそのような神様の定めに従って生きることによってこそ、人はみだらな行いを避けることができるのです。グノーシス主義は、これも前に申しましたが、肉体的なことを無価値なものとすることから、逆にとんでもない放縦な、乱脈な生活を生み出しました。結婚は否定しながら、今日で言うフリーセックスのようなことが起ったのです。肉体的なことはどうでもよいことだから、逆に欲望のままに好き勝手にしていい、ということになったのです。あるいは結婚している夫が、妻との肉体的関係は拒みつつ、娼婦のもとに通う、ということも起こったのです。パウロは、そのようなみだらな行いが広がってしまうのは、肉体的なことが軽んじられ、結婚が、神様の定めて下さった祝福として重んじられないからだ、と言っています。つまり、結婚を否定し、肉体的な関係を軽んじることは、みだらな行いに道を開くことになるのです。そのようにみだらな行いに陥ることがないように、結婚を神様のみ心、祝福として受け止め、それを大切にしなさい、というのが2節の教えなのです。

結婚における男女の同等性
 このように、ここにはパウロの結婚、夫婦についての教えが語られているわけですが、そこにはいくつかのポイントがあります。まず第一に、結婚における男女の同等性です。2節に「男はめいめい自分の妻を持ち、女はめいめい自分の夫を持つ」とあります。男が妻を、女が夫を、共に「持つ」のです。その関係は全く対等です。3節の、お互いが相手に対して務めを果たせ、という所でも、4節の自分の体を意のままにする権利ということにおいても、男女に全く同じ言葉が用いられています。夫婦の関係は、どちらが上とか下ということはないし、どちらかが相手を一方的に所有するようなことでもない、全く対等なものとされているのです。そのことは、創世記第2章18節以下の物語から導き出されることです。「彼に合う助ける者」というのは、先程も申しましたように、「向かい合って共に生きる者」という意味です。決して、女性が男性の補助者として造られたということではありません。男女の関係は、どちらかがどちらかの「ヘルパー」なのではなくて、「パートナー」の関係なのです。また、女性が男性のあばら骨から造られた、という話も、その前のところにある、鳥や獣たちが造られた話との関係で考えるならば、男性にとって女性は、動物たちとは全く違う、自分の体の一部、分身であり、対等の存在なのだ、ということを語っているのです。そしてそれは、男(イシュ)と女(イシャー)という言葉にも現れています。旧約聖書の言葉、ヘブライ語においては、男と女は、全く同じ言葉の、語尾が変化した形なのです。そこにも、男女の基本的な同等性が示されていると言えるのです。

専ら祈りに時を過ごすために
 また、5節に語られていること、夫婦がお互いに納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすために、しばらく別れ、また一緒になることはあってもよい、ということからも大事なことを教えられます。この「しばらく別れ、また一緒になる」というのは、しばらく別居する、ということではなくて、肉体的な関係をしばらく断つ、ということです。そういうことが、お互いの同意においてならあってもよいと言うのです。それは専ら祈りに時を過ごすためです。祈るとは、神様に心と体を向けることです。その祈りに本当に専心するために、しばらくの間、自分の妻や夫からも目を離して神様のみをしっかりと見つめ、神様のみに体を向ける、ということがあってよいのです。それは言い換えれば、夫婦であっても、お互いの関係、体の関係よりも、神様との関係、祈りをこそ大事にする、ということがあってよい、ということです。パウロはそこに人間の尊厳を見つめている、と言ってもよいでしょう。聖書において人間の尊厳とは、創世記第1章に、人間が神様にかたどり、神様に似せて造られた、と語られていることです。それは、人間の姿形が神様に似ている、ということではなくて、人間は神様との交わりに生きることができる、祈ることができる、ということです。そこに、人間と他の動物たちとの違いがあるのです。人間の結婚は、動物の雄と雌が種の保存のためにつがいとなることとは違うのです。人間の夫婦においては、肉体の関係よりも大事なことがある。それが祈りです。そして祈りにおいてこそ、実は夫婦の関係そのものも確かな支えを与えられていくのです。お互いが祈りにおいて神様と向き合っていくことによってこそ、自分のパートナーを、神様が与えて下さった「自分に合う助ける者」として受け止めることができるようになるのです。祈りに専心するためにしばらく別れ、また一緒になる、ということには、そのような意味があるのです。  このことを確認した上で、しかしパウロがここの文脈において語っているのは、祈りに専心するために体の関係を断つことがあっても、それはあくまでもお互いが納得しあったうえでなければならないし、また「しばらくの間」であるべきだ、ということです。つまり、夫婦の間の体の関係はやはり大事だと言っているのです。グノーシス主義にかぶれて体の関係を拒む人が出てきた中で、パウロは、祈りに専心するために、お互いの合意の上でしばらくだけ、という場合以外には、体の関係を拒んではならない、と言っているのです。

自分の体は誰のものか
 もう一つ、第6章に語られていたこととのつながりで見つめるべき大事なことがあります。第6章の教えは、私たちキリスト信者の体が、もはや自分自身のものではなく、主のもの、キリストの体の一部なのだ、ということをその中心としていました。キリストが私たちのために十字架にかかって死んで下さり、ご自身の命という代価を払って私たちを買い取って下さったのです。それゆえに私たちの体はもはや自分のものではなく、キリストのものとされているのです。このことと、本日の7章4節との関係を考える必要があります。4節では、妻の体を意のままにする権利は夫が、夫の体を意のままにする権利は妻が持っていると言われています。妻の体は夫のものであり、夫の体は妻のものだ、と言われているのです。つまり、夫婦においては、自分の体の所有者は自分ではなくて相手だ、ということです。この教えと、第6章の、自分の体はキリストのものだという教えとは一見矛盾するようにも思われます。しかしそうではありません。むしろ両者は深いつながりを持っているのです。そのつながりを見いだすためには、両方の教えに共通していることは何かを考えてみればよいのです。それは、自分の体の所有者はもはや自分ではない、ということです。そのことを私たちがはっきりと具体的に体験するのが、結婚、夫婦の関係なのです。自分の体はもはや自分のものではなくてキリストのもの、神様のものだ、という教えは、それだけでは抽象的な観念に留まりやすいことです。口でそう言うことはある意味では簡単なのです。そう言いつつ、結局自分の思いの通りに生きている、自分が自分の体の主人になっている、ということも多々あるのです。しかし夫婦の関係においては、自分の体は誰のものか、ということが常に具体的に問われてきます。自分の体は自分のものだから自分の思い通りにする、という生き方はもうできないのだということを、観念においてではなく肉体的、具体的に思い知らされるのが夫婦の関係です。そこでこそ私たちは、自分が自分の体の主人、所有者であることをやめるとはどういうことかを教えられていくのです。結婚、夫婦というのはその意味で、自分の体が自分のものではないということを、具体的に、実地に学ばされていく場であると言うことができるでしょう。そしてその中で私たちは、自分の罪をも示されていくのです。私たちの罪の根本は、自分の体を自分のものだと思うことです。自分の体は自分のものだ、自分の好き勝手にして何が悪い、という思いから、様々な罪が生じるのです。ここで問題とされている「みだらな行い」はその代表です。そういう罪に陥らないために、私たちには、自分の体を所有してくれる相手が必要なのです。それは究極的には神様です。神様が、独り子イエス・キリストの十字架の犠牲によって、私たちの体をご自分のものとして下さっているのです。そしてその神様が私たちに、自分の体はもはや自分のものではないことを具体的に教えるために、私たちの体を目に見える仕方で所有する相手を与えて下さるのです。それが結婚です。夫婦の関係を大切にしていくことの中で私たちは、自分の体の本当の所有者である神様へと目を向けさせられていくのです。

結婚においても独身においても
 さて、6節の読み方も、本日の箇所で問題になる所です。「もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません」とあります。「そうする」とは、どうすることなのでしょうか。ここは直訳すると「これらのことを言うのは、許可としてであって命令としてではない」となります。その「これらのこと」は何をさすのかということです。結婚する、ということでしょうか。そうすると、「結婚しても差し支えないと言うのであって、結婚しなさいと命じるつもりはない」ということになります。しかしそれではやはり結婚は本当はしない方がよいのだが、やむを得ず認める、ということになります。先程申しましたようにそれはパウロの語ろうとしていることではありません。あるいはこの「これらのこと」は、5節の、合意の上でしばらく別れてまた一緒になる、ということでしょうか。しかしそういう特別なケースについて、わざわざこのように言うのもおかしい気がします。むしろここの読み方としては、「これらのこと」を、5節までに語られたことではなくて、次の7節をさすと考える方がよいでしょう。つまり、「皆がわたしのように独りでいてほしい」ということです。パウロ自身は独身であり、独身を勧めていました。その理由は先程簡単に申しましたし、この後の8節以下にそのことが語られていきますのでここでは詳しく述べません。しかしいずれにせよそれは、キリスト信者はすべからく独身を貫くべきである、という命令ではなく、そうしても差し支えないということなのだ、ということをパウロはここで語っているのでしょう。パウロが考えている、キリスト者としてのあり方の基本は、やはり結婚して、夫と妻が、肉体的にも、また全ての面でそれぞれその務めを果たす生活です。そのように生きる中で、みだらな行いに陥らず、自分の体で神の栄光を現わしていく歩みが与えられるのです。しかし特別な場合として、独身を貫いて生きるということもあり得ます。それは、そのような中でも、みだらな行いに陥ってしまうことなく、むしろそのことによって主に仕えることに専念することができる、という場合に許されていることです。それは、神様から与えられている特別な賜物です。そのことが7節の後半に語られています。「しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」。「人によって生き方が違います」というところは直訳すれば、「ある人はこうしており、ある人はこうしている」となります。ある人は結婚しており、ある人は独身で生きている。それはいずれも、神様からいただいている賜物によることなのです。結婚して夫婦として生きることも神様の賜物であり、独身で生きることも神様の賜物です。いずれにしても私たちは、主イエス・キリストの命という代価によって買い取られたキリストの体の一部として、この体をもって神様の栄光を現わしていくのです。パウロは、自分が独身であることを、結婚していることよりもより優れたことだとは言っていません。「皆がわたしのように独りでいてほしい」と言うのは、その方が信仰的により高い、優れたことだからではなくて、この後7章の後半に語られていきますが、神様に仕えていくことにおいて、その方がより便利であると彼が感じているからです。神様がそれぞれに与えて下さっている賜物に優劣はありません。大事なことは、自分に与えられている賜物をどう用いるかです。その用い方次第で私たちは、結婚においても独身においても、みだらな行いに陥ってしまうことがあり得るし、結婚においても独身においても、キリストがご自身の命によって買い取って下さったこの体で神様の栄光を現わしていくことができるのです。

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