夕礼拝

故郷での主イエス

「故郷での主イエス」 伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; イザヤ書 第61章1-9節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第6章1-6a節
・ 讃美歌 ; 235、280

 
はじめに
 待降節を迎え、主イエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマスを待ち望む日々を送っています。クリスマスとは、神様の独り子が人となられた日です。ヨハネによる福音書はこのクリスマスの出来事を「言葉は肉となって私たちの間に宿られた」と記しました。永遠の言葉、真の神が、私たちと同じ肉、真の人となって私たちの下に来られたのがクリスマスです。教会は、この主イエス・キリストを、真の神であると共に真の人でもある方として信じています。主イエスの十字架の死は真の神が私たちの罪の犠牲として死なれたということです。それよって、私たちは罪から贖われます。主イエスの復活は、真の人が、私たちの初穂となって死の力に勝利されたことを意味しています。それによって、私たちは死の力から自由にされます。主イエス・キリストを信じるとは、この神秘を受け入れることです。そして、信仰によって、神であり同時に人である主イエスを受け入れることこそ、クリスマスの出来事を受け入れることになるのです。

主イエスへの不信仰
 今日から、マルコによる福音書の第6章に入ります。「イエスはそこをさって故郷にお帰りになった」。主イエスはここで、故郷ナザレに帰られます。「そこをさって」と記されています。「そこ」というのは、直前の箇所に記されているヤイロの家のことです。5章の最後の所には、主イエスが二つの奇跡をされたことが記されていました。一つは、十二年間出血が止まらなかった女が、主イエスの服に触れて癒されるという出来事です。もう一つは、死んでしまったヤイロの娘が主イエスによって復活させられるという出来事です。この二つのことに共通しているのは、主イエスに対する信仰でした。主イエスの服に触れて癒された女に対して、主イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。又、ヤイロに娘の死の知らせがなされた時、主イエスはヤイロに「恐れることはない。ただ信じなさい。」と言われました。この二人は、決して主イエスのこと深く理解していたわけではありません。しかし、この二人は共に主イエスを求め、この方に向かってひれ伏したのです。ヤイロは、ただ救いを求めて恥も外聞もなく群衆の中で主イエスにひれ伏し、しきりに願いました。又、出血の止まらなかった女は、主イエスが自らの服に触れた人を捜し始めた時、恐れながら進み出てひれ伏しすべてを話したのです。ここには、主イエスが、真の神の子キリストであるということに対する畏れがあります。そして、この方を主として、神からの権威の前にひれ伏しているのです。そこには、確かに信仰があったのです。
しかし、続いて記されています、故郷で主イエスに触れた人々は違いました。今日お読みした最後の所には、次のように記されています。「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」。故郷の人々の内にあったのは、信仰ではなく、不信仰だったのです。故郷には、古くから自分を知る人々がいて、地縁や血縁で結びついた関係があります。主イエスの場合もそうでした。そこには、古くからイエスのことを知っている人々がいたのです。しかし、そのような人々の内に主イエスに対する信仰は生まれなかったのです。

故郷の会堂で
 「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた」とあります。主イエスがナザレの会堂で教えを語るのは初めてのことです。主イエスは幼い頃ナザレで育ち、30歳くらいまでそこにいました。その後、ナザレを離れ、ヨハネから洗礼を受け、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語って伝道を始めたのです。ナザレ訪問は、主イエスが福音を宣べ伝えるようになって以来、最初のことだったのです。主イエスがなさった伝道についての噂は、故郷ナザレにも入って来ていました。マルコによる福音書の3章20-35節には、イエスの身内の者たち、母と兄弟が主イエスのことを聞いて取り押さえに来たことが記されています。あの男は気が変になったと言われていて、身内の人々はいても立ってもいられなかったのでしょう。その時、主イエスは、母や、兄弟の呼びかけに応じることなく、神の御心を行う人こそ自分の兄弟、姉妹、母であると語られたのでした。今度は、主イエスご自身の方がナザレにやってきたのです。主イエスと家族の者との関係は相当悪かったことが想像されます。この帰省は、故郷に錦を飾るというようなこととはほど遠いものであったのです。 主イエスは、ガリラヤの他の村でしたのと同じように、安息日の会堂で力強く教えられました。多くの人々は、驚いて、「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」と言いました。主イエスが語られたこと、なさった業が、あまりにも自分たちが以前から知っているイエスの姿とは異なっていたのです。彼らは、主イエスの言葉を聞き、業を見て、何の力もない馬鹿げたものとして相手にしなかったのではありません。何より、彼らは、そこで語られることが「知恵」に満ちたことだと分かったのです。そして、「驚いて」と言われているように、その言葉と業に驚嘆したのです。しかし、主イエスの知恵に驚きを示しながら、信仰を持つには至らなかったのです。

人々の問と答え
人々は、驚きながら、このような力強い言葉と業をどこから得たのかと問いました。この問は、主イエスが神の子としての権威を持って語られた言葉を聞いた人が抱く当然の問でしょう。しかし、彼らは、この自分たちが抱いた問についての答えを求めることなく、自分なりに早急に判断してしまいます。既に自分たちの知っている答えの中に主イエスを押し込めてしまうのです。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで、我々と一緒に住んでいるのではないか」。彼らは、自分たちの知っているイエスについての知識を列挙しました。故郷の人々は、イエス何を生業としていたのか、母親は誰で、兄弟や姉妹も知っているのです。ここには、主イエスを見下すようなニュアンスがあります。取り立てて特別なことをしていたのでもない、自分たちが良く知っているイエスではないかと感じたのです。「大工」と言われています。主イエスの職業が何であったかを知っているということだけが言われているのではありません。「あの大工」と特定された表現がなされています。具体的にどのような働きをしていたか知っているのです。「イエスと言えば、あの家を建てた男だ」と思い浮かんだのでしょう。又、「マリアの息子」と言われています。私たちは、使徒信条において、主イエスが処女マリアから生まれたということを告白します。この時の人々の「マリアの息子」という言葉は、決してそのような信仰的思いから語られているのではありません。ヨセフの息子と言われていないのは、もうすでにこの時、ヨセフが死んでしまっていたのだということが想像されます。人々は、主イエスの仕事のことから親族関係、家庭の事情までも詳しく知り尽くしていたのです。そのために、この人々は、主イエスのお姿に触れていながら、人としてのイエスのみを理解し捉えようとしたのです。この人々は、主イエスの言葉と業に触れて、主イエスの人間的な側面に注目しました。そして、この人々は自分が理解出来る範囲の人間イエスの姿と真の神の権威を持ってして語られる主イエスの姿の間のギャップに躓いたのです。故郷の人々の、自分たちはイエスについて知っているという思いが、神の子としてのキリストの姿に躓かせたのです。ここで「つまずいた」と言われている言葉は、「拒絶した」とも訳せる言葉です。自分の知っている範囲でイエスを把握し尽くそうとした人々は、真の神の子である主イエスを受けいれることは出来なかったのです。

イエスについての知識
現在、地上を歩まれたイエスと共に過ごし、その成長を見守った故郷の人々はもういません。しかし、人間イエスにのみ注目することによって、主イエスを捉え、理解し尽くそうとする態度はいつの時代にも存在します。世間において、イエスを知ろうとする仕方は、常にこのような姿勢で知ろうとしていると言っていいでしょう。様々な研究をなし、地上を歩まれたイエスを探ることによってイエスを捉えようとすることがあります。古い文書を捜し出し、教会の信仰とは異なる新たなイエス像が示され、歴史的な大発見をなしたかのような報道がなされることがあります。人間イエスの謎にせまる物語が人々の関心を引く仕方で描かれ、人気を博したりします。又、学問的研究から、神の子としての主イエスの姿を理性的に納得できる仕方で説明しようとしたりします。たとえば、「イエスはローマ兵とマリアの間に生まれた子である」と言うような説が主張されたりするのです。そこには、確かにイエスの言葉や業についての「関心」「驚き」はあります。しかし、そこには信仰はありません。主イエスが驚かれるほどの不信仰があるのです。そこでは、革命家、民衆の扇動家、神に最も近い聖人君子、様々なイエスが受け入れられていますが、真の神、真の人なる、主イエス・キリストが受け入れられてはいないのです。もし「人間イエス」を探求する中で神の子としての主イエスを見失い、主イエス・キリストに対する畏れを失うのであれば、私たちも、この時の故郷の人々と同じようにイエスに接しているのです。
 ここで、歴史的な探求によってイエスに対する知識を得ようとすることを否定しているのではありません。この地上を歩まれた主イエスに思いを寄せることなくしてキリストを知ろうとするのであれば、ただ観念だけで、神様の救いを捉えることになるでしょう。独りよがりな思いで自分勝手なキリストを思い描いてしまうことになります。歴史的にイエスを知ろうとする態度を放棄して、自分の観念の中にキリストを描こうとする態度に陥るならば、やはり、そこに主イエスに対する信仰は生まれないのです。主イエスは確かに、肉となられ、この世を歩まれたのです。
しかし、私たちが、人間の理性的な態度でなされる研究によって納得出来る仕方でのみ主イエスを知ることは出来ないのです。信仰において主イエスを知るというのは、主イエスが真に人であると共に真に神でもある方であり、私たちが知りつくすことが出来ないということを積極的に受けいれることです。それは、理性的態度によってのみイエスを知ろうとすること、又、自分勝手な信心の中にキリストを閉じことの両方から離れることです。そのどちらに傾くこともなく、主イエスにひれ伏すことです。自らが主体となってイエス・キリストを自分の知識で捉えようとするとするのではなく、むしろ自分自身をこの方に明け渡し、この方の知恵を受け入れることです。そこに、信仰が与えられ、主なる神の救いの業が行われるのです。

故郷では敬われない
主イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われます。預言者とは、神の知恵を与えられ、神の御言葉に立つもののことです。そのような者は、故郷では敬われないと言われるのです。この人をよく知っているという思い、既に知っていることによってのみ判断しようとする人々の中にあっては、恐れ敬われないと言うのです。知るということにおいて、その対象を捉えようとする所には、真の敬意は生まれません。
この箇所は、家庭における伝道の難しさを語る時に用いられたりします。自分の家族というのは、伝道するのが難しいものです。自分のだらしない姿や、弱い部分を全て知られている。そのような中で、偉そうに神の福音、御言葉を語っても、信じてもらえないということがあります。私たちの人間的な欠点や不完全さを持ち出して、この人が言うことは信頼できないという思いで見られる所では、福音を受け入れてもらえないということもあるのです。そこで、自分が何か立派な行いが出来ないということを攻める必要はありません。預言者のつとめとは、どのような中にあっても、私たちを用いて下さる主に信頼して、与えられた御言葉に立って語るということです。

主イエスにひれ伏しつつ
この時の、故郷の人々の態度というのは、これからも決してなくなることはありません。主イエスが、真に人となられた方であり、聖書が神の言葉であると同時に、確かに一冊の歴史的な書物である限り、歴史を歩まれたイエスを研究することによってのみ主イエスを知ろうとすることは常に起こります。私たちもそのような態度で主イエスに触れようとすることから自由ではありません。又、同時に、歴史を歩まれたイエスに目を向けることなく、自分勝手な信心の中にのみキリストを見いだそうとしてしまうこともあります。この両者は正反対の見方ですが、どちらにおいても、人間が、一段高い所に立ち、自ら主となってイエスを自分の認識の客体としているのです。そこでは、真の主イエス・キリストと出会うことはないでしょう。ただ救いを求めて、ひれ伏し、この方の言葉と業の前で畏れを持って進み出ることこそ、この方を主イエス・キリストとして受け入れることなのです。真の神であり、真の人でもある主イエスを受け入れるのです。そこにこそ、主イエス・キリストに対する信仰が生まれるのです。
「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」とあります。ここで、主イエスが奇跡をなさらなかったと記すのではなく、出来なかったと記しています。これは、私たち人間の信仰がない所では主イエスは無力であるということを示しているのではありません。主イエスは、私たち人間の信仰があるなしに関わらず、ご自身の業をなさる方です。しかし、真の奇跡とは、信仰のある所で主イエスの業は、私たちにとっての救いの出来事となるのです。主イエスの知恵の前で驚きつつ、この方に自分自身を明け渡す所に真の奇跡が起こるのです。

おわりに
待降節を迎えています。この時、御使いが、主イエスの母マリアに現れ、神の子が聖霊によって宿っていること示されました。真の神であり、真の人である主イエス・キリストが、私たちの救いとして世に来られたという神の奇跡が示されたのです。その時、マリアは人間の常識を一切捨てて、それを超えた神の知恵によって救いの業がなされていくことを受け入れました。「わたしは主のはしためです。お言葉通りにこの身になりますように」と語ったのです。主イエス・キリストが肉となられた時、そこには、確かに、この方のために自らを明け渡す信仰が示されたのです。肉となられた主イエスに目を向けつつ、信仰によって、この方をキリストとして、ひれ伏し、たたえるものでありたいと思います。

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