主日礼拝

キリストこそ平和

「キリストこそ平和」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; ミカ書 第5章1-5節
・ 新約聖書; エフェソの信徒への手紙 第2章11-22節
・ 讃美歌 ; 229、240、416

 
キリストこそ平和
 今年のアドベントからクリスマスにかけては、「平和」というテーマでの説教をしておりまして、本日はその三回目となります。本日ご一緒に読む聖書の箇所は、エフェソの信徒への手紙の第2章11節以下です。その中の特に14節以下は、「平和」について聖書から聞こうとする時に必ず読まれるところです。主イエス・キリストこそ、私たちの平和であり、平和を実現して下さった方である、ということが力強く語られています。14節の冒頭に先ず、「実に、キリストはわたしたちの平和であります」と語られています。前の口語訳聖書ではここはただ「キリストはわたしたちの平和であって」となっていましたが、新共同訳では「実に」という強調の言葉が加えられています。原文も、「キリストこそは私たちの平和である」という強調を込めた文になっています。「キリストこそ平和」と強く語られているのです。
 キリストこそ平和である、というのは、一つの大胆な宣言です。そう宣言するにはそれだけの理由があります。その後に、キリストがして下さったことが語られていくのです。先ず、「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」とあります。キリストは、「敵意という隔ての壁を取り壊した」のです。「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し」と続きます。キリストは平和を実現した、それゆえにキリストこそ平和なのです。先週私たちは、「平和を実現する人々は幸いである」という主イエスのみ言葉を共に聴きましたが、主イエス・キリストこそその平和を実現する方だったのです。キリストはその平和をどのようにして実現したのでしょうか。「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」とあります。十字架を通して和解をもたらし、十字架によって敵意を滅ぼす、キリストはそのようにして平和を実現したのです。それゆえに、キリストこそ私たちの平和なのだ、と宣言されているのです。

ユダヤ人と異邦人
 この平和は、誰と誰の間の平和でしょうか。14節には「二つのもの」という言葉があります。15節には「双方」とあります。16節にも「両者」とあります。二つのものの間に、「敵意という隔ての壁」があり、対立がある、そこにキリストが平和を実現した、と言われているわけです。その二つのものとは誰と誰なのでしょうか。そのことは本日読んだ11~22節全体の文脈から分かってきます。11節には、「だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました」とあります。ここに、「以前には肉によれば異邦人だったあなたがた」と、そのあなたがたのことを「割礼のない者」と呼んでいた、「手による割礼を身に受けている人々」との間に対立があったことが見つめられています。「手による割礼を受けている人々」とはユダヤ人のことです。そのユダヤ人から、「割礼のない者」と悪口を言われていたのは、ユダヤ人でない人々、異邦人たちです。ユダヤ人と異邦人との対立、そこにあった「敵意という隔ての壁」が見つめられているのです。「二つのもの」とは、ユダヤ人と異邦人です。この両者の間にキリストが平和を実現して下さったのです。
 両者の間にはどのような敵意があったのでしょうか。ユダヤ人はもともと、自分たちこそ神様の民であるという強烈な自負を持っていました。その神様の民であるしるしが、割礼を受けている、ということだったのです。彼らは、ユダヤ人でない人々、神様の民でない人々を「異邦人」と呼び、「割礼のない者」と呼んで蔑んでいました。ユダヤ人がそういう意識を持っており、異邦人とは極力接触しないようにしていましたから、彼らと異邦人の間にはいつも「敵意という隔ての壁」があったのです。しかし今や、その隔ての壁は取り壊され、乗り越えられている、とこの手紙は語っています。この手紙が書き送られている「あなたがた」とは、ユダヤ人から「割礼のない者」と呼ばれていた異邦人たちです。彼らは確かにかつては神様の民でなかったのです。だから12節に、「また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました」と語られているのです。しかしその彼らに、次の13節にあるような大きな転換が起ったのです。「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです」。主イエス・キリストの十字架の血による罪の赦しを信じ、教会に連なる者となったことによって、彼らは今は、神様の民の一員となっているのです。この手紙が宛てられたエフェソを中心とする小アジアの諸教会は、異邦人を主たるメンバーとする教会でした。そこでは、ユダヤ人と異邦人の間の敵意が乗り越えられて、両者が共に一つの教会に連なるという平和が実現しているのです。

対立のある所に
 このように、「キリストこそ私たちの平和である」という宣言は、抽象的な理念ではありません。キリストは、対立があり、「敵意という隔ての壁」がある人間たちの間に、具体的な平和をもたらして下さるのです。それまで敵対し、仲良くできなかった者たちが、友となり、一つの集団を形成し、協力して共に歩むことができるようにして下さるのです。「キリストこそ平和」という宣言は、「キリストによって私たちの間に、平和を願い求める思いが与えられる」とか「平和を愛する心が生まれる」というようなことではありません。先週の説教で申しましたように、主イエスは、「平和を愛する人々は幸いである」と言われたのではなくて、「平和を造り出す人々は幸いである」と言われたのです。その主イエスご自身が、私たちの間に、平和を具体的に造り出して下さるのです。

敵意という隔ての壁
 ここで見つめられているのは、今申しましたように、ユダヤ人と異邦人の間の平和です。しかし主イエスが平和を造り出して下さるのは、ユダヤ人と異邦人の間にのみではありません。私たちの間には、無数と言ってよいほどの、「敵意という隔ての壁」があります。壁は敵意の象徴です。東西冷戦の時代、「ベルリンの壁」が東西の敵意の象徴でした。その壁を越えようとして多くの人が命を奪われたのです。その壁が崩された感動的な日を今でも思い出します。ところが最近では、今度はイスラエルが、エルサレムの周囲に、パレスチナ人とユダヤ人の地域を分ける壁を建設しています。「敵意という隔ての壁」が、目に見える仕方で新たに築かれているのです。これらは目に見える壁ですが、私たちは、心の中に様々な壁を築いてしまう者です。自分とは違う考えや、感覚、主義主張、あるいは肌の色の違いや国籍、民族、宗教の違いなどに直面する時、私たちは、心に壁を築き、相手をその中に入れようとしなくなり、また自分もその壁の外に出ようとしなくなるのです。その壁とは敵意です。誰かに対して敵意を持つ、と言うととても大げさなことのように感じますが、私たちが心に壁を築き、相手に対して心を閉ざすところには、意識していなくても、敵意が渦巻いているのです。私たちは「敵意という隔ての壁」を、日々新たに心の中に築きながら生きているのではないでしょうか。主イエス・キリストは、その壁を取り壊し、敵意を滅ぼして下さるのです。それによって、対立し敵対する人間どうしの間に、平和を実現して下さるのです。

律法を廃棄した
 それはどのようにしてなされるのでしょうか。15節に、「規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」とあることに注目したいと思います。これは先ほど申しましたように、ユダヤ人と異邦人の間の問題です。ユダヤ人は律法を持ち、それを守ることを、自分たちが神様の民であることの印としていました。割礼を受けるというのも、その律法に定められていることです。ですから彼らが異邦人を「割礼のない者」と呼んでいたのは、律法を知らず、それを守っていない者という意味でもあったのです。この律法が、ユダヤ人と異邦人の間のまさに「隔ての壁」となっていたのです。イエス・キリストはその律法を廃棄された、とここに語られています。そのことによって、彼らの間に平和を実現なさったのです。このことを意味を考えることによって、主イエスが「隔ての壁」をどのようにして取り壊して下さるのか、を知ることができるのです。

規則と戒律
 律法を廃棄した、とありますが、主イエスは、「律法などもういらない、そんなものは守らなくていい」と言われたのではありません。主イエスが廃棄されたのは、「規則と戒律ずくめの律法」です。それは律法の本来の姿ではありません。本来の意味が見失われ、誤解されたことによって、規則と戒律ずくめになってしまった律法、ということです。そもそもイスラエルの民が主なる神様から律法を与えられたことの前提には、神様が彼らを、奴隷とされていたエジプトから救い出して下さったという救いの恵みがあります。イスラエルは、この救いの恵みをいただいて、神様の民とされたのです。そのイスラエルに、神様の民としてどのように歩んだらよいかを教え示すために与えられたのが、十戒を中心とする律法でした。つまり律法はもともとは、これを守ったら神様の救いにあずかることができ、神の民となることができる、という規則や戒律ではなくて、既に救いの恵みにあずかり、神様の民とされた者に与えられた指針、道標だったのです。ところがイスラエルの民はその後、この律法の本来の意味を見失ってしまいました。そして、自分たちはこの律法を守っているから神様の民なのだ、と考えるようになったのです。そうなるとそれは「規則、戒律」となり、他の人々に対して「我々は律法を守っているから神の民なのだ」と自らを誇るための拠り所となってしまったのです。自分たちを誇ることと相手を蔑むことは表裏一体です。律法はそのための道具となってしまいました。そのようにして律法は異邦人との間の「隔ての壁」となったのです。
 私たちが人との間に「敵意という隔ての壁」を築いてしまう時に、いつもこのようなことが起っているのではないでしょうか。自分なりの考えや主張をしっかり持つことは別に悪いことではありません。むしろ良いことです。ところが、自分とは違う考えや主張を持つ人と出会う時に、私たちはしばしば、自分の考えを規則、戒律にしてしまうのです。そうすると自分は正しいと誇り、相手を裁き、蔑むことが起ります。そのようにして、人との間に「敵意という隔ての壁」を築いてしまうのです。自分の信念に従って歩むことは大切ですが、それを規則、戒律として人にも押しつけようとすることにはよく注意しなければなりません。このことは、ユダヤ人たちがそうであったように、信仰をもって生きている人の間で、よりしばしば起ります。信仰者は、神様に従って生きようとします。神様に従って生きるとはこうすることだ、と自分なりに考え、それに基づいて歩もうとします。しかし神様に従って生きる生活の形は、決して一つではありません。信仰者は皆判で押したように同じ生活をするべきだ、などということを聖書は教えてはいないのです。人それぞれ、与えられている賜物も違うし、置かれている環境も違うのですから、同じ信仰が違う生活の形を生むことはむしろ当然です。ところが私たちはしばしば、自分が「これが信仰者のあり方だ」と思ったことを、規則、戒律にしてしまいます。そして、自分は規則に従った生活をしているが、あの人は従っていないから信仰者として失格だ、と自分を誇り、人を蔑むような言葉や態度に陥ることがあるのです。そのようにして、同じ信仰に生きているはずの人との間に、「隔ての壁」を築いてしまうのです。ユダヤ人たちが、神様の恵みによって与えられた律法を誇りの拠り所としてしまったように、私たちも、神様の恵みによって与えられた信仰を、自分を誇り人を蔑むよすがとしてしまっていないか、振り返って反省したいと思います。そのようなことによってこそ、敵意が生み出され、平和が破壊されていくのです。

十字架によって誇りを打ち砕く
 主イエス・キリストは、このような間違った律法理解を廃棄されたのです。そこで廃棄されたのは、神様がお与えになった律法そのものではなくて、それを自分の誇りの拠り所としようとする人間の思いです。一般的に言うならば、自分の思い、考えを絶対化しようとする思いです。信仰者の歩みに即して言うならば、信仰によって自分を誇ろうとする思いです。主イエスはそのような人間の思いを打ち砕かれたのです。どのようにしてでしょうか。それは、ご自身が十字架にかかって死ぬことによってです。主イエスが十字架にかかって死ぬことがどうして人間の誇りを打ち砕くことになるのか。それは、そこにおいて、私たち人間が、本当は十字架にかけられて死ななければならない罪人であることが示されるからです。主イエスの十字架の死は、私たちの罪を背負い、その罪のもたらす結果を引き受けて下さったということでした。十字架の主イエスのお姿は、私たちの身代わりとなって下さったお姿なのであり、本当は私たちがあの十字架の上で死ななければならない者なのです。私たちは、自分の考えや信仰を絶対化し、それによって誇り、人を裁いたり蔑んだりできる者ではないのです。むしろ本来、十字架の死刑になるべき罪人なのです。主イエスは、ご自分の十字架の死によってそのことを私たちにはっきりと示し、それによって、私たちの誇りを打ち砕かれるのです。そのことなしには、私たちが日々新たに築いていく「敵意という隔ての壁」が取り壊されることはありません。この壁は私たちの誇りという堅い石で出来ています。その石が粉々にされなければ、この壁はなくならないのです。

十字架による和解、平和
 主イエスはご自身の十字架の死によって、私たちが死ぬべき罪人であることを示し、敵意の源である私たちの誇りの思い、自分を絶対化する思いを打ち砕かれました。しかしそれだけではありません。主イエスの十字架は、私たちの罪を明らかにすると同時に、それを赦して下さる、恵みの出来事でもあったのです。神様はその独り子主イエス・キリストをクリスマスにこの世に遣わし、その主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって、私たちを赦し、新しく生きることができるようにして下さったのです。主イエスの十字架の死によって私たちは、神様との間に和解を与えられました。神様のみ心よりも自分の思いによって生きようとし、自分を誇り、人を裁いたり蔑んだりしている生まれつきの私たちは、神様の敵です。神様との間に敵意があり、平和がないのです。主イエスはその私たちの罪、即ち神様への敵意を背負って十字架にかかって下さることによって、罪を赦し、敵意を滅ぼして、神様と和解させて下さったのです。主イエスの十字架は、私たちの誇りの思いを打ち砕くと共に、私たちに罪の赦しと、神様との和解をもたらしたのです。主イエスが実現して下さった平和とは、先ず第一にこの、神様との和解、平和です。「キリストこそ私たちの平和である」という宣言は、第一にこの、キリストが神様と私たちの間に平和を実現して下さったことを告げているのです。

平和への道
 キリストの十字架によって打ち立てられた神様とのこの和解、平和が、私たち人間どうしの間の「敵意という隔ての壁」を取り壊し、対立する双方の間に和解を、平和を生み出すのです。14節の、「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」も、15節の「双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し」も、16節の「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」も、いずれも人間どうしの間の和解、平和を語っています。それが実現されていくのは、「両者を一つの体として神と和解させ」とあるように、敵対し対立する両者が、主イエス・キリストによって、神様との和解、平和を得ることによってです。私たちが常に新たに築いている「敵意という隔ての壁」が根本的に取り壊され、真実の和解、平和が実現するのは、対立する人間どうしの間で折り合いをつけ、妥協点をさぐり、合意することによってではありません。対立している両者が、相手との和解よりも前に、先ず、神様との和解を、即ち自分の罪の赦しを求めていくことこそ、真の和解、平和への道なのです。

キリストの体のえだとされて
 神様との和解、罪の赦しは、既に、主イエス・キリストの十字架によって実現しています。主イエスを信じるなら、私たちは誰でもそれにあずかることができるのです。そしてこの神様との和解の恵みにあずかるなら、私たちは一つの体となるのです。15節の言葉で言えば、「キリストは、対立する双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し」て下さるのです。一人の新しい人とは、キリストの体である教会です。人間の思いにおいては、対立があり、敵意をぬぐい去ることができなくても、共に主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みにあずかり、キリストの体である教会のえだとされることができるのです。「キリストこそ私たちの平和である」という事実を、私たちは教会においてこそ体験することができるのです。

キリストこそ平和
 対立する双方が共にキリストによる神様との和解にあずかり、教会に連なって一つの体となる。これはそう簡単なことではありません。自分の方は主イエスを信じ教会に連なって神様との和解にあずかって歩もうとしているが、対立している相手の方はそんなことには見向きもしない、ということもあるでしょう。また、教会に共に連なっている私たちどうしの交わりの現実も、和解や平和とはほど遠いものであることが多いのです。それはこの手紙が宛てられた教会でも同じでした。そこでは、ユダヤ人と異邦人の間の敵意が乗り越えられ、両者が共に一つの教会に連なるという平和が実現していると申しましたが、実際には、なお両者の間には対立があったのです。ユダヤ人の信者が、律法を規則、戒律としてふりかざし、異邦人の信者を裁くようなことがあったし、その逆のこともあったのです。だからこの手紙はわざわざこのように、キリストによって我々の間には和解と平和が実現しているのだ、と語っているのです。教会においても、社会においても、私たちの現実には、相変らず、「敵意という隔ての壁」があります。その壁をさらに新たに作り出してしまうのが私たちです。だからこそ私たちは信仰の目を開いて、主イエス・キリストこそ私たちの平和であることをしっかりと見つめていきたいのです。主イエスが十字架にかかって、御自分の肉において、神様との間にある敵意を滅ぼし、和解を実現して下さったのです。この神様との和解、罪の赦しの恵みを私たちが、先ず私たちがしっかり受け、キリストの体である教会のえだとされて歩むことによって、私たち一人一人が、敵意という隔ての壁を乗り越えて、キリストが神様との間に実現して下さっている平和を、自分の関わりを持つ人々との間で、また様々な壁によって分断されているこの社会に実現していく者とされていきたいのです。本当の和解、平和は、対立する双方が共に、自らを正しいとする誇りを打ち砕かれ、キリストによる罪の赦しにあずかる者とならなければ実現しません。それは世の終わりまで実現しそうもない、と思うことも多々あります。それでも私たちは、主イエス・キリストがご自分の命を犠牲にして神様と私たちの和解をもたらして下さった、その歩みに倣って、敵意を乗り越え、平和を築いていくための道を歩み続けたいのです。「キリストこそ私たちの平和」です。そこに私たちの歩みを支える希望があるのです。

関連記事

TOP