主日礼拝

平和を実現する人

「平和を実現する人」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 詩編 第72編1-20節
・ 新約聖書; マタイによる福音書 第5章9節
・ 讃美歌 ; 233、239、499

 
「平和」という主題
 先週の説教において申しましたように、今年のアドベントからクリスマスにかけては、「平和」という主題で説教をしていくことにしました。先週は、このことを考えていく上での私たちの信仰における基本的な枠組みについてお話をしました。それをまとめて言うならば、天において、その天とはある場所のことではなくて、私たちの目には今はまだ隠されている神様のご支配の現実のことですが、その天においては、主イエス・キリストの十字架と復活と昇天とによって、既に平和が実現している。その天の平和がこの地上に映し出されていくことによって地上の平和が実現していく。それは主イエスがもう一度来られ、この世が終わる再臨の時、終末において完成する。それまでの私たちの歩みは、天の平和をこの地上に少しでも大きく、よりはっきりと映し出していくための歩みである、ということでした。この世を生きる私たち信仰者は、天の平和をこの地上により大きく、よりはっきりと映し出していくという課題を負っているのです。このことを常に頭に置きつつ、さらに聖書のみ言葉に聞いていきたいと思います。
 本日の箇所として選びましたのは、マタイによる福音書第5章9節です。「平和」について語られている聖句は沢山ありますが、ここはその代表と言ってもよい所です。「平和」という言葉で、誰もが真っ先に思い浮かべるのがこの箇所だと言えるでしょう。主イエスがお語りになった、平和についての代表的な言葉を、味わっていきたいと思います。

平和を実現する人々
 「平和を実現する人々は、幸いである」。この言葉を、私たちは正確に読まなければなりません。主イエスは、「平和を愛する人々は幸いである」と言われたのではないのです。「平和を望み願っている人々は幸いである」と言われたのでもないのです。「平和を実現する人々は幸いである」と言われたのです。前の口語訳聖書では「平和をつくり出す人たちは、さいわいである」と訳されていました。原文では、「平和を実現する人々」というのは一つの単語であり、「平和」という言葉と、「造る、生み出す」という言葉が結合されています。文字通り、「平和を造り出す人々」という言葉です。英語で言えば「ピースメイカー」です。そういう人々は幸いであると主イエスは言われたのです。私たちはこのことに先ず目を向けなければなりません。「平和を愛する人々は幸いである」とか「平和を望み願っている人々は幸いである」と言われたのなら、「ああそれは自分のことだ」と言うことができるでしょう。私たちは誰もが、平和を願い、望み、愛しています。けれども、「平和を実現する人々は、幸いである」というこの言葉は、あなたは平和を実現する者として生きているか、という問いを私たちに投げかけているのです。その問いの前で私たちは沈黙するしかありません。平和を実現するどころか、それを破壊し、争いを引き起こすことの方がはるかに多い自分を認めざるを得ないからです。今教会の正面に掲げられているバナーには、「クリスマスに平和の祈りを」と書かれています。クリスマスに、共に平和を求めて祈りましょう、と私たちは世の人々に呼びかけています。しかし、平和を祈っているだけでは幸いではないのです。平和を実現する者、造り出す者こそが幸いなのです。

平和を語る困難さ
 「平和」というテーマで説教をしていくことにしたわけですが、私は、もとよりこれが容易なことではないことを承知しています。「平和を求めて祈りましょう」と呼びかけるだけなら簡単です。しかし主イエスは私たちに、平和を実現することを求めておられるのです。そのためにはどうすればよいのか、ということが示されなければ、「平和」というテーマと本当に取り組んだことにはなりません。これはまことに大それた、難しい課題を引き受けることであって、できれば避けて通りたいところです。しかしまた、このテーマと取り組まなければ、今私たちが本当に聞くべきみ言葉を聞くことができない、とも思います。それで、敢えてこの難しい企てに乗り出したのです。
 平和について語るのが難しいもう一つの理由は、これは私たちが生きている社会の具体的な問題にどうしても触れてくるからです。私たちの課題は、最初に申しましたように、天の平和をこの地上に映し出していくことです。この地上の具体的な現実の中に平和を実現していくことを求められているのです。地上の現実はまことに複雑で、多岐にわたっています。そこに平和を具体的に実現していくためには、地上の現実の的確な判断と、その現実に即した方策が必要です。平和を理念として語っているだけでは、それを実現することはできないのです。しかし地上の具体的現実についての判断は、人によっていろいろと違いが出てくるものです。それに基づいて考えられる方策も一つではありません。同じく平和を実現しようとしていても、違う判断と方策が主張され、平和を実現するために対立が起るという、言葉にすると笑い話のようですが実は非常に深刻は事態が生じるのです。私たちがそこにおいて確認しておくべき大切なことは、聖書に照らして唯一これが正しいという判断や方策などというものはない、ということです。同じ信仰に生きる者の間でも、この世の事柄、社会の問題についての判断や、平和を実現していく方策についての考えには違いが生じるし、そうであってよい、いやむしろ、そうであることが健全なのです。それゆえに、説教において、平和を実現していくための方策はこうだ、と断定的に語ることは慎むべきでしょう。この世に平和を実現するための具体的方策は常に相対的な事柄であることをわきまえておかなければならないのです。そうすると、説教において、平和について語るのはますます難しいことになります。具体的現実に触れるようなことを語らなければならないと同時に、語り過ぎてはいけない、慎みをもって語らなければならないのです。
 そこで私はこの後しばらくの間、通常の説教の語り方を離れて、平和を実現する者とはどのような者かについて、今私が考えていることの一端をお話ししようと思います。この問題を皆さんと一緒に考えるための材料をいくつか提供できればと思うのです。これは聖書の教えではありません。ですから神様のみ言葉の説教としてではなく、私の話として聞いていただきたいと思います。

平和を実現するのは誰?
 「パックス・ロマーナ」という言葉があります。「ローマによる平和」という意味です。ローマ帝国の支配によってもたらされ、維持された平和のことです。これを確立したのは、皇帝アウグストゥスでした。主イエスがお生まれになった時に、人口調査の勅令を出したとされるあのアウグストゥスです。この人が、それまでの長い内戦に勝利して、ローマの初代皇帝となったことによって、ローマの支配地域、地中海世界全体に平和が訪れたのです。平和の根本は、秩序、治安の維持にあります。それがあってこそ、人々や物資の行き来も可能となり、経済活動が活発になり、文化的な営みも盛んになっていくのです。ローマの支配の下で、人々はその平和を享受することができるようになりました。キリスト教会の誕生はそのローマによる平和の成立と丁度重なっています。教会とその教えは、このローマによる平和の中でこそ各地に広まっていくことができたのです。パウロが、使徒言行録に語られているような伝道旅行をすることができたのも、ローマによる平和のおかげです。教会もまた、ローマによる平和の恩恵を大いに被ったのです。つまり、ローマ帝国は、皇帝アウグストゥスは、「平和を造り出す者」だったと言えるのではないでしょうか。私たちは、皇帝アウグストゥスを、人口調査を命令して身重のマリアに苦しい旅をさせた非道な権力者として、またローマ帝国を、教会を迫害し、信仰者を殺した悪魔の帝国としてイメージしていることが多いですが、世界の歴史を客観的に見るならば、彼らこそ「平和を造り出す幸いな者たち」だったとも言えるのです。
 ローマによる平和は、軍事力による平和です。ローマ軍団が外的の侵入を阻止し、また内乱の勃発を防いでいたから平和が続いたのです。その「パックス・ロマーナ」になぞらえて、第二次大戦以後の世界の状況を「パックス・アメリカーナ」と呼ぶことがあります。アメリカの強大な軍事力の下での平和です。そんなものが本当にあったのか、という疑問もあるところですが、少なくとも戦後六十年の日本の平和は、「パックス・アメリカーナ」であったと言って間違いないでしょう。また、東西冷戦の時代、米ソの軍事力のバランス・オブ・パワーによって、少なくとも熱い戦争は起らず、平和が保たれてきました。ソビエトが崩壊し、冷戦が終わったとたんに、今度はあちこちで地域紛争が起っています。これらの歴史を見る時に、軍事力によって平和が守られる、ということも確かにある、と考えさせられるのです。
 他方、私は最近一つの本を読みました。『憲法9条の戦後史』という岩波新書です。この本は、戦後の日本の歩みは、憲法9条が日米安保条約と自衛隊によって踏みにじられ、骨抜きにされてきた歴史であることを明確に示しています。しかし皆さんにご紹介したいのはそれよりも、この本の最後のところで述べられていることです。そこには、先程の「軍事力による平和」という考え方はもう時代遅れだという主張がなされています。今や、平和を築くための新しい方策が模索されているのです。それは従来のような平和主義とは違う、新しい平和主義によるものです。これまでの日本の平和主義は、「半分の平和主義」だったと指摘されています。「半分の平和主義」とは、「戦争をしない、自衛隊の海外派兵をしない」というような「しない平和主義」のことです。憲法9条を守ろう、というだけの主張はその「しない平和主義」であると言えます。それはそれで意味があるが、これからはそれに加えて、「する平和主義」が必要だと主張されています。「する平和主義」とは、非暴力で平和を積極的に創っていく営みです。まさに、「平和を造り出す」ことです。ただ「戦争をしない、させない」というだけでなく、積極的に、世界に平和を造り出していく営みが必要であり、日本の憲法9条はその支柱となり得る、というのです。またそこには、ノルウェーのヨハン・ガルトゥングという平和学者による「平和」の意味の新しい定義が紹介されています。それによれば「平和とは、経済的搾取、政治的圧迫・弾圧、性差別・社会差別・民族差別などあらゆる差別、さらに植民地支配など社会のシステムの中に組み込まれている構造的暴力と、テロや戦争といった直接的暴力の両方を克服した状態」であるとされます。要するに平和を妨げているのは貧困や飢えや差別の現実だということです。その認識に立って、紛争のある地域に出向き、その当事者のどちら側にも立たず、非暴力で人権擁護と民主化の活動をすることによって平和を築こうとしている国際的NGO活動のことも紹介されています。このような活動は、平和を実現する人々の新しい姿だと言えると思います。現在の社会においては、先に述べた「軍事力によって平和が維持される」という古くからの考えと、今述べたような新しい平和形成論とがせめぎあっていると言えるでしょう。後者に新しい希望を見いだせるように思います。しかしまた、それだけで本当に平和が築けるのか、善意だけで成り立っているのではない、罪ある人間の社会、古くからの考え方を完全に捨て去ることができるのか、これはとても難しいことだと思います。
 以上述べてきたことは、先程申しましたように、聖書の教えではなくて、私が乏しい知識の中で考えたことです。反論も当然あるはずだし、別の視点や考え方もあり得るでしょう。しかし聖書の教えに従って、平和を実現する者として生きようとする時に、私たちは、例えばこれらのことを考えざるを得ないのです。すっきりと解決がついてしまうことはありません。悩みながら、それぞれなりに決断し、行動していかなければならないのです。

神の子と呼ばれる
 さて、ここから先は再び、本来の説教に戻って、聖書のみ言葉に聞いていきたいと思います。この地上に具体的に平和を実現することは、今見てきたように、大変難しいことです。平和を願い祈ることは簡単だけれども、それを実現するのは至難の業なのです。主イエスは、そのことをよくご存知でした。それゆえに、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われたのだと思います。平和を実現する人がいたら、その人は「神の子」と呼ばれる。「神の子」というのは、神様みたいな人という意味です。平和を実現する人は神様みたいな人だ、それほどにそれは困難な、難しいことなのだ、と言われていると言ってよいでしょう。

主イエスこそ平和を実現する者
 しかし、主イエスのこのお言葉は、平和を実現することの困難さのみを語っているわけではありません。「幸いである」と主イエスは言われました。それは、あなたがたはこの幸いに生きることができる、という宣言なのです。私たちは、平和を実現する者としての幸いに生きることができる、それはどのようにしてでしょうか。それを知るための鍵も、「その人たちは神の子と呼ばれる」という言葉の中にあります。「神の子」とは「神様のような人」という意味だと申しましたが、それは、私たちがそう呼ばれる時にはそういう意味になるだろう、ということです。しかし、文字通り「神の子」であられる方がただお一人おられます。それは言うまでもなく主イエス・キリストご自身です。主イエスは、神様の独り子、つまり文字通りの神の子です。その神の子主イエスがクリスマスにこの世にお生まれになったのは、私たちと神様との間に平和を実現して下さるためでした。神の子主イエスは、平和を実現する者としてこの世に来られたのです。私たちはもともと、神様に背き逆らい、敵対していました。神様との間が平和でなかったのです。信仰を持って神様の下で生きるようになると、自分の自由を奪われ、自分らしく生き生きと生きることができなくなる、という思いはまさにその敵対関係の現れです。神様を自分の自由を奪い、束縛する敵と感じているのです。神の子である主イエス・キリストは、このように神様の敵となっている私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。敵である私たちのために身代わりになって死んで下さったのです。この主イエスの自己犠牲によって、私たちは神様との間に平和を得ることができました。神様を信じるということは、あの敵意を取り除かれ、神様の下で生きることを喜ぶ者となる、ということです。信仰者は、神様との平和を得ているのです。この平和を実現して下さったのが主イエス・キリストです。神の子主イエスこそ、神様と私たちの間に平和を実現する者、ピースメイカーなのです。

神の子とされて
 私たちが平和を実現する者としての幸いに生きることができるのは、この神の子主イエス・キリストに従い、主イエスの歩まれた道を歩むことによってです。主イエスの歩まれた道とは、十字架の死への道です。自らは何の罪もないのに、敵である者たちの罪を引き受け、背負って、身代わりになって死ぬという歩みです。そのように歩むことによってこそ、私たちも、主イエスに続いて、平和を実現する者となることができるのです。天の平和をこの地上に映し出し、平和を造り出していくための道は、主イエス・キリストが背負われた十字架を私たちも背負って歩む道なのです。その道を歩むのはとても大変なことであるのは間違いありません。私たちの決心や努力や精進によって出来ることではとうていないでしょう。しかし、敵である私たちのために十字架の死を引き受けて下さった主イエスが、私たちにも、神様を父と呼んで祈ることを教えて下さいました。あなたがたも、私と共に神の子として生きることができるのだ、と語りかけて下さっているのです。それは、私たちも主イエスと共に、平和を実現する者として歩むことができる、という約束でもあります。ですから、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」というみ言葉は、頑張ってこのような者になれ、という命令ではなくて、あなたがたはこの幸いに生きることができる、という約束なのです。天における、神様と私たちの間の平和を実現して下さった主イエスと共に歩むならば、私たちは、この地上に、天の平和を映し出し、平和を実現する神の子として歩むことができるのです。

キング牧師の言葉
 その私たちの歩みは、私たちの罪を背負って十字架の死へと向かわれた主イエスについていく歩みとなるでしょう。平和を実現するための歩みの基本はそこにあるのです。そのように生きた一人の人物の言葉をここで紹介したいと思います。アメリカの公民権運動の指導者だった、マーティン・ルーサー・キング牧師の言葉です。
「あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようになりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するであろう。どんなに良心的に考えても、私たちはあなたがたの不正な法律には従えないし、不正な体制を受け入れることもできない。なぜなら、悪への非協力は、善への協力と同じほどの道徳的義務だからである。だから、私たちを刑務所にぶち込みたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。私たちの家を爆弾で襲撃し、子どもたちを脅かしたいなら、そうするがよい。つらいことだが、それでも私たちは、あなたがたを愛するであろう。真夜中に、頭巾をかぶったあなたがたの暴漢を私たちの共同体に送り、私たちをその辺の道端に引きずり出し、ぶん殴って半殺しにしたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。国中に情報屋を回し、私たち黒人は文化的にもその他の面でも人種統合にふさわしくない、と人々に思わせたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。しかし、覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。つまり、私たちの勝利は二重の勝利なのだ、ということをあなたがたの心と良心に強く訴えたいのである」。

主イエス・キリストに従って
 主イエス・キリストの十字架によって実現された天の平和をこの地上に映し出す歩みは、基本的にこのようなものとなるでしょう。主イエスが、敵である私たちの罪を背負って、苦しみと死とを引き受けて下さり、それによって平和を実現して下さった、その歩みに倣うことが、平和を実現する歩みの基本なのです。その基本に立った上で、具体的な一つ一つの事柄にどう対処するかは、先程も申しましたように様々な可能性があります。道は一つではないでしょう。しかしどのような道を歩むにせよ、私たちの歩みは、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストに従っていくものでなければなりません。そうであってこそ、平和を実現する神の子の幸いに生きることができるのです。

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