夕礼拝

杖のほかに何も持たずに

「杖のほかに何も持たずに」 伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; エゼキエル書 第2章1-10節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第6章6b-13節
・ 讃美歌 ; 237、458

 
十二弟子の派遣
 「それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった」。先週お読みした箇所には、主イエスが故郷のナザレで受け入れられなかったということが記されていました。終わりの6節には、「そして、人々の不信仰に驚かれた。」と記されています。主イエスのことを、幼いころから知っていた故郷の人々は、人間としてのイエスにのみ注目して、神の子である主イエスを受け入れることが出来なかったのです。主イエスは、それ以上ナザレに留まることなく、その付近の村を巡り歩いて教えていたのです。そのような中で、主イエスは、十二人の弟子たちを派遣されたのです。主イエスはご自身だけで宣教の働きをなしたのではなく、弟子たちを用いられたのです。「そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。」とあります。主イエスはご自身が伝えようとしている福音を一人の業によって伝えようとされたのではありません。それは、主イエスが天に昇られた今、教会に連なるものが、主イエスの業に用いられていることからも明らかです。主イエスは、ご自身に従う人々、弟子たちを用いて、福音の宣教をなされるのです。もちろん主イエスはもちろんお一人でも宣教の業をなせる方です。しかし、あえて、弟子たちを用いられたのです。不完全な者であることを承知の上で、人々と共に働かれることを選ばれたのです。

二人ずつ組にして
主が、弟子たちを用いられ、お一人で宣教をなさらなかったということは、主イエスのなさる神様の業は、孤独の内に行えることではないということをも意味します。このことは、主イエスが、弟子たちを一人では派遣されなかったことにも示されています。二人ずつ組にして派遣されたのです。主イエスが神の国の業を一人ではなさらなかったように、私たちも一人で働くのではありません。一人で何か業をなす時というのは、たいてい一人よがりになります。たとえ神様の業に仕えるという場合であったとしても、私たちは、自分勝手に行動しがちです。神に仕えようとして行う業においてこそ自分勝手な思いで業を進めてしまうことがあります。そこでなされるのは、神様の御心を示すための業ではなく、自分自身の業でしかないでしょう。主は、二人ずつ派遣されることによって、共に祈り、助け合う中で、主の業に仕えるようにされたのです。互いに仕えあうことを通して、神の国は示されていくのです。今日は、この十二弟子の派遣の箇所から、世に遣わされていくキリスト者の姿勢を示されたいと思います。

汚れた霊に対する権能
主イエスは、どのようにして弟子たちを遣わされたのでしょうか。「その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本の他何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように」と記されています。「汚れた霊に対する権能」、とは主なる神に敵対する力、神の国、神様の支配を阻む罪の力に打ち勝つ力のことです。主イエスはそれを弟子たちに授け、その他のものは持つなと言われたのです。パンも、袋も、帯の中に金も持つなと言われているのです。パンとは、生きていくために必要な食料であることは言うまでもありません。袋とは、旅には欠かせない、必要なものを入れて運ぶためのものです。そして、それなりのお金も旅には必要なものです。これらを持つなと言われたら、おそらく何も出来ないだろうと思ってしまいます。何故、主イエスは、このような無謀とも言えることを言われたのでしょうか。弟子たちは、主イエスの業をなすために遣わされました。そこで、弟子たちは主イエスと共に、神様の御支配を地上に告げる働きを担うことになります。もし、弟子たちが、自分たちで備えをなし、様々なものを持って行ったとしたならば、当然、それらに頼って働きをなしたでしょう。しかし、主イエスは、そうすることを許されなかったのです。宣教の業をなすことは、主イエスが授ける「権能」を用いてのみなされることなのです。人間の様々な備えや、人間の持っているものが先行してしまうところでは、本当の意味での宣教はなされないのです。

杖一本の他何も持たずに
 しかし、主イエスは、ここで何も持って行くなと言われたのではありませんでした。「杖一本の他何も持たず」と言われたのです。主イエスは杖を持って行くことをお許しになったのです。杖は、当時、旅行をする時に大切な役割を果たしました。荒れた地を歩き、獣を追い払うために不可欠なものであったのです。旅において、この一本の杖があるとないとでは、意味が全く異なるのです。様々な不安や困難の時に、それを持っていることが何よりの助けになるのです。このように、杖一本を持って行くことが許されているのは、マルコによる福音書にのみ記されている記述です。ルカによる福音書では次のように記されています。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持っていってはならない。下着も二枚は持って行ってはならない」。マルコと違い、ルカによる福音書においては、杖も持って行ってはいけないと言われているのです。ルカはより一層「何も持たない」ということを強調しているのです。では、このマルコによる福音書で許されている一本の杖とは何を意味しているのでしょうか。私たちにとっての一本の杖とは何でしょうか。この箇所を、比喩的に解釈して、「一本の杖」は、神様への信仰であると読むことも許されるのではないかと思います。この箇所に至るまでの記述において、信仰が問題にされてきました。5章21節以下には、二つの奇跡の業が記されていました。信仰によって、十二年間出血の止まらない女が癒され、ヤイロの娘が復活したのです。又、直前の箇所では、主イエスの故郷の人々の不信仰が語られ、主イエスはそこでは奇跡を行うことがお出来にならなかったことが記されていたのです。信仰のある所では、主イエスの力強い業が奇跡として示され、信仰のないところでは、それが示されなかったということが対照的に記されていたのです。ただ信仰を携えて行く時に、私たちは主の業をなすものとされるのです。その時、主イエスによって授けられた悪霊を追い出す権能も力を発揮するのです。宣教の業において、唯一持つべきものは神様への信仰なのです。

下着は二枚着てはならない
 聖書は、何も持って行くなと言うことが語られた後、「下着は二枚着てはならない」ということを記しています。これまで言われてきたことも主イエスが語られたことですが、ここで、下着を二枚着るなということが具体的な言葉としてカギ括弧でくくられて記されているのです。聖書は、「下着を二枚着てはならない」ということを主イエスが語られた言葉として、特に注目しているのです。下着を二枚着るということ普通の生活をしていたならば、特別な事情のない限りはあり得ないことです。主イエスは、弟子たちの内に、下着を二枚着ていこうという思いになる者が現れることを察してこのように語られたのでしょう。このような思いは、私たちもよくわかるのではないでしょうか。私たちは、旅行の時、用意周到に準備します。海外旅行であれば、携帯出来る日本食を持って行ったりしますし、普段の旅行でも、使い慣れた洗面用具を旅行用に整えたりします。下着というのは、私たちの身を覆う最も基本的な者です。衣食住の内の一番の大切なものであると言って良いでしょう。最も予備を持って行きたいものです。しかし、袋は持つなと言われているのですから衣服の着替えを持って行くことは出来ません。それならば、二枚着ることによって備えをしようとする者がいてもおかしくないでしょう。「持って行ってはいけない」言われたのに対し、重ね着をするならば「持っているわけではないから良いか」というような思いになるのです。  主に仕える業においても、そのように知恵を働かせてまで、自分自身が持つことが出来るものに頼ろうとすることがあるのです。主イエスは、私たちの自分の備えや、自分の能力、自分のもてる一切のものにのみ頼って主の業に励むことを禁止されたのです。もし、下着を二枚着ていったとしたら、主イエスがここで言われて何も「持たずに」ということが意味をなさなくなってしまいます。そのようにして、主イエスが語られることの本質的な意味を骨抜きにしてしまうことがあるのです。それを主イエスは戒めているのです

多くの業
 杖の他何も持たずに遣わされた弟子たちは、どのような業をなしたのでしょうか。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒した」とあります。悔い改めを伝え、悪霊を追い出し、病人を癒したのです。皆、自分の力に頼って成すことができる業ではありません。何も持たずに、自分の力によってではなく、主によって授けられた権能によってのみ働いたのです。それは、自分自身の業ではなく、主イエスの業をなしたということです。そして、その業は、何も持たないということから私たちが想像するような、小さく弱いものではありませんでした。「多くの」悪霊を追い出し、病人を癒したことが記されています。ただ主に信頼して、主によって授けられた権能によってのみなした業が、多くの実りを得たのです。主にのみ信頼した働きだったからこそ、多くの業がなされたのです。本当の実りを得るために、唯一持つべきものは神様への信仰なのです。
マザーテレサという人がいます。ご存じのようにインドのスラム街に入っていき、誰からも顧みられることなく死んでいく人々と共に歩んだ人です。カルカッタで神の愛の宣教者会という修道会を作り、「死を待つ人の家」という施設の建設を始め様々な活動をなしたのです。その業によって、多くの人が救われました。又、マザーの活動に賛同する多くの人々が現れ、様々な施設が建てられ、大きな活動に成っていったのです。しかし、そもそも、その業が始められた時、彼女は、自分の力はどれくらいかとか、どれだけの予算があるかとか、自分がどれだけのものを持っているかということは問題にしませんでした。ただ、主の声を聞き、何も持たずにカルカッタに入っていったのです。何か備えがあったわけではありません。もちろん、大きな施設、活動を始めるための資金やノウハウがあったわけではありません。ただ、主に信頼するということだけで、活動を始めたのです。それが主に仕える大きな業に成っていったのです。
マザーテレサのようになれと言われても、私たちには無理なことでしょう。そのようなことが求められているのでもありません。すばらしい働きをしている人と同じことをするのが主に仕えることではありません。それぞれが置かれている場所で、それぞれが与えられた賜物を生かして、主の愛を示すことが求められているのです。しかし、人と同じことをするわけではないにしても、私たちが主の業に励み、キリストの愛に生きようとする時、やはり、彼女の生きた信仰の態度と同じ態度が求められるのではないかと思います。私たちは、何かを始める時、そこにどのような備えがあるのか、自分は何を持っているのか、自分の才能はどのくらいか、等の様々なことを気にします。確かに、そのようなことを考えることは大切なことです。全くそのようなことを考えずに、自分勝手に向こう見ずな行動に出て、これこそ主に仕える宣教だと主張し始めるのであれば主に仕える業とはならないでしょう。しかし、主の宣教に仕える時、人間の計画が先行し、主に信頼することがなされなくなってしまったとしたら、そこでなされるのも人間の業でしかないでしょう。

無力さによって
 杖の他、何も持たずに行く。最も基本的な下着も二枚着ることもなく旅に出るということは、主にのみ信頼するとういことを意味しました。しかし、それは単に、私たちが自分の能力や、自分の持っているものに頼らず主に信頼するために、あえて無力になれということを意味しているのではありません。まさに、その無防備さ、無力さによってこそ、主の福音が示されるのです。そのことによって伝道がなされると言っても良いでしょう。パンも袋も金も持たず、下着を二枚着ることなく旅をするということは、生活の最も基本的なものでさえ、周囲の人々の世話にならなければならないということです。行った先の人に頼らなければ生きては生き行くこともできない。そのような無力さを意味しています。私たちは人の世話になることを嫌います。何かをしてもらったら、同等のお返しをしないと気が済まないことがあります。そこには、私たちの自尊心や、プライドがあるのです。しかし、そのようなことにこだわり、自分の力のみで歩もうとするところでは主イエスの愛は示されないのです。そのような態度で人々のもとに出かけて行ったとしてもキリストを示すことにはならないということです。人に仕えるという奉仕の業は尊いことです。しかし、そこで、もし、自分が何かを持っている者、力のある者として、自分が何かをしてあげようという思いで人々のもとに出かけて行ったとしたなら、そこで尊い働きはなされたとしても、キリストが示されるということはないでしょう。自分の能力や地位、プライドに凝り固まっているところでは、キリストの愛は示されません。キリストが示されるためには、それらのものを捨て去って、ただ、その愛するべき人々と共に歩むということが不可欠なのです。

主イエスの到来
 主イエスはどのように、私たちの下に来られたのかを思い起こしたいと思います。主イエスは、まさに父なる神の御意志のみによって、何も持たないでこの世に来られたのです。国家による支配の象徴とでも言うべき住民登録が行われる中、マリアとヨセフは旅をしなければなりませんでした。泊まる宿屋もないままに、頼みこんで馬小屋に泊めてもらい、飼い葉桶に寝かせられたのです。それは、ユダヤ人の王として来られるにしては、あまりに弱く、無力な姿です。 そして、最初にクリスマスを祝ったのは、羊飼いたちでした。当時、厳しい労働に従事し、そのため、律法を守ることが出来なかった人々です。最も貧しく、救いから外されていると考えられていた人々です。そのような人々にクリスマスが知らされ、クリスマスを祝ったのです。
これは想像にすぎませんが、もしも、主イエスが、力に満ちた方として王宮に来ていたとしたら、王宮とまで言わないにしても宿屋の一部屋をあてがわれていたとしたら、羊飼いたちは、主イエスの下に辿りつけなかったのではないでしょうか。主イエスは、触れようと思えば誰でも触れることが出来る形でこの世に来られたのです。そして、この方の歩みは、全ての人に捨てられて十字架に赴くことによって終わります。人々の罪を贖うために、人々から見放されお一人で十字架に赴かれるのです。この馬小屋に始まり、十字架に終わる、人間的に見れば無力な生涯が、神様による私たちの救い業なのです。このようなキリストに仕え、神様の御支配のための業をなす時、私たちも、やはり主イエスと同じように何も持って行くべきではないのです。自分の持ち物、能力や地位、そのような者を身につけたまま、遣わされたとしても、そこでキリストを示す業はなされないからです。

おわりに
 私たちは、この時の弟子たちのように、事実、今持っている自分のものを手放して、何も持たずに伝道旅行に出ることは出来ません。もちろん聖書がそのようなことを求めているのでもありません。それぞれが日々の生活において、キリストの愛を示すことが求められているのです。そして、この世で私たちが、主に仕え、キリストの愛に生きようとする時、どのような態度で、それをなすべきかが言われているのです。
 教会の伝道の業がふるわない現実と直面しています。私たちが置かれている日本社会は、人間的な目で見れば、主イエスの愛が多くの人に知られているとは言えないでしょう。多くの実りを得ていないとの思いが致します。しかし、そのような時にこそ、私たちは、自分たちのなす業を顧みることが必要です。私たちは、パンや袋や、お金を持って伝道をしようとしているかもしれません。そのような時、先ず主に信頼することを忘れて、自らの業にのみ頼っているのです。又、私たちが、主が共に遣わして下さっている、すぐ隣に与えられている信仰の友や、家族を見失っているかもしれません。そのような時、自分の思いだけで、教会はこのようなものであるべきだと考え、独りよがりに何かをなそうと考えていたりします。又、下着を二枚重ね着しようとしているかもしれません。そのような時、心の奥底で、自分の地位や能力、自尊心を身につけたまま、隣人愛に生きようとしているのです。
私たちは主に仕える時でさえ、「下着を二枚着る」ことまでして、自分の持ち物にこだわってしまうかもしれません。私たちのもとに、何も持たずに最も貧しく低くなって来て下さった主イエスが「杖一本のほか何も持たずに」と言われています。主にのみ信頼しつつ歩む者でありたいと思います。

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