夕礼拝

恵みの源である神

「恵みの源である神」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第50章4-9節
・ 新約聖書: ペトロの手紙一 第5章8-11節
・ 讃美歌 : 473、539

敵である悪魔
 私たちの信仰生活とは、絶えることのない戦いの連続であるといえるのではないでしょうか。なぜなら、人生そのものが戦いと言えるからです。信仰を持たない人にとっても、昨今の世界の状況というのは普通の生活をするのにも様々な形での戦いがあるのではないでしょうか。けれども信仰者が信仰者としての生活をする場合に普通の人生には見られないような戦いというものがあります。ですから信仰生活に安定を求めてしまうものでありますが、安定ということはありません。信仰生活は生きた生活であります。戦いが尽きない生活とは、信仰者の生活がまさに生きているということです。けれども信仰生活には平安があります。覆されることのない平安が与えられております。信仰生活とは戦いであり、けれども平安があると言えるのです。戦いながら、覆されることのない希望に生きるということです。信仰生活が戦いであるとはどういうことでしょうか。いわゆるこの世の中における戦いでしょうか。この世における様々な戦い、課題も含まれるでしょう。けれども信仰者にとっては信仰生活そのものの中に戦いがあるのです。具体的に何との戦いなのでしょうか。本日はペトロの手紙第5章8-11節の御言葉に聞きたいと思います。ペトロは8,9節においてこう述べております。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」信仰における戦いとは悪魔との戦いであると言えるのです。悪魔との戦い、悪魔が私たちに攻めかかってくる戦いであるということです。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」とありますように、悪魔が私達に襲いかかってくる、と言うことです。悪魔との戦いとは一体どういうことでしょうか。

悪より
 信仰者にとって一番身近な祈りとは、主の祈りです。子どもの礼拝においても唱えられる主の祈りには私たちが祈るべき事柄が充分に含まれています。主の祈りの最後の部分に「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。」とあります。主イエスが教えて下さった短い祈りの中に私たちを試みに会わせず、悪より救い出して下さいと祈ることがあります。そのように祈ることを主イエスは求めておられます。主の祈りのこの部分に関してハイデルベルク信仰問答にはこのように解説しております。「わたしたち自分自身あまりに弱く、ほんの一時立っていることさえ出来ません。その上わたしたちの恐ろしい敵である悪魔やこの世、また自分自身の肉が、絶え間なく攻撃をしかけてまいります。」とあります。私たち人間はあまりに弱く、また私たちに恐ろしい敵である悪魔や私たち自身の肉が絶え間なく攻撃をしてくると言います。そして続けて「ですから、どうかあなたの聖霊の力によって、わたしたちを保ち、強めてくださり、わたしたちが激しく抵抗し、この霊の戦いに敗れることなく、ついには完全な勝利を収められるようにしてください、ということです。」
 人間とは大変弱い存在であり、恐ろしい敵である悪魔やこの世が攻撃をしてくるとあります。また、自分自身の肉が、絶え間なく攻撃をしかけてくる、とあります。先ほどの悪魔との戦いとは、この自分自身の肉、人間の肉なる思い、罪との戦いであります。悪魔は獲物を求めてほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと、人間を狙っているのであります。少しでも隙を見せれば、襲い掛かってくるようなものであります。罪とは思いもかけないところから、人間に襲い掛かる。人間とは自分自身の肉なる思い、罪に襲われるものです。私たちが地上を歩む限り、どうしてこんなことになったのだろう、と思ってしまうことが多々あります。どうしても理解できないような罪を犯すのが私たちの姿であります。それはちょうど、獅子が襲い掛かってくるのに似ているかもしれません。僅かの隙があった。しかし、悪魔はそれを決して見逃さないのであります。悪魔は食いつくすべきものを求めて歩き廻っているのです。

この世で
 ペトロはこのようなこと、人間の姿を良く知っておりました。9節「あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。」これは大げさに聞こえる言葉かもしれません。全世界にこういうことがある、とどうして言えるでしょうか。悪魔との戦いなどということは、そのように言わなければならないものでしょうか。これは罪に苦しむ者の正直な告白です。ペトロの正直な告白です。世界のどこにおいても、どういう境遇にあっても、誰もが、同じように経験するのであります。苦しみの種類は色々でしょう。私たち一人一人に与えられる苦しみはどれ一つとっても同じものはありません。けれども私たちが地上を歩む限り苦しみに遭うのです。この事実は同じです。なぜなら、人間が皆、人間存在の根本において罪人だからであります。罪の力に支配され、罪の力に襲われているのです。罪の力と言うのがそれほど強力なのです。それでは、このような罪の力に対してどのように戦ったら良いのでしょうか。

身を慎んで、目を覚まして
 ペトロは三つのことを勧めております。8節で「身を慎んで目を覚ましていなさい。」と勧めます。「身を慎む」とは自分で自分を抑える生活のことであります。自分を抑える、というのはただ、自分で自分を「身を慎む」ように導こうとするだけでできることはありません。自分だけの問題ではありません。何よりも神様との間において捉えることであります。自分の力ではなく、神様の力を待って、自分の心を整え、自分の身を慎むのです。悪魔との戦いには神により頼み「身を慎む」ことで対抗するのです。このことは7節にあります「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。」ということと深く関わっています。神の力によって、思い煩いを神にお任せする、身を慎むということです。悪魔との戦い、罪との戦いは神様の力に頼るほかないのです。「「身を慎む」というのは、「酒に酔っていない」こと、すなわち醒めていることを意味します。神への信頼は怠惰ということではないのです。神を信じるということは、神が支えていて下さることを知り、信じるのです。
 そして「目を覚ましていなさい。」と勧めます。主イエスは「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」(マタイ26:14)とおっしゃいました。目を覚ましていることと祈るということが一緒に言われております。またペトロも「身を慎んで、よく祈りなさい。」(4:17)と言いました。「身を慎む」ということも「目を覚ましている」ことも緊張状態を意味するものです。けれども私たちは46時中、また一生このような状態であることは不可能です。主イエスのお言葉にありますように、「心は燃えても、肉体は弱い。」肉体は弱い、人間自身の肉は罪であります。ですから、神様に祈ることによって、神様に頼ることによって、この緊張状態とも言える「身を慎んで目を覚ましていなさい。」という勧めを聞くことができるのです。

礼拝の中で
 神様に頼ることとは、即ち神様に祈ることです。日常の生活において祈りの生活があります。私たちの祈りの場の頂点とは礼拝ということです。礼拝はまことの神様をあがめることです。神をあがめる最も厳しく神様に従うことであります。悪魔を、悪魔の力による支配を防ぐ方法と言えるのではないでしょうか。悪魔との戦いとは、どうやって悪魔に従わないようにするか、と言うことではありません。どのようにして、神様に従うかということです。神様を信じる信仰によって神様に従うことをペトロは勧めます。9節「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」とあります。信仰に固く立って、この悪魔の力に抵抗する、立ち向かうのです。信仰に固く立つのは、信仰において強力に、という意味です。私たちにとっては、私たちが固く立つために、信仰において他に武器はないでしょう。私達がこの世を歩む上で武器となるものは、経済的な幸せでしょうか、地位や名誉、学歴、健康でしょうか。そのようなものも少しは役に立つかもしれませんが、私達を本当に守ってくれるものは神様が与えて下さる信仰の武器ではないでしょうか。使徒パウロは「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エフェソの信徒への手紙6章11節)と言い、また「だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」と言います。神の武具、信仰であります。パウロがこう言い、ペトロがこのように語るのは、悪魔との戦いがすべての人間に当てはまるということを知っているからです。信仰の戦いとはそれぞれ形は異なるけれども、悪魔の力との戦いであるということは同じです。私たちは皆、時に自分だけこのような苦しみの中にいると思います。また、あの人よりは良い生活を送っている、けれどもあの人には負けてしまうなどと小さな自分の秤のみで価値を測ってしまうのです。けれども、ペトロは「あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。」すべての信仰者が同じ戦いをしているのです。ペトロは迫害の中にいる信仰者にこの手紙を送りました。

あらゆる恵みの源である神
 信仰の戦いは孤独なものではなく、全世界の信仰者が同じ苦しみを担っているのである、と言うのです。しかし、孤独ではないというのは同じ信仰における仲間がいるということ同時に、それ以上に神様が共に戦って下さる、ということです。ペトロはその神様が私たちにどういうことをして下さったお方であるか、を示そうとしています。その方は「あらゆる恵みの源である神」であられます。すべての恵みの神であられるのです。その恵みを溢れるばかりに与えて下さる神であります。「キリスト・イエスを通して」私たちを「永遠の栄光へ招いてくださった神御自身」であります。あらゆる恵みの源である神様は、イエス・キリストによって私たちを永遠の栄光の中へと招きいれて下さったお方なのです。私たちを永遠の栄光の中へと救って下さったのです。悪魔との戦いにおいて、私たちが救われたのは、神の永遠の栄光へと入れられたということです。その神様はどのようにして、私たちを救われるのでしょうか。「しばらくの間苦しんだあなたがた」とあります。この「しばらくの間の苦しみ」というのは「少しの苦しみ」「少しの間の苦しみ」という意味です。私たちのしばらくの間の苦しみと、神様ご自身が定められる時とは違うものです。

完全な者とし
 「しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」とあります。少しの間の苦しみを歩む者を、完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにされるのが神様です。もちろん、どの言葉にも神様の深いご配慮があります。また、この10、11節の部分というのはこのペトロの手紙の最後の部分であります。おそらく、礼拝のときの祝祷、祝福派遣の言葉かもしれません。神様の恵みを求めるのと同じように、完全な者とし、強めと力づけ、揺らぐことのないようにと願いつつ、祈りの言葉としたのでしょう。信仰者は獅子と戦うように、悪魔と戦うのです。傷も受けるし、破れもありますそれらをいやし、その上で完全な者とし、この力に負けないようにするのです。強めるとは、岩のように固い強いものとする、という字です。恵みよって強められるのです。苦しみに耐える力を蓄えるのであります。「揺らぐことがない」とは、基を据える、基礎を据えるという意味があります。信仰者が基礎を置くのであります。信仰者の基礎である土台とは主イエス・キリストであります。信仰者にそのような力をお与え下さるは神であります。したがって、私たちの祈り願うことは、「力が世々限りなく神にありますように、アーメン。」ということでしょう。

世々限りなく
 けれどもこの祈りは祈りでもあり、更に神様に対する讃美であります。神様の力こそ、世々限りないものである。その信仰こそ、讃美であります。その時に私たちには、自分たちの敵に対して揺らぐことのない確信を持つのであります。神の独り子である主イエス・キリストは私たちの敵である悪魔である罪の力と戦って下さいました。十字架と復活の出来事において、人間の罪に勝利をして下さったのです。私たちの歩む日々は、戦いの連続であります。周囲の力との戦い、自分自身との戦い、尽きることのない力が私達を襲い掛かるのです。しばらくの間の苦しみがあるのです。けれども、信仰者は主なる神様が助けてくださることを信じております。私たちと共に争って下さる方を信じ、与えられた1週間を歩んで参りましょう。

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