主日礼拝

神に属する者

「神に属する者」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; イザヤ書 第63章15-19節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 第8章39-47節
・ 讃美歌 ; 11、51、505

 
はじめに

 私たちは、神を父と呼びます。主の祈りにおいて「天にましますわれらの父よ」と呼びかけます。普段の祈りにおいても「天の父よ」と呼びかけます。これは、大きな恵みであると言って良いでしょう。私たちは誰某構わず「父」と呼ぶことは出来ません。たとえどんなに親しい人であっても、どんなに尊敬する人であっても、その人を「父」とは呼べません。基本的には、父と子の血縁関係がある時に、初めてその人を「父」と呼べるのです。私達は、神を父と呼ぶ時、それは、もちろん血縁関係を前提にして、そう呼ぶのではありません。そこには、恵みでしかありえない、信仰において結ばれる父と子の関係があるのです。

独りよがりな信仰

本日お読みした箇所は主イエスとユダヤ人たちの論争している場面です。7章14節から仮庵祭という祭りのことが記されています。多くの人が集まる祭りの時の神殿で、主イエスが自分は神の独り子として来たのであり、世の光であるということを力強く教えられたのでした。そこから人々と主イエスの議論が続いているのです。そして、少し前の箇所、8章30節には、主イエスの教えを聞いて、「多くの人々がイエスを信じた」ということが記されています。そして、主イエスは、信じた人々に向かって、「わたしの言葉に留まるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と語られたのでした。ここで人々は、「信じた」と言われていますが、実際、主イエスの言葉を受け入れていませんでした。主イエスは、続けて「あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである」と語ります。この人々が主イエスを信じていながら、本当の弟子とはなっていないこと、主イエスの言葉には留まっていないということを指摘されたのでした。そのようなやり取りの後に続いている本日の箇所においても、この人たちの「信じる」思いが独り善がりで、自分勝手なものであったことが明らかにされていくのです。
ヨハネによる福音書を読んでいますと、私たちの「信じる」ということについて考えさせられます。ヨハネによる福音書は私たち人間の「信じる」という行為を、必ずしも良い意味では用いません。もちろん「信じる」ということを積極的な意味で用いる箇所もありますが、ここでのユダヤ人の「信じた」ということが示すように、むしろ消極的な意味で用いられる箇所があるのです。ここで言われている、「信じた」ということは、真の神の言葉を受け入れることとは異なります。真の神の子以外の様々なものを拝み、それによって自分の救いを確かなものとしようとすることです。それは、真の神の言葉を受け入れることを「信仰」とするならば、信仰ではありません。私達人間の「宗教的信心」とでも呼ぶべきものなのです。そして、私たちの「信心」には、主イエスを「信じる」という思いを抱きながら、同時に、その背後で、神の独り子である主イエスを殺そうとすることがあるのです。そのことを知らされる時に、果たして、自分が真の信仰に生きているのかということを省みざるを得なくなるのです。

アブラハムの子

 ここで主イエスと議論しているユダヤ人たちは、「わたしたちの父はアブラハムです。」と言っています。この人たちは自分たちの父はアブラハムであるということを自負していました。アブラハムが父であるというのは、自分たちがアブラハムの子孫、末裔であるという意味です。直前の36節においては、「私たちはアブラハムの子孫です」と言っています。ユダヤ人たちにとってアブラハムの子孫であるということは、自分たちの存在の確かさを示すものでありました。
 かつて主なる神は、アブラハムがアブラムと呼ばれていた頃、「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように」と言ってアブラハムを召されたのでした。ユダヤ人たちは、この主の祝福の源であるアブラハムこそ、自分たちの父であるということに、自らが、神に祝福されたものであることの根拠を見出しつつ、様々な困難の中を歩んできたのです。
 私たちにとって、「父が誰であるか」、「父がどのような者であるか」ということは、大きな意味を持つことであると言ってよいでしょう。ユダヤ人の名前の中には、名前の最初に「ベン」という言葉がついているものがあります。例えば「ベン・アビナダブ」というような感じです。この「ベン」という言葉には「誰々の子」という意味があります。ベン・アビナダブと言えば、アビナダブの子ということを意味しています。自分の父親の名前を、自分の名前の一部にして、「自分は誰々の子である」という名前をつけたのです。このことは、自分は誰であるかを確定する時に、父という存在がいかに大きい意味を持つかということを示しています。子供にとって、自分の父親が、尊敬できる立派な人であるか、それとは反対に、父であることを後ろめたく感じる人であるかということには関係なく、父というのは大きい存在です。「私はこの父親から生まれたものである」ということは、自分自身を認識する時に変えようのない事実です。父というのは、自分がどこからきたものなのかということを疑いの余地のない仕方で、はっきりと知らせるものであると言ってよいでしょう。ですから、ユダヤの人々にとって、自分たちがアブラハムの子、子孫であるというのは、自分たちの存在の根拠を示すものであり、神様の祝福が自らに及んでいることの確かさを示すものだったのです。

アブラハムの業

 主イエスは、そのような人々に対して「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。」と言われます。この時、自分たちがアブラハムの子孫であると言っていた人々は、アブラハムと同じ業をしていなかったのです。アブラハムの子を名乗る実が無いのに「私たちの父はアブラハム」ということだけが主張されているというのです。ここで、人々はアブラハムの子であるということを、自分たちの祖先を遡ることによって主張しています。それに対して、主イエスは、アブラハムの子であるということはアブラハムと同じ業をするもののことであると考えています。人々が、アブラハムの子というのは、「血縁」によって定まると考えているのに対して、主イエスはむしろアブラハムと同じ業に生きること、つまり「信仰」によって考えているのです。
アブラハムと同じ業とは何でしょうか。それは一言で言えば、神の御心を求め、それを受け入れ続けるということではないでしょうか。アブラハムは、七十五歳の時に、主の言葉を信じて、生まれ故郷であるハランの地を離れて約束の地に旅立ちました。そして、子供を生めない妻サラとの間に子供が生まれることが告げられ、百歳の時に息子イサクが与えられました。そして、今度は、その生まれた子供を生贄の子羊として神に捧げよと命じられて、それを実行しようとしたのです。神によって、一度与えられた子供を、神に従ってささげようとしたのです。そこまでして神を信じ続けた、神様の言葉を聞き、それに従い続けたのです。それは、人間の目から見れば不条理としか言いようのないことです。しかし、それを神の御心として受け入れたのです。神の言葉に聞き続けたのです。彼のこの姿勢こそが、「アブラハムの業」であり、彼はそれゆえに「信仰の父」と呼ばれているのです。
神の御心を求め、それを受け入れ続けたアブラハムならば、神の独り子であり、神の言葉そのものである主イエスを受け入れたことでしょう。ユダヤ人たちは、信仰の父アブラハムを自らの父としていながら、実際は、神の言葉を受け入れていませんでした。彼らは主イエスを「信じた」とありますが、実際、彼らが留まっていたのは、御言葉ではなく自らの父はアブラハムであるという、旧約聖書が記す物語が伝える血縁による救いだったのです。そのことによって、自らが救われたものであることを確信して、そこに真理があるということを疑わなかったのです。

「ただ一人の父、それは神です」

主イエスは、私たちの父はアブラハムですと主張する人々に対して、「あなたたちは自分の父と同じ業をしている。」と言われます。ここで、「自分の父」と言われているのは、アブラハムとは異なる別の父のことです。あなたたちにはアブラハムではなく別の父がいるのであり、あなたたちはその父の業をしていると言われたのです。これを聞いたユダヤ人たちは、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただ一人の父がいます。それは神です。」と答えます。アブラハムと異なるものが父であることを指摘されて、自分たちは姦淫によって生まれたのではないと皮肉を込めて主張しているのです。父が本来の父とは異なるというのは姦淫によって生まれたということが連想されたのです。皮肉を込めてと申しましたが、主イエスはマリアがヨセフと結婚する前に身ごもって生まれた子供です。この時、主イエスは姦淫による子供だということが言われていたようです。ですから、ユダヤ人達は、「我々はあなたと違って、姦淫によって生まれたのではない」というニュアンスを込めていると指摘する人もいるのです。そして、更に続けて、自分たちには一人の父がいて、それは神であると言うのです。神が自らの父であるということ、自分は神の下から来たものであるということです。これは、主イエスご自身が再三語って来たことですが、それと同じことを主張するのです。私達の父こそ神であると言うのです。わたしたちの父はアブラハムですと語ったことの真意は、自分の父は神である、自分は神から来たものであるということにあるのです。

ここに、真の神の言葉に留まることをしない人間の「宗教的信心」の本質があると言って良いでしょう。様々な伝統、民族の歴史、そして血縁等を持ち出して、それを自分の都合の良いように用いて、「自分の父は神である」、「自分の起源は神である」ということを語るのです。様々なもので、神の祝福、救いを確かめようとして、それを人間が所有しようとする。そして、そこにこそ真理があると主張するのです。しかし、それは偶像を作り、それを拝み、信じること同じなのです。
人間が神、救いを自分のものとして所有しようとする間違った信仰とも言うべき、「宗教的信心」は時に、激しい対立を生み出します。歴史上絶えることなく繰り返されてきた、宗教戦争といわれるものがそうです。実際、その本質は、信仰が問題となっているというよりは、政治や経済、歴史的に形成された怨恨などが複雑に絡み合っているのですが、宗教の違いが前面に出ることによって宗教間の争いとなっているのです。そうすると、現在のイスラエルで起こっているように血で血を洗う争いが起こるのです。その理由は、そこには、人間の「宗教的信心」によって、真の神の子に留まることなしに、「わたしの父である神」とするところに生まれる、自分にこそ真理があるという思いがあるからです。自らの真理を主張することによって、人を「殺す」ということすら起こるのです。そこに、私たちの「信じる」ということ、「宗教的信心」の背後にある、自己神格化という罪があるのです。

主イエスの叱責

主イエスは、もしも神が父であるならば、神から遣わされて、神のもとから来た御自分のことを愛するはずであると述べます。主イエスを受け入れるということと、神を父と呼ぶことは切っても切り離せないことなのです。そして、ご自分を受け入れない人々に、極めて厳しい言葉を語ります。「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている」。主イエスは、これ以上のない言葉を持って、ご自身を受け入れることなく自らの父は神であるとする態度の本質を暴露しています。「あなたたちの父は悪魔である」と。悪魔というのは、神に逆らうもののことです。悪魔を父としているというのは、その人が神に反逆するものから出ているということです。そして、「悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ」と言われています。「最初から人殺し」とあるように、真理をよりどころとせずに、悪魔から出ているものには「殺す」ということが必然であるのです。そして、この必然が、神に向けられたのが「真の神の子である主イエスを殺す」という十字架の出来事なのです。
又、「悪魔が偽りを言う時には、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」とあるように、本性から語っているので、悪魔から出たものが語ることは、たとえどんなに「真理」であるかに聞こえても、それは「偽り」でしかないのです。そして、「わたしは真理を語っているのに、なぜ信じないのか」とあるように、そのようなものは、真理を語るものを信じることが出来ないのです。主イエスの言葉を「聞くことが出来ない」のです。

神に属する者

主イエスは、最後の部分で、「神に属するものは、神の言葉を聞く。」と語られます。神に属するというのは、神から出たものとも言っていいでしょう。自分の存在を悪魔ではなくて神によって根拠付けるもののことです。そのような者でなければ、神の言葉は聞けないというのです。
では、どのような人が、「神に属する者」であるのでしょうか。それは、自分の立派な行いや、血縁によって主張している者のことはありません。そのような人間が神を所有しようとするために持ち出してくるこの世のものではなくて、ただ、神の下から来られた、神の独り子を受け入れ、神の言葉に留まるものこそ、「神に属する者」なのです。
ヨハネによる福音書は、その冒頭に、福音書全体の要約とも言われるプロローグを記しています。その1章13節には次のようにあります。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってではなく、神によって生まれたのである。」(1:13)。真の神の言葉である主イエスを受け入れ、そのもとに留まることによって、私達は、神の子として新たに生まれるのです。そのようにして、「新しく生まれた者」こそ、「神に属する者」なのです。
私たちは「信じる」ということの背後で、真の神の子以外のものに留まっていることがあります。しかし、主イエスは、人間が「宗教的信心」によって、偽りの真理を語り、真の神の子を殺そうとしている、只中に入り込んで来て下さった方です。主イエスが十字架の死を苦しまれたということは、真の神の独り子が、私達の「信じる」ことの背後で起こる、自己神格化と「殺す」という罪のために、十字架において命を投げ出されたということです。そのことによって私たちを贖って下さったということです。この贖いによって父なる神との関係が回復されていることを受け入れる時に、私達は自分が「神に属する者」とされて、真の救いに与るのです。ただ、この御子に留まり続けることによって、私達は、もはや、自分自身の内に救いを見出そうとする必要がなくなります。私達が所有し得る偽りの救いではなく、主イエスという真の神の子の下にある真の救いを得るのです。その時、私たちは、この方の下で「新しく生まれる」のです。私達を贖ってくださった主イエスの父である神を、私たちの父と呼ぶことが出来るのです。

イザヤ書63章は歌います。

「あなたはわたしたちの父です。
アブラハムがわたしたちを見知らず
イスラエルがわたしたちを認めなくても
主よ、あなたはわたしたちの父です。
「わたしたちの贖い主」
これは永遠の昔からあなたの御名です。
私達も又、この詩人と共に、
神を父と呼ぶことが出来るのです。

おわりに

私たちは、神を父と呼びます。しかし、その背後で、真の神の子である主イエスに留まっていないならば、それは、真の信仰ではありません。私たちも又、「信じる」背後で、自分の様々な歴史的な背景や、経験、血縁等、諸々の人間的なものに救いの根拠を見出して、そこに留まることによって、自らが神の救いを所有しようとすることがあるのです。自分がかつて与えられた、素晴らしい信仰体験に留まって、それを救いの根拠として所有するということもあるでしょう。そのような信心の中で、真の神の子を殺して、偽りの真理を語ってしまうのです。そのような場所では、私達も、主イエスを亡き者にして、自分が神に成り代わってしまうことが起こるのです。自分と異なる立場の人を受け入れられなくなることもあるのです。
私達は自らの信仰生活の中で、私達の「信心」の只中に分け入って来てくださった主イエスに留まりつづけなくてはなりません。それは、真の救いである神の子を受け入れ続けることです。そのようにして、神の言葉に留まり続けるのです。その時、私達は、新たに生まれさせられて、偽りではなく真理として、「わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」と語ることが出来るのです。それは、自らの救いの確かさを得るために、神以外の何かを掴み取ろうとして、悪魔の子となる歩みではありません。救いを自らが所有しようとするのではなく、自分自身の空の手を常に、神に差し出すことです。そのようにして、ただ神のみを讃美し続ける歩みに生きることなのです。

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