夕礼拝

自然を創られた主

「自然を創られた主」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 創世記、第1章 11節-25節
・ 新約聖書; ペトロの手紙二、第3章 1節-13節

創造の順序
 創世記第1章には、神様が六日間かけて天地の全てを創造されたことが語られています。本日の個所、11節から25節は、その六日間の創造のみ業の中の、第三日の途中から、第六日の始めまでのところということになります。何が創られたかということで言えば、第三日には植物が、第四日には天体、太陽と月と星が、第五日には水の中の生き物と空の鳥が、そして第六日には地上の動物が創られたという話です。つまり私たちがその中で生きている、いつも目にしている自然が創られたことがここに語られているのです。この自然の創造の順序が、科学によって解明されつつある地球上の生命の誕生や進化の過程となんとなく合致している、例えば、先ず植物が生まれ、それから水の中の生物が生まれ、それから地上の動物が生まれるというのは生命の進化の過程の通りだ、ということに意味を見出そうとする向きもありますが、そんなことは意味のない無駄話です。以前にも申しましたが、この天地創造の物語は、科学とどう折り合いをつけて理解できるかという読み方をすべきではありません。この物語にはこの物語としての意味があり、私たちへのメッセージがあるのですから、それをしっかりと読み取っていくことが大事なのです。

神の愛の業としての創造
 この自然の創造の順序に意味があるとしたら、それは、人間から遠いものから始めて、次第に近いものへと順に創られていった、ということです。遠いというのは距離の問題ではありません。植物が先ず創られているのは、イスラエルの人々の感覚において、植物は基本的に生命あるものとは考えられていなかったからです。聖書には、命は血に宿るという考え方があります。また、命の息という言い方もあって、息をしていることが生命のあるしるしとも考えられています。植物はそういう意味では生命あるものでないのです。そういう意味で人間から最も遠い存在である植物が先ず創られています。それから生命ある動物が創られるわけですが、まず水の中と空の生き物が創られる、それらは地上を生きる人間とは住む所が違うわけです。地の上の動物たちは人間にとって最も身近なところにいる存在です。それゆえに、それらの創造が人間の創造の直前に語られているのです。そうするとひっかかるのは第四日の天体の創造ですが、これが植物の創造の後に置かれていることの意味については後でお話ししたいと思います。基本的な流れとして、この天地創造の物語は、人間から遠いところから次第に身近なところへ、そして最後に人間が創造される、というストーリーになっているのです。そこに、この天地創造物語の根本的な意味あるいはメッセージがあります。この話は、あくまでも人間を中心として語られているのです。そう言うと誤解を生むかもしれません。正確に言うならば、人間の創造を頂点として、そこに向かっていく話として語られているのです。つまり天地創造の物語は、この世界や自然の成り立ちやしくみを語ろうとしているのではなくて、人間の存在の意味を語っているのです。神様が六日間かけてこの世界をお創りになった。それは、人間を創り生かすということを頂点とした、そのことを目的としたみ業だったのです。この世界の全ては、神様によって、私たち人間のために創られたのです。天地創造の全体が、人間に対する神様の愛のみ業だったのです。この世界がこのように存在し、私たちが生きているということの背後には、神様の、私たちに対する深い愛がある、これが、天地創造物語の持つ根本的なメッセージなのです。

絶望の中にある民に
 このメッセージが向けられた相手は誰であり、どのような人々だったのか。そのことも既に繰り返しお話ししてきました。創世記第1章の創造物語は、紀元前6世紀に、イスラエルの人々に向けて語られたのです。紀元前6世紀、それはユダ王国がバビロニアによって滅ぼされ、イスラエルの民が国を失い、多くの者たちがバビロンへ、今のイラクのバグダッドの近くへと連れて行かれたという、いわゆるバビロン捕囚の時代です。そこに至るまでには、戦場で多くの兵士たちが死に、籠城の中で女性や子供たちも飢えに苦しみ、死ぬ、そしてついに町が陥落した時には虐殺や暴行、強姦を受け、財産を奪い去られ、そして捕虜としてつながれて敵の地に引いて行かれ凱旋行進のさらし者にされるという、筆舌に尽くし難い苦しみがあるのです。そのような苦しみの中で、イスラエルの人々は、自分たちはもうこのまま滅びてしまうのかもしれないと誰もが思い、絶望しているのです。この天地創造物語はそういう人々に向かって語られました。神様が、あなたがたのために、あなたがたが生きることのできる所として、この世界の全てを創り、整えて、そしてそれを「良し」として下さった。この世界は、今どんな苦しみ悲しみに満ちており、絶望せざるを得ない状況にあっても、基本的に「良い」ところなのだ。人生は生きる価値のあるものなのだ。そういう慰めのメッセージをこの天地創造物語は告げているのです。

大地に命じる神
 このような根本的なメッセージを覚えながら、本日の個所の自然の創造を見ていきたいと思います。先ず、植物、草や木が創られたところです。ここで注目すべきことは、神様が直接に草や木を創ったとは語られていないことです。神様は「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ」と言われたのです。つまり神様はここで、地、大地に向かって命令しておられるのです。大地はその命令に従って、12節「地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた」のです。このようにして草や木は創造されました。それらは大地によって生み出されたものなのです。ここには、「母なる大地」という言葉で言い表されるような事柄が語られています。「大地の恵み」という言い方もあります。大地が、草や木をはぐくみ、様々な実りを与えてくれるのです。動物たちも人間も、その実りを食物として、燃料として、いろいろなものを作る材料としてなど、様々に利用して生きているのです。そのように私たちは、母なる大地の恵みに浴しているのです。しかしここで語られている最も大切なことは、それらのことの全てが、主なる神様のご命令によることだ、ということです。主なる神様が、地に、草や木を芽生えさせることを命じておられるのです。大地はその神様の命令によって植物を生えさせているのです。ここには、「大地」を神様の命令に従う被造物として位置づける信仰が語られています。大地は神ではないのです。私たちは、大地から様々な恵みを受けていますが、それは大地の恵みではなく、大地を通して主なる神様が与えて下さっている恵みなのです。このことは、私たちの置かれている宗教的環境において重要なことです。農耕社会においては、大地の恵みに感謝するという感覚が自然なこととしてあり、大地、土地が神として崇められ、祭られていきます。日本の伝統的宗教観にはそういうものが色濃くあり、私たちの信仰としばしば衝突、対立が生じます。特に最近は、西洋近代文明の行き詰まりの中で、日本的なアニミズムの世界、自然を神とし、一木一草にも神的なものの存在を見るという宗教観への回帰が声高に叫ばれたりしているわけです。私たちの信仰はそういう主張によってチャレンジを受けているわけですが、そのことは、この天地創造物語を最初に聞いたイスラエルの人々において、もっと深刻な、切実な問題だったのです。彼らを滅ぼし捕囚の苦しみを与えているバビロニアの宗教はまさにそのような、自然を神とする信仰でした。そして古代世界における民族と民族の戦いは、それぞれの信じる神どうしの戦いです。戦争に勝った方の神が、負けた方の神よりも強かった、より上位の神だったということになるのです。そういう意味では、国を滅ぼされたイスラエルの神はバビロニアの神々に負けたということになります。バビロニアの自然崇拝の神の方がイスラエルの神より上位の神だったというのが、当時の感覚では常識だったのです。この天地創造物語は、そういう常識に真っ向から立ち向かっています。そして、自然も、母なる大地も、主なる神様の被造物であり、神様のみ言葉に従うものだという信仰を宣言しているのです。
この宣言は、イスラエルの人々に対して、深刻な反省、悔い改めを求めてもいます。イスラエルの民は、カナンの地に定住し、農耕の生活を営むようになってから、彼らをエジプトの奴隷状態から救い出して下さった主なる神様を忘れ、その地の農耕の神々、五穀豊穣をもたらす大地の神々を拝むようになったのです。バビロン捕囚はそのような民の裏切りの罪に対する主なる神様の裁きとして起こったのです。ですからこの、大地も主の命令に従って植物を生えいでさせるものだという宣言は、イスラエルの民に、この神様を自分たちは裏切って、被造物に過ぎない大地を神としてしまったがゆえに、今このような苦しみに陥っているのだという、自分たちの罪を思い起こさせる宣言でもあるのです。

天体の創造
 そこで、次の14節以下の天体の創造です。これが何故ここに、植物の創造の次に置かれているのか、ということも、今申しましたことと関わりがあるのです。ここで注目したいのは、ここに語られているのは明らかに太陽と月と星々の創造であるのに、太陽と月という言葉が使われていないということです。「二つの大きな光る物」が創られ、その内の「大きい方」が昼を、「小さい方」が夜を担当するとあります。それが太陽と月であるわけですが、「大きい方の光る物」と「小さい方の光る物」としか言われていないのです。その理由は、太陽と月という言葉そのものが、バビロニアの宗教において、神を意味していたからです。自然を神とする宗教は当然沢山の神々のいる多神教ですが、その中で最高の神として太陽と月が崇められるというのも自然の成り行きです。太陽イコール太陽神だったのです。この天地創造物語は、それゆえにその言葉を使わず、ただ、「大きい方の光る物」と「小さい方の光る物」という言い方をしており、それらは共に神様がお創りになった被造物だと言っているのです。そしてそれらの創造を、植物の創造と動物の創造の間に置いたということは、それらの天体が、主なる神様の目には、植物や動物と同列のものだということを示すためです。天体、太陽や月や星を、特別に神的なものとして崇め、それらが人間の生活に、幸福であれ災いであれ、影響を及ぼしているとするような考え方を否定、拒否しているのです。

神の民のアイデンティティー
 それはバビロンの捕囚となっているイスラエルの民においては、彼らを支配している民の神々の支配や力を否定し、イスラエルの神、主なる神の民として生きること、つまり神様の民としてのアイデンティティーを保って生きることを意味していますが、この信仰は私たちにおいても同じ意味を持っています。私たちの周囲にも、天体が人間の運命に関わっているとする考え方がはびこっています。生まれた日の「星座」による今週の運勢などというものがメディアを通して盛んに流されているのです。星座に限らず、いわゆる「占い」の類いのものは全て、聖書の教える信仰とは全く相入れないものです。太陽にしろ月にしろ星にしろ、あるいはその他のこの世の何物にしても、そういうものが私たちの人生を支配したり、良いことだろうと悪いことだろうとそういうものの力によって私たちに来ることはないのです。何故ならばそれらは皆、神様がお創りになった被造物だからです。天地の全てをお創りになった主なる神様こそが、この世界も、私たちの人生も、支配し、導いておられるのです。だから、星座やその他の占いに心動かされることは、私たちが天地創造の主なる神様の民として生きることをやめること、神の民としてのアイデンティティーを失うことなのです。

暦のため
 この天体の創造の記事においてはさらに、太陽も月も星も、「季節のしるし、日や年のしるし」として創られたと語られています。季節や日や年、つまり暦です。天体は暦のためにある。暦というのは人間が用いるものです。ということはつまり、太陽や月や星も、人間のために創られたということです。天体は、私たちを支配したり、運命を導いたりする神ではなく、主なる神様によって、私たちのために、私たちの生活を照らし、作物を実らせ、また暦を作って日や月や年を数え、季節の廻りを知り、生活のリズムを整えるために創られたものなのです。神様はこのことを「良し」とされました。太陽も月も星も、神様のみ心に適う仕方で、つまり人間のために、私たちのために創られたのです。それゆえに私たちは太陽や月や星を見上げることによって、神様の私たちへの大いなる愛を確認することができるのです。

水の中の生き物
 次に語られていくのが動物の創造です。先程申しましたようにそれは人間から遠い方から、先ず水の中の生き物と空の鳥が、そして地上の動物たちが創られています。人間から最も遠い、水、即ち海の中の生き物として「大きな怪物」が創られたとあります。水、海は、これまでにお話ししてきたように、この世界や人間を飲み込み滅ぼそうとする混沌の力の象徴です。イスラエルの人々にとって海はそのように恐しいところなのです。その恐れが、そこに怪物が住むという伝説を生んだのでしょう。レビヤタンとも呼ばれるこの怪物は、人間の力の到底及ばないものです。人間が捕えたり、利用したりすることなど考えられないものです。世界にはそのような人間の力や知識の及ばないものがあるのです。そのことは、この世界は人間のために創られているけれども、しかし人間のものではなくて、神様のもの、人間が全てを支配できるものではなく、神様が全てを支配し導いておられるところだということを教えています。そして神様はこの怪物をも含めて、それらの生き物たちを祝福なさいました。22節の祝福は、混沌の力の象徴である海の中の生き物たちをも神様が祝福されたということにおいて、ここにも、混沌の力を制御して秩序ある世界を築いて下さる神様の恵みが語られていると同時に、世界は人間のために創られたと語るこの天地創造物語において、神様の祝福は人間のみに与えられているのではない、ということを示すことによって、人間の傲慢を打ち砕き、私たちが神様の前にへりくだり、謙虚になるべきことを教えていると言うことができるでしょう。

動物の創造
 そして24節からは第六の日、六日間かけての天地創造の最後の日になります。その最後の日に、地上の動物たちと、そして人間が創られるのです。人間の創造について語られる26節以下は次回に読みます。本日の個所は、その前に、しかし同じ第六の日に、地上の動物たちが創られたというところまでです。この動物たちの創造が、人間の創造と同じ第六の日になされていることには意味があると思います。それによって、動物の創造と人間の創造の違いが浮き彫りにされているのです。そのことについて少し先取りして言っておくと、本日のところの動物の創造において、先程の植物の時と同じように、神様が地に命じて、地が、動物たちを産み出すようにされたということが重要なポイントです。動物たちも、植物と同じように、大地から生まれたものなのです。それでは人間はどうか、ということが26節以下に語られていくわけです。

自然は神ではない
 このように本日の11節から25節は、私たちを取り巻く自然が神様によって創られ、整えられたことを語っています。そこにおいて共通して語られている大事なことは、自然は神ではなく、神に創られた被造物だ、ということです。植物も動物も、それらを生み出す母体である大地すらも、そして私たちをはるかに越えた空の高みにあり、地上の生命をはぐくんでいるように思える太陽も、また夜の世界を照らし、規則的に満ちたり欠けたりしながら時の移り変わりを教えてくれる月も、夜空に荘厳に輝く満天の星々も、その全てが、神ではなく、神様に創られたものなのです。そしてそれらの全てを、神様は私たち人間のために創って下さったのです。自然は神ではなく、神様の私たちへの恵みのみ心の現れである。それが、この天地創造物語が私たちに語りかけているメッセージなのです。

人間の罪
 それは人間の傲慢ではないか。そのような教えは、人間が、自分は世界の中心だと考える結果を招くのではないか。今この地球において、自然破壊、生態系の破壊、環境汚染が進み、このままでは人間も動物も住めないような世界になってしまうかもしれない、そういうことの原因には、世界が人間のために創られたと考えるキリスト教の世界観があるのではないか。そのように考えることをやめて、自然の中にも神を見出し、一木一草の中に神的なものを感じてそれを大切にしていくという日本的な、多神教的な世界観に立つことこそが必要なのだ…、そんなふうに主張している人たちがいます。しかしそれは全く間違った理解です。聖書は確かに、世界は、自然は人間のために創られたと教えています。しかしそれは、人間が世界の、自然の主人であり、自然を好き勝手に支配してよい、ということではありません。自然は、人間のために、神様によって創られたのです。神様こそが、自然の、そして人間の主であられるのです。人間が自然を自分たちのために創られたものとして受け止めることができるのは、この主なる神様を信じ、神様に従う者となることにおいてです。その時に初めて、人間は、自然を、神様の恵みとして喜び感謝して、自然とよい関係を持って生きることができるのです。この神様を信じ従うことなく、自分が主人になり、自分の思いや欲望によって生きようとすることが人間の罪です。その罪によって人間は、自然に敵対する者となり、欲望のために自然を破壊する者となるのです。今起っている地球環境の危機は、天地の創り主なる神様を信じようとせず、神様の前に謙遜に跪こうとしない人間の罪にこそ原因があるのです。

天地の終わり
 神様によって創られた自然は、神様によって終わりに至ります。そのことを語っているのが、本日共に読まれた新約聖書の個所、ペトロの手紙二の第3章8節以下です。ここには、「主の日」が来ることが語られています。その日には、天も地も、自然界の諸要素も全て、火で焼き尽くされるのです。そのようにしてこの世界の全てが滅び去るのです。その、この世の終わり、終末が、「主の約束の実現」と言い表されています。それは、この終わりの日に、13節にあるように、「義の宿る新しい天と新しい地」を与えて下さると神様が約束していて下さるからです。この世が終わり、自然界の全てが焼き尽くされる日は、同時に私たちの救いの完成の日、神様の救いの約束の実現の日なのです。そのことを私たちに保証して下さっているのが主イエス・キリストです。私たちのために人となり、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して新しい命に生きておられる主イエスが、終わりの日にもう一度来られ、十字架と復活によって与えて下さっている救いを完成させて下さるのです。私たちは、この世界が、自然が、神様の、私たちへの恵みのみ心によって、私たちのために創られたことを信じます。そして同じ神様によっていつかこの世界が、自然が、終わりに至る、その時にも、独り子イエス・キリストによる恵みのみ心によって私たちに救いの完成を与えて下さることを信じて、その主の日、神の日、終わりの日を、待ち望みつつ歩むのです。天地創造を信じる信仰は、大昔の出来事を信じる後ろ向きの信仰ではありません。天地創造を信じることは、天地の終わりに究極の希望を見つめ、それを待ち望むことと一つなのです。この究極の希望のゆえに、私たちはこの世界のどんな被造物の支配からも自由に、どんな占いにも左右されず、苦しみの中にあっても絶望せず、自分の罪を常に顧みて悔い改め、主の前に謙遜にさせられつつ、しかし神様の恵みと愛を決して見失うことなく生きることができるのです。

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