夕礼拝

権威ある教え

「権威ある教え」 伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; ゼカリア書 第13章1-6節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第1章21-28節
・ 讃美歌 ; 220、361

 
マルコによる福音書を読んでいます。今日お読みした箇所は、いよいよ主イエスと弟子達一行の歩みが本格的に始まるという場面です。「一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教えられた」。カファルナウムとは、ガリラヤ湖のほとりにある、主イエスの活動の拠点になる町です。初めの弟子であるペトロの家のある町です。ここで、「着いた」と訳されている言葉は、「入っていく」という意味の言葉です。
主は、宣教を始めるにあたり、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と語られました。ご自身が世に来られたことが神の支配の到来であることを告げられたのです。そして、世に来られた主は、誰かが自分を求めてやってくるのを暢気に待っていたのではありません。カファルナウムの会堂へと入って行き教えられるのです。主イエスの歩みは、積極的な歩みです。自ら入っていく歩みです。
この日は安息日であったことが記されています。安息日には、会堂ではユダヤ教の礼拝が守られていました。当然この時も、多くのユダヤ人たちが集まり礼拝を捧げていた事でしょう。そこでは、律法学者と呼ばれる人々の聖書についての「教え」が説かれていました。そのような町の中心である会堂に、しかも、安息日に赴いて、人々に説教されたのです。

 「人々はその教えに非常に驚いた」とあります。主イエスが初めて説教された時、そこに驚きが生じたというのです。今日の箇所の最後の部分には主イエスが汚れた霊を追い出したのを見た人々が驚いて、「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聞く。」と論じ合ったことが記されています。汚れた霊の男の話を囲むようにして、人々の驚きが記されています。それまで聞いていた教えとは決定的に異なる新しい教えだったのです。主イエスと出会い、その教えにふれるということは、全く新しいものに出会うことであり、そこに驚きが生じるのです。
ここで人々は、今まで見たこともない人が会堂に入ってきて、教えられたという出来事の唐突さに驚いたというのではありません。主イエスの教えがあまりに素晴らしく、話が上手かったということに驚いたというのでもありません。ここで聖書は、主イエスの教えの内容を記していません。その内容ではなく、どのように教えられたかを記すのです。「律法学者のようにではなく、権威あるものとしてお教えになった」。この教え方が、聞いた人々に驚きを生じさせたのです。

律法学者のように教えるとはどのようなことを言うのでしょうか。律法学者たちは、自らが救われる根拠を、旧約聖書の律法に求めていました。旧約聖書の律法を守ることによって救われると考えていたのです。そのために必死になって研究して教えていました。そして、「律法にはこう書いてある」というように律法を解釈して語る教えだったのです。ですから、この人々は、自らの内にある権威によって語ったのではありませんでした。それ故、この人々は必死になって、自らを権威づけるために、この律法を守ろうと努力したのです。
最近ボクシングの三兄弟が人気を博しています。試合前の記者会見等でマスコミの前でると、派手にパフォーマンスをして、大きな態度を取ってみせる。いざ試合になると、非常に強く、試合をするとほとんど1~2ラウンドの間にKOで勝利をしてしまうのです。今まで大してボクシングに関心を持っていなかった若い女性が観戦するために駆けつけたということが報道されていました。そのような人々に三兄弟の魅力をインタビューした所、一位は、「有言実行」ということでした。試合前の記者会見で見せた態度が、強がりでも、はったりでもないのです。そこで宣言した通りに、試合を決める。そのような姿に、今までボクシングに興味がなかった人々も、驚き、引きつけられるのです。
このボクサーの「有言実行」に人々が引きつけられることの背景には、私たちの社会が、「有言実行」ではないということがあるように思います。そのために、権威を失っている言葉があふれているのです。私たちが語る言葉。親が子に、教師が生徒に、医者が患者に、政治家が国民に、私たちの間にあるもろもろの関係の中での言葉が信頼を失ってしまうのです。
もし、この時の律法学者達と言われる人々が、ただ教えているだけであったなら、誰もこの教えに耳を傾けることなく、むなしく響くだけだったことでしょう。律法学者達は、ただ教えを説いただけではなく、行いによって実践しようと努力していたのです。律法を正しく解釈し、それを徹底して守るということによって権威づけようとしていました。 しかし、この人々の歩みはいつしか、律法に支配される歩みとなってしまいます。自分が必死になって律法を守ろうとする反面、そうすることが出来ない周りの人を見下すようになっていったのです。自らの力で身につけようとした権威は、自分への誇りであり、他者を裁く思いを抱くという結果になったのです。

主イエスは、それとは根本的に異なる形で教えられました。ご自身、「権威あるものとして教えられた」のです。ここで言われている、主イエスの権威は決して、律法を厳格に解釈し、それを必死になって守ろうとすることによるものではありません。自らの内に権威がある。神から来たものとしての権威によって教えられたのです。神について語る言葉ではなく、神ご自身の言葉なのです。この主イエスの権威は、後に続く、汚れた霊の追放の出来事によって明確に示されることになります。
聖書は、この会堂における主イエスに対する反応が、驚きだけではなかったことを記します。この時、会堂には主イエスの声が響き、辺りは、この新しい教えをさらに聞こうと耳を傾ける人々の静寂が支配していたことでしょう。しかし、この静寂を突き破るようにして、大きな叫び声が響いたのです。「そのとき、この会堂に汚れた霊にとりつかれた男がいて叫んだ」というのです。
福音書は様々な主イエスの癒しの記事を語ります。事実、この直ぐ後には「多くの病人をいやす」話が続きます。しかし、この汚れた霊に取りつかれた男の出来事は病人の病気が癒されるようなこととは少し性格が異なります。「汚れた霊」とはどのようなものを意味するのでしょうか。「汚れた」というのは「聖」という言葉に否定の意味がついて出来た言葉です。「聖なるものではない霊」とうい意味です。マルコによる福音書は、主イエスがヨハネから洗礼を受けたとき、「霊」が降ったことが記されています。この霊は、この世において神の御旨を現す働きをなす霊です。それに対して、ここで「汚れた霊」と言われているのは、私たちを、神の支配から遠ざけ、神に敵対させようとするものであると言えます。
つまり、ここで「汚れた霊に取りつかれた男」が叫びだしたということは、主イエスが人々に教えられたとき、それを否定するものも又激しく、叫びだしたということです。御言葉が、神からの権威をもって迫ってくる時に、神の支配を望まず、それを否定しようとするものが叫びだしたのです。
汚れた霊にとりつかれた男が叫び出すということから私たちが想像する光景は、霊に取りつかれた異常な人が常軌を逸した行動に出たということかもしれません。しかし、このことを、私たちが、自分たちと無縁のことと考えてしまうことは出来ません。それは、現代における私たちの内に起こっていることなのです。時代と場所を越えて、御言葉、聖書の言葉が、権威を持って人間に突入してくる時に、驚きと共に、起こることなのです。神の支配に対抗するものに支配されている人間の反応なのです。公衆の面前において大声で叫ばれることはないかもしれません。しかし、この叫びは、私たちの世、社会にあって、又、私たちの心の内で起っていることなのです。

「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている、神の聖者だ」
この時、人々は主イエスの正体を知らずに、ただ驚いているだけでした。この時、だけではありません。主イエスはこの後、繰り返しご自身が神の子であることを示し続けるのです。しかし、イエスの周りの人々は、イエスのことを理解しなかったのです。しかし、この汚れた霊だけは、主イエスの正体を分かっていたのです。それは、主イエスの到来によって、自分自身の居場所がなくなる。自分の支配する余地がなくなることを知っているからです。ですから主イエスの到来に対して抵抗を示すのです。
汚れた霊は、先ず、「かまわないでくれ」と叫びます。この言葉は「私とあなたに、何の関わりがあるのか」と言った文章です。これは、私たちが日々の生活の中で、隣人との交わりの中で、時々発し、又耳にする言葉ではないでしょうか。実際は口に出さないかもしれません。周囲の人の忠告や親切が大きなお世話であるかにみえる時に、「我々とあなたに、何の関わりがあるのか」というような事を思うのではないでしょうか。私たちは、他人が自分に対して持とうとしてきた関係を一方的に遮断しようとする時にこの言葉を語るのです。人々の評価にさらされることを恐れて、自分だけの世界に閉じこもろうとする時にこの言葉を語るのです。「汚れた霊」は、まさに、それと同じことを、神に対してしようとするのです。

この霊についてここで一つの点に注目したいと思います。先ほど、霊は「我々とあなたと何の関わりがあるのか」と述べていると申しました。又、それに続いて、「我々を滅ぼしに来たのか」と語っています。ここで、一つの霊が、複数の「われわれ」という表現を用いて叫んでいるのです。ここには、一人の人格が、いくつかに分裂している状態が示されていると言っても良いでしょう。様々なものに支配されているのです。
これと似たことは、私たちの日常でよく経験されることであると言って良いと思います。時に、私たちは明朗に振る舞い他人に親切にする自分がおり、時に落ち込み、人々に冷たくあたったりすることもある。その程度の感情の変化ということなら良いのですが、もっと根本的に、人格的に自己が統一されていないという状態があるのです。いくつかの自分によって支配されているのです。そのような中で本当の自分の姿を見失ってしまうのです。
最近ニュースで話題になる犯罪の多くは、このような状態が反映されたものが多いように思います。連日、悲惨な事件が、報道されています。凶悪犯罪を引き起こした人について、周囲の人にインタビューをすると、普段はおとなしく内気な人であるとか、とても明るく良い人だという答えが返ってくることがあります。又、自らの置かれた立場を悪用して、自らの利益のために犯罪がなされるということが起こります。ここにも、「汚れた霊に取りつかれた」姿があると言っても良いのではないのでしょうか。そのような罪を犯したものに限られることではありません。誰しも又、少なからず、様々なものに支配され、本当の自分自身の姿すら見えなくなってしまうということがあるのです。そのような中で、この世に来られた、唯一の神の支配を拒もうとするのです。「かまわないでくれ」「われわれとあなたに何の関係があるのか。」

 しかし、主イエスはこの汚れた霊をそのままにはしておかれない。汚れた霊に取りつかれた男に対して主イエスは言われます。「黙れ、この人から出て行け」。汚れた霊の叫び声を、打ち消すような声で語られるのです。叱るというのは、神の権限を示す時に使われる表現です。十字架を予告したイエスをいさめたペトロを主イエスが叱って「退けサタン」と言われた時の「叱る」ということと同じ言葉です。自らの道をふさごうとするものを激しく叱責なさるのです。この主イエスの言葉によって、「汚れた霊は、その人にけいれんを起こさせ、大声を上げて出ていった。」とあります。神の支配の到来に対し、疑問を引き起こさせ、それを否定させようとする霊の働きを主イエスはお叱りになるのです。そうすると、「汚れた霊は、その人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出ていった」のです。主イエスは、神の支配を告げられました。しかし、ただ告げられただけではありません。その支配を確立するために、私たちを支配する、汚れた霊を追放されるのです。ここに主イエスの教えの権威があるのです。

主イエスは、この権威によって、自らを誇ったり、人を裁くことをしたのではありません。ここで「汚れた霊」を追い出された主イエスは、神の恵みの支配を実現されるために、ご自身が十字架におもむき裁かれるものとなってくださったのです。
主イエスの十字架の場面を思い出したいと思います。その裁判の席で、主イエスの最初の弟子であるペトロが、お前もあの男の仲間だと言われて、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と語ったことが記されています。最初に弟子とされたペトロ。「たとえ御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを死ならいなどとは決して言いません」と言ったペトロです。そのペトロが、主イエスの十字架の前で、「あなたの言っているそんな人は知らない」、自分と主イエスと私には何の関わりもないと語るのです。 しかし、そのように、自らを否定する力に翻弄され、主を否むもののために、主は一人十字架に赴かれたのです。神を否定しようとする人間の罪と戦われたのです。「黙れ、この人から出て行け」。この言葉は、私たちの言葉のように、むなしく響くものではありません。私たちの罪と戦われた主イエスの十字架という業によって確かなものとなっているのです。

主イエスの教えにふれる時、私たちは、様々な霊の支配から解放されて、真の主の支配の下で、生きるものとなります。この方を自分の人生の主として歩むようになるのです。そして、その歩みは、決して、様々な霊に支配された隷属状態を意味しません。自分自身を神に愛されているもの、神の民として認識して、神を讃美しつつ歩むものとなります。それは、主イエスによって始まっている神の支配を世に示す歩みです。この出来事の後、皆の驚きと共に主イエスのことがガリラヤ地方の隅々にまで広がったとあります。ここから、主の支配が、世に及んでいくのです。
カファルナウムに入って来て、会堂で教えられた、主イエスは、私たちの会堂にも来られ、教えられます。私たちの礼拝においても権威ある言葉を語られるのです。 もしかしたら、私たちの心は、様々な霊によって支配され、心騒がせているかもしれません。私たちのもとに、来られる方の支配を望まず、我々とあなたに何の関係があるのかと言って、その愛を拒むのかもしれません。しかし、主イエスは、それを上回る言葉で語られるのです。「黙れ、この人から出て行け」。この権威ある主の教えを聞きつつ、世にあって神の支配を知らされたものとして歩みたいと思います。

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