夕礼拝

見せかけでない信仰

「見せかけでない信仰」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; イザヤ書 第1章11-20節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第12章38-44節
・ 讃美歌 ; 257、512

 
律法学者と貧しいやもめ
本日お読みした箇所には、二つの出来事が記されています。新共同訳聖書の区切りでは、前半38節~40節には「律法学者を非難する」との表題がつけられており、後半の41~44節には「やもめの献金」とあります。両者は、全く別の出来事を語っているようにも思えますが、この二つの記事には繋がりがあります。前半の38節~40節で主イエスが律法学者を非難したことが記されているのは、明らかに、これまでに語られて来たことを受けています。主イエスはエルサレム神殿で様々な人々と論争をしてきました。論争の相手の中心は律法学者と言われる宗教的指導者たちで、主イエスのことを憎んでいた人々です。論争を終え、今度は、群衆に向かって、「律法学者に気をつけなさい」とお語りになったのです。あなた方は、「律法学者のようになってはならない」と言うのです。そのような注意、警告の後に、一人の貧しいやもめの献金の姿に目が向けられるのです。ここでは、明らかに、「律法学者たち」の信仰の態度と、貧しいやもめの献金の姿勢に表されている信仰の態度が対称的に記されているのです。

律法学者たちの態度
では、主イエスが群衆に向かって、律法学者のどのような態度に注意するようにと言われているのでしょうか。38節には、「彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」とあります。ここに人々から尊敬されることを願う姿があります。「長い衣」というのは、自分たちが、律法を教える教師であること、宗教的なことにたずさわる者であることを示すための衣です。彼らが、そのような長い衣を着て、日常生活の場である広場を歩き回ると、人々が敬意を表して挨拶をするのです。又、ここで、会堂の「上席」とは、礼拝の場における最も上にある席のことです。教会で言えば講壇の椅子ということになるでしょう。又、上座とは、集会などでの所謂良い席のことです。ここで、主イエスは、聖職者がガウンを着たり、人々から挨拶されたり、「上席」に座ることそれ自体を非難しているのではありません。それらのことを自分の栄誉のために自ら求め、自ら望むようになることが非難されているのです。私たちの教会では、牧師や伝道師がガウンを着ることはありませんが、毎週、説教者が講壇の上の椅子に座り、そして、講壇に立って御言葉を語ります。それは、その務めをする人が、主によって伝道者として召されているからであり、教会によって御言葉に仕える務めに立てられているからです。伝道者はそのことに畏れを持って、聖霊に委ねつつ、立てられている業のために仕えます。そして、教会員も、御言葉を取り次ぐ務めのために立てられているということにおいて、その人を重んじるのです。しかし、そこで伝道者が、神によって立てられていることへの畏れをなくし、人々から尊敬されるという自分の栄誉のために自らそれを望むようになれば、ここで言われている、長い衣を着、人々から挨拶され、会堂の上席に座ることを望んでいる律法学者と同じことになるでしょう。
更に、ここでは、「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」と言われています。当時の社会においては、未亡人は、厳しい生活を余儀なくされました。多くの未亡人は夫が遺した遺産を頼りに、慎ましやかに生きていたのです。主イエスの後に従って世話をしていた人々の中にも婦人たちがいましたが、そのような人々の中には特に熱心に信仰生活を送っていた人がいたのでしょう。律法学者たちは、このようなやもめの下に行き、夫が遺した遺産から献金をさせようとするのです。しかも、そのようにして献金を集めることによって、献金を献げさせた自分たちの名声を高めようとしていたのです。やもめの悲しみや信仰心を利用して、自分の栄誉を高めようとする態度は、文字通り「食い物にする」と言って良いような振る舞いです。そのような人々の祈りは当然、「見せかけの」祈りになります。表面的には、やもめの苦しみに思いを寄せているかのように長い祈りがされるけれども、それは、「見せかけ」で、実際は、そこで自分が高められることを求めているのです。

群衆に向かって
ここまで見てくると、私たちは心のどこかで、「律法学者というのはとんでもない奴らだ」と言う思いがするかもしれません。又、自分は伝道者として立てられているのでもないし、当時の律法学者とも違うから、ここでの話しは自分とは無関係だと感じるかもしれません。しかし、ここで、大切なことは、先ほども述べたように、主イエスはこの非難を律法学者に向かってではなく、群衆に向かってお語りになっているということです。ここで主イエスは、自分に論争を挑んで来る律法学者を打ち負かすことが目的で、このようなことをお語りになったのではありません。又、自分を陥れようとする律法学者の悪口や陰口を人々に言い広めることによって、自分の立場を擁護する人々を増やそうとしているのでもありません。ご自身の下に集まって来る群衆が、この律法学者の姿に顕著に示されている信仰の態度に陥らないようにとの思いで教えられているのです。
主イエスの律法学者非難は、先週お読みした12章35節以下から記されていました。そこでの非難の締めくくり、37節には、「大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた」とありました。もちろんこの喜びは御言葉に触れる喜びであると言うことが出来ます。しかし、一方で、普段、律法の教師として偉そうに振る舞う律法学者が非難される言葉を喜び、心のどこかでは、自分たちは律法学者たちのような偽善者ではないのだという思いになっていたとも考えられます。そのような群衆に向かって、主イエスは、「気をつけなさい」とお語りになるのです。それは、他でもなく、群衆にも又、律法学者の態度があったからです。すべての人々に向かって、律法学者たちの態度に陥ってしまうことを警告なさっているのです。つまり、ここで扱われている問題は、現代を生きる私たちをも含めた主イエスに従おうとするすべての人々に関することなのです。律法学者たちは、指導的な地位にある分、「人一倍厳しい裁きを受けることになる」と言われているのです。しかし、誰もが、この裁きと無関係ではないのです。

信仰を利用する態度
 律法学者の態度の根本にあるのは、自分の栄光を求め、信仰をも、自分のために利用しようとする態度です。ですから、単純に私たちの名誉欲や自らに誇りをもって歩むことというよりも、信仰生活において、自らの栄誉を求めることが問題になっていると言うことが出来ます。そこでは、主なる神様に対する信仰における事柄も人からどう見られるのかということが関心事になります。神からではなく、人からどうみられるのかが関心事になる。「見せかけの長い祈り」ということに現れているように、神様との関係を生きる信仰生活においても他者の目を気にするようになるのです。祈りというのは、基本的には、神様に向かって捧げられるものです。しかし、そこで、その捧げる行為によって人の評価を得ようとするのであれば、人の目を気にした、見せかけのものになります。神の目の前で生きる信仰生活が、いつしか人の目の前で生きるものになり、自分を誇ったり、又自己卑下したり、体面を繕ったりということになるのです。人の目よりも神の目を気にするというのは、好き勝手に傍若無人に振る舞うとういことではありません。人前で祈る時には、そのことを意識したり、自分だけで祈る時とは異なる備えをするのは大切なことです。しかし、そのことによって自分の栄誉を求める思いが入り込んでくることがある。神の眼差しよりも人の眼差しに支配されてしまうのです。

主イエスが目を留めた一人の貧しいやもめ
この律法学者とは全く異なる信仰の態度について記されているのが、続いて記されるやもめの献金についての箇所です。ここでは「献金」のことが語られています。私たちの信仰生活は献金がすべてではないことは言うまでもありません。様々な賜物を献げて奉仕に励み、神様を讃美、礼拝することによって、自身を献げます。しかし、一方で献金の姿勢には、私たちの信仰の態度が現れると言っても良いでしょう。献金は私たちが自らを神様に献げるしるしであり、献金において神様への献身が具体的な形となるからです。
41節には、「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた」とあります。今まで教え、お語りになっていた主イエスは、ここでは、じっと黙して眼差しを注いでおられます。そこで主イエスは、人々が献金する様を見ておられるのです。そこで大勢の金持ちがたくさん賽銭箱にお金を入れている。すると、そこに一人の「貧しいやもめ」が来て、レプトン銅貨2枚を入れたというのです。先ほど申したように、当時、やもめは厳しい生活を強いられていました。もちろんやもめの中にも様々な境遇の人がいたようですが、基本的には経済的な厳しさを経験していたのです。そのようなやもめの中でもここで登場するやもめは徳に「貧しい」と言われているのです。やもめとして生きてこと自体厳しいものであったのに加えて、その中でも特に貧しさの中にある人であったと言うことができるでしょう。このやもめが2レプトンを献げたのです。ここで、レプトン銅貨2枚が1クァドランスであること言われています。聖書の後ろに記された度量衡の表によれば、このレプトンというのは最小の銅貨で、1デナリオンの128分の1とあります。1デナリオンが労働者の1日の賃金です。その128分の1がいかに少ないかが分かります。自らを献げていることにおいて、誇ることが出来ないような額です。しかし、この一人の貧しいやもめが、主イエスの目にとまったのです。
それにしても、何故、ここで、大勢の金持ちがたくさん入れているとか、一人の貧しいやもめがレプトン銅貨2枚入れたということが分かったのでしょうか。一説によると、この時、神殿での献金は、誰が何のためにどのくらいのお金を献げたかが周囲の人々に分かるようになっていたと言われています。担当の人が賽銭箱の脇にいて献金額を記録し、周囲の人々に分かるように報告していたようです。ですから、多くの献金が献げられると「あの人は立派な信仰者だ」と見られたり、少ない献金額が献げられると「あの人の献げる態度はいまいちだ」というような見られたりすることがあったのかもしれません。

誰よりもたくさん
この光景を見ていた主イエスは「弟子たちを呼び寄せて」言われます。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた」。大勢の金持ちが、たくさん入れている。もちろん多くの金額の献金を献げるのは悪いことではない。しかし、主イエスは、たったレプトン銀貨2枚を入れた、女がだれよりもたくさん入れたと言うのです。これはどういうことでしょうか。単純に額だけを比べるならば、やもめに比べて、大勢の金持ちは圧倒的に多くの額を献げているのです。ここで、他の人と比較する形でやもめがたくさん入れたことが語られています。44節には乏しい中から持っている物すべてを入れたことが記されています。そのことを考えますと、自分の持っている財産に対する献金額のパーセンテージが最も多かったのだとも考えられます。しかし、主イエスがお語りになりたいのは、献金は、献げた献金額の、自分の持っている財産の中で占める割合の多寡によって判断すべきだということではありません。やもめが献げたレプトン銅貨2枚が、彼女の持っている全財産に占める割合が、他の金持ちのそれに比べて多かったから、この人が一番だということではないのです。確かに、生活の内のどれだけを献げるかには、信仰の態度が現れてると言えなくもないでしょう。しかし、注意をしなくてはならないことは、そのような場合であっても、人の目を気にして、やせ我慢しつつ見せかけで多くの割合の金額を献げるということも起こるのです。そこでは、結局、他人と比べて自らを誇ったり、自己卑下したりということが生じる。見せかけの信仰に生きることになるのです。

主が見られるもの
主イエスは、ここで、献金に対する姿勢を見ておられたのです。ここで、金持は、神に自らを献げるという思いから献げているのではなく、献げている自分の姿が人々の目に留まり、そのことにおいて、人から見た自分の評価を高めたいという思いがあったと言って良いでしょう。信仰でさえ自分の栄誉ために利用しようとする態度は、自らを献げるしるしである献金において、神の眼差しではなく、人の眼差しのみを意識するということにもなるのです。一方で、貧しいやもめには、神の眼差しの中で、神にのみ目を向けて献げる思いがあったのです。このやもめの信仰の態度は見せかけではありません。もし、見せかけで行おうとすれば、レプトン銅貨2枚という額を献げることはためらわれたでしょう。このやもめは全く、主の眼差しの前で生きていたのです。献金というのは、人の目の前でなされることではありません、主のまなざしの中で起こることなのです。主なる神が眼差しをむけていて下さる、そのことにのみ思いをむけて、献げるのです。神の眼差しの前で、自らを委ねきっている時、人々の目から自由にされて、本当の意味での献金が献げられるのです。

自分の持っている物すべて
 「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたのである」と言われていることに思いを向けたいと思います。これは、良い信仰者として生きるには、文字通り、自分の持っている物すべて、生活費全部を、賽銭箱に入れろということではありません。そのようにすれば、生活出来ず、のたれ死ぬだけでしょう。ここで生活費というのは、自分の生活、命そのものを、主に献げるということが言われている。それは、自分の生活の根拠、よりどころを全く神の下に見出し、神にすべて委ねきるということです。有り余る中から、一部を献げるという姿勢の背後には、自分の生活を支えているものの大部分は自分の手の内にあるのだという思いがあります。自分を生かしているのは自分であるという錯覚があるのです。そのような時の信仰生活というのは、自分の栄誉のためのもの、人の目を気にして、自分を高めるためのものになります。律法学者の態度の背後にあるのは、信仰生活ということによって、そのような、自分の持っている物を増やして行こうとする歩みです。それに対して貧しいやもめの歩みは、ただ神にのみ自らの命の根拠を見出し、生活のすべてを献げきる歩みなのです。主イエスは、そのような信仰の歩みをこそ、求めておられるのです。

クリスマスの出来事から
しかし、私たちは、そのような態度を自ら到達すべき目標のように掲げて自身の力によって努力してつかみ取ることが求められているのではありません。私たちは、人々の目を気にする態度から自由ではありません。どんな業にも人の目を気にする態度がつきまとうのです。しかし、そのような中で、大切なのは、眼差し注いで下さる主イエスに目を向けることです。この後、主イエスは、十字架に付けられます。それは、人々の罪をご自身の身に受け、主が裁かれて下さったという出来事です。神の御子が世に来られたのは、十字架でご自身を献げきることによって文字通り、「自分の持っている物をすべて」「生活費を全部」を献げて下さったのです。主なる神は、乏しい中から献げたのではありません。満ちあふれる豊かさ、「有り余る」ほどの豊かな富を持っていながら、その一部ではなく、すべてを献げて下さったのです。神が人となるということ、十字架の死において自らを献げたというのはそういうことです。コリントの信徒への手紙二の8章でパウロは献金の語る中で、クリスマスの出来事を次のように記しました。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。キリストが豊かであったのに、私たちを豊かにするために貧しくなってくださった。父なる神のもとから世に降り、十字架で死んで下さったのです。そのことを受け入れ、それによって自らが赦され生かされていることを受けとめる中で、私たちは本当にこの方にすべてを委ね、献げていく者とされるのです。私たちではなく、主が、私たちにご自身をすべて献げて下さっている、その恵の中で、私たちも献げるのです。そこから生まれる信仰生活は、人の目を気にし、優越感や劣等感を持つこととから自由にされた、本当に豊かなものとなるのです。そのことにおいて、ただ、主の眼差しに見守られて、人々に対する見せかけの信仰に生きることから解放されて、自分のすべてを主に委ね、献げつつ歩む者とされるのです。

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