夕礼拝

心と魂と力を尽くして

「心と魂と力を尽くして」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記第6章1-25節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第22章34-40節
・ 讃美歌:220、513

信仰の旅路
 私が夕礼拝説教を担当する日は、旧約聖書申命記を読み、み言葉に聞いています。先月までは第5章の「十戒」を一年以上かけて一つずつ読んできました。本日からは再び、その先へと歩みを進めていくのです。
 私たちは毎週の礼拝において、聖書を通して神の言葉を聞きつつ歩んでいます。その私たちの信仰の旅路は、この申命記に語られているイスラエルの民の荒れ野の旅路と似ています。イスラエルの民の荒れ野の旅路は、神のみ言葉によって導かれた歩みでした。彼らは神が約束して下さっている乳と蜜の流れる地を目指して旅をしています。その旅は、神が留まれとおっしゃった所に留まり、神が出発せよとおっしゃったら出発し、神がお示しになる方向へと進んで行く旅です。私たちも、毎週の主の日の礼拝においてみ言葉を与えられ、それによって導かれ、養われ、生かされつつ一週間を歩み、そしてまた主の日の礼拝に帰って来ることを繰り返しつつこの世を旅しています。この旅路が私たちの信仰の歩みなのです。信仰をもって生きるとは、何か良いことをして世のため人のために尽くそうと努力することではありません。あるいは、神がおられると信じているとか、神が共にいて下さるから安心だと思うとか、神の救いを祈り願っていることが信仰なのでもありません。信仰とは、聖書を通して語られる神のみ言葉を聞きつつ生きることです。み言葉を聞くことなしに、神の存在を信じていると言っていても、それは人間の一人芝居であり、み言葉を聞くことなしに神の守りや助けを信じ求めていても、それは人間の勝手な思い込みに過ぎません。信仰に生きるために大切なのは、神の言葉によって歩む神の民の一員として、自分もみ言葉を聞きつつ歩んでいくことなのです。十戒を終えて再び申命記を読み進めていくに際して、ここに語られているイスラエルの民の荒れ野の旅路と私たちの信仰の歩みのこの共通性をもう一度確認しておきたいと思います。

神の祝福にあずかるために
 さてこの申命記は、以前に申しましたが、荒れ野の旅路もいよいよ終わりに近づき、約束の地カナンを目前にしているイスラエルの民に、モーセが、遺言として神の言葉、掟をもう一度語り聞かせるという形で書かれています。これから約束の地に入り、そこに住むようになることを前提とした勧めが語られているのです。そのことがこの第6章の1?3節に示されています。「これは、あなたたちの神、主があなたたちに教えよと命じられた戒めと掟と法であり、あなたたちが渡って行って得る土地で行なうべきもの。あなたもあなたの子孫も生きている限り、あなたの神、主を畏れ、わたしが命じるすべての掟と戒めを守って長く生きるためである。イスラエルよ、あなたはよく聞いて、忠実に行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、父祖の神、主が約束されたとおり、乳と蜜の流れる土地で大いに増える」。神は今、イスラエルの民に、実り豊かな土地を与え、そこで彼らを祝福し、長く生かし、大いに増やそうとしておられるのです。そのイスラエルの民はかつてエジプトで奴隷とされていました。神が彼らを奴隷の苦しみから救い出し、荒れ野の長い旅を導いて、今や豊かな祝福を与えようとしておられるのです。その祝福にしっかりとあずかるようにとモーセは勧めています。そのために必要なのは、神を畏れ敬い、その掟と戒めを守ること、つまり神のみ言葉をしっかり聞き、それに従っていくこと、そのようにして神との密接な交わりに生きることです。これまでの荒れ野の旅路において、常に神に導かれ、み言葉に聞き従って歩んできたように、約束の地に入ってからも常に神のみ言葉に聞き従って歩みなさい、と勧められているのです。

シェマー
 次の4、5節はイスラエルの民の信仰において大変重要な箇所となりました。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。最初の「聞け」という言葉はヘブライ語で「シェマー」と言います。イスラエルの民はこの4、5節全体を「シェマー」と呼んで、日々口ずさんでいったのです。ここで「聞け」と言っているのは直接にはモーセですが、それは神からの語りかけでもあります。神が「聞け」と言っておられるのです。それに応えて神の言葉を聞きつつ生きることが神の民の信仰です。それは旧約の時代も今も変わりありません。この「シェマー(聞け)」は私たちに対する神の語りかけでもあるのです。 

唯一の主
 モーセは、そして神はここで何を「聞け」と言っておられるのでしょうか。第一にそれは「我らの神、主は唯一の主である」ということです。ここに「主」という言葉が二度出て来ますが、これは原文では「ヤーウェ」という神のお名前を現す固有名詞です。イスラエルの人々はこの神の名前を口にすることを避けてきました。十戒にも「主の名をみだりに唱えてはならない」とあるためです。そのため、このお名前が出て来た時にはいつも、「神」を意味する一般名詞に読み替えて来たのです。そのうちに、このお名前は元々どう読んだのかが分からなくなってしまいました。しばらく前まではこれは「エホバ」と読んだのではないかと考えられていたので、文語訳聖書はここを「我らの神エホバは唯一(ただひとり)のエホバなり」と訳しました。しかしその後の研究により、「エホバ」ではなくて「ヤーウェないしヤハウェ」と読んだのだろうと考えられるようになりました。それでは読みにくいので口語訳聖書からはこのお名前を「主」と訳すようになったのです。ですから「唯一の主である」というのは、この神こそが我々の唯一の主人である、ということではありません。この文章を原文の語順に即して訳すと「ヤーウェ、我々の神、ヤーウェ、一人」となります。つまりこの文章には動詞がないので、何かしら補って訳さなければならないのです。補い方によっていろいろな訳が可能で、「我々の神ヤーウェはただ一人のヤーウェである」とも訳せるし、「我々の神はヤーウェである。ヤーウェは一人である」とも訳せます。いずれにしてもこの文章は、私たちの信じる神ヤーウェがただお一人の神であること、主なる神の唯一性を語っているのです。

神との人格的な交わりにおいて
 主なる神が唯一、お一人であることは何を意味するのでしょうか。それは聖書の信仰がいわゆる「一神教」であることを意味していると言うことができます。日本の文化の土台にあるのは、多くの神々がいるとする多神教です。キリスト教を土台とする西洋文明と日本の文明の違いの根本に、一神教か多神教かということがあるとよく言われます。そのことを巡っては様々な誤解や偏見もありますから気をつけなければなりません。先週の主日礼拝の説教においてそのことに少し触れました。しかし大事なのは、この「シェマー」において根本的に見つめられているのは、神はお一人なのか、それとも多くの神々がいるのか、つまり一神教か多神教かという問題ではないということです。出エジプト記の15章11節にこのように歌われています。「主よ、神々の中に/あなたのような方が誰かあるでしょうか。誰か、あなたのように聖において輝き/ほむべき御業によって畏れられ/くすしき御業を行う方があるでしょうか」。ここでは、主なる神以外の神々の存在が否定されているわけではありません。多くの神々の中で主なる神と並べ得る者は一人もいない、と歌われているのです。そこで見つめられている主なる神の「ほむべき御業、くすしき御業」とは、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放して下さったという救いの御業です。特にこの15章で歌われているのは、主が海の水を真っ二つに分けてイスラエルの民を向こう岸に渡して下さり、後から追って入ってきたエジプトの軍勢の上に水が返って全員おぼれ死んでしまった、というみ業です。そのような偉大な救いのみ業をして下さった方は主なる神お一人だ、と歌っているのです。主なる神は唯一であられるという信仰は、主がこのような素晴しい救いのみ業を行なって下さったことに感謝し、その主をこそほめたたえていくことの中で確立したのです。第五章で読んだ十戒の第一の戒めは「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」であり、まさに主を唯一の神として信じ従うことを命じています。その戒めの前提には「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」という主なる神の救いのみ業がありました。イスラエルの民が主なる神を唯一の神と信じるのは、主なる神が彼らをエジプトの奴隷状態から解放して下さったという大いなる愛を、救いの恵みを受けたことへの感謝の応答としてなのです。つまりそれは、神は唯一であるかそれとも多くの神々がいるのかという議論に基づいているのではなくて、主なる神との人格的な交わりに基づいているのです。人格的な交わりとは、呼べば応える、打てば響くという関係です。神は唯一であるという信仰はそのような神との交わりの中でこそから生まれたのです。
 それゆえにここで「聞け」と言われていることの内容は、主は唯一の主であるということだけで終わるのではなく、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と続いていくのです。それは要するに、全身全霊をもって主なる神を愛しなさいということです。主は唯一の主であるという信仰が、主の救いの恵みへの応答であるならば、それは同時にその主なる神を心から愛することでもあるのは当然です。主の救いの恵みに、その愛に、打てば響くように応えて、イスラエルの民も主を、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして愛する、それがここで勧められていることであり、イスラエルの民の信仰の根本がそこにあるのです。

新約聖書の信仰の中心でもある
 この「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という言葉は、申命記の中に繰り返し出て来ます。また次のヨシュア記以降においても、このことを規準としてイスラエルの歴史が見つめられていきます。つまりこの「シェマー」は、申命記のみでなく、旧約聖書全体を貫く、信仰の背骨のような言葉なのです。そしてそれはさらに、新約聖書の信仰の中心でもあります。本日共に読まれた新約聖書の箇所、マタイによる福音書22章34節以下には、主イエスが、「律法の中で、どの戒めが最も重要でしょうか」という問いに対して、この申命記の言葉を引いて「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』これが最も重要な第一の戒めである」と語られたことが示されています。主イエスもまたこの言葉を、律法全体を要約する中心的な教えとして受け継いでおられるのです。それゆえに私たちはこの言葉を、キリストを信じ、教会に連なって生きる私たちへの勧めの言葉として聞くのです。私たちが、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主なる神を愛するのは、その主なる神が、独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さり、主イエスの十字架の死と復活によって私たちの罪を赦し、新しい命を与えて下さったからです。主イエス・キリストにおける神のこの大いなる愛に、打てば響くように応えて、私たちも全身全霊をもってただ一人の神である主を愛して生きるのです。

神との人格的関係を失わないために
 6-8節には、この勧め、教えの言葉を常に心に留めていなさいということが語られています。そのために、これをしるしとして自分の手に結び、額に付け、家の戸口の柱にも門にも書き記しなさいと言われているのです。イスラエルの人々はこのことを文字通りに実行しました。この「シェマー」を始めいくつかの言葉を記した紙を入れた小さな箱を、手に結びつけたり、額に付けたり、家の戸口にその紙を入れた筒のようなものを付けておいて、出入りする度にそれに触れるというふうに、生活の具体的な場面において、体をもってこの教えを覚え続けたのです。モーセは何故このようにしつこいほどにこの教えを覚え続けよと命じているのか、その理由は10節以下に語られています。「あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい」。約束の地に入ることによって彼らは、自分の努力や苦労によってではなく、ただ神の恵みと憐れみによって大いなる祝福を得るのです。ところがそのような恵みに満足することの中で、いつかそれに慣れてしまって、それを与えて下さったただ一人の神である主を忘れて、他の神々、人間の手で造った目に見える偶像に心を向けるようになってしまう、そういうとんでもない忘恩の罪に陥っていき、当然ながら神の怒りを招き、滅ぼされてしまう、ということをモーセは見越しているのです。そして人間がそのようなとんでもない罪に陥ってしまうのは、祝福を与えて下さっている神との間の人格的な交わり、呼べば応える、打てば響く関係が失われてしまうからです。神との交わり、対話、祈りが失われてしまうところでは、神は人間にとって、利用価値のあるモノに過ぎなくなります。そういう神はできるだけ沢山いた方がいいわけで、その都度、一番利用価値のある神を選んで用いようということになるのです。多くの神々がいるという多神教の本質はそこにあります。そこでは神は、人間がとっかえひっかえ利用していくモノとなっているのです。しかし生きておられるまことの神は、ご自分をそのようにモノ扱いすることに対してはお怒りになります。主は熱情の神であるからお怒りになる、と15節にありますがそれは、人格的な神である主はご自分をモノとして扱おうとする者に対して怒りをもって臨まれるということです。神との間の人格的な関係を失い、神をモノ扱いしてしまうことこそが、私たちの陥る最も恐ろしい罪なのです。そうならないために、あの「聞け、イスラエルよ」という教えがあります。私たちはこの教えをしっかり心に留め、私たちの罪の赦しのためにその独り子をも与えて下さるほどに愛して下さっているただ一人の主である神を、私たちも、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして愛する、その神との交わりを築いていきたいのです。

信仰の継承
 この第6章においてさらに注目しておくべきことは、「我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という教えを、7節にあるように、「子供たちにも繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」と命じられていることです。寝ている時にまでというのには驚きますが、それほどに、信仰を、つまり主なる神との人格的な交わり、応答の関係を、子供たちに継承させていくことが大切なこととされているのです。神の民イスラエルは、血筋の継承によって存続していくのではありません。このように信仰が親から子供へと継承されていくことによって、神の民として歩み続けることができるのです。そしてその信仰の継承は、ただ子供たちに、どんな時にも教えを聞かせるということによってのみなされるのではありません。20節以下に語られているように、子供たちが大人になっていく中で、親に、親の信仰の意味を問う、その問いに親がはっきりと答えていくことによってなされていくのです。20節に、子供から親への質問の言葉が記されています。「我々の神、主が命じられたこれらの定めと掟と法は何のためですか」。実はこの文章には、原文においては「我々の神、主が、あなたに命じたこれらの定めと掟と法は何のためですか」というふうに、「あなたに」という言葉があるのです。このことによって示されるのは、子供たちはただ親から押し付けられて信仰を継承するのではない、ということです。子供たちにとって、神の掟、つまり神の言葉、信仰、神との交わりは、自分にではなく、「あなた」つまり他者である親に与えられているものです。自分と親とは別人格なのです。そこに、子供の自立ということが見つめられています。子供が親の信仰を、他者としての目をもって見つめ、その意味を問うのです。その問いに、親は明確に答えていかなければなりません。21節以下には「あなたの子にこう答えなさい」と教えられています。「我々はエジプトでファラオの奴隷であったが、主は力ある御手をもって我々をエジプトから導き出された。主は我々の目の前で、エジプトとファラオとその宮廷全体に対して大きな恐ろしいしるしと奇跡を行い、我々をそこから導き出し、我々の先祖に誓われたこの土地に導き入れ、それを我々に与えられた。主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった。我々が命じられたとおり、我々の神、主の御前で、この戒めをすべて忠実に行うよう注意するならば、我々は報いを受ける」。このように、親が子供の問いに対してはっきりと答えるのです。それは、この言葉を覚えておいてその通り暗唱すればよいということではありません。主なる神が、エジプトで奴隷とされ苦しめられていた我々を、力ある御手によって救い出し、荒れ野の旅路を導いて、この約束の地、乳と蜜の流れる地カナンを与えて下さった、主なる神のその恵みによって我々は今日あるように幸いに生きることが出来る。この幸い、祝福に留まり、それを失わないために、我々は主なる神の愛に応えて、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主を愛し、主との人格的交わりに生きていくのだ、という信仰を、親が自分の言葉ではっきりと語り、告げていくのです。そこに、信仰の継承が起り、子供たちが、信仰を、神との交わりを、「あなた」のこととしてでなく自分自身に与えられている神の恵みとして受け止めていくことが起っていくのです。信仰の継承はそのようにしてこそ実現します。私たちが、主イエス・キリストによって与えられた救いの恵みを、その幸いをはっきりと言い表し、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、主イエス・キリストとその父である神を愛していることを生活において示していくことによってこそ、キリストによる救いの恵みが次の世代の人々に受け継がれていくのです。

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