「手を伸ばしなさい」 伝道師 宍戸ハンナ
・ 旧約聖書: エレミヤ書 第17章14―18節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第3章1-6節
・ 讃美歌:11、393、572
安息日の会堂にて
再び安息日がめぐって来ました。「イエスはまた会堂へお入りになった。」(1節)主イエスは再び会堂へと行かれます。主イエスはこの日も会堂で説教をされたのです。ファリサイ派の人々との間の溝は次第に深まっていましたが、主イエスは彼らの敵意と関わらないでおこうと、礼拝に欠席するようなことはなさいませんでした。主イエスを安息日の主として受け入れる人がいても、いなくても、主イエスは主であり、そのことを会堂においてお示しになるのです。二千年前のこの安息日もいつもと同じように人々は会堂に集まっていました。しかし、そこには明らかにいつもとは違う、張りつめた空気が満ちていました。会堂には主イエスが来られるのを待ち構えている人たちがいたのです。
会堂には「片手の萎えた人がいた」(1節)とあります。礼拝のために集まった多くの人たちの中で、一人の、片手の不自由な人の存在が浮かび上がっております。恐らく、この人はいつもは誰からも注目されず、会堂の片隅で、ひっそりと礼拝を守っていたのでしょう。しかしこの日は、人々の好奇に満ちた視線の中に、さらし者にされているのです。「人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた」(2節)とあります。当時のユダヤ人たちは安息日律法というものを重んじ、厳格に守っておりました。安息日律法とは、モーセの十戒の第四の戒め、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(出エジプト第20章8節)という戒めです。
安息とは
「安息」という言葉の意味は、ただのんびりとリクレーションでもして過ごすことではありません。「安息する」とは、「断ち切る」とか、「中断する」という意味です。どんな仕事をしているときでも、それを「断ち切り」、「中断して」、神の前に出ることです。この日には文字通り、一切の労働は、例えばお料理を作ることも、家の掃除も、皆仕事と見なされ、禁じられました。外出も、何歩までと決められていました。本日の箇所で主イエスは、安息日に人を癒すことは、善いことか、と問い掛けておられます。ですが、「治療」という行為は仕事ですから、安息日律法に触れます。当時の解釈では、命に別条がないなら、翌日まで待て、というものでした。要するに、この世の一切の重荷や仕事から解放され、神を礼拝し、真の安息を得なさい、と命じられていたのです。ユダヤ人はこの安息日律法を文字通り、と言うよりも、字面通りに、忠実に守りました。殊にファリサイ派の人々がそうでした。安息日律法は、十戒の中でも特に、守ったかどうかが一目瞭然ですから、厳格に守られておりました。そこに天国に入れるかどうかが掛かっているわけですから、命懸けで守ったのです。例えば、安息日に敵の軍隊が攻めてきても、安息日だから戦いません。実際、紀元前二世紀のマカベア戦争の時、これをよく知っていた敵の国シリアが攻めてきて、ユダヤの一つの町の老若男女、全員を皆殺しにしたという事件があります。この事件は余りにも悲惨でしたので、後に解釈が変わり、安息日であっても、敵が攻めてきた場合には戦うことが許されることになりました。また、こういう例もあります。安息日にはいかなる仕事も禁じられているから、ものを運ぶことはもちろん駄目です。では、ハンカチを持って歩いてもよいのか。これも持ち運びに当たりますから、駄目です。ただし、腕に巻いて歩くのならファッションの一部として許される、といった理屈まで、真面目に考えられたのです。このように安息日の掟によれば、一切の業、働き、仕事が禁じられていました。病の癒しもまた、命に関わるような緊急の場合を除いて禁じられていました。ファリサイ派の人々はこのような安息日の掟を盾に、主イエスの律法の違反の動かぬ証拠をつかもうと、そして主イエスを責めようとしておりました。何とかして、主イエスを訴える口実を得ようとしていたのです。そのように会堂で待ち構えておりましたので、張り詰めた空気、緊張感がそこには満ちておりました。また、ファリサイ派の人ほどそれほど悪意がない人にしても、イエスがどうされるのかを好奇心で見守っています。
主イエスの問いかけ
主イエスは会堂に入られすぐに、その張りつめた空気に気づかれました。人々の好奇の目にさらされているこの「手の萎えた人」に声をおかけになりました。「真ん中に立ちなさい」(3節)。そして、注目している人々に向かって、問いかけられました。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」(4節)。これは考えてみると、少し奇妙な問いです。答えは明らかです。まさか、「悪を行うことが許されている」と言う人はいないでしょうし、「殺すことが求められている」などと答える人もいないと思います。安息日であろうがなかろうが、神が私たちに求めておられるのは、善を行い、命を救うことであるはずです。ましてや、神との親しい交わりに生きる安息日に、悪を行うこと、殺すことが求められているなどと考える人はいないはずです。主イエスは、あえてその分かり切った問いを突きつけました。そのことによって、邪悪な思いに捕らわれ、安息日の祝福に目を閉ざしている人たちに、神の御心に立ち帰ることを求められました。しかし、人々は黙っていました。なぜでしょうか。それは、主イエスの当たり前の問いの前に、素直に立つことができないからです。自分たちの宗教的な権威を誇りとし、逆らう力をねじ伏せようとする歪んだ思いに捕らえられているからです。だから、自分たちのたくらみを見抜いているような主イエスの問いに、答えることができないのです。
主イエスの問いかけは、実に単純です。初めから答えが分かっているような問いです。しかし、だからこそ、答える者を新たな問いの前に立たせずにはおかない、率直な問いです。もしも、私たちが二千年前の会堂に身を置いて、主イエスの問いの前に立たされたなら、何と答えるでしょうか。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか。悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」。 「主よ、それは、善を行うことであり、また命を救うことです」。するとすぐに、「善を行う」とはどういうことか、「命を救う」とはどういうことか、という問いに導かれるのです。主イエスの問いは単純であるだけに、片手の萎えた人を安息日にいやすということが、善いことか悪いことか、許されるか否か、という目の前の問いをも超えて、さらに深い次元で、神との関わりそのものを問いかけてくるのです。
善を行う
「善を行う」とはどのようなことを指すのでしょうか。そもそも「善」とは何でしょうか。マルコによる福音書全体の中で「善」と訳されているもとの言葉が用いられるのはあと一箇所しかありません。それは、ある金持ちの青年が、主イエスのもとを訪れて、永遠の命を受け継ぐ道を尋ねている場面です。「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。』イエスは言われた。『なぜ、わたしを「善い」というのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない』」(第10章17―18節)。
ここで「善い」と訳されているのが、「善を行う」というときの「善」と同じ言葉です。さらに、「善い」という言葉に対して「悪」について考えるならば、やはり主イエスの言葉を思い起こします。清さについての問答の中で、主は「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来る」と言われました(7章21節)。主イエスが何を善と見なし、悪がどこから来ると見ておられるかを知るとき、主イエスの問いの深さが見えてきます。「善を行う」というのは、ただ単純に、倫理的に、道徳的に善い行いをするということではありません。むしろ、この問いかけはただ独りのまことに善い方である神の御前に立つことから始まるのです。そしてそれこそが、ほかならぬ安息日に、礼拝において求められていることです。人の心から出て来る悪い思い、すなわち罪に支配されることなく、ただ独りの善い方である神の支配の下に立つ。それが礼拝の基本です。主イエスは今、そのような生き方を求めておられるのではないでしょうか。人の心に忍び込む、他者を妬み、陥れようとする邪悪な思いから解き放たれて、神の御前に立つことが求められているのです。
命を救うこと
もう一つの問いが、さらに礼拝の急所に触れてきます。「命を救うことか、殺すことか」。これも単純に「命を救うことが正しい」と答えただけでは意味がありません。「命」と訳されているのは、「プシュケー」という言葉です。非常に意味の深い言葉で、「心」とか「魂」と訳されることもあります。マルコはこの言葉をとても大切に用いているのです。日本語の翻訳において「命」と訳されているところを見てみます。主は言われるのです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(8章32節以下)「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(10章45節)
主イエスの教えの中で、「命を救う」ことは、「命を失う」こと、「命を献げる」ことと結びついています。「命を救う」ことを選び取るとき、主イエスの中ではいつも、「命を失う」決断があるということです。自分の命を捨てることによって命を救おうとする、命に対する主の深い思いが現れています。このことはまた「殺す」という言葉との対比によって、さらに明らかになります。この福音書の中に、「殺す」と訳されている言葉が何度か出て来ます。その主なものを拾ってみるだけでも、言葉の重みが分かります(8章21節、9章31節、10章33節以下)。いずれも、主イエスが十字架に引き渡され、殺されることの予告なのです。福音書の中で、「殺す」という言葉は、ほかの誰でもない、主イエスを十字架の上で命をささげられた、ということ結びついているのです。
十字架の前に
「命を救うことか、殺すことか」。というこの問いは、私たちを十字架に直面させます。主イエス・キリストは、私たちの罪を贖い、私たちの命を救うために、ご自分の命を捨てられました。そして、その同じところに、主イエスを十字架につけて殺す、という人間の最も深い罪が現れているのです。この事実の前におそれおののきながら、ただ独りの善い方、神のご支配のもとに立つこと。それこそが、安息日にふさわしいことであり、礼拝の中で、私たちに求められていることなのです。
主イエスの問いを受けても、人々は黙っていました。
「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた」(5節)。主イエスがお怒りになり、主イエスが悲しまれる。それは実に激しい言葉です。主イエスの感情の動きをこれほど率直に記すのは、珍しいことであります。ある人たちは、ここでの主イエスの怒りを、このように説明します。「主イエスが怒っているのは、人々が、片手の萎えた人、弱い立場に置かれた者と一緒に立とうとしないからだ。主イエスは、差別に苦しんでいる人に共感しつつ、その人を苦しめている者たちやそのような差別を生み出す社会構造に対して怒っておられるのだ」。そういう意味が含まれているかもしれません。しかし、主イエスがあの問いにおいて問題にされたのは、何よりも、ただ独りの神の前に真実に立つことです。私たちはこの神との関係が破れるとき、隣人との関係も歪んでしまうのです。主イエスの怒りは、礼拝の中での怒りです。神を礼拝するために集められておりながら、神をないがしろにしていることへの怒りなのです。礼拝のために集められ、礼拝の中に身を置いているにもかかわらず、礼拝に生きていないのです。礼拝の対象であるべき方の前から身を逸らして、自分自身の立場を守ろうとしているのです。自分の思いに固執し執着するがゆえに、神の御前にあることを忘れ、苦しむ隣人を平気で利用しようしとさえする。罪に支配されたかたくなな心を、主イエスは悲しんでおられるのです。
権威ある命令
人々は、主イエスを見ておりながら、実際には、主イエスの本当の姿が見えてはいませんでした。かたくなな心の前には、驚くべきいやしの業さえも、何のしるしにもなりません。主イエスが誰であるかを正しく受けとめることもできず、人々はかえって、主イエスを殺す相談を始めるのです。実に暗い終わり方です。十字架への道を暗示しています。しかし、それにもかかわらず、私たちは、ここにも明るい光が差しているのを見ることができます。それは、主イエスと片手の萎えた人の出会いから生まれる光です。主イエスはその人と向き合って、「あなたの手を治してあげよう」とはおっしゃいませんでした。ただ「手を伸ばしなさい」と言われたのです。それは、権威ある命令です。本当に治るのか、という疑いや迷いを差し挟む余地もないような、権威ある言葉です。この言葉に従うことによって、いやしが起こるのです。この人は何の言い訳もしていません。「伸ばしなさいと言われても、伸びないのです」。そんな文句を言ったわけではない。やり取りは実に単純です。「手を伸ばしなさい」と主が言われた。言われたとおりに伸ばすと、手は元通りになった。片手の萎えたこの人はしっかりと主イエスの前に立っております。それは主イエスの存在の前に、主イエスの御言葉に立ち、主イエスに従ったということです。
主イエスは、自分の正しさを主張し、それに依り頼もうとする頑なさから私たちを救うために、この世に来られました。それは、私たちが自分の正しさではなく、自分の正しさによっては神の御前に出ることの出来ない私たちを、主イエスの正しさによって罪を赦されました。安息日にはすべてのこの世の重荷を下ろして、神からの祝福と安らぎを頂くことが出来るためです。元々、安息日はそのためにあったのです。主はその安息日の意義を回復するために、この世に来られたのです。
善き創造
安息日とは、神が創造の初めにすべてのものを「はなはだ善く」お造りになり、その善き創造に与るために第7日を聖別して私たちを集めてくださった日です。出エジプト記20章を読むと、そこには、安息日はただあなたのためだけではない、あなたも、あなたの息子、娘も、男女の奴隷も、家畜も、みんな仕事を休みなさい、と書いてあります(10節)。あなたが安息することによって、その労働力としてこき使われている奴隷だとか家畜だとかが差別されずに、皆が神の御前に安息を得るためです。そして、申命記5章になりますと、あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主があなたを導き出されたことを思い起こさなければならない、そのための安息日である、と書いてあります(15節)。神による罪からの救いを覚える日です。更にレビ記25章になりますと、いわゆるヨベルの年の規定があるのです。7を7倍した49年の次の、第50年目は土地にも安息を与え、一年間はすべての畑を休耕する。そうすることによって、神が創造された大地の肥沃な力が回復され、天地創造の時のあの「はなはだ良い」と言われた被造物本来の姿が回復される年です。そのようにして、新しい天と新しい地が来ることが覚えられる年です。
主は神の形に造られたわたしどもが、自分の正しさや自分の義によって命を得ようとして、結局罪の奴隷、律法の奴隷となっているところからお救いになるために、この地上に来られました。そして、私たちが頑なに自分の正しさや自分の義によって救われるのではなく、主イエスの正しさ、主イエスの義によって救われ、まことの命と平安を得るようにして下さったのです。 主イエスは人々の頑なな心を嘆かれました。そして、片手の萎えた人に一言、「手を伸ばしなさい」とおっしゃいました。すると、「手は元どおりになった」のです。これは安息日の本来の意義が、彼らの目の前で回復したということです。この安息の日、それはキリストが死から甦られた日を記念して、日曜日となっています。この日、わたしどもはすべての重荷を下ろして主を喜び、救いを喜ぶことが許されています。人間の本来の姿が回復されます。罪と自己中心に生きようとする力から解放され、新しい、自由な存在として、神を愛し、隣人を愛することが出来るようになるのです。そうしてくださるお方が世に来られたのです。
手を伸ばしなさい
主の日の礼拝に招かれ、礼拝の中に身を置くとき、私たちは、ただ独りの善い方、神の御前に立たせられます。そのときでさえ、なおも私たちの中に、自分を正当化しようとする「かたくなな心」があるかもしれません。望みを失い、枯れてしまったような「萎えた心」を抱えているかもしれません。礼拝堂の片隅に隠れていたいような惨めさを恥じ入る思いが宿っているかもしれません。しかし、主イエスはそのような私たちに目を留めて、私たちを真ん中に立たせてくださいます。御自身の救いの御業の正面に私たちを据えてくださるのです。主イエスは私たちの命を救うために、命を献げてくださったお方です。私たちの罪を贖い、私たちを神のものとして取り戻してくださった主イエスが、私たちを復活の光の中に照らし出してくださいます。そして、恐れることなく、手を伸ばすようにとお命じになる。主イエスは私たちに恵みに向かって、命に向かって、いやしに向かって、手を伸ばすようにと招いて下さっているのです。