夕礼拝

お赦しになる天の父

「お赦しになる天の父」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第34編1-23節 
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第6章14-15節
・ 讃美歌 : 520、443 

最後に
 マタイによる福音書第6章にあります「主の祈り」の御言葉を聞いてきました。主の祈りはルカによる福音書の11章にもありますが、私たちが日頃祈っている形のもとになっているのはマタイ福音書のものです。前半三つ後半三つの計六つの祈りによる形はマタイによる福音書の言葉です。その六つの祈りを一つずつ聞いてきました。前回、第六の祈りが終わりました。そして、これに、本日の箇所の14、15節を付け加えられました。これはルカによる福音書の伝えている祈りとは違っています。ルカによる福音書では主の祈りのあとに、「いかに熱心に求めるべきか」ということが記されております。しかし、マタイによる福音書では「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(14、15節)ということが記されています。本日の箇所の内容は12節にある第5の祈り、お読みしますが「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を 赦しましたように。」(12節)とほとんど同じであります。本日の箇所も第5の祈りの中に入れて説明してしまうことも多いのですが、本日の箇所が第5の願いとほとんど同じであったとしても、本日の箇所が記されていることは、ただの繰り返しということではありません。本日の箇所は「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」とあります。2度繰り返しているということは、この事柄が決して軽い事柄ではないということを示しているのです。私たちは、このことが記されていることを重んじて、深くその意味をとらえる必要があると思います。

山上の説教の中心に
 主の祈りの前後を少し広く見てみましょう。6章の5節から18節までには施し、祈り、断食の3つのことが書いてあります。この当時のユダヤ教の立場から言えば、この施し、祈り、そして断食がとても重要な位置を占めていました。この3つの事柄を行うことよって神の愛を実現させる、具体化させるとされていました。しかし、これらの施し、祈り、断食が形式化され、形骸化され、神の愛をもたらす力を失っていたのです。主イエスは、この3つのものを生かす道を教えられました。主イエスの教えによって、主イエスの導きによって、まことの神の愛を実現させる道が示されました。主の祈りは、主イエスの「山上の説教」の中にあります。「山上の説教」とはマタイ福音書の5~7章にあり、主イエスが山に登られ、そこで語られたとされているお言葉です。この山上の説教は、主イエスの色々な教えをただ集めて並べたというものではなく、その最初の部分と最後の部分が対応しております。それが一番外側の枠を作っており、そして最初の部分の次の部分と、最後の部分の前の部分とがやはり対応しています。そのように、外側から幾重にも枠が作られているのです。そして一番中心にあるのが主の祈りなのです。つまり主の祈りは、山上の説教の中心に位置づけられているということです。山上の説教は、「幸いの教え」から始まり、主イエスが「このような人は幸いだ」と告げて下さった御言葉です。山上の説教はこのように「幸いの宣言」から始まっています。その幸いとは、私たちが普通に考える「幸福」とは違うものでした。最初の教えである「心の貧しい人々は幸いである」というのをとりあげるならば、「心の貧しい」とは、自分の中に、自分の心に、寄り頼むに足る、誇るに足る何物をも持っていない、ということです。私たちは自分の内に様々な意味での力や財産を持ち、それを用いてよい実りや成果をあげることができ、それに満足することができ、喜ぶことができることを私たちは幸福と呼び、それができる人を幸いな人であると思います。しかし、主イエスが「幸いである」と宣言されたのは、そういうものを全く持たない「貧しい」人です。なぜでしょうか。それは「天の国はその人たちのものである」からです。天の国とは神様のご支配です。神様が支配して下さる、その全能の力によって養い、支え、守り、祝福して下さる、自分の中にある何かではなく、この神様の恵みのご支配に寄り頼んでいく、そこに本当の幸いがあると主イエスは宣言して下さったのです。

神の御前で
 主イエスは山上の説教によって、施し、祈り、断食が形式化されてしまうことを非難されました。マタイによる福音書の6章に入ると、偽善への警告が語られていきます。偽善とは、「見てもらおうとして、人の前で」よい行いをすることです。自分のよい行いを人に見てもらい、人から評価、賞賛されることを求めてしまいます。自分の正しさを人との比較において確認をしてしまうのです。人との比較のなかで自分の方が正しいと思うと安心するのです。けれども主イエスは「隠れたことを見ておられる父」の前で行いなさい、と言われました。人の目、人からの評価ではなく、父なる神様に向けよということを言われました。祈りこそ、天の父なる神様に目を向け、神様の前で生きることです。
 また、祈りについて教えられていることは「異邦人のようにくどくどと祈るな」ということです。単に祈りの長さの問題ではなく、どのような神様に祈るのかということです。主イエスは、祈る対象をあなたがたは天の父なる神様に祈るのだと教えて下さいました。その天の父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じである天の父なのです。私たちは、疎遠な神、何か得体の知れない対象に祈るのではなく、私たちが祈る相手は天の父です。天の父、即ち神は私たちを愛していて下さり、願わなくても、私たちに本当に必要なものを、必要な時に与えて下さるお方です。私たちはこの天の父なる神様の子供とされているのです。この恵みは神の独り子主イエス・キリストによって与えられました。神様に向かって「天の父よ」と祈ることができるのは、本当は主イエスただ一人です。しかしその主イエスが、私たちに、「あなたがたもこう祈りなさい」と言って、主の祈りを教えて下さいました。そこにおいて「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけることを命じ、また許して下さいました。この主イエスの恵みによって私たちは、天の父なる神様の子として生きることができるようになったのです。その恵みの印として、またその恵みの中に私たちが生き続けるために与えられたのが主の祈りです。「天にましますわれらの父よ」と呼びかけるこの祈りを祈りつつ歩むことによって私たちは、神様が主イエスによって私たちを子として下さった、その恵みを確認していくのです。そしてそれこそが、私たちに与えられている幸いです。心の貧しい人々が幸いであるのは、自分の内に何の条件も、誇るべきものも持っていない者が、主イエス・キリストにおける神様の恵みによって、神の子とされ、その養いと導きの下で生きることを許されているからです。それは、主の祈りを祈りつつ生きることができる幸いなのです。

信仰生活の中心
 山上の説教の中心に主の祈りがあるということは、私たちの信仰の中心に主の祈りがあるということです。主の祈りを祈ることが、私たちの信仰の中心あるということです。主イエス・キリストを信じる信仰に生きるとは、主の祈りを祈りつつ生きることです。主の祈りは山上の説教全体の中心にあるように、私たちの信仰生活の中心なのです。主の祈りを祈ることは、私たちが、主イエス・キリストの恵みによって私たちの天の父となって下さった神様に、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけ、「御名があがめられますように」と祈るということです。山上の説教は、私たちの信仰者としての生活、生き方を非常に具体的に教えています。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」という教えもそうです。「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」という教えもそうです。これらは非常に具体的な生活上の教えであります。山上の説教は具体的に私たちの生き方を教えます。そういう生き方、生活の背後に、主の祈りがあるのです。主の祈りを祈りつつ生きるところに、山上の説教に教えられているような生き方、生活が生み出されてくるのです。私たちの天の父となって下さった神様に呼びかけ、その神様の御名を崇め、御国が来るように、御心が行われるように祈っていくことの中から、そのような生き方、生活が生まれてくるのです。主の祈りを祈りつつ生きる者の生き方が教えられています。主の祈りにおける、天の父なる神様との交わり、神様の子として、神様に必要な糧を与えていただき、罪を赦していただき、誘惑から守っていただく、という関係なしには山上の説教の教えは本当に私たちの生活となることはないのです。

神に赦される
 そして、祈りをまとめるように「赦し」について繰り返し教えられています。赦しとはここでは、神による赦しのことです。そして、人が互いに赦し合うということを言っております。神の赦しとは、イエス・キリストの十字架の救いのことです。第五の祈り「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」の繰り返しであり、言い換えです。この第五の祈りだけがこのように繰り返され、言い直されています。主の祈りを祈りつつ、それを祈っている者として生きていく、そこに、主イエスを信じる信仰者としての生活が生まれます。主の祈りを祈っている者として生きるという時に、人の罪、過ちを赦すことと、自分の罪、過ちを天の父なる神様に赦していただくこととの関係についてのこの言葉は特別に重要な位置を持つのです。私たち人間は誰もが神様に赦していただかなければならない罪人です。その自分の罪の赦しを願い求めることは、自分も人の罪を赦すということなしにはあり得ないのです。このことが繰り返し強調されていることによって、主の祈りが私たちの生活と関係が深いものとなるのです。主の祈りとは私たちの信仰生活の全ての事柄を言い尽くしている完全な祈りです。しかし、完全な祈りだからと言って、それだけでこの祈りが生きた効果のある祈りになるということではありません。そこには、私たちが神に祈るときに最も基本的なことがなければなりません。それは、人間がどうしたら本当に祈ることができるのかと言うことです。神に求めたい、神に祈りたいという気持ちはあるかもしれません。しかし、人間には、自分に罪があります。祈る時には、祈るからには、その祈りが聞かれるという確信がなければ祈ることはできません。しかし、私たちの側には何の確信もありません。神様の前にある自信もありません。神様に背き、罪にまみれている者がどうして、神様の前にでることができるでしょうか。神にこの祈りを聞いてもらえるという確信を持つことができるのでしょうか。神様に近づくことを拒む罪が除かれ、神がこの祈りを聞いてくださる、という確信を持つことができるようになるのです。それにはどうしたらよいのでしょうか。自分の罪を解決するとはどういうことでしょうか。それは罪を赦していただくということです。罪を解決する、罪を取り除くということは誰もが望むことでありますが、困難なことです。罪とは神様に対する責任であります。だから私たちは罪を赦していただかなければなりません。主イエス・キリストが十字架にかかられることによって、人間の罪が赦されたのです。祈る時には、最後に「キリストの名によって」と祈ります。イエス・キリストによって、キリストの名によって、人間の罪が赦され、そのゆえに、キリストの名によって祈るのです。それはイエス・キリストにおいて示された赦しによって祈るということです。私たちは既にイエス・キリストの十字架によって罪を赦されているのです。赦しを受けた者として安心して祈ることができるのです。赦しを与えられるほどに、神に愛されているのです。神の愛によって赦しを与えられ、神の恵みを知り、神に愛されていることを確信し、この祈りも聞かれると信じることができるのです。主の祈りの第5の祈りでは、自分たちの負い目、罪を赦してください、と祈っています。しかし、ここではただ同じことを繰り返しているのではなくて、更に念を押すように、15節では「もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」とあります。14節「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。」私たちはこの赦しということの重要さをなかなか理解することは出来ません。赦しを求める祈りをするということは、神と和解をするということです。神の赦しを知るということは、神の御国に入れられるということです。神に赦されるということ、神の国ということは別の次元のことではないのです。神の御国とは、神の国すなわち主イエス・キリストのご支配なさる。そのご支配の中に入るということです。主イエス・キリストの支配の中に入れられるとは、神に赦されて生きるということになるのです。神の国とは、イエス・キリストの十字架と復活によることです。神の国とは神が支配され、人間がその支配の中に入られるのであれば、そこでは神が神として崇められます。神の赦しを受けることとは、神の救いを受けることです。私たちのために神の赦しが独り子の十字架の出来事を通して示されました。主の祈りの最後でこのように、「赦し」について繰り返されているのは、赦しについて強調するためであります。ひたすら、ここで赦しについて、赦しの大切さについて語ろうとしています。

赦された者が
 赦しを受けたものが赦しを行なえるのです。赦すから、赦してくださいと条件を言っているのではありません。赦されているから、赦すのです。赦すということは簡単なことではありません。私たちの地上の歩みはそのようなことの連続です。しかし、神によって赦しを受けた者たちの共同体、すなわち教会において祈られる祈りです。主イエス・キリストの十字架と復活の恵みによって罪を赦されて新しくされ、生かされている者の祈りです。私たちは主イエスが十字架にかかって死んで下さったことによって私たちの罪を赦して下されました。それゆえに、この祈りは私たちも人の罪を赦す者であれと求めておられる神様の御心であります。それゆえにこの主の祈りが祈られることはとても大切なのです。

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