主日礼拝

枯れた骨の復活

「枯れた骨の復活」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: エゼキエル書 第37章1-14節 
・ 新約聖書: ヨハネによる福音書 第3章1-9節
・ 讃美歌:58、493、348

枯れた骨の谷
 今日は皆さんとご一緒に、旧約聖書エゼキエル書第37章を読み、味わいたいと思います。ここには、エゼキエルという人が神様に導かれて見た幻が語られています。彼はある谷へと導かれました。その谷は骨で満ちていました。全て人間の骨です。おびただしい人骨がそこらじゅうにころがっているのです。それらの骨は甚だしく枯れていた、とあります。「枯れている」とはカラカラに乾燥して干涸びているということですが、それは単に水分がないということではなくて、命の痕跡がどこにもないということです。かつてはこれらの骨も、肉を帯び、筋がそれを繋ぎ、そこには血が流れ、瑞々しい皮膚がそれを覆っている命ある人間だったのです。しかしその命は失われ、もはや動くことも見ることも語ることも、愛することもない、命の営みの一切が失われた抜け殻、それが枯れた骨です。
 これらの骨は、年老いて、あるいは病気で、自然に死んだ人々のものではありません。この人々は天寿を全うして死んだのではないのです。9節に、「これらの殺されたもの」とあります。彼らは殺されたのです。まだまだ生きることができるはずだったのに、生きたかったのに、命を奪われたのです。つまりこの谷で、多くの人々が虐殺されたのです。あそこにもここにもころがっている頭蓋骨の、もはや見ることのない目が、目があった跡のうつろな穴が、彼らの苦しみ、無念さ、絶望を訴えつつこちらを見つめています。これらの骨の間をヒューヒューと吹き抜ける風の音が、彼らの悲痛な叫びのようです。この谷はまさに、虐殺された人間たちの絶望に覆い尽くされているのです。

我々の骨は枯れた
 私たちはこのような光景を思い浮かべる時、例えばナチスによる600万とも言われるユダヤ人虐殺や、カンボジアのポル・ポト政権の下での虐殺、あるいは日本軍による中国や朝鮮における残虐行為、広島、長崎の原爆など、人類の歴史の中で繰り返されてきた虐殺行為のことを考えるかもしれません。しかしこれらの枯れた骨の群れは、過去の歴史の中で虐殺の被害者となった人々のことを指しているのではないのです。エゼキエルはこの幻を見た時、昔こんな残酷なことが行われた、こんなことが二度と繰り返されないようにしなければ、と思ったのではありませんでした。主なる神様はエゼキエルに、これらの骨は、今生きている人々、エゼキエル自身がその一員であるところのイスラエルの民の姿なのだとお告げになったのです。そのことが11節に語られています。「主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と」」。イスラエルの民は今、「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と言っているのです。預言者エゼキエルの時代、イスラエルは、バビロニア帝国によって国を滅ぼされ、多くの人々がバビロンに捕え移されていました。自分たちの国を失い、敵の国に捕虜として連れて来られてそこで苦しい屈辱的な生活を強いられている、いわゆる「バビロン捕囚」の時代です。エゼキエル自身も、捕囚としてバビロンに連れて来られているのです。そういう苦しみ、民族としての存続の危機の中で、「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と嘆かずにはいられない現実を彼らは体験しているのです。枯れた骨に満ちたこの谷の有り様は、昔の悲惨な出来事ではなくて、まさに今の自分たちの現実なのです。

魂の憂いは骨を枯らす
 それはエゼキエルの時代のイスラエルの民だけの話でしょうか。私たちはこの枯れた骨に満ちた谷の幻を、歴史上の悲惨な虐殺事件を振り返り、そのようなことが二度と繰り返されないようにとの願い、決意を新たにする機会とするだけで済むのでしょうか。枯れた骨に満ちたこの谷は、私たち自身の現実、今の私たちの姿をも描き出しているのではないでしょうか。私たちは国を滅ぼされて他国に連れ去られているわけではありません。しかし私たちのこの社会のあちこちで崩壊が始まっており、存亡の危機に瀕していることを私たちは感じているのではないでしょうか。セーフティーネットの崩壊という言葉を聞くことが多くなりました。新自由主義というと聞こえはいいが要するに弱肉強食の世の中となり、欲望がどこまでもふくれあがっていく一方で、貧富の差、格差が拡大し、社会的弱者が支えられることなく放置され、絶望と怒りが社会に満ち、自暴自棄に走る人々が増えています。それが他者に向かえば「誰でもいいから殺したかった」という無差別殺人になるし、自分に向かえば自殺となります。私たちの社会における人と人とのつながり、支え合いはこれからどうなっていくのか、明るい展望が見えないという思いを私たちは持っています。また私たち一人一人の生活においても、先行きへの不安がいろいろあります。目前の経済的不安に脅かされている人もどんどん増えているし、超高齢化社会となっていく中で、自分の老いをどう迎えるか、家族の介護をどうするかという不安を抱いている人も多い。昔から病と死とは人間を脅かす恐怖であり苦しみでしたが、今はそれに加えて、死ぬまでどうやって生きていったらよいのか、という不安が私たちを苦しめているのです。また社会が複雑化し、価値観が多様化する中で、昔からあった秩序は崩壊し、流動的になっています。その中で、人間関係の破れ、家庭の崩壊という苦しみを味わっている人も増えています。私たちは今まさに、「骨が枯れる」ような思いをしながら生きているのではないでしょうか。旧約聖書、箴言の17章22節に、「喜びを抱く心はからだを養うが、霊が沈みこんでいると骨まで枯れる」とあります。後半の部分は、以前の口語訳聖書では、「たましいの憂いは骨を枯らす」となっていました。まさに私たちは、骨を枯らすような魂の憂いを覚えつつ日々を生きているのではないでしょうか。「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」というイスラエルの民の嘆きは、私たちの嘆きでもあるのです。

神からの問いかけ
 神様がエゼキエルをこの枯れた骨の谷に導いたのは、彼に一つの問いを投げかけるためでした。3節に、「そのとき、主はわたしに言われた。『人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか』」とあります。「これらの骨は生き返ることができるか」、命の痕跡が全く失われた、干涸びた骨の山が、もう一度生き返り、瑞々しい命を再び得ることができるのか、絶望に覆われているこの谷に、人々が生きて活動し、喜び、愛し、語り合う声が再び響くことはあり得るのか、エゼキエルは神様からそういう問いかけを受けたのです。枯れた骨の谷が私たち自身の現実でもあることを見つめる時、同じ問いかけが神様から私たちに投げかけられていることを知らされます。私たちはその問いにどう答えるのでしょうか。「そんなことはあるはずがない、無理だ、死んだ者は生き返らない、枯れた骨が再び命を得ることなどあり得ない」、これが、私たちの知識、常識、経験から導き出される答えです。骨は、その人が死んでしまったことの動かぬ証拠であり、そして、私たちはもはやその事実をどうすることもできない、という私たちの無力さを物語るものでもあります。神様からの問いかけに対して私たちは、「これらの骨は生き返ることができません」と答えるしかないのです。

あなたのみがご存じです
 けれども、神様からの問いかけに対するエゼキエルの答えは、それとは違っていました。彼は、「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と答えたのです。これは大変含蓄のある、また広がりを持った言葉です。「神様のみがご存知です」というのは、一つには、私には分かりません、ということです。私だけでなく、人間には誰も分からない、神様にしか分からない、ということです。英語でもGod knows.「神様が知っている」というのは、「そんなこと誰にも分かるはずがないだろう」という意味です。「神のみぞ知る」という日本語の言葉も同じ意味です。「神様のみがご存知です」というエゼキエルの答えは、「そんなことは私には分かりません」と言っているのです。しかしこの答えは「そんなことはあり得ません、不可能です」と言ってはいません。神様のみがご存じですというのは、枯れた骨が生き返ることができるか否かは神様次第です、ということでもあるのです。神様さえそう意志なさるならば、枯れた骨が復活することも起り得る、そういう神様の力への信頼が語られていると言うこともできます。つまりこの言葉はエゼキエルの信仰の告白であると言うこともできるのです。エゼキエルはここで、「これらの骨は生き返ることができるか」という神様の問いかけに対して、「それはわたしには分かりません、私の知識や常識では、そんなことが起り得るとは思えません、でも、神様あなたがそのように決意なさるならば、そういうことも実現します」、と答えたのです。人間が神様の前で本当に謙遜になるというのはこのような思いを持つことなのではないでしょうか。そしてこれこそが、神様を信じることなのです。
 エゼキエルがこのような思いを持つことができたのは、彼が神様に対して「あなた」と語りかけることができたことによってです。先ほど、「神のみぞ知る」というのは、そんなことは誰にも分からない、という意味だと申しました。「神のみぞ知る」というのは神様を信じていない人の言葉です。それは「成り行きに任せる他ない」という意味でしかないのです。エゼキエルは、「神のみぞ知る」と言ったのではありませんでした。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と言ったのです。この違いは決定的です。「神のみぞ知る」においては、神様のことが第三者的に、三人称で呼ばれています。神様を三人称で呼んでいる間は、私たちは神様を信じることはできないし、信頼することもできません。信仰とは、神様と私の間に「あなた」という二人称で呼び合う関係が生まれることです。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」という答えの最も大事なポイントはそこにあるのです。神様との間に、「あなた」と呼びかける関係が生まれるなら、「あなたのみがご存じです」という言葉は、神様の力への信頼の言葉、つまり信仰の告白となるのです。
 それではエゼキエルはなぜ神様に「あなた」と語りかけることができたのでしょうか。それは、神様の方から先に彼に語りかけて下さったからです。彼は枯れた骨の谷に導かれ、「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」という神様の問いかけを受けたのです。この問いかけは、他の誰でもない、エゼキエルに向けられたものです。だから彼は、「あなたのみがご存じです」と答えることができたのです。しかし神様の問いかけは「エゼキエルよ」ではなくて「人の子よ」となっています。それは、私たちがそこに自分自身の名を置いて読むことができるためです。神様は私たちにも今語りかけ、問いかけておられるのです。このことを信じて、私たちも神様に向かって「あなた」と呼びかけ、問いかけに応答していくならば、私たちと神様との間に、「私とあなた」という関係が生まれるのです。それが、信仰を得るということなのです。

預言
 「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と答えたエゼキエルに神様は「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい」とおっしゃいました。預言するとは、これから起ることを言い当てることではありません。神様のみ言葉を語り、宣言することです。エゼキエルは、枯れた骨の群れに向って、「おまえたちは生き返る」という神様のみ言葉を語るように命じられたのです。彼の言葉を聞いている者など一人もいない、枯れた骨だけがころがっているこの谷に、エゼキエルの声が響きます。それは、虚空に向って語りかけるような、まことに虚しいことのように思われます。けれども、彼がその虚しさに耐えてみ言葉を語っていると、死の沈黙に支配されていたはずのこの谷に、新しいことが起っていったのです。枯れ果てて横たわっていた骨がカタカタと音を立てて動き始めたのです。骨と骨とが寄り集まり、そこに筋と肉が生じ、皮膚がそれを覆い、人間の姿になっていったのです。枯れた骨の群れはこうして、人間の群れとなりました。「しかしその中に霊はなかった」と8節にあります。つまりこの人間の群れはまだ復活してはいないのです。神様はもう一度エゼキエルに、預言せよ、とお命じになります。今度は、「霊」に向かってこのように語ることを彼は求められたのです。9節、「霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る」。彼がそのように語ると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立ち、非常に大きな集団となったのです。神様が天地創造のみ業において、土の塵で人間の体を造り、そこに命の息を吹き込んで生きたものとして下さったの同じことがこの幻において行われたのです。

神による救い
 この幻は、バビロン捕囚の苦しみの中で、「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と言っているイスラエルの民に神様が与えて下さる救いを描いています。神様が彼らを捕囚の苦しみから解放して下さり、イスラエルの地に連れ帰って下さる、その救いの約束がこの幻によって示されたのです。しかしこの幻は同時に、神様が私たちに与えて下さる救いをも描いています。骨を枯らすような魂の憂いの中にある私たち、枯れた骨に満ちた谷のように死と絶望に支配されてしまっている私たちの現実の中に、神様がお立てになった預言者を通して、神様のみ言葉が響くのです。それは誰も聞く人のいない虚しい言葉のようにも思われます。しかしその言葉が語られていく中で、枯れた骨に新しいことが起っていくのです。それらが動きだし、寄り集まり、結び合わされて一つの体となっていくのです。さらにそこに霊が、命の息が、風のように吹き来り、その体は生き返り、自分の足で立ち、非常に大きな集団となるのです。神様はこのような枯れた骨の復活のみ業を私たちの中で行なおうとしておられます。そのみ業は、「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」という神様の問いかけを私たちが自分に向けられた問いとして聞き、「主なる神よ、あなたのみがご存じです」とそれに答えていくことによって、つまり神様と私たちの間に「あなたと私」という関係が生じることによって実現します。このような神様との生きた関係の中で私たちは、人間の知識や常識ではとうてい考えることも期待することもできない枯れた骨の復活が、神様の力によって実現することを体験していくのです。

あしあと
 本日の礼拝のもう一つの目玉は、この後聖歌隊の奉唱において歌われる「あしあと」という賛美です。この曲に歌われている詩も、枯れた骨の復活の体験を語っていると言うことができます。「ある日私は夢を見た」と始まるこの詩も、一種の幻を歌っています。詩人が見たのは、砂の上に残された自分のこれまでの人生の足跡です。その足跡はある時点から二つになっています。それは彼が主イエス・キリストによる救いを信じる信仰者となった時からです。その時主イエスは、「わたしはどんな時にもあなたと共にいる」と約束して下さいました。その主イエスと共に、彼はその後の人生を歩んで来たのです。ところがある所から、足跡はまた一つになっています。そしてその時点というのは、彼の人生の最も暗く、厳しい試練の中にあった時でした。主イエスによる助けを最も必要としていた時です。しかしそこから、足跡は一つになっている。彼は主イエスに激しくつめよるのです。「主よ、私があなたに従うと決めた時、あなたは約束して下さったではありませんか。どんな時にも共にいて下さると。それなのになぜ、あの最も困難な苦しみの時に、あなたは私を離れ去り、一人にしてしまわれたのか」。この詩人の悲痛な叫びは、「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」というイスラエルの民の、そして私たちの絶望と重なり合います。苦しみ悲しみ絶望の中で、私たちの目には、神様にも見捨てられた、枯れた骨に満ちた谷のような現実しか見えてこないのです。けれども、激しく抗議する彼に対して、「主はささやかれた」とこの詩は歌っていきます。枯れた骨の谷の現実の中に、神様のみ声が、ささやくように、しかしはっきりと響いていくのです。「私の大切な子よ、私はあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの中で足跡が一つだったとき、私があなたを背負って歩いていた」。

枯れた骨の復活
 この詩は、この主の言葉で終わっています。しかし私たちは、この主のみ言葉、語りかけによって私たちの中で何が起るのかを、エゼキエルの見た幻から示されているのです。魂の憂いによって、「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と嘆いている私たちの枯れた骨が、このみ言葉を聞くことによってカタカタと動き出すのです。骨と骨とが近づき、そこに筋や肉が生じ、皮膚がその上を覆い、一人の人間としての姿が回復されていくのです。そしてそこに神様が霊を、命の息を吹き込んで下さることによって、枯れた骨は生き返るのです。「彼らは生き返って自分の足で立った」と10節にありました。それは自立ということです。自分という人間が確立し、誰にも支配されたり強制されたりすることなく、自由な人間として生きるようになるということです。そして本当の意味で自立し、自由に生きる人間は、「彼らは非常に大きな集団となった」とあるように、人と共に生き、人とよい関係を築き、共同体を形成していくことができるのです。ここに描かれている、人間としての自立、自由の確立と、共同体の形成の両立こそ、人間が本当に人間として生きることができている印です。私たちは今その印を失い、自分の足でしっかり立つことも、共同体を形成することも、どちらも覚束ないまま、干涸びてバラバラになった骨のような状態に陥ってしまっているのです。その私たちが、本当に人間として生きるようになり、自分の足でしっかり立ちつつ、人と人とがつながり支え合って生きる共同体を築いていくことができるようになるのは、神様の独り子イエス・キリストが、私たちを背負って歩いて下さっていることを知ることによってなのではないでしょうか。私たちは、自分の力では担い切れない苦しみや悲しみや重荷の中で、もう一歩も進むことができないと思うことがあります。絶望し、投げやりになってしまうことがあります。神様を信じる信仰者として生きていても、その神様が自分を見捨ててしまったと思ってしまうことすらあります。しかしそのような私たちに、神様は、主イエス・キリストの十字架の死と復活による救いの恵みを与えて下さり、私たちを担い、背負って下さっているのです。神様のみ言葉によってそのことを示される時、私たちは、自分の足で立って歩くことができるようになります。主イエスによって背負われているからこそ、自分の重荷を背負うことができるようになるのです。
 枯れた骨の谷のような私たちの現実の中に、神様の恵みのみ言葉が響き、神様の霊、聖霊が風のように吹き来たり、私たちを生かして下さる、そういうことが起るのが教会の礼拝です。ここで私たちは、枯れた骨の復活という神様のみ業を体験していくのです。

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