主日礼拝

信仰の成熟

「信仰の成熟」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:民数記 第3章5-13節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第15章14-21節
・ 讃美歌:351、130、467

手紙の締めくくりへ  
 礼拝においてローマの信徒への手紙を読み進めていますが、前回申しましたように、この手紙の本文は15章の13節をもって終わりました。本日の14節からは、この手紙の締めくくりの部分に入ります。この手紙は、初代の教会における最大の伝道者であるパウロが、まだ会ったことのない、これから訪れようとしているローマの教会の人々に、自己紹介のように、自分が宣べ伝えているイエス・キリストの福音をまとめて書き送ったものです。15章13節までの本文において彼は、イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる救いについて、そしてキリストを信じて生きる信仰者の生活について語ってきたのです。その部分を13節をもって一応終えました。まだ語りたいことは沢山あったでしょう。しかしいつまでも語り続けるわけにはいきませんから、ここで一応の区切りをつけて、手紙の締めくくりへと入って行ったのです。

思い切って語った  
 その締めくくりに入るに当ってパウロは、これまでに書いてきたことをもう一度読み直したのではないか、と想像している説教者もいます。パウロの手紙は口述筆記によって書かれていて、16章22節によればこの手紙を筆記したのはテルティオという人でした。13節までを語り終えた時点でパウロは彼に、これまで筆記した部分を読み上げてもらって、自分が語ってきたことを確認したのではないか、15節を読むとそういう印象を受けます。そこには「記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました」とあります。夢中になって語ってきたことをもう一度読み直し、あるいは聞き直してみると、随分思い切ったことを語っていたと思う、という気持ちがここに現れています。実際パウロはこの手紙をかなり思い切って書いてきました。キリストの福音の中心となる事柄を大胆に語ってきたのです。そもそもキリストの福音は人間の常識の範囲内には収まらないものですから、そう簡単に理解されるものではありません。しかもこの手紙の宛先であるローマの教会は、パウロの伝道によって生まれた群れではありません。彼はそこにまだ行ったことがないし、何人かの知り合いはいたけれども、大部分は見ず知らずの人たちです。気心の知れた相手とは言えない。そういう人々に対して語るにしては、彼は随分大胆に、批判的なことも語りました。「ところどころかなり思い切って書きました」という言葉からは、彼自身もそういう意識を持っていたことが分かるのです。その彼がこの締めくくりで語っているのは、「ちょっと言い過ぎてしまったところもあるかもしれないが、勘弁してください」ということでしょうか。そうではありません。彼は14節でこのように言っています。「兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています」。この文章は、原文の語順を生かして直訳するとこのようになります。「確信している、兄弟たちよ、この私は、あなたがたについて、あなたがた自身が善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると」。つまりパウロはここで、ローマの教会の人々について自分は確信を持っている、何を確信しているかというと、彼らが善意に満ちており、あらゆる知識で満たされており、互いに戒め合うことができることをだ、と語っているのです。です。この確信のゆえに彼はこの手紙を思い切って書くことができたのです。この確信は、ローマの教会の人々の信仰についての確信です。あなたがたは、私が思い切って語ってきたキリストの福音をしっかりと受け止めることができる、それを善意をもって聞き、正しく理解し、そしてそれによってお互いに自分たちの歩みを正し合っていくことができる、そういう信仰に生きている、とパウロは確信しているのです。

信仰の成熟の確信  
 これは言い替えれば、彼らが信仰において成熟していると確信している、ということです。信仰が成熟している人に対しては、思い切って語ることができるのです。相手の問題を指摘し叱責するような、耳障りなことをも語ることができるのです。信仰が成熟している人は、自分に対して批判的な、耳の痛い言葉をしっかり受け止めることができるからです。しかし信仰において成熟していない未熟な人に対しては、いろいろと気をつけて語らなければならず、思い切って語ることができません。このことは、一般の人間関係においても言えることでしょう。成熟した大人どうしの関係においては、お互い率直にものが言えます。勿論それは相手を尊重する思いに裏付けられた言葉でなければなりませんが、率直にものを言い合うことによって関係にひびが入ったりしないのが成熟した者どうしの間柄です。しかしお互いが人間的に成熟していないと、なかなか率直にものが言えません。何か言うとすぐにいじけたりひがんだり、感情的に反発したりする相手には、子どもに対するように、なだめたりすかしたりしながら話をしなければならないのです。そのように、相手によって話し方を変えることができるのが成熟した人間だとも言えます。パウロもそういうことができる人でした。彼がコリントの信徒への手紙一の第9章で、「わたしは、ユダヤ人に対してはユダヤ人のように、異邦人に対しては異邦人のようになれる」と言っているのはそういうことだと言えるでしょう。そのように、相手に応じた語り方ができると言っているパウロがここで、ローマの教会の人々には思い切って語ることができる、あなたがたの信仰がそのように成熟していると私は確信している、と言っているのです。

信仰の成熟-善意  
 信仰が成熟するとはどのようなことなのでしょうか。パウロはここで、ローマの教会の人々のどこに信仰の成熟を見ているのでしょうか。そのことがこの14節に語られています。先ず第一には彼らが「善意に満ち」ていることです。この「善意」の意味をある人は、「互いに対して開かれた姿勢の中に表される誠実さ」であると言っています。善意があるというのは、人に対して心が開かれているということです。それは、人の言葉や行いを、開かれた心で受け止めることができることです。もっと具体的に言えば、人の言葉を先ずはよく聞いて、その人が何を言いたいのか、どのような思いでいるのかを理解し、その人の思いにできるだけ寄り添おうとすることです。その上で、自分が違う意見、思いを持っているならば、それをきちんと説明し、誠実に対話していくことです。そのように、相手の思いをしっかり受け止めつつ自分の思いをもきちんと伝えていくという対話、心のキャッチボールをしようとしていること、善意があるとはそういうことです。対話をせずに、自分の考えや思いと違うことは頭から否定して、相手の言葉を聞こうとせずに退けるのは、心が開かれていない姿であり、それは善意をもって人と接していないことになります。そして信仰は、このような意味での善意によってこそ成長していきます。なぜなら先程申しましたように、キリストの福音は人間の思いや常識を超えたことだからです。自分の思いに反することを受け入れない閉ざされた心は、キリストによる救いを受け止めることができません。そしてさらに、その福音は人を通して語り伝えられるのです。ですから人の言葉に対して心を開いていない人は、神の言葉、福音にも心を開くことはできません。人に対して開かれた姿勢があるところでこそ神の救いの恵みは伝わっていくし、その神の救いの恵みが私たちの心を、神に対しても人に対しても、開かれたものとしていくのです。それが信仰の成熟です。パウロは、ローマの教会の人々がそういう意味で善意に満ちている、つまりパウロに対して心を開き、彼が語った福音をきちんと聞いて、それと対話してくれる、あいつの言うことは気に食わないと言って心を閉ざしてしまうことはない、と確信しているのです。

信仰の成熟-知識  
 信仰の成熟の第二のポイントは、「あらゆる知識で満たされ」ということです。人間が成熟するためには知識が必要です。信仰を抜きにしても、成熟した人間となるためには教養が必要であり、そのための教育が大切だと言われます。信仰の成熟のためには知識はそれ以上に必要です。しかしその知識はいわゆる「教養」ではありません。また、例えば聖書について、旧約と新約にはそれぞれどんな書物があって、それぞれの内容と特色は何かを全部理解している、というような知識であるとか、あるいはキリスト教の教理についての知識でもありません。信仰の成熟のために必要な知識とは、神が私たちにどのような救いを与えて下さっているかを知る知識です。神による救いの恵みが、イスラエルの民の歴史を通して示され、そして独り子イエス・キリストのご生涯と十字架の死と復活において新たな段階に入り、そして神がキリストのもとに召し集めて下さった群れである教会において今私たちにも及んでいる、この神の救いの恵みの事実を知る知識であり、聖書はそのことをこそ語っているのです。ですから聖書が本当に分かるというのは、神が独り子イエス・キリストによって実現して下さっている救いの恵みが分かることです。その知識をしっかりと得ることが、信仰の成熟のためには必要なのです。その知識なしには、私たちの信仰は人間の勝手な思い込みになり、あるいは人間の常識を一歩も出ないものになってしまいます。そこには神による救いの恵みはありません。神が独り子イエス・キリストによって、人間の思いや常識をはるかに超えた救いのみ業を行って下さった、そのことを知る知識こそが私たちの信仰を成熟させるのです。パウロがこの手紙において思い切って語ってきたのもこの信仰の知識でした。15節で彼は、思い切って書いたのは「記憶を新たにしてもらおうと」してだと言っています。つまりパウロが語ってきたキリストの福音を、ローマの教会の人々は既に聞いており、知っているのです。信仰の知識が既に与えられているのです。パウロは彼らのその知識を再確認し、その記憶を新たにするためにこの手紙を書いたのです。だから、ローマの教会の人々が自分の語ったことをきちんと理解し、受け止めることができると確信することができるのです。

信仰の成熟-互いに戒め合う  
 信仰の成熟の第三のポイントは、「互いに戒め合うことができる」ということです。互いに戒め合うことができるとは、お互いの問題点、欠けを指摘し合い、それによってお互いにそれを正していくことができる、ということです。それこそが信仰の成熟の印です。このことは先程の第一のポイントだった、人に対して心が開かれている、ということと繋がっています。互いに心を開いて語り合う中で、お互いの罪や欠け、問題点を正し合っていく、そのような交わりが信仰者どうしの間に築かれ、お互いの信仰を高め合い、お互いの神に従い仕える生活が励まされ、整えられていく、それが信仰の成熟の印なのです。信仰が成熟するとは、悔い改めが深まることです。神のみ言葉によって自分の罪が示され、それと共にキリストによる赦しが示され、その恵みの中で神へと立ち帰り、神に従って生きる者へと変えられていく、そういう悔い改めがより深く起っていくことが信仰の成熟なのです。そして「互いに戒め合う」という言葉が示しているのは、私たちの悔い改めは信仰者の交わりの中でこそ起る、ということです。悔い改めを求める神の言葉は、信仰の兄弟姉妹を通して自分に語られるのです。例えばそれは、礼拝における牧師の説教を通して語られます。牧師も一人の人間であり弱さや欠けを持っていますから、あんな奴に何か言われたくない、という思いもあるでしょう。しかし信仰の兄弟姉妹である牧師、伝道師を通して語られる神の言葉を聞き、それによって神へと立ち帰る、そういうことが起っていくことが信仰の成熟の印です。そしてそういうみ言葉は牧師によってのみ語られるのではありません。信仰の兄弟姉妹との交わりの中で、私たちはお互いに、自分に悔い改めを求める神の言葉を聞くのです。それを心を開いて聞くことができるようになることが信仰の成熟です。ローマの教会の人々の信仰がそのように成熟していることを確信しているがゆえに、パウロは思い切って語ることができたのです。

まことの祭司キリストに仕えるパウロ  
 このような信仰の成熟を私たちも目指したいと思います。しかし、自分の信仰は人に対して心開かれているだろうか、神の救いの恵みの知識をしっかり持っているだろうか、兄弟姉妹の間で互いに戒め合うことができているだろうか、と振り返る時、まことに心もとない思いがします。これらのことを全て満たしているような本当に成熟した信仰者など果しているのだろうか、と思わずにはおれません。しかしパウロはローマの教会の人々についてこのような確信を抱いていると言っています。パウロはなぜそのような確信を持つことができたのでしょうか。ローマの教会の人々の信仰はそんなに立派だったのでしょうか。しかし何度も言っているように、彼はこの教会の人々のことを深く知っているわけではないのです。それなのにどうしてこんな確信を持てるのでしょうか。それとも彼は、このように書くことによってローマの教会の人々にお世辞を言って、関係を良くしておいて、訪ねて行った時に歓迎してもらおうとしているのでしょうか。そうではありません。彼がローマの教会の人々の信仰の成熟をこのように確信することができることの根拠が、15節後半から16節にかけてのところに語られているのです。彼はこのように言っています。「それは、わたしが神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません」。自分はキリスト・イエスに仕える者であり、祭司の役を務めている、とパウロは言っています。それはどういうことでしょうか。祭司とは、神と人間との間に立って、人間を代表して供え物をささげ、神の恵み、罪の赦しを祈り願う者です。つまり神と人間との執り成しをする者です。パウロはここで自分がその祭司の役を務めていると言っていますが、しかし彼は同時に、自分はキリスト・イエスに仕える者だとも言っています。主イエス・キリストこそが、神と私たちの間の執り成しをして下さるまことの祭司です。主イエス・キリストが祭司となって下さったから、罪人である私たちが神の前に出て礼拝しつつ神の民として生きることができるのです。ですからパウロが祭司の役を務めているというのは、まことの祭司である主イエス・キリストに仕えることにおいてです。パウロがしているのは、まことの祭司であるキリストの補助者としての働きなのです。  
 この点で、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、民数記第3章5節以下が関係してきます。この箇所は、神の民イスラエルの中に祭司が立てられたことを語っています。その祭司はアロンとその子孫たちです。イスラエルにおいて祭司の務めを担うことができるのはこの一族だけです。そしてこの3章5節以下には、その祭司アロンに仕える者としてレビ人が立てられたことが語られています。レビ人は祭司に仕えて供え物の準備をしたり、礼拝の場所である幕屋を整えるのです。キリスト・イエスに仕える者として祭司の役を務めているパウロは、このレビ人と同じ働きをしています。彼はまことの祭司イエス・キリストに仕え、供え物を整えているのです。

異邦人が、神に喜ばれる供え物となる  
 パウロが整えている供え物とは何でしょうか。「異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるため」とあります。パウロが整えている供え物は異邦人です。異邦人は元々神の民ではない、つまり神への供え物としては相応しくない汚れた者とされていました。その異邦人たちが、神に喜ばれる聖なる供え物となる、それが、異邦人に与えられる救いです。パウロはこの異邦人の救いのために召され、使徒とされています。彼は異邦人たちにキリストの福音を宣べ伝え、神の民でなかった異邦人たちが、罪を赦されて聖なるもの、つまり神のものとされ、神に捧げられる供え物とされるための働きをしています。そのようにして彼はまことの祭司であるキリストに仕えているのです。  
 私たちの救いもそのようにして与えられています。私たちも、元々神の民ではない異邦人であり、神に背いている罪のゆえに神のものとはなり得ない者です。その私たちが、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しの恵みによって神のもの、神に喜ばれる供え物とされる、それが私たちの救いです。パウロはこの手紙の12章1節で「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」という勧めを語りました。自分自身を神への供え物として献げること、それが私たちの礼拝の本質であり、信仰の中心です。洗礼を受けてキリストの救いにあずかるとは、自分を神への供え物として献げることなのです。その救いは、私たちが自分を神にお献げすることによって実現するのではありません。私たちはまことの祭司であられる主イエス・キリストのものとなるのです。すると主イエスが私たちを清めて、聖なるものとして下さり、神に喜ばれる供え物として下さるのです。主イエスこそが罪人である私たちを清めて、聖なるもの、神のものとして下さる、それが私たちの救いなのです。

キリストへの信頼のゆえに  
 パウロがローマの教会の人々について抱いている確信の根拠もここにあります。ローマの教会の人々は、既にキリストの福音を知らされ、信じて洗礼を受け、主イエス・キリストのものとされています。まことの祭司である主イエス・キリストは彼らを清めて、神に喜ばれる、生きた聖なる供え物として下さっているのです。このキリストのみ業が、聖霊のお働きによってなされているがゆえに、パウロは、まだ会ったことのない人々の信仰の成熟を確信することができるのです。彼のこの確信は、一人ひとりの信仰の成熟の度合いを見ての判断ではありません。ローマの教会の人々が皆成熟した信仰に生きていたわけではありません。だからこそ、14章15章で語られていたように、互いに軽蔑したり裁き合ったりということが起っていたのです。彼らのそのような未熟な信仰の様子をパウロは知っています。にもかかわらず彼はこのような確信を語っているのです。それは心にもないお世辞ではなくて、彼らを招き、ご自分の体である教会に加えて下さった主イエス・キリストのみ心と、そのみ業を今実行しておられる聖霊のお働きへの信頼のゆえにです。あなたがたは洗礼によってキリストと結び合わされ、キリストのものとされているのだから、キリストはあなたがたの信仰を必ず成熟させていって下さる、そのことを彼は確信しているのです。

信仰の成熟を信じて歩み出そう  
 この確信は私たちにも当てはまります。自分を振り返るならば私たちも、心開かれた善意に生きているとは言えないし、信仰の知識に満たされてもいない、お互いに戒め合うこともなかなかできない、まさに未熟な信仰しか持っていません。しかし私たちは、まことの祭司であられる主イエスのもとに招かれています。主イエス・キリストは、ご自分の十字架の死によって私たちの罪を赦して下さり、神の子として下さいました。そして聖霊なる神が私たちを清めて、神に喜ばれる供え物として下さっているのです。洗礼を受けてこの救いの恵みにあずかった者は、自分自身を神にお献げする礼拝を守りつつ、本日も共にあずかる聖餐によってキリストと一つにされつつ歩んでいます。それによって、私たちの信仰の成熟が約束されているのです。私たちは、今よりもっと善意に満ち、信仰の知識に満たされ、互いに戒め合うことのできる者となっていくことができるのです。まことの祭司であるキリストが、聖霊のお働きによってそのように導いて下さるのですから、未熟な信仰の中に留まってそれでよしとしてしまうのでなくて、信仰の成熟に向けて、新しい一歩を踏み出したいのです。

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