主日礼拝

主の晩餐

「主の晩餐」 副牧師 乾元美

・ 旧約聖書:エレミヤ書 第31章31-34節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第14章22-26節
・ 讃美歌:205、18、78

<目標「神の国」>  
 主イエスを信じて洗礼を受けたキリスト者は、みな同じ、一つの「人生の目標」を持っています。「人生」という言葉が、生まれてから死ぬまでの、この世に生きている間のことを指すのだとしたら、「人生の目標」ではなくて、「命の目標」と言った方が良いかも知れません。なぜなら、この目標は、人の死を超えたところにあるからです。わたしたちの存在すべてが目指し、待ち望み、向かうべきところ。その目標とは、「神の国」です。  

 今日の聖書箇所の25節で、主イエスは言われました。
 「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」  
 これは、主イエスが十字架にかかる前の晩に行われた、最後の晩餐での言葉です。主イエスはこれから、すべての人の罪を負って、神の怒りの裁きを担って下さるために、お一人で死へと向かわれようとしています。その主イエスが、食卓で弟子たちにパンと杯を分かち、その最後に言われたのです。

 同じ場面が語られているマタイ福音書では、「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」とありました。つまり、これから後の将来に、父の国で、神の国で、弟子たち共に杯を新たに飲む日が来る、と仰っているのです。

 その日とは、世の終わりの日。天に上げられた主イエスが、再び来られる日のことです。その時、弟子たちがこの主の晩餐で、主イエスと共に食卓を囲んだように、神の国、神のご支配の中で、この目で主イエスと見え、共に杯を飲むような祝宴が開かれるのです。
 これは、主イエスの十二人の弟子たちとの約束であり、また、主イエスを信じ、新しく弟子とされた、すべてのキリスト者へ、わたしたちへの約束です。主イエスと共に、神の国で食卓につき、新しく飲む。キリスト者は皆、この神の国の食卓を、人生の終わりの向こうに、待ち望んでいるのです。

<聖餐>
 この約束を仰ぎ見つつ、神の国を目標にしつつ、わたしたちは与えられた地上の命を生きていきます。
 しかし、神の国、神のご支配は、目に見えません。わたしたちは、主イエスに救いによって、確かに神のご支配の中を生かされているはずなのに、目に見えるものを信じたがるし、目に見えないとすぐに疑ったり、忘れたりしてしまいます。
 だから、この見えない神の国を確信させて下さるために、また、わたしたちが主イエスの救いに与った者であることを覚え、ますますこの神の国を待ち望む者となるために、教会には、パンと杯をいただく、「聖餐」が与えられました。
 ですから聖餐は、主イエスの救いを信じ、洗礼を受けた者が与るものです。しかしだからと言って、まだ洗礼を受けていない方が、無視されているのではありません。
 主イエスは、すべての者が、主イエスの十字架と復活の救いを信じ、共にこの聖餐の食卓に着くようにと、招いておられます。あなたにも、神の国に席が用意されている。わたしは招待状を届けている。主イエスは、すべての者が、この招きを受けて、洗礼を受け、共に聖餐に与ること。終わりの日に、すべての神に造られ、命を与えられた者が、共に神の国の祝宴の席に着くことを、望んでおられるのです。  

 本日の聖書の主の晩餐の箇所は、この教会の「聖餐」の意味を示している箇所です。
 教会は、ここに語られている主イエスの最後の晩餐を覚えて、繰り返し、繰り返し、それこそ神の国が完成し、終わりの日に主イエスが来て下さるまで、聖餐に与り続けます。  
 それは、人間が生きるために食事を食べ、水を飲まなければならないように、キリスト者が、キリスト者として生きるために、必ず必要なものだからです。聖餐は、わたしたちの信仰のために、絶対不可欠なものです。
 この聖餐を通して、わたしたちは満たされ、元気を与えられ、養われ、強められます。こんなに小さなパンと、こんなに小さな杯に入ったわずかなぶどう液です。胃袋からしてみれば、何の足しにもならないし、もう少し多くてもいいな、と思うかも知れません。
 しかし、わたしたちが、聖霊のお働きの中で、信仰によって、この小さなパンと、小さな杯に与る時、これは、信仰の糧として、希望を確かにするものとして、とてつもなく大きな力で、わたしたちの命と存在のすべてを支えるのです。

<過越しの食事>  
 では、この聖餐の根拠となった、主の晩餐の箇所には何が語られているのでしょうか。
 十字架に架かられる前の最後の晩、主イエスが弟子たちとなさった食事は、ユダヤ人が大切にしてきた「過越の祭」の食事でした。
 過越の祭は、ユダヤ人の先祖であるイスラエルの民が、エジプトで奴隷にされていた中から、神に救い出されたことを記念して行われるものです。
 神は、民がエジプトを脱出するにあたって、エジプトに災いを下され、国中の初子を撃たれました。しかし、神が前もってお命じになった通りに、小羊の血を鴨居と入り口の二本の柱に塗っておけば、神はその家に災いを下さず、過ぎ越して下さったのです。
 過越の食事は、そのことを記念するもので、家の主人が取り仕切り、細かい手順や祈りの言葉もすべて定められていました。その食卓では、杯のぶどう酒、種入れぬパン、そして過越しの小羊が用意され、小羊は屠って食べます。そうして、奴隷から解放して下さった、神の救いの御業を覚えたのでした。

 22節に「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与え」とありますが、これはその過越の食事の決められた作法の手順通りです。
 ところがその後、主イエスは「取りなさい。これはわたしの体である」と言われました。これは手順にない、まったく新しいことです。
 また23節の、「杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった」というのも、決められた通りでした。
 しかし、弟子たちが皆その杯から飲んだあと、また主イエスは、新しいことを言われました。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」
 弟子たちは、聞いたことのない、主イエスの新しい言葉に驚いたに違いありません。
 主イエスは、なぜこのようなことを言われたのでしょうか。

 それは、神がかつてイスラエルの民をエジプトから解放し、救い出して下さったことを記念するこの食事に、新しい意味をお与えになるためでした。
 神は、世のすべての人を救い、祝福するために、イスラエルの民を選び、導き、救ってこられました。そしてとうとう神は、この民に、御子である主イエスを救い主として遣わされ、そのすべての人のための救いを実現しようとしておられるのです。
 主イエスは、イスラエルの民が、エジプトの奴隷から解放されたことを覚えて、小羊を屠って神の救いの御業を記念する過越の食事を、これから、ご自分が犠牲の小羊となって屠られ、十字架の死によってすべての人を罪の奴隷から解放して下さる、新しく実現する神の救いの御業を指し示すものとなさったのです。  

 ですから、わたしたちは聖餐で小さく裂かれたパンに与る時、鞭打たれ、釘を打たれて裂かれた主イエスの体を覚えます。赤いぶどう液が満たされた小さな杯を受ける時、その傷から流された血を思い起こし、この主イエスの苦しみ、痛み、死によって、わたしたちが赦され、癒され、生かされたことを覚えるのです。主イエスが、わたしたちの罪のために、過越の犠牲の小羊となって下さったことを覚えるのです。

<契約の血>  
 また、「血」というのは、過越しの小羊の血を表すだけでなく、「契約」ということにおいても、重要なものです。  
 主イエスは、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われました。主イエスが十字架で流される血によって、「契約」が結ばれたのです。  

 旧約聖書では、神がイスラエルの民と契約を結ぶときに、血をもって契約が締結されたことが語られています。結ばれた契約は、血が注がれることで、効力が発生するのです。  
 例えば、出エジプト記の24章では、このように書かれているところがあります。
 「モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、『わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります』と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。『見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。』」  

 神は、イスラエルの民を選び、血の契約を結んで神の民とされました。
 そして今、主イエスは十字架によって流されるご自分の血で、多くの人のために、「新しい契約」を与えられるのです。この主イエスの血による新しい契約によって、多くの人を、新しい神の民として下さるのです。  

 このように、「新しい契約」が与えられることは、旧約聖書の時代から預言されていたことです。それは、今日お読みしたエレミヤ書31章31~34節に語られていました。もう一度、お読みしてみます。
 「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」  

 神は、わたしたちの神となって下さり、わたしたちは神の民となる。神はわたしたちの悪を赦し、罪を心に留めないでいて下さる。この契約を実現して下さるために、主イエスは「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言って、十字架によって血を流し、この「新しい契約」を結んで下さったのです。  
 主イエスが主催なさる過越の食事は、このように、主イエスによって、まったく新しい意味を与えられたのでした。

<招かれる者>  
 この新しい主イエスの過越の食事に、主の晩餐に、十二人の弟子たちが与りました。
 彼らはこの時、主イエスが言われたことの意味を、おそらく何も理解できなかったと思います。しかも、この主の晩餐の記事は、弟子たちの裏切りの予告の記事に挟まれています。10~11節には、ユダの裏切りの企てが。そして、27~31節には、すべての弟子がつまずくことと、ペトロの離反が予告されているのです。 主イエスは、弟子たちの弱さを、つまずきを、罪を、すべてご存知でした。
 でも、23節には確かに「彼らは皆その杯から飲んだ」と記されています。弟子たちは、それでも、この時確かに主イエスの晩餐に招かれ、その新しい契約に与ったのです。
 主イエスは、まさにこの弟子たちのように、罪に捕らわれたすべての者のために、彼らを罪から解放し、新しい神の民として契約を結ぶために、十字架の道を歩んで行かれたのです。人の罪の真っただ中で、そのために血を流し、新しい契約を打ち立てて下さったのです。  

 十二人の弟子たちが、この主の晩餐に集っていたのは、決してふさわしい者たちだったからではありません。立派で、欠けがなく、信仰深い者など、誰一人いなかったのです。  
 彼らがこの食卓に着いていたのは、主イエスが一人一人を選び、お招きになったからです。「わたしに従いなさい」と言って下さったからです。欠けだらけで、意志も弱く、理解も鈍い者たちです。主イエスを裏切り、逃げ出し、従うことの出来ない、深い罪に捕らわれた者たちです。でも、主イエスが選び、招き、罪を赦して下さるなら、誰でもこの聖なる主の食卓に着くことが出来るのです。  

 わたしたちも同じです。この聖餐の食卓に着くのは、敬虔で、立派で、正しい者だからではありません。すぐに神の御心を忘れ、自分のことばかりを考え、すぐにつまずいたり、逃げ出したりする、罪深く、弱い、小さな者です。
 しかし、神は、そんなわたしたちを愛して下さいました。主イエスは、罪に捕らわれ、闇の中で倒れ、苦しんでいる者に目を留めて下さり、名前を呼んで下さり、近く来て下さり、あなたのために、十字架にかかった。あなたのために、血を流した。このわたしの救いを受け取りなさい。新しい契約に与りなさい、と言って救いを差し出して下さったのです。
 わたしたちは、ただ悔い改め、この主イエスの救いを受け取るだけです。
 その、救いの恵みを信じて受け取ることが、洗礼です。また、この救いの恵みに生かされ続けることが、聖餐なのです。

 聖餐の中では、「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります」という言葉が言われます。
 時々、「わたしは今週、ちょっと悪いことをしてしまって、罪を犯したので、ふさわしくないから聖餐に与りません」とか、「あの人はこういう罪を犯した人だから、聖餐に与るのはふさわしくない」とかいう人がいます。じゃあ、聖餐を受ける時は、今週は罪を犯しませんでした、と言うのでしょうか。それはおこがましいことです。
 人は誰一人、神の御前で、ふさわしくなることなど、罪を犯さないことなど出来ません。
 大切なのは、神がそれでも愛して下さったことを知ることです。自分が、自分では救いようのない罪人であり、ただ主イエスの十字架によって、罪を赦され、救われた者だと知ることです。そうして、洗礼を受け、罪を赦された者として神の御前に立ち、悔い改めの中で、しかし救われた感謝と喜びをもって聖餐を受けることが、「ふさわしい」ことなのです。
 そうして、主イエスの救いを、神の恵みを、終わりの日まで忘れないように、何度も何度も聖餐に与って覚えるのです。

<しるし>  
 しかし、覚えるとか、救いを記念するとか言っていますが、これは単なるセレモニーではありません。聖餐では、出来事が起こっています。それは、復活の後、天に上げられ、今も生きておられる主イエスとの交わりです。  

 プロテスタントの教会では、洗礼と聖餐の二つが「聖礼典」と呼ばれています。これは、ラテン語で「サクラメントゥム」と言います。二世紀後半くらいから、教会においてそのように言われていました。この言葉は、元々は、ローマ帝国において、兵士が軍務に着く時に、皇帝に忠誠を誓う宣誓や、それを表すための供託金のことを意味しました。つまり、見えるお金という「しるし」によって、皇帝への忠誠という見えない内容を表しています。  

 同じように、洗礼には水の「しるし」が、聖餐には、パンと杯という目に見える「しるし」が用いられます。これは、主イエスが今も生きて働いておられるという、目に見えない恵みを、目に見えるもので指し示す「しるし」なのです。  
 聖餐は、ただの記念の食事会ではありません。しかしまた、何かそのパンや杯が何か特別な別のものに変化するというような、魔術的なものでもありません。  
 このパンと杯は、洗礼を受け、主イエス・キリストを信じる信仰を持って与ることで、十字架によって罪を赦し、三日目に復活し、天に上られた、今も生きておられる主イエスと一つにされ、いつも共にあるという恵みを、目に見える形で指し示す「しるし」なのです。  

 わたしたちは、いつも天におられる主イエスが共にいて下さる、ということを信じています。でも、すぐに忘れます。天におられる主イエスのお姿は、今わたしたちには見えないからです。わたしたちはすぐに目に見えるもの、世のものに心を奪われます。見えないものを確信することは、とても難しいことなのです。  
 主イエスは、「見ないのに信じる人は、幸いである」と言われましたし、ヘブライ人への手紙でも「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とあります。でもわたしたちは、見ないと中々信じることが出来ないし、見えないことを疑ったり、不安を抱いたりするのです。  
 しかし、神さまは、何て至れり尽くせりで、配慮に満ちた方なんだろう、と思います。そんな弱いわたしたちの信仰を強めるために、望みを失わないために、救いの出来事を確信させるために、神はわたしたちに聖礼典を定めて下さり、目に見える「しるし」を通して、そこに確かにある目に見えない恵みを、確信させて下さるのです。  

 わたしたちがパンを手に取って触れるとき、わたしたちは生きておられる主イエスが、まさにわたしに触れて近くいて下さることを知るのです。
 パンを食べ、杯を飲む時、わたしたちは、これらが消化されてわたしの体の一部になるが如くに、主イエスの体と一つにされ、主イエスに命を注がれ、養われ、守られていることを覚えるのです。  
 聖餐で起こっていることは、天におられる主イエスとの生きた交わりです。このことは、聖霊のお働きによって起こります。聖霊が臨んで下さり、天におられる主イエスと、地上にいるわたしたちを、一つにして下さるのです。  
 救い主イエスが共にいて下さる恵みを、「しるし」を通して、目で見て、触れて、味わい知る。それが、聖餐のダイナミックな恵みです。  
 そして終わりの日、主イエスが再び来られる時には、まさにこの目で主イエスを見、この手で主イエスに触れ、共に神の国の食卓に着いて、飲み食いすることがゆるされるのです。

<神の国の祝宴>
 そしてきっと、主イエスの救いを信じ、洗礼を受けて主イエスに結ばれたすべての者が、共にその食卓に着くのでしょう。  
 これまでのすべての時代、地上のすべての場所のキリスト者たち。過去に生きて、すでに召された者たちも、今を生きているわたしたちも、そして、これから主イエスを信じて結ばれるであろう、未来の者たちも、共に同じお一人の主イエスの体に結ばれているのですから、主イエスが来られる日には、共に復活させられ、共に会い見え、共に、新たに飲み食いするに違いありません。  

 ということは、今この地上で行われる聖餐も、このお一人の生きておられる主イエスとの交わりに与るのですから、わたしたちは、聖餐にあずかって、主イエスと共にある時、時間も、場所も超えて、すべての主イエスに結ばれたキリスト者もまた、この主の食卓に共に与っていることを覚えることが出来るのではないでしょうか。  
 聖餐の食卓は、主イエスとの交わりであり、また共に主イエスに結ばれたすべての兄弟姉妹との交わりです。わたしたちは、お一人の主イエスの体に結ばれて、一つの共同体であることを、この聖餐で明らかにされるのです。  

 さらに、この聖餐に与る群れの存在そのものが、生きておられる主イエスを証しします。地上に、この聖餐に与る群れがあるということは、そこにキリストが確かにおられるということです。その群れこそ教会であり、今この時にも、主イエス・キリストは共におられます。そして教会は、御言葉を語り、洗礼によって招かれた人を主イエスに結び合わせ、聖餐によって、共に養われ、強められ、神の国に向かって成長していくのです。聖餐には、わたしたちの信仰に必要な、まことに豊かな恵みがたくさん詰め込まれているのです。    

 本日はこの後、聖餐に与ります。わたしたちはその時、聖霊の導きによって、天におられる主イエスとの交わりに与り、終わりの日の、神の国の祝宴を垣間見ます。そして、この世の歩みにあって、神の国の希望を、確かに見つめることが出来るのです。  
 また、この群れにすべての者が加えられることを、主イエスは願っておられます。主イエスは多くの人のために血を流されたのです。一人でも多くの方が、この招きに応えて洗礼を受け、聖餐の食卓に加えられますように。

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