主日礼拝

あなたの罪は赦される

「あなたの罪は赦される」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第43章18-25節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第2章1節-12節
・ 讃美歌:202、467、527

主イエスの元に集まる
 主イエスはこれまで悪霊を追い出し、病人を癒されました。そのような主イエスの噂が、ガリラヤ中に知れ渡り、多くの人たちが病人や悪霊につかれた人たちを連れて主イエスの所にやって来ました。そこで主イエスはもはや公然と町にはいることができなくなって、「町の外の人のいない所におられた。」と記されていました。それでも人々は、主の居られるところに押しかけたのでありました。本日は共に、マルコによる福音書第2章1節から12節を通して神の御言葉に聞きたいと思います。それから、数日後、主イエスは再びカファルナウムに来られました。主イエスがカファルナウムにお帰りになると、その噂や評判がすぐに広まり、そこには大勢の人々が集まってきました。私たちは今、礼拝の場へと集まっております。先週も出席した方、久しぶりに礼拝に来られた方、初めて礼拝に参加をした方、それぞれであると思います。私たちが今礼拝の主である主イエスの元に集まっているように、カファルナウムの人々も大きい期待をもって主イエスのもとへと集まったのではないでしょうか。主イエスが家におられるということが知れ渡り、そこに大勢の人が集まってきたとあります。この家とはシモンの家です。シモンの家には大勢の人が集まり「戸口の辺りまですきまもないほど」でした。人々は病気の治療、病の癒しを求めて来たのではなさそうです。人々は主イエスが御言葉を語っておられるのを聞いていたのです。人々は主イエスの語る御言葉を聞きに来ていたのです。

四人の男と中風の男
 そのような中で、彼らとは少し異なる、別の意図を持った人々がやってきました。3節「四人の男が中風の人を運んで来た。」とあります。四人の男性が一人の中風の患者を運んで来ました。この四人の男たちは床」に中風の人を乗せて、シモンの家に来ました。けれども、4節「群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかった」とあります。四人の男達が来たのが遅すぎたのでしょうか。戸口まで隙間なく詰まっている人垣は、この四人を無視するのです。この四人の男の切なる願いというものを無視しているかのようです。冷酷でありますが、これが現実なのです。一度時を失った者というのは、戸口が開かれる機会を奪い去られてしまうのです。このような状況は絶望的で、悲しい現実の姿です。しかし、この四人の男達は引き下がらりませんでした。どうしても、四人はこの中風の人と主イエスを会わせたかったのです。今、会わせようと、この四人は決意し、驚くべき行動を取りました。
 4節の後半には「イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。」とあります。この四人の男たちはまず屋根の上に登りました。当時のパレスティナの家は、石で出来ていて、たいてい外付けの階段がありました。それを伝って屋上へ登ることができたのです。屋根は平らで、梁と木の枝を編んだものの上に、粘土などを水で練って固めたもので造られていました。その一部に穴を開けることは、必ずしも困難ではなかったようです。もちろん、沢山の土ぼこりが下に落ちるし、そのような行動はとても迷惑な行為です。また大胆な行動です。イエスのおられる辺りを見つけて、屋根を剥がして穴をあけたとあります。非常識なことを行ないました。この穴から、病人の寝ている床をつり降ろしたのです。自分の家の屋根が剥がされる光景を目撃したシモンは驚いたことでしょう。そして、5節主イエスはその人たちの信仰を見たのです。この四人の男たちの信仰を主はご覧になったのです。主イエスがこの四人の男たちにおいて見るものは、ただ信仰のみでありました。そして、その信仰を認めたのも、ただ主イエスだけでありました。他の者たち、この人垣をつくっていた大勢の群衆たちはこの、四人の男と中風の人の存在を無視していたのです。この四人の男の熱心さに私たちは目を見張ります。病気の友に対する誠実な態度、思いやり心には心を打たれるものがあります。主イエスはその人たちの信仰を見たのです。

律法学者たちの心の中
 そして、主イエスは中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。この「子よ」というのは、当時の信仰の教師たちが自分の弟子と認める時にこの呼び名が用いられたのです。誰かが先生の弟子になりたいと言ってきて、その人を弟子として受け入れる時に、その人のことを「子」と呼んだのです。つまり、誰に対しても「子よ」と言ったのではないのです。主イエスはこの中風の人を「子」とお呼びになることによって、この人を受け入れられたのです。そして「あなたの罪は赦される」と言ったのです。それは、この人には罪があったということです。ここで注意したいのは、主イエスは重い病気にかかった人に対して、罪の結果として病気になったとうことを言っているのではありません。中風の人に「罪は赦される」と言ったのは、病気が罪の結果だということではありません。主イエスは人間の根源的な罪を問われるのです。そして、その中風の人に、病のことではなく、「あなたの罪は赦される」と赦しの宣言を与えられたのです。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えました。律法学者たちは、主イエスがシモンの家におられること聞いて、駆けつけてきたのでしょう。そして、主イエスの御言葉を聞いていたのです。そして「あなたの罪は赦される」と赦しの宣言を聞きました。けれども律法学者達の心の中に、「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」という思いが主イエスの宣言を聞いたから起ってきたのです。けれども反抗や反論はせず心の中で思い巡らしていました。主イエスは律法学者が心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知られたのです。
 主イエスが「あなたの罪は赦される」と言われたとき、律法学者にとってはこのように受け止めたのです。主イエスはそのような律法学者に「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」と言われました。続けて主イエスは「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言われたのです。ここでの「人の子」とは、主イエスのことです。主イエスは、御自分が「地上で罪を赦す権威を持っている」と宣言しておられます。主イエスは四人の男たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われました。ここでは主イエスが「その人たちの信仰を見て」、つまり、友人たちの信仰を見て、赦しを宣言しておられます。主はこの中風の者自身の信仰や、彼が熱心に癒されたいと願っているかどうかについては、一切問うていないのです。病人自身は、もしかすると、自分が癒されるなどということは、まるで信じていなかったのかも知れません。しかし、彼の四人の友人たちは信じていました。彼らは他人の家の屋根を剥がすという、はなはだはた迷惑な行為をしてまで、友人を主イエスの許に連れて行ったのです。それほどに彼らは熱心だったのです。その彼らの信仰を見て、主はお喜びになり「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのです。これはどういうことなのでしょうか。これは、主イエスが私たちの執り成しの祈りを喜んでくださる、と見ることができます。神は私たちが愛する者のために熱心に祈るときに、その祈りをお聴き上げくださるのです。

主イエスこそ
 主イエス御自身、私たち人間の罪の赦しのために、十字架にお架かりになりました。人間はすべての人が罪を犯しており、この罪の故に、神との関係が損なわれたのです。その結果、人間は自己中心的になり、神の恵みと御支配を退けて生きるようになりました。その影響は、実に甚大なのです。神との平和が失われた結果、この世には多くの悲惨な出来事が起こります。人間社会で起こるありとあらゆる不幸や災いの根本に、この罪の事実があります。他人との関係が上手く行かなくなり、この世界には不和と争いが絶えません。このことを無視しては、私たちの人生のどんな問題も、決して真の解決には至らないのです。ですから主は、この中風の者にも、彼の深い悲しみと絶望の根本的な解決のために「子よ、あなたの罪は赦される」と宣言されたのです。これは大胆な宣言です。なぜなら「人の罪が赦される」とは、その人の心だけでなく、体をも含めた、その人の存在全体が、神のものとなり、根本的な赦し、癒しが与えられることを、意味するからです。彼のところにも、神の国が来たのです。この宣言によって、神の憐れみ深い御支配が来た、と主イエスは宣言しておられるのです。罪を赦す権威がこの主イエス・キリストにあるのです。

神の赦し
 このことがはっきりするのが、6節以下のところです。ちょうどその場所に、大勢の群衆に交じって、律法学者が数人混ざっていたことです。律法学者たちは一般に、自分たちは民衆とは違う、一種のエリート階級であると考えています。従って彼らは、主イエスが民衆の友となり、彼らに説教をし、病人を癒し、罪人や遊女、徴税人たちを神の国に招いていることに、次第に苛立ちと警戒心を強めていたのです。恐らく彼らは最前列に陣取って、一部始終をじっと見守っていたに違いありません。そしてこの時、はっきりと「あなたの罪は赦される」という主イエスの爆弾的なお言葉を聞き取ったのです。そこで彼らは、このイエスという男は、神を冒涜している、と考えました。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことが出来るだろうか」とあります。罪を赦す権威は、ただ一人、天におられる神だけしか、持っていません。罪とは人間が神を離れ、神を蔑ろにして自分中心に生きていることです。神に対して罪を犯していることです。その罪は、神しか赦せないのです。その意味で、もし誰かある人が、「あなたの罪は赦される」と言ったとしたら、ユダヤ人から見れば、それは自分を神とすることであり、それは神を冒涜する罪、石で打ち殺されるべき罪を犯したことになります。しかし、聖書の考え方はそうではありません。なぜなら、罪が赦されるということは、神との平和が成立し、神の国が現れ、私たちの全存在が癒されることです。罪の赦しほど困難なものはありません。実際のところ、神はわたしどもの罪をお赦しになるために、独り子の十字架上の苦しみの死という犠牲を払われました。それに較べれば、病が癒されることは、単に罪が赦され、神の国が来たことの「しるし」にしか過ぎないのです。

あなたに言う
 人々は思わず、じっと固唾を飲んで見守りました。すると主は、律法学者たちの方を御覧になりながら、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言われ、それから、中風の者に向かって命じられたのです。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」するとその病人は、自分の足で立ち上がり、自分の手で自分の床を担いで、皆の見ている前を出て行ったのです。主イエスの命令に服従をしたのです。癒された人は、喜びに溢れ、自分の足で立って歩くようになりました。今まで永年の間、自立したことのない男が立ち上がったのです。
 私たちも、この中風の男やその四人の友人たちと一緒に、喜びと神への讃美を共にしたいと願います。そのために、今日この礼拝に集まって、神の国のことを聞きに来たのです。彼らは、主イエスが「地上で罪を赦す権威」を持っておられることを知り、神を讃美した、とあります。マタイによる福音書では、もっとはっきりと、こう書いてあります。口語訳聖書の9章8節ですが「群衆はそれを見て恐れ、こんな大きな権威を人にお与えになった神をあがめた」とあります。つまり、主イエスが「地上で罪を赦す権威」を持っておられること、そして、「こんなに大きな権威を人にお与えになった」ことの故に、人々は喜びに溢れ、神をあがめたのです。彼らはその明確なしるしを、一人の病人が癒され、自分の足で立ち、今まで悲しそうだった顔が喜びに満ちた顔となって帰っていったことの中に、はっきりと見たからです。ここでは、神がその権威を「地上で」御独り子なるキリストに於いてお立てになりました。それは、主イエス・キリストの十字架において完全に実現しました。

この世で
 私たちは日々様々な権威を恐れております。例えば、様々な災いや病や死の力を恐れています。或いは、飢えや貧困を恐れます。社会不安や戦争を恐れます。神が主イエス・キリストの十字架の権威は、人間の罪を赦す神の愛の権威です。人間の罪のすべてを超える権威となります。そして、このキリスト・イエスにおいて示された神の愛からは、もはや何者も、私たちを引き離すことは出来ないのです。神はこのキリストの愛を、直接私たちに与える場所を、この地上にお立てになったのです。私たちは主イエス御自身の罪を赦す権威に触れ、実際に罪を赦されて、自分の足で立ち、自分の手で床を担ぎ、自分の口で神を讃美することが出来るのです。私たちはまた、そのような主イエスの御許に、隣人や友人、知人たちを連れてくることが出来ます。この四人の友人たちのように、連れてきて、そしてここで、共に神の国に入る喜びに与ることが出来るのです。主は「子よ、あなたの罪は赦される」と中風の人に呼びかけられました。この宣言は今私たちに向けられている主の御言葉なのです。

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