主日礼拝

神の約束を信じて

「神の約束を信じて」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 創世記、第17章 1節-27節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第6章 8節-第7章16節
・ 讃美歌 ; 10、156、460

 
ステファノ
 使徒言行録の6章7章には、一人の主人公がいます。初代の教会に、彗星のごとく現れ、明るい力強い光を放って人々を照らし、またたく間に殉教の死をとげた一人の主人公、その名はステファノです。6章と7章はこの人の活動を語っています。6章の7節までのところには、教会に起った一つのもめ事をきっかけにして、彼を始めとする七人の人々が新しい務めに選び出され、任命されたことが語られていました。このことは、教会が奉仕者を整えることによって、もめ事を越えて前進していったことを語っていると同時に、ステファノの登場を語り、彼のことを紹介していると言うことができます。そして8節からは、ステファノの活動のことが語られていくのです。
 先週見ましたように、彼ら七人が選ばれ、任命されたのは、信者たちが献げた献金を、貧しい人、援助を必要としている人に適切に分配する、という奉仕のためでした。しかし8節以下に語られているステファノの活動は、そういうことよりもむしろイエス・キリストを宣べ伝えていく伝道の働きです。それは、先週も申しましたが、彼が、任命された働きとは違うことをしていった、ということではありません。そもそもこの新しい務めが立てられたのは、神様のみ言葉がないがしろにされることがないためでした。使徒たちが祈りとみ言葉の奉仕に専念することによって、教会が礼拝とそこで語られるみ言葉によってしっかりと生かされていく群れとなるために、新たな奉仕職が立てられたのです。従って、ステファノたちが日々の分配の奉仕をしっかりと果していったことによって、教会は、ますますみ言葉に堅く立ち、そこから命をいただいて生かされ、その結果として、連なる人々の証し、伝道の力が強められていったのです。ステファノも、またこの後に出てくるフィリポという人も、そのようにして、伝道の働きをも与えられていったのです。つまり、教会において、弱い者、貧しい者への援助のための働きと、み言葉を宣べ伝える伝道の働きは別のものではないのです。伝道と切り離された援助の働きはないし、また伝道に忙しいから援助の働きができない、というものでもないのです。

ステファノの信仰
 さてステファノは、8節にあるように「恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行って」いきました。彼は「恵みと力に満ち」た人でした。また10節には「彼が知恵と霊とによって語」ったとあります。少し戻って4節には彼のことが「信仰と聖霊に満ちている人」と紹介されています。このようにステファノの信仰者としての素晴らしさが語られているのですが、彼のことを紹介する際に必ず二つの言葉がセットになっていることに気づかされます。「恵みと力」「知恵と霊」「信仰と聖霊」です。この内、「力、知恵、信仰」は、ステファノ自身が持っているよい資質、人となりを言い表す言葉であると言えるでしょう。しかし他方の「恵み、霊、聖霊」は、ステファノが持っているものではありません。聖霊の働きによって神様が与えて下さったものです。ここに、ステファノの信仰者としての本質が示されています。つまり彼の力も知恵も信仰も、全ては聖霊の働きによって、神様に与えられたものなのです。彼の素晴らしい働きは、神様の力、聖霊の働きを祈り求めるところに与えられたものです。教会における奉仕や伝道の業はそのようにしてなされていくのです。私たちがもしもそれを自分の力や実力でできると思ったり、しようとするならば、その奉仕や伝道は聖霊によるものでなくなり、主イエス・キリストを証しするものでなくなってしまいます。けれども逆に、私たちの力や資質はどんなに小さな貧しいものであっても、聖霊のお働きを祈り求め、神様の恵みと力をいただいて精一杯奉仕し、伝道していこうとするならば、そこに神様ご自身が働いて下さり、神様の栄光を表し、教会を建て上げていく働きが与えられていくのです。

ステファノの論敵
 ステファノはこのようにして力強い伝道をしていきましたが、そこには直ちに敵対する者たちが現れました。彼らは、議論をしても歯が立たないので、人々を唆し、またユダヤ人の指導者たちをも煽動して、ステファノを訴え、逮捕させたのです。ステファノは最高法院の裁きを受けることになりました。彼に敵対し、訴えたのはどのような人々であり、どのようなことで訴えたのでしょうか。9節に、彼に敵対した人々のことが記されています。「ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる『解放された奴隷の会堂』に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した」。ステファノに敵対したのは、「キレネとアレクサンドリアの出身者」「キリキア州とアジア州出身の人々」などです。彼らは皆、外地出身のユダヤ人たちです。これらの人々が、「解放された奴隷の会堂」に属していたとも語られています。「解放された奴隷」とはこの場合、ローマの将軍ポンペイウスによって紀元前63年にユダヤが征服された時に捕虜になり、奴隷とされていた人々の子孫で、後に解放されてユダヤに戻った人々のことを指しています。つまりこれらの人々は、いろいろな事情で一旦ユダヤの地を離れ、当時のローマ帝国のあちこちに生活するようになり、ギリシャ・ローマの文化に深く触れ、言葉も、当時の共通語であったギリシャ語を話すようになっていたユダヤ人たちです。その人々がユダヤ、エルサレムに戻って住んでおり、そのような人々が集まって会堂を持っていたのです。つまりこの人々は、先週出てきた「ギリシャ語を話すユダヤ人」と同じグループに属する人々です。その人々の中に、主イエスを信じて教会に連なるようになった人々もいたし、そうでない人々もいたのです。ステファノも、そのギリシャ風の名前からして、おそらく「ギリシャ語を話すユダヤ人」の一人だったと思われます。あの七人の奉仕者は皆、そのグループの出身であると思われるのです。彼らの仲間のやもめたちが日々の分配において軽んじられている、という問題を解決するために、このグループの人々が七人、新たな奉仕者に選び出されたとも考えられるのです。それはともかく、要するにステファノに敵対した人々は、ユダヤ人の中で、ステファノと同じグループに属する人々です。ステファノは、自分の仲間であるユダヤ人たちに対して、熱心に伝道していったのです。その結果、彼らの怒りをかい、訴えられているのです。

律法と神殿
 彼らは何故にステファノに対してそんなに怒ったのでしょうか。彼らが人々を唆して語った言葉が11節にあります。「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」。そして捕えられたステファノの裁判において、彼らが偽証人たちに訴えさせた言葉が13、14節にあります。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」。この二つの言葉は同じことを語っています。最初の言葉に、「モーセと神」を冒涜したとありますが、「モーセ」によって意味されているのは、モーセの律法のことです。「神」という言葉で言い表されているのは、神様の住まいである神殿のことです。14節の言葉における「この場所」とは神殿のことであり、「モーセが我々に伝えた慣習」というのは律法に基づく神殿の祭儀のことです。つまり彼らがステファノを訴えたのは、律法と神殿とを冒涜している、ということによってだったのです。彼らとステファノとの議論の中心テーマはこの律法と神殿の問題でした。彼らは、律法と神殿とを非常に大事に考え、そこにこそユダヤ人のユダヤ人としての伝統を保証するものがあると主張したのです。ユダヤ人のユダヤ人としての伝統とは、言い換えれば神様の民としての伝統ということです。イスラエルの民、ユダヤ人が、神様の民であることの印、保証が、律法と神殿にこそある、と彼らは考えたのです。それに対してステファノは、律法や神殿ではなく、主イエス・キリストによる救いを語り、主イエスによってこそ真の神の民となることができる、と強調したのです。そのことが彼らの怒りをかったのです。
 先程申しましたように、彼らは、外地帰りの、ギリシャ後を話すユダヤ人です。先週申しましたように、ヘブライ語を話す、ずっとユダヤの地に住み続けていた生粋のユダヤ人たちからは、民族の伝統を失った連中として軽蔑されていた人たちです。だからその人々とは別に自分たちの会堂を造って集まっていたのです。そのように、ユダヤ人の伝統から外れてしまっていると思われている彼らが、律法と神殿にそこまでこだわり、それを大事にするというのは不思議な感じもします。しかしまた、外国の文化の影響を受け、民族の伝統を失いかけている人々が、かえってその伝統にこだわり、固執するようになる、ということはよくあることでもあると思います。日本の右翼が、やたらに天皇制を強調し、時代錯誤の軍歌などを流しているのもそれと似ていると言えるでしょう。外地帰りのユダヤ人だからこそ、ユダヤ人の伝統に敏感になり、そのために律法と神殿に固執し、そこに拠り所を求めているのです。またそういう思いがあるからこそ、彼らは生まれ育った地を離れて、ユダヤに、その中心であるエルサレムに移り住んだのです。そういう彼らにとっては、律法と神殿を軽んじることは、絶対に許せないことだったのです。

ステファノの説教
 さてこのようなわけで、律法と神殿とを冒頭する罪で訴えられたステファノが、大祭司を始めとする最高法院の人々の前で語った弁明が7章に語られています。7章全体に及ぶ非常に長いもので、弁明と言うよりも一つの演説、説教です。そこをこれから何回かに分けて読んでいきたいと思っています。本日は、16節までのところです。この説教においてステファノが語っていることの殆どは、イスラエルの民の歴史です。イスラエルの人々なら誰でも知っている、旧約聖書に語られているイスラエルの歴史のおさらいをしているのです。自分が訴えられ、死刑になってしまうかもしれない裁判の席で、このように悠長に歴史を振り返っているのは不自然なことのようにも思えます。しかしよく読んでみると、ここには、今訴えられている問題についての、ステファノの考え、確信が明確に述べられているのです。そのことをご一緒に見つめていきたいと思います。

アブラハムの旅立ち
 彼が先ず語り始めるのは、アブラハムのことです。イスラエルの民の歴史はこのアブラハムから始まりました。その始まりが7章2、3節に語られています。「わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』と言われました」。これは厳密には、創世記12章に記されているアブラハムの旅立ちの記事とはくい違うのですが、しかし大事なことは、アブラハムが神様のみ言葉を受けて、神様の示す地に向かって旅立ったことです。「あなたの土地と親族を離れ」とあるように、慣れ親しんだ地と親しい者たちを離れて彼は旅立ったのです。そこに、アブラハムの信仰の、即ち聖書が教える信仰の本質があります。信仰とは、旅に出ることです。自分の故郷から出て、つまり安住の地を離れて、この世を旅人として、寄留者として歩んでいくのです。ステファノはアブラハムのそのような歩みを、4節後半から5節前半にかけてこのように語っています。「神はアブラハムを、彼の父が死んだ後、ハランから今あなたがたの住んでいる土地にお移しになりましたが、そこでは財産を何もお与えになりませんでした。一歩の幅の土地さえも」。何も財産を持たず、一歩の幅の土地さえも持たずに住む。旅人、寄留者として歩むとはそういうことです。「これは自分のもの」と言うことができる何物をも持たずに、つまり自分の持っているものに依り頼むことが全くできない中で生きていくのです。

神の約束
 そのような旅人としての歩みにおいて、神様が彼に与えて下さったものが一つだけありました。それは、約束のみ言葉です。5節後半、「しかし、そのとき、まだ子供のいなかったアブラハムに対して、『いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫たちに相続させる』と約束なさったのです」。アブラハムは、この神様の約束のみ言葉を信じて旅立ち、歩んだのです。約束とは、今はまだ目に見える現実となっていないことの約束です。目に見える現実においては、一歩の幅の土地さえも得てはいないのです。また、アブラハムも妻のサラも、旅立った時には既に高齢であり、子供がいなかったのです。そういう現実の中で、「この地をあなたに与え、あなたの子孫に相続させる」という約束を、約束のみを与えられて、それによって歩んだのです。神様はさらに、彼の子孫が外国に移住し、そこで四百年の間、奴隷とされて虐げられる、その後神様が彼らをそこから導き出し、この地に連れ帰るということをも語られました。エジプトへの移住と、そこでの奴隷の苦しみ、そしてモーセによる出エジプトとカナンの地への定住の歩みが予告されているわけです。これもまた、まだ起っていないことの約束です。そのようなことが実現するという目に見える保証は何もない、ただの約束の言葉に過ぎないと言ってしまえばその通りのことです。アブラハムはこのような神様の約束のみ言葉を信じて歩みました。それが彼の信仰なのです。ステファノは、このことを示し語ることによって、次のように言っているのです。「あなたがたは律法や神殿を拠り所とし、自分が神の民であることの目に見える保証をそこに求めている。しかし、イスラエルの最初の先祖であるアブラハムの時代には、まだ律法もなければ、神殿もなかった。アブラハムは、それらの目に見える拠り所や保証は何もない中で、ただ神様の約束のみ言葉のみを頼りに、それに依り頼んで旅立ち、歩んだのだ。そのことによって彼は信仰の父と呼ばれるようになった。イスラエルを神の民たらしめているのはこの信仰であって、律法や神殿ではない。真実のイスラエル人、神の民とは、アブラハムと共に、目に見える保証が一切ないところで、ただ神様の約束のみ言葉を信じて生きる者なのだ」。
 ただ神様の約束のみ言葉のみを信じて生きる。その信仰は、今私たちに与えられ、私たちがそれによって歩んでいる信仰と同じです。私たちは、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって与えられた神様の救いの恵みを信じています。神様の独り子である主イエスが、その十字架の苦しみと死において、私たちの全ての罪を引き受け、それを背負って、私たちの代わりに死んで下さったこと、それによって私たちは神様の赦しの恵みをいただいていること、父なる神様がその主イエスを死者の中から復活させられたことによって、神様の恵みが私たちの罪と死に勝利しており、私たちにも、主イエスの復活にあずかって永遠の命を生きる新しい体が約束されていること、これらのことを信じて生きるのがキリスト者、クリスチャンの信仰です。しかしこれらのことは全て、神様が聖書を通して告げて下さっているみ言葉であり、約束として与えられていることです。それが真実であることを証明する目に見える証拠や保証はありません。キリストの十字架が私たちの罪の赦しのためだったことも、その復活も、またそれが私たち自身の復活の希望を与えるものであることも、証拠を示せと言われてもそんなものはないのです。私たちに求められているのは、目に見える何の保証もないこの神様のみ言葉を信じて受け入れ、それによって旅立ち、神様と共に生きることです。信仰とは本来そういうものです。それは、目に見える拠り所に支えられた安住の地を離れて、何が起るかわからない未知の世界へと冒険の旅に出るようなことなのです。

ヨセフ
 9節以下には、ヨセフの物語が語られています。ヨセフは兄弟たちに妬まれてエジプトに奴隷として売られてしまいました。しかし9~10節にあるように、神様は彼を離れず、あらゆる苦難から助け出し、ついにはエジプト全体を司る大臣にまでして下さいました。このことが、後に大飢饉が起った時にイスラエルの民がエジプトに逃れて生き延びるための備えとなったのです。このヨセフの物語でステファノが見つめていることは、神様はご自分の約束をこのように実現して下さる、ということです。兄弟を妬んで奴隷に売り飛ばす、という人間の深い罪、そしてその結果としてのまことに悲惨な現実の中でも、主なる神様は約束を与えて下さった者たちを離れず、共にいて下さり、人間の罪をも用いて約束を果して下さるのです。このヨセフ物語もまた、目に見える現実に逆らって神様の約束を信じて生きることを教えています。神様の約束を信じる信仰とは、このような神様の導きのみ業に身を委ねて生きることなのです。

割礼による契約
 ステファノがアブラハムの歩みにおいて見つめていることがもう一つあります。それは8節にある「割礼による契約」です。アブラハムは、目に見える保証や証拠は何一つ持たずに、ただ約束のみ言葉のみによって歩みました。その彼に、神様が、ご自身の約束の印として与えて下さったのが割礼です。割礼は、神様の約束即ち契約の相手とされ、神様の民として歩んでいることを彼の体に刻みつける印です。約束のみ言葉を信じ、それのみによって生きていく信仰者に、神様はこのような約束の印を与えて下さるのです。後にはこの割礼も、律法や神殿と同様に、目に見える拠り所となり、ユダヤ人が自らを誇るためのよすがとなってしまったことが新約聖書には語られています。しかしアブラハムにとって割礼は、目に見える保証が何もない中で、神様の約束、契約の印として与えられたものだったのです。この割礼の印は、私たちの信仰においては、洗礼へと受け継がれています。主イエス・キリストによる新しい契約にあずかり、救いの約束を与えられ、それを信じて、教会に連なる者として生きていく私たちキリスト者に、神様は、洗礼という印を与えて下さるのです。この印によって私たちは、主イエス・キリストによる救い、罪の赦し、主イエスの復活にあずかる永遠の命の約束への確信をますます堅くされるのです。洗礼が人を救うのではありません。洗礼を受けることは、私たちが、自分の中に救いの保証を持ち、それに依り頼むことができるようになることではありません。私たちの救いはあくまでも主イエス・キリストの十字架と復活によって与えられているものです。そのことを信じ、神様の約束のみ言葉に依り頼んで生きる者であることを私たちの心と体に刻みつける印が洗礼なのです。

天使のような顔
 最後に、6章の終わりの15節を戻って見つめたいと思います。「最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた」。捕えられ、裁判にかけられ、死刑にされようかとしているステファノの顔は、天使の顔のように輝いて見えたのです。天使の顔とはどんな顔か、それは、神様への信頼による喜びと平安に満ちた顔ということでしょう。天使は神様のみもとで、いつも神様のみ顔を仰いでいるのです。それによって天使の顔は喜びと平安に輝くのです。ステファノがこの危機的な状況の中でそのような輝いた顔をすることができたのは、彼が、主イエス・キリストによって与えられた神様の救いの約束を信じ、この世の目に見える何物かや、自分自身の中にある何かを見つめてそれに依り頼むのでなく、ひたすら主イエス・キリストを見つめていたからでしょう。私たちは、自分の現実や、周囲の状況を見つめていたら、天使のような輝いた顔をすることはできません。私たちの周りには、顔をくもらせるような現実が満ち溢れています。ステファノが置かれた現実も私たちの置かれている現実も、そういう意味では違いがないと言えるでしょう。しかしその中でステファノは、主イエス・キリストを見つめたのです。私たちの罪の赦しのために十字架にかかり、苦しみを受け、死んで下さり、復活して天に昇られた主イエスによって神様が与えて下さっている約束を見つめたのです。そのことによって彼の顔は、喜びと平安とに満たされた、輝かしい顔になったのです。何を見つめて生きるかによって私たちの顔は変わってきます。主イエスを見つめ、主イエスによって神様が与えて下さっている救いの約束を見つめていくときに、私たちの顔もまた、喜びと平安によって輝くのです。

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