「新しいぶどう酒」 伝道師 宍戸ハンナ
・ 旧約聖書: イザヤ書 第58章1-12節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第2章18-22節
・ 讃美歌:204、514、528
一人ひとりに
本日は共に、マルコによる福音書第2章18-22節を通して神様の御言葉に聞きたいと思います。マルコによる福音書は主イエスが実際になさったことを必ずしも時系列的に、時間的な順序で書いてはおりません。けれども、本日の箇所はまだ主イエスの伝道の業が始まったばかりの頃の事柄が書かれておりますこのマルコによる福音書は第2章から第3章にかけまして、主イエスの伝道が最初から成功はしなかったように見えます。私たちの視点からすれば、うまく行かなかったものであることははっきり書いています。主イエスの語られた御言葉は必ずしも人々の理解を得られなかったのです。そこにはある種の戦いが生まれていました。人々が主イエスに、主イエスの御言葉を理解出来なかったこと、それはこの時代に生きていたユダヤの人々のことだけではありません。たまたまこの人たちが愚かだったのか、傲慢であったというわけではないでしょう。そこには、私たちすべての人間と主イエスとの関わりに、どうしてもあらわになってしまう愚かさがあります。聖書は、福音書はここで一体何を言おうとしていのか、私たち一人一人に問いかけております。
古い自分自身
主イエスのお言葉は私たち一人一人に言われます。本日の箇所の最後の22節「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」主イエスがなぜ、このようなことを語られたのでしょうか。それは、主イエスが語られたこと、なさることを、古い革袋で受け入れようとするからです。私たちもそのような経験をすると思います。教会に初めて来て、説教を聞き、聖書を読むとき、どんな入れ物で受け入れようとするのでしょうか。御言葉を受け入れようとするとき、どんな入れ物で受け入れようとするのでしょうか。主イエスは「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」と、その入れ物まで新しい入れ物に入れるものだ、とおっしゃいます。中身にふさわしい入れ物になって、主イエスの語る言葉を、主イエスのなさることを受け入れてほしいと、そう語りかけていて下さるのです。そして、私たちはそこのところで、まことに頑固で、頑なです。なかなか主イエスの言葉を聞いても、自分を変えようとしない。なぜ、自分がこの主イエスの求められるような入れ物になることができないのか。私たちは主イエスの御言葉を、ある一部分だけで受け入れているのではないでしょうか。私たちは私たちのある悪い一部分だけ取り上げて、この願います。悪い部分を直してください、他の悪くない、良い部分はこのままで良いですとお願いするのではないでしょうか。私たちは一部分だけでも、自分を変えるというのは難しいことです。まして、私たちのすべてが新しくならなければならないと言うのであれば、とても厄介な話になります。そうでなければ、自分そのものを失うことになるからです。私たちはこのように、古い自分自身、それまでの過去の自分自身にこだわる存在ではないでしょうか。
古いもの
21節以下で、主イエスはこう語っておられます。「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。」古い布に新しい布を当てて繕うことができるかということです。ここに書いてあることをそのまま読むと、新しい布切れが古い布切れを引き裂いて、破れがいっそうひどくなる。破れるのは古いほうです。それを破いてはいけないのです。大事なのは古い布だということになっております。大切にしなければならないのは、古い布であるとここで言われています。古いものを破いてはいけないから、不用意に新しいものを縫い合わせていけないというのです。それならば、古いものを保存するために、同じような古い布で縫い合わせをしなければならないことになります。そう読みますと主イエスはここで、「古いものを大事にしょう」とおっしゃっていることになってしまいます。しかし、そうなると先ほどのこととは違ってきます。主イエスはここで、新しさについて問題にしておられるのです。「古いものを大事にしょう」ということについて語っているのではありません。そう読無のであれば、その人自身が古さにこだわっているからです。信仰生活を始めてからもそうです。
新しさ
ここで主イエスがおっしゃっている「新しさ」とは何でしょうか。古いものに固執するのは間違いであると決めつけ、新しいものを尊重しなければならないことでしょうか。何でも新しい方が良いのでしょうか。ここで主イエスは言われている「新しいぶどう酒」とは何でしょうか。それは主イエスご自身のことであります。主イエスがもたらして下さる喜びそのものです。ここで、私たちに問われていることは、私たちが主イエスのもたらす喜びの新しさを入れる入れ物になっているかどうかということです。この主イエスのもたらす喜びによって、入れ物そのものが変えられるのです。主イエスのもたらす喜びの新しさを盛る入れ物にされ、主イエスご自身を私たちの中に迎え入れることができるようになりのです。
なぜ、断食しないのですか
この新しいことをめぐる具体的な議論のきっかけになったのは本日の最初の箇所にあります。「断食」について人々が主イエスに尋ねたことです。18節にこうあります。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。『ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。』」とあります。この主イエスに対する人々の問いかけは、18節の前の17節の記事に関連があります。主イエスは弟子となった徴税人レビの家で食事をした、とあります。15節には「イエスがレビの家で食事の席に着いておられた」とあります。レビは大喜びで主イエスと食事をしました。具体的な様子はありませんが、賑やかな食事の席であったと言えます。同じマルコによる福音書の少し先の11章19節で主イエスは「大食漢で大酒飲みだ。」と言われております。このように批判されたとまで福音書にはあります。少なくともそのぐらいに、主イエスと仲間たちは食事が好きだったと言えます。ここでの、主イエスが楽しそうに食事をしておられたのであります。そのような主イエスのお姿を人々が見ておりました。人々は主イエスが楽しそうに食事をしておられるのを見ながら、思い起こしたことがありました。同じように信仰の新しい運動をしている人々の中で、「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。」ことを思い浮かべたのです。この「断食」には様々な方法があったようです。1週間の内に何日か日を決めて物を食べなかったり、一定の期間物を食べなかったり、あるいはいつも粗末な食事をしたりというように様々な方法がありました。私たちの生活においては馴染みのないことかもしれません。しかし、一定の期間、食べ物を断つことが宗教上の掟として定められているということは珍しいことではありませんでした。旧約聖書の律法にも断食について記されています。そこでは年に一度、定められていた贖罪日に「苦行をする」という定めがあり、断食のことが言われています(レビ記16章20節)。断食をする理由は、宗教や時代において様々です。しかし、聖書において「断食」とは、自らの罪を省みて、神に罪を告白するため、又、神に対して、悔い改めをあらわすためになされるものでした。そのような悔い改めの思いが、食を断つという形になってなされるようになったのです。ヨハネの弟子たちもファリサイ派の人々もこの断食を厳守し、そのことを誇りとしていました。この断食についてヨハネの弟子たちとファリサイ派では少し意味づけは違っていたようであります。この断食を大事にしておりました。断食をする人々は、肉的な食べ物を断つことによってより自分たちがより高尚な生活を送り、高尚な人間になることを求めていました。けれども、主イエスは断食について弟子たちには何もお教えにならなかったのです。禁欲的な規律を何も課してはいないのです。更に、主イエスは楽しそうに食事をしていたのです。断食を重視する立場から見るならば、このような主イエスのお姿は不可解な異質な姿に見えました。ここで「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」と人々は主イエスに尋ねました。主イエスお一人のことを問題にしたのではなく、むしろまず弟子たちが問題にされています。人々の問いはこう言えます。「あなたの弟子たちはいつも喜んで食事をしている、それをあなたは何もおっしゃらないのですか?」と言うことです。
断食について
ここで、食事のことが問題になっています。私たちの信仰とは、このように食事にまで表れてくるようなことなのです。私たちが主イエス・キリストによってもたらされる新しい喜びを受け入れる入れ物になるということは、私たちの食事の仕方までも変わることなのです。食事の仕方が変わるとはどういうことなのでしょうか。ここでも主イエスの弟子たちの食事の姿が問題とされました。ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人たちは立場が違い、考え方が少し違ったかもしれませんが、断食を日常的に行なった人々です。ヨハネの弟子たちは、自分たちの先生であるヨハネのように粗末な毛衣を着て、いなごと野蜜を食べるのが日常の姿でありました。週のうち何日か、あるいは特別な日だけに、いなごを食べたというのではなく、いつもそうしておりました。それが日常の姿だったのです。そのようにして、神の審が近いことを告げ、悔い改めを迫ったのです。その神の審きの厳しさの前において、厳しい思いを持った弟子たちが、できるだけ自分たちの先生に近い、粗末な服装、食べ物、粗末な生活を自らに強いたのであります。断食と言うのは自らに強いることです。
先ほど、旧約聖書イザヤ書第58章をお読みいただきました。3節の前半にこうあります。「何故あなたはわたしたちの断食を顧みず 苦行しても認めてくださらなかったのか。」ここでは「断食」をすぐに「苦行」と言い換えています。この「苦行」と言う言葉は、別の訳では「おのれを苦しめた」「身を戒めた」となっております。自分を苦しめる、自分の身を戒める、自分に強いるということです。神の審きに備えるようにと、戒めたのです。ファリサイ派の人の断食というのは、少し意味づけが違います。ルカによる福音書第18章12節にこうあります。ファリサイ派の一人が徴税人と並んでこう言いました。「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」当時のファリサイ派は週に二回、月曜日と木曜日に断食をしていたようです。ちょうど一週間を半分に分けたところで、1日断食をしたというのです。そのように断食を日常化していました。主イエス・キリストも断食をされなかったわけではありません。マタイによる福音書4章では主イエスが「四十日間、昼も夜も断食した」とあります。また6章では弟子たちに祈りをするときに「断食する」ことがあることを認めておられます。けれども、私たちの信仰生活の習慣において断食はありません。もちろん、私たちの教会の生活の中においては主イエスのご受難を覚える時期にある食べ物を断つ、好きなことを断つということをすることがあるかもしれません。けれども、日常化してはおりません。断食をして生きるということが、あるいはそれをできるだけ日常化するということが私たちの生活の基本的な姿ではありません。私たちは食事をするのです。主イエスも弟子たちとの食事を楽しく囲まれたのです。一緒に喜んで食卓を囲むのが教会の姿です。
喜びの婚宴
主イエス・キリストはそのことをこう説明されました。19節「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。」主はここで「断食をしてはならない」とおっしゃっているのではありません。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。」花婿が一緒にいるのに断食ができるであろうか、と言われるのです。花婿が来るのを迎えている婚礼の席の人々に「断食しなければならない」と言えるであろうか、ということです。婚礼の場とは、喜びに溢れている場所です。断食などは考えられないのです。なぜか、「花婿」がいるからです。花婿とは主イエス・キリストであります。主イエスはここで、わたしが花婿だとおっしゃいます。婚礼の祝いとはまさにそこに、花婿がいることの喜びです。「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」とあります。「花婿が奪い取られる時が来る」のです。奪い取られる時とは、主イエスが十字架につけられ、弟子たちのところから去る時です。その時には、「彼らは断食することになる」とあります。主が十字架につけられ命を奪い取られる。食事も取れなくなるということです。
そして、主イエスは続けて言われます。21節「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。」また、22節では別の譬えを用いられます。「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」主イエスは新しい秩序をもたらすのです。新しい秩序はこれまでと異なる秩序です。主イエスの御言葉に現されるわたし、主イエスが来たのは、「正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と神の国の福音が罪人を招き、これまで習慣とされ、大事にされてきた断食を弟子たちに求めなないこと。これらのことは、これまでの考えにはないことです。主イエスがここで語られていることは、主イエスによってもたらされる新しい支配です。新しい布が古い布を引き裂きます。新しいぶどう酒が古い革袋を破いてしまいます。主イエスの語られる御言葉を自分で所有して、それを古いものにしてしまうのであれば、それは、福音ではなってしまうでしょう。福音も、自分自身で所有しようとすることによって古いものに固執することになります。
主イエスとの新しい出会いは、新しい生き方を私たちにもたらします。主イエス・キリスト御自身が十字架において、人間の罪のために死に赴かれました。ご自身を引き裂かれ、古い秩序を壊されました。神は主イエスの十字架の出来事によって、私たちに新しい命をもたらして下さいました。新しい命をもったお方、イエス・キリストを受け入れることのできる新しい入れ物になることです。この主イエスに私たちがただ招かれていること、そのお方が近くにいて下さることを信じることなのです。主イエスが来られ、私たち人間のために十字架にかかり復活なさったことは、古きに固執する、私たちの中への神の支配の新しさの到来です。この方によって、古いものは過ぎ去り、新しいものが来るのです。新しいぶどう酒のために新しい革袋を用意しなければならないように、私たちの信仰生活は、常に、新しくされていなければなりません。
新しさの中で
主イエスに従うものたちは、主イエスが再び来られる終わりの時を待ち望みつつ歩みます。その時とは真の神の支配が完成する、婚礼の時です。その時に至るまで、私たちは、新しいものを受け入れるために、新しくされ続けるのです。主イエスの弟子の歩みは、すでに、主イエスが共にいてくださるという婚礼の喜びの中で、未だ来ていない終わりの時における婚礼の宴を待ち望む歩みなのです。その歩みにおいて、私たちは、自分が救いの確かさを所有するのではなく、神のご支配が、私たちを保って下さることに信頼して、御言葉によって常に新しいものとされつつ歩むのです。この新しさの中で、私たちは主イエスと共に喜んでこの週を歩みたいと思います。