主日礼拝

信仰によって義とされる

「信仰によって義とされる」伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:詩編 第143編1-6節
・ 新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙 第2章15-21節
・ 讃美歌:14、149、474

信仰によって義とされる
 「信仰によって義とされる。」これは、今から500年ほど前に起こった宗教改革の根幹を成していました。この宗教改革によってプロテスタント教会が誕生しましたが、その流れにある私たちの教会もこのことを受け継いでいるのです。宗教改革より以前は、「信仰と行いとによって義とされる」と信じられていて、人が義とされるためには、信仰だけでなく善い行いを積み重ねることも必要だと考えられていました。それに対して宗教改革は、人が義とされるのは「善い行い」によるのではなく、ただ信仰のみによる、ということを打ち立てたのです。ここで言われている義とは「正しさ」という意味です。それは法廷での言葉、裁判のときの言葉と言われています。つまり人が義とされるとは、神さまによってあなたは正しいと言われることであり、あなたは無罪であると宣言されることなのです。ですから問われていたのは、どうやったら人は義とされるのか、神さまに正しいと言ってもらえるのか、無罪であると宣言してもらえるのか、ということになります。当時、聖書に示されている神さまの義、神さまの正しさは、人が救われるための基準、ものさしであり、神さまの義にふさわしい人は救われて、ふさわしくない人は裁かれると考えられていたのです。それゆえに人々は救われるために善い行いを積み重ねようとしていました。私たちは、当時の人たちがそのことに必死であったということに、いまひとつピンと来ないところがあります。その理由の一つには、当時の人たちが終わりの日の最後の審判における神の裁きを、私たち以上にリアルなこと、重いこととして受けとめていたということがあるでしょう。最後の審判において神さまの御前で、自分が積み重ねてきた行いが神さまの正しさというものさしによってはかられて、無罪と宣言されるのか、それとも有罪と宣言されるのか、そのことが重大な問題だったのです。もちろん私たちも終わりの日の神の裁きを軽んじているわけではありません。しかし当時の人たちは有罪と宣言されることへの恐れに駆られて、必死で善い行いを積み重ねようとしていました。宗教改革者のトップバッターであるマルティン・ルターもそのような一人でしたが、彼は自分がどんなに頑張っても自分が正しいとは思えなかった、自分が神さまの義にふさわしいとは思えなかったのです。そのような中で彼は聖書と格闘することを通して、人間の行いによって神さまの義にふさわしくなるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって罪人でしかない人間に神さまの義が与えられ、人は義とされるということを発見したのです。本来罪人である人間は、最後の審判において有罪の判決を受け、裁かれ滅ぼされるしかありません。しかし神さまは主イエス・キリストを十字架に架け殺すことによって、私たちの代わりに主イエス・キリストを裁いたのです。この神さまの恵みによって、主イエス・キリストを信じる人は、罪人であるにも関わらず、義とされ、正しいとされ、無罪と見なされるのです。このことこそ「信仰によって義とされる」ということであり、宗教改革以降、プロテスタント教会が受け継いできた信仰の根幹です。けれども間違ってはならないのは、宗教改革が打ち立てたというのは、あるいはルターが発見したというのは、宗教改革やルターが「信仰によって義とされる」ということを新しく考え出したということではありません。そうではなく聖書こそがそのことを告げているということが、宗教改革において、あるいはルターによって見いだされたのです。埋もれ隠れてしまっていた聖書が告げる宝がルターによって再発見されたのです。ですから「信仰によって義とされる」という教えが先にあるのではなくて、聖書がそのことを先に告げているのです。本日読んでいるガラテヤの信徒への手紙第2章15節から21節も、そのような聖書箇所の一つです。
 その冒頭に「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」とあります。これだけ読むとパウロが異邦人のことを差別しているように思えます。しかしここでパウロは、そのような差別をしているのではありません。そのことは本日の箇所の前、11から14節で語られていたことを見ると分かります。12月の最後の主日礼拝でこの箇所を共に読みましたが、そこではアンティオキアの衝突と呼ばれる事件が語られていました。簡単に振り返るならば、アンティオキア教会では、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が一緒に食事をしていましたが、当時、このことは当たり前のことではありませんでした。律法の掟によればユダヤ人は異邦人と一緒に食事をしてはならなかったからです。しかしそのような困難を乗り越えてアンティオキア教会はユダヤ人と異邦人が一つの教会を形成していたのです。この教会の指導的立場にあったのがパウロでした。しかしそのアンティオキア教会にケファ、つまりペトロがやって来ると、彼は最初、異邦人と一緒に食事をしていたにもかかわらず、エルサレム教会のヤコブのもとから来た人たちを恐れて異邦人と一緒に食事をすることから離れてしまいました。このペトロの行動によって、アンティオキア教会のユダヤ人キリスト者たちが異邦人と一緒に食事をすることを拒むようになったのです。パウロは、ペトロを始めとするそのような行動をした人たちが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないと見なし、ペトロを面と向かって非難しました。このアンティオキアの衝突について語られた後に、本日の箇所の冒頭15節で「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」と言われているのです。この「わたしたち」とは11節から14節で語られていたユダヤ人キリスト者のことであり、「生まれながらのユダヤ人であって」というのは、生まれつき神によって選ばれた民であり、それゆえ神さまから掟、律法を与えられていたということです。それに対して異邦人は選ばれた民ではなく、また律法が与えられていなかったので、ユダヤ人から「罪人」と見なされていました。アンティオキア教会で起こったことは、ユダヤ人と異邦人が一つの教会を形作っていたにもかかわらず、ユダヤ人キリスト者が異邦人キリスト者と一緒に食事をすることを拒むことによって、異邦人は罪人であるという考え方にペトロを始めとする人たちが引きずり込まれたということにほかなりません。ですから15節のパウロの言葉は、アンティオキア教会で異邦人と一緒に食事をすることを拒んだユダヤ人キリスト者たちの考えを代弁しているのです。
 その上でパウロは「信仰によって義とされる」ということを16節で次のように語っています。「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」これこそ宗教改革において、またルターによって見いだされた、人は律法の行いによってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされる、ということにほかなりません。確かにユダヤ人には律法が与えられていました。しかしその律法の行いによっては、ユダヤ人であろうと異邦人であろうとだれ一人として義とされないのです。新共同訳は「律法の実行」と訳していますが、その意味するところは「律法のわざ」あるいは「律法の行い」です。アンティオキア教会において、もともとはイエス・キリストへの信仰のみによって共に食事をすることができていたのに、アンティオキアの衝突において異邦人キリスト者が教会の食卓の交わりに再び加わるためには、信仰に加えて割礼を受けるという律法の行いが求められるようになりました。しかしパウロはそのような律法の行いによって義とされるのではないと言います。またこの手紙はガラテヤ教会の人たちに向けて書かれていますが、そこでもアンティオキア教会と同じように、かつてはパウロが伝えた福音、つまり信仰のみによる救いを信じていたのに、今は人が義とされるためには、救われるためには信仰に加えて律法の行いも必要だと考えられるようになっていたのです。パウロは、アンティオキア教会に起こったことと、ガラテヤ教会が陥っている危機を重ね合わせつつ、16節で人は律法の行いによっては義とされない、救われないのであって、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされ救われるのだと告げているのです。パウロもペトロもアンティオキア教会とガラテヤ教会の人たちも、そして私たちもこのことを告げ知らされて主イエス・キリストを信じ、神さまの一方的な恵みによって罪を赦され義とされ救われたのです。

「行い」としての信仰?
 このようにして16節は宗教改革の信仰、また私たちの信仰の真髄を告げるみ言葉です。しかしこの信仰の真髄は、すでにアンティオキアやガラテヤ教会がそうであったように、宗教改革においてもそれ以後も、そして今も、いつもすんなり受け入れられてきたわけではありません。むしろ誤解を受け、批判にさらされてきたと言えます。その誤解の一つが、イエス・キリストへの信仰によって義とされるとは、イエス・キリストを信じるという「行い」によって救われることなのだという誤解です。しかしそうであるならば、信仰によって義とされ救われることは、私たちの信じるという「行い」にかかっていることになります。それでは義とされ救われることが「律法の行い」にかかっていることとなんら変わらなくなってしまうのです。「信じるという行い」が「律法の行い」に取って代わったに過ぎません。そしてもし信仰が、私たちがイエス・キリストを信じるという行いにかかっているならば、その信仰はまことに不確かなものであり、いつもぐらぐら揺れているに違いありません。私たちが信じるという決意や信じているという思いは、ときには力強く湧き上がってくることがあるかもしれませんが、しかし別のときには、力を失い神さまがどこにいるか分からないというようなことがあるのです。信仰が私たちの決意や思いにかかっているとき、信仰は私たちに平安を与えるのではなく、ぐらぐら揺さぶられることによって、むしろ私たちは自分の信仰は確かなのだろうかと不安になってしまうのです。

イエス・キリストの真実によって
 16節でパウロが「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」と言うとき、それは私たちが義とされるのは、私たちがイエス・キリストを信じるという行いにかかっているということなのでしょうか。そうではありません。この「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」は、「イエス・キリストの真実によって義とされる」とも訳せます。新しく出た聖書協会共同訳はそのように訳していますが、どちらの訳が正しいかということが大切なのではなく、「イエス・キリストの真実によって義とされる」と訳せることに意味があるのです。そのことによって「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」ということが本当に告げようとしていることが見えてくるからです。律法の行いは私たちにかかっています。だからルターは行いによって神の義にふさわしくなるために、ものすごく頑張らなくてはなりませんでした。その頑張りは、神の義という言葉を憎むほどであったようです。けれども「イエス・キリストへの信仰」において本当に決定的なのは、私たちの信じるという「行い」としての信仰ではなく、私たちの信仰の中で主イエスが真実でいてくださるということなのです。私たちの信仰は、私たちの信じるという決意や信じているという思いによって支えられているのではなく、主イエスの真実によって支えられているのです。私たちの真実はいつもあやふやなものに過ぎませんし、主イエスに対しても真実でいられないことばかりです。しかしイエス・キリストの真実はそうではありません。その真実とは、神の子が「わたしを愛し、わたしのために身を献げ」てくださり十字架で死んでくださったことにほかならないからです。私たちにとって決定的なのはこのことです。このことによって私たちは義とされ、救われるのです。ここに信仰の確かさがあります。私たちの決意や思いがどれほど揺さぶられても、神さまなどいないと思えるようなときですら、「わたしを愛し、わたしのために身を献げ」てくださったイエス・キリストの真実は微塵も揺るがないのです。このイエス・キリストの真実に対して、私たちも真実であろうとするのです。

キリストは罪へと促すのか?
 このように「イエス・キリストへの信仰」は、私たちの信じるという「行い」としての信仰ではなく、イエス・キリストの真実に支えられている信仰であり、「信じるという行い」が「律法の行い」に取って代わったというのは誤った理解です。この誤解とは別に、「信仰によって義とされる」ということが引き起こしてきた批判があります。それが17節で「もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか」と言われているのです。この「わたしたち」もユダヤ人キリスト者のことです。つまりユダヤ人キリスト者である私たちは、律法を持たない「異邦人のような罪人」ではないけれど、イエス・キリストへの信仰によって義とされることを求めることによって、私たち自身も罪人、つまり律法に違反した者と見なされた、ということです。おそらくパウロは、アンティオキア教会で、ユダヤ人キリスト者が異邦人と一緒に食事をすることによって、ユダヤ人から律法に違反していると見なされたことを語っているのでしょう。しかしこの批判はパウロに対してだけでなく、「信仰のみによる救い」に立つ人たちに対する批判であり続けました。つまり「信仰によって義とされる」のであれば、行いはどうでも良いことになるではないか、という批判です。平たく言えば、信仰のみで行いが関係ないなら、何をしたって良いではないか、悪いことをしたって良いではないかということです。そうであるならば、イエス・キリストへの信仰によって義とされるというのは、むしろ悪いことをするよう促すのではないか、その意味でキリストは罪を促す者、罪へのフリーパスになってしまうのではないか、ということなのです。「キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか」とは、このことを意味しています。イエス・キリストへの信仰のみによって義とされ救われることが、悪いことをするよう促すぐらいなら、信仰のみではなく、それに善い行いを加えて、信仰と行いによって義とされ救われるべきではないかと考えられたのです。まさにこのことがガラテヤ教会で起こっていたことです。このように信仰のみではなく、信仰に行いを加えるという誘惑に教会はその歴史の中で絶えずさらされ、また私たちもしばしば知らず知らずのうちに、この誘惑に陥ってしまうのです。それは、信仰のみだと行いはどうでも良くなるのではないかということだけでなく、信仰のみによる救いより、信仰と行いによる救いのほうが私たちは満足できるからでもあります。少しは自分の行いが、自分が義とされ救われるのに貢献していると思えるからです。その方が手応えを感じるからです。アンティオキアとガラテヤ教会の人たち、そして私たちはイエス・キリストへの信仰によって救われると信じていますし、誰も否定しません。それが大事だと思っています。けれども私たちの行いも少しは大事なのだ、という思いが起こってくるのです。あのペトロですらこの誘惑に負けて、異邦人と一緒に食べることから離れていったのです。
 信仰のみによる救いから、信仰と行いによる救いに戻ろうとする試みに、パウロは断固として反対します。キリストが罪へのフリーパスになるのではないか、という批判に対して「決してそうではない」と強く否定するのです。そして18節で「もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違反者であると証明することになります」と言っています。「打ち壊したものを再び建てる」とは、律法の行いにより頼むことを打ち壊したのに、再びその行いを生きる拠りどころとするということです。イエス・キリストへの信仰のみによる救いから、再び行いによる救いへと戻るならば、かつて「行いによって義とされる」ことを「打ち壊した」のは間違いであったと証明することになります。パウロは、「行いによって義とされる」ことを「打ち壊した」のが間違いであったとは思ってもいません。彼にとってそんなことはあり得ないからです。しかしペトロやガラテヤ教会の人たちは打ち壊したものを再び建てようとしたのであり、私たちも誘惑や恐れや妥協によって、そのようなことをしてしまうのです。

キリストが私の内に生きている
 しかしそのような後戻りは私たちにはもはやあり得ません。16節で「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って」とあり、また「これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした」ともあり、さらに「なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」とありました。言い方は異なりますが、ここでパウロが告げているのはたった一つのこと、私たちがイエス・キリストへの信仰によって義とされるということだけです。この16節の中心に「わたしたちもイエス・キリストを信じた」とあります。「私はイエス・キリストを信じます」は、洗礼における私たち一人ひとりの信仰告白の言葉にほかなりません。罪人であった私たちはただイエス・キリストへの信仰によって赦され義とされ救われました。そして、それは洗礼において起こったのです。「信仰によって義とされる」ことを語ってきたパウロは19、20節で洗礼について語り始めます。洗礼という言葉が使われていないにもかかわらず、ここでパウロが語っていることは、洗礼において私たちに起こったことにほかなりません。19節で「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています」と言われています。「神に対して」とは「神との関係において」ということであり、「律法に対して」とは「律法との関係において」あるいは「罪との関係において」ということです。主イエス・キリストの十字架による死によって、罪と律法の支配は滅ぼされました。私たちは洗礼によってキリスト共に十字架につけられ、キリストの死に与ったのです。そのことによって私たちは罪と律法との関係において死に、その支配から解放されました。そして復活させられたキリストと一体となり、神との関係において生きているのです。罪と律法の支配の下ではなく、神の支配の下で、神との交わりの中で生きているのです。罪と律法の支配から解放され神との関係において生き始めたことをパウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と言っています。罪と律法の行いに支配されていた古い自分が死に、私たちはキリストと共に復活させられ、キリストと共に生きているのです。しかもキリストは私たちの中へと入ってきてくださると言われています。生きているのはもはや私ではなくキリストが私の内に生きているとは、もちろん私という人格がなくなって、キリストの操り人形になっていることではありません。そうではなく行いによって救われようとしていた、そのことに支配されていた自分が死に、私の内にまで来てくださったキリストの真実に支えられている信仰によって、神さまとの交わりの中を生きているということです。パウロは「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」と言っています。私たちは今、肉において生きています。洗礼によって体を捨てたのではありません。体を持って生きているのです。洗礼によって私や私らしさがなくなったわけでも、気持ちや感情がなくなったわけでもありません。なお多くの束縛があり、様々な葛藤を抱えつつ生きています。それにもかかわらずこの私の生きる拠りどころは、生きる支えは、唯一の慰めは、「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子」主イエス・キリストの真実にあり、その真実に支えられている信仰にあるのです。

キリストの死が無意味なはずがない
 「わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」とパウロは言います。「無意味になってしまいます」は「無駄になってしまいます」とも訳せます。ペトロもガラテヤ教会の人たちも、そして私たちの誰もが、キリストの死を無意味にしたり無駄にしたりすることを望んではいません。しかし私たちの救いにおいて、信仰と行いはあれかこれかであって、あれもこれもではないのです。信仰に行いを添えて、信仰も行いもとはいかないのです。神の恵みを無にするのか、それともしないのか。キリストの死を無意味、無駄にするのか、それともしないのか。そのどちらかでしかないのです。私たちが信仰に行いを添えるとき、神の恵みを無にし、キリストの死を無意味にし、無駄にすることになるのです。
 しかしそうであったとしても「信仰によって義とされ救われる」とは、神の恵みを無にしないために、キリストの死を無意味に無駄にしないために、私たちの「行い」を信仰に添える誘惑に負けないように頑張りなさい、踏ん張りなさいということだけなのでしょうか。決してそうではありません。それ以上のことがあるのです。私たちは自分の行いによって正しいと認められなくてはならない社会に生きています。結果や業績によって認められなくてはならないのです。私たちは行いによって自分の人生の正しさを証明しなければなりません。けれどもそのように行いによって自分の人生の正しさを証明し続けることに、行いによって正しいと認められることを求め続けることに、私たちは疲れてしまってはいないでしょうか。虚しさを感じてはいないでしょうか。行いは自分にかかっています。行いを生きる拠りどころにするならば、自分で自分の人生を担わなければなりません。私たちは行いによって自分の人生の正しさを証明することに脅かされているのです。しかし「信仰によって義とされる」ということは、この虚しさから、この脅かしから解放されることです。「信仰のみによる救い」は、この大きな恵みを告げているのです。イエス・キリストの真実によって支えられている信仰によって生きるとき、人生は私のものではなくキリストのものであり、自分で自分の人生を背負うのではなくキリストが背負ってくださるのです。行いによる救いからの解放は、人と比べて生きることからの解放でもあります。人と比べるのではなく、ただ私を愛し、私のために身を献げられたキリストの真実に対して、私たちはひたすら真実であることに招かれているのです。そのとき私たちは本当に神さまと隣人とに仕えることができます。神の恵みは無になるはずがありません。キリストの十字架が無意味なはずがありません。無駄なはずがありません。神さまの恵みによって、キリストの十字架によって、私たちは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と感謝と賛美をもって告白するのです。

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