夕礼拝

あなたに報いてくださる

「あなたに報いてくださる」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: 申命記 第15章7-11節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第6章1-4節
・ 讃美歌 : 492、567

人の前で
 本日はマタイによる福音書の第6章1-4節の主イエスの御言葉に聞きたいと思います。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」と始まります。別の訳ではこうなっております。「人に見てもらうおうとして、人の前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天のお父様からは、本当の報いを受けることはできません。」(現代訳聖書)「人に見てもらおうとして、人の前で善行をしないように」とあります。「善行」そのもの、良い行いそのものは勧められることです。けれどもそれを「見てもらうと」人の前で行なうことになると、果たしてそれは本当に善行をしていることになるのでしょうか。人間は、他人の目がとても気になります。他人の目、他人からの評価がとても気になります。自分が良い評価を得たいからだということです。他人に自分の善行を見せびらかすのは、自分を善人として印象づけるためであり、清く正しい義人として評価されるために他なりません。他者の目を気にするということは、その本質において自分へのこだわりと言えるのではないでしょうか。

善行
 「善行」という言葉は、当時のユダヤ人にとってとても馴染み深い言葉でした。この「善行」という言葉は神様の前でその人がいかに敬虔で信仰深いかを示す行動を言い表す言葉でした。そしてこの言葉で、人々がよく思い浮かべるものには三つの事柄がありました。それは「施し」「祈り」「断食」であります。主イエスはこの「施し」「祈り」「断食」について本日から始まる6章において取り上げていきます。本日は「施し」についてです。そして、その後に「祈り」「断食」について言及されていきます。「施し」とは「恵み与える」という意味があります。聖書のなかでもこの「施し」という言葉が多く使われております。「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。」(使徒言行録第10章2節)とあります。この一家は人々に施しをして、絶えず神に祈りをしていました。このように施しをして、祈りをし、断食をするということがいかに人々にとって大事なことであり、信仰心があついというこの評価となることが分かります。この施しし、祈りをするということがいかに信仰心があつく、社会的にも信頼がある人間であるかということを示すものであったのです。貧しい人々に施しをする、このような行いは「善行」「善い行い」です。

憐れみの応答
 この「施し」という言葉は「憐れみ」という意味があります。人々に施しをするということは憐れみの実践です。神様の憐れみに対する感謝の応答なのです。神様は憐れみ深い方であります。その憐れみを自分に与えて下さったことへの感謝なのです。しかし、このように神様に対する感謝の現れということが次第に大切にされなくなり、人の前でいかに善行をするかということが注目されるようになりました。人の前で善行をするということは、いかに自分が善行、善い業を行う人間であるということを見せることです。そして自分が信仰深いということを示すものになっていきました。それは単なるデモンストレーションになってしまうのです。自分の力を示す行為になってしまうのです。本当は、神様の憐れみに対して行なわれる感謝の応答としてのこの「施し」という行為であります。そうであるのに時としてこの「施し」が「神様の前での」ということではなくなり、ただ人に見せるための「芝居」になってしまっていることがあるのではないでしょうか。主イエスはそのように問いかけます。この6章1節に「見てもらおうとして」とありますが。この言葉は「見世物」という意味や「見世物にする」という意味があります。英語では、シアターと言う意味になります。「劇場」を意味する言葉です。見世物、見てもらうとして、とは舞台の上で善行を演じているのではないであろうか、ということです。

自分の前で
 主イエスは2節「偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。」と言います。偽預言者たちが人からほめられようとしいて、まるで芝居を演じるように行なうのではなく、本当に良い行いをしたいならば、天の父なる神様の前で、それをさりげなく行いなさい、というのです。主イエスはここで「自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。」と言われます。普通、ラッパを吹き鳴らすとは、ファンファーレなどに用いられることです。それは王様が即位をするときや、または国にとって大事な条例や政令を布告するという場合に行なわれる儀式です。大きなラッパの音が鳴ると、人々は注目をします。私たちは大なり小なり自分でラッパを吹き鳴らしたい、自分の前でラッパを吹き鳴らして、人に注目されたいという思いがあるのではないでしょうか。自分はせっかく善い行いをしているのに、誰も気付いてくれないのは悲しいことです。私たちの誰もが、自分はこんなに頑張っているのに、誰も褒めてくれない、ということがあるのではないでしょうか。そうなると、正直なところ私たちはがっかりします。一体何のために、こんなに苦労をしなければならないのか、ということが分からなくなってしまいます。そのようなところでこそ、そのような時にこそ、本当は何のためにやっているのか、ということが問われてきます。または、そのことを通して私たちはそのことを確認させられるのです。

神様の前で
 本当の動機とは何でしょうか。どこにあるのでしょうか。その人のためにしたように見えていて、本当はそれによって、自分が人からよく思われたい。人に評価されたい、褒められたいとどこかで思っているのではないでしょうか。私たちの歩みの中では誰も気付いてくれない、誰も褒めてくれないことがあります。むしろ、そのような時の方が多いのではないでしょうか。そのような問いかけの前に私たちは日々立たされております。人から褒められる、人から評価される、その時というのは誘惑のときであります。人から褒められ評価され、気分が良くなる。そのような時に私たちはつい神様の前でということを忘れてしまいます。私たち人間は神様の恵みと憐れみによって今の自分があり、この行動があるということをすぐに忘れてしまうものです。ただ人に見せるだけというところで判断し、行動をしてしまうということになりますと、それは単なる演技になってしまいます。
 主イエスは3節でこう言われました。「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」もし施し、善い行いをするのであれば、褒めてもらうということそのものを、忘れなければならないということです。人から褒めてもらうこと、人からの評価ということを忘れるということです。それが「右の手をすることを左の手に知らせてはいけない」と言うことの意味です。人に施しをする、人のために善い行いをしてあげる、それをする場合に人に見せるためにするな、ということだけではなく、さらに自分の中のもう一人の自分、もう一方の手にも知らせてはいけないということです。もう一人の自分とは自分自身の評価、あるいは自己評価ということです。善い行い、善行をするときに、そこに何かを期待する自分がおります。しかし、善い行いというのはその行いそのものが貴いのであって、本来評価には関わりがないのです。もし「自分の前でラッパを吹き鳴ら」すのであれば、その場合は既にあなたがたは報いを受けてしまっている、と主イエスは言われます。もう一度1節に戻りますが、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」とあります。人に見てもらおうとして人の前で善行を行うのであれば、「あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」というのです。もう既に人からの報いを受けてしまっていることになるのです。

報いを受ける
 この「報いをうける」というのはどういう意味でしょうか。この「報いを受ける」という言い方には「領収書の発行」という意味があるようです。既に「報いを受ける」というのは、既に領収書が発行されているということです。「もう十分お代はいただきました。これ以上は請求しません」という意味です。人からの報いを求める者は、人からほめられること、あの人は立派な人だと思われることです。人からの評価を受けることで満足なのです。もうそれ以上の報い、つまり、天の父なる神からの報いなどはいらないのです。人からの報い、評価こそが全てになってしまうのです。そのように人からの報い、人からの誉れをのみ求め、天の父なる神様からの報いを期待しない生き方をしている人のことを、主イエスは「偽善者」と呼びました。この偽善者と訳されている言葉のもともとの意味は、俳優、演技する人ということなのです。俳優は、舞台の上で、観客を前にして、様々な役柄になって演技するのです。それを客に見せるのです。演技をする俳優とは、常に人の目を気にし、自分が人からどのように見られているかを気にしながら生きているのです。それが、偽善者の本質です。それは、私たち一人一人が、そのようにいつも人の目を気にしながら、人が自分をどう見ているかを気にしながら生きている偽善者なのではないでしょうか。これ見よがしに人前で善行をしていようと、目立たない所でさりげなくしていようと、私たちが人の目を気にし、人から誉められることを願い、そういうことに左右されて生きているならば、私たちは人の前で自分を取り繕う偽善者となっているのです。

天の父
 主イエスは4節でこう言われます。「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」私たちは、人の目を気にし、人からの評価を気にして人のことばかりを見ます。けれども天の父なる神様は隠れたことを見ておられるお方です。私たちはそのお方へと目を向け変えなさいということです。天に、神様の方へと向けなさいということです。そして、人から受ける評価,評判、それは良い評価であったり、悪い評価であったりします。しかし、それが決定的なものではないのです。天の父なる神様による評価こそが、私たちにとって決定的なものなのだということをわきまえなさいということです。天の父なる神様は私たちのことをどう評価なさるのか。私たちが人知れずしている良い行いを見ていてくださる、ということでもありますが、同時に、私たちが人には隠している様々な罪、悪いことをも神様はちゃんと見ておられる、ということにもなるでしょう。私たちの、良い所も悪い所も、天の父なる神様の前には全て知られているのです。その神様の前で私たちは、何をどう取り繕っても仕方がありません。私たちの偽善など神様の前では通用しないのです。その神様が私たちを評価なさる。私たちはその神様の評価にとうてい堪えるものではありません。神様は、私たちの良い行いも知っていて下さいます。それは同時に私たちの悪い所をも全て知っておられるということです。神様は私たちに独り子主イエス・キリストを与えて下さい、ました。私たちのためにこの世に来て下さり、私たちの罪の赦しのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったことによって、主イエスの父なる神様が私たちの天の父となって下さいました。、私たちを子どもとして下さったのです。天の父なる神様に目を向け、神様の評価こそ決定的なものであることをわきまえるとは、神の恵みの中で父なる神様との交わりに生きることです。人からの報い、評価ではなく、天の父からの報い、神様の評価をこそ求めて生きる者となるのです。

与えられる報い
 私たちに与えられる報いは、天の父なる神様との交わりです。主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、神様が私たちの罪を赦してくださり、何のとりえもない私たちを、神の子として下さいました。その中で、神が天の父となって下さった神様と共に生きることこそが、私たちに与えられる報いなのです。この報いは、人からの誉れや評価を期待し、人からの報いを求めている間は得られません。しかし私たちが人から目を離し、主イエス・キリストの父なる神様と共に歩み、そこには、私たちのよい行いによってではなく、神様の恵みによって既に与えられているすばらしい報いが見えてくるのです。私たちはこの幸いを、自分のよい行いの報いとして獲得するのではありません。そのようなよい行いは何もないのに、主イエスにおける神様の恵みによって、既に大いなる恵みが与えられているのです。その恵みの中で私たちは、よい行いに励んでいくのです。そこにおいて私たちは、人の目、評価から自由になることができます。誰も見ていなくても、誰も自分のよい行いを評価し、誉めてはくれなくても、それによる評価に翻弄されなくて良いのです。私たちのために独り子イエス・キリストを遣わして下さった父なる神様が、その私たちの隠されたよい行いを見ていて下さり、それを喜んでいて下さいます。たとえ人目につかなくても、隠れたことを見ておられる、それを本当に評価してくださるのです。神が、私たちの小さな業を評価してくださるのです。その神を見上げてこの週も歩みましょう。

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