夕礼拝

み前に近づく

「み前に近づく」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第19章1-25節
・ 新約聖書: ヘブライ人への手紙 第12章18-24節
・ 讃美歌 : 16、436

出エジプト記のクライマックス
 月に一度、旧約聖書出エジプト記を夕礼拝において読み進めていますが、この出エジプト記には、エジプトで奴隷とされ苦しめられていたイスラエルの民を救うために、神様がモーセを遣わして下さり、数々のみ業によってついにエジプトからの解放を与えて下さったこと、そしてエジプトを出たイスラエルの民が、神様が約束して下さった地に向かって荒れ野を旅していくことが語られています。本日はその第19章を読むわけですが、ここには、イスラエルの民がシナイの荒れ野に到着し、シナイ山の麓に宿営したことが語られています。いよいよ、シナイ山における出来事に入っていくのです。いよいよ、と申しましたのは、このシナイ山における出来事が、出エジプト記の最大のクライマックスだからです。これまで読んできた所に、エジプトからの脱出のドラマが語られていました。特に神様が海の水を二つに分けて向こう岸に渡る道を造って下さり、追っ手が迫る絶体絶命の危機から救って下さったところなどは、映画のシーンになるような劇的な場面でした。しかしこのことにも増して大きな、重大なクライマックスが、シナイ山における出来事なのです。出エジプト記は40章までありますが、この19章から後、最後の40章までの全体が、シナイ山における事柄を語っています。つまりイスラエルの民の荒れ野の旅路は、出エジプト記においてはこのシナイの荒れ野でストップしているのです。荒れ野の旅路の物語は、出エジプト記から民数記に引き継がれていますが、彼らがシナイの荒れ野を旅立ち、約束の地への旅を再開したことが語られているのは、その民数記の第10章です。そこまでは、シナイ山、シナイの荒れ野における事柄が語られているのです。このことからしても、出エジプト記の中心、クライマックスはこのシナイにおける出来事にある、と言うことができます。私たちはいよいよ、出エジプト記の最大の山場にさしかかってきたのです。

契約
 シナイにおける出来事とは何だったのでしょうか。結論から先に言ってしまうとそれは、神様がイスラエルの民と契約を結んで下さったということです。神様が人間と契約を結ぶ、ということに私たちは違和感を覚えるかもしれません。それは、契約というと普通、私たちが社会生活の中で結ぶ契約、売買の契約や貸借や雇用の契約を思い浮かべるからです。神様が人間との間に結んで下さる契約は、人間どうしが結ぶそれらの契約と同じ所と違う所があります。同じなのは、どちらもお互いの間での約束である、ということです。神様と人間の契約においても、神様も約束をし、人間も約束をするのです。しかし違うのは、神様と人間とはもともと対当の立場にはない、ということです。ですから神様との契約においては、人間どうしの契約のように対当の立場で交渉をして契約成立にこぎつけるというものではないし、そもそも人間の方から契約を持ちかけるとか、条件を提示する、などということはあり得ません。神様との契約は、神様が恵みによって与えて下さるものです。そしてその恵みによって与えられた契約の内容とは、神様がイスラエルの民をご自分の民として下さり、ご自分をイスラエルの神であると宣言して下さった、ということです。つまり神様はイスラエルの民との間に、他の民との間にはない特別な関係を結んで下さったのです。この、神様がイスラエルの民と契約を結んで下さったということが、出エジプト記の最大のクライマックス、中心であり、それはただ出エジプト記のクライマックスであるだけではなくて、旧約聖書全体のクライマックス、中心であると言ってもよいのです。今旧約聖書と申しました。「旧約」というのは、旧い契約、という意味です。その旧い契約の中心が、シナイにおける契約です。シナイにおいて、神様はイスラエルの民と契約を結び、イスラエルの神となって下さり、イスラエルをご自分の民として下さいました。その契約が「旧い」契約と呼ばれるのは、今や「新しい契約」が結ばれているからです。それは、神様の独り子イエス・キリストによって、その十字架の死と復活を通して神様が私たちと結んで下さったものです。今や主イエスを信じる者たち、つまり教会が、新しいイスラエル、新しい神の民とされているのです。その新しい契約を語っているのが「新約聖書」です。新しい契約、新約は、旧い契約、旧約を受け継いでいます。新しい神の民である教会は、旧い神の民であるイスラエルの歴史を受け継いでいるのです。この「契約」によって、旧約聖書と新約聖書は一本の線でつながります。聖書は、神様が契約によってご自分の民を興し、その民を用いて救いのみ業を行なって下さることを語っているのです。そこに、旧新約聖書全体を貫く一本の筋があります。そういう意味では、シナイにおける契約は、旧約聖書だけでなく、新約聖書をも含めた聖書全体の要となる出来事であると言うこともできるのです。

契約の根拠
 さて、シナイ山で主なる神様がイスラエルの民と契約を結んで下さったことをこれから見ていくわけですが、本日の19章はまだその契約そのもののことではなくて、それが結ばれるための備えについて語っています。3~6節において、シナイ山に登ったモーセに主なる神様が語りかけておられます。そこに、イスラエルの民と契約を結ぼうとしておられる神様のみ心と、またその契約の目的が示されているのです。
 4節で神様はこう言っておられます。「あなたたちは見た。わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せてわたしのもとに連れて来たことを」。このみ言葉は、神様がイスラエルの民と契約を結んで下さることの根拠、土台を語っています。神様が与えて下さる契約とは、イスラエルの民との間に特別な関係を結び、ご自身が彼らの神となり、彼らをご自分の民として下さることだと申しましたが、その特別な関係は、神様が既に行なって下さり、イスラエルの民が体験した救いのみ業を土台としているのです。「わたしがエジプト人にしたこと」とあります。神様は、イスラエルの民をなかなか解放しようとしなかったエジプトの王ファラオとエジプト人たちに対して、数々の災いを下されました。エジプトからの解放は神様のそれらのみ業によって実現したのです。またその後も、前には海が立ち塞がり、後ろからはエジプトの戦車部隊が迫るという危機の中で、海を左右に分けてイスラエルの民のための道を造って下さり、後から追ってその道に入ってきたエジプトの戦車部隊の上に水を返して全滅させ、エジプトからの脱出を完成して下さいました。これらが、「わたしがエジプト人にしたこと」です。その神様のみ業によってイスラエルの民はエジプトから解放されたのです。神様はそれに続いて「また、あなたたちを鷲の翼に乗せてわたしのもとに連れて来たことを」と言っておられます。この19章で彼らが到着したシナイ山は、モーセが主なる神様と最初に出会った神の山ホレブと同じ山だと考えられています。神様はここでモーセを召し、エジプトへと遣わし、その働きによってイスラエルの民を解放してここへ連れて来て下さったのです。「あなたたちを鷲の翼に乗せてわたしのもとに連れて来た」というのはそのことを語っています。そして、主なる神様がイスラエルの民をご自分のもとへと連れて来て下さったのは、彼らと契約を結ぶためでした。エジプトの奴隷状態からの解放は、イスラエルの民をご自分のもとへと連れて来て、彼らと契約を結び、彼らの神となり、彼らをご自分の民として下さろうという神様のみ心によって成されたことだったのです。この意味においても、出エジプト記のクライマックスはエジプト脱出ではなくて、シナイにおける契約なのです。

契約の目的
 次の5、6節には、神様がイスラエルの民と契約を結んで下さることの目的が示されています。5節に「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである」とあります。「契約」という言葉がここで初めて出てきます。イスラエルの民が神様の声に聞き従い、神様が与え、結んで下さる契約を守るならば、この民は、世界の全てをご自分のものとして支配しておられる主なる神様にとって、「あなたたちはわたしの宝である」と呼ばれる民となるのです。イスラエルの民が神様にとって宝となる、宝物のように尊い、大事な民となる、それがこの契約の目的です。神様はイスラエルの民をご自分の宝の民とするために、契約を結ぼうとしておられるのです。
 勘違いしてはならないのは、「わたしの声に聞き従うならば契約を結び、あなたがたを宝の民としてあげる」と言われているのではないことです。契約は、神様が恵みによって与えて下さるものです。それはイスラエルの民が神様に聞き従う清く正しい信仰深い民だから与えられたのではありません。イスラエルの民に神の民となるに相応しい資格があった、などということは聖書のどこにも語られていません。神様は、彼らがエジプトで奴隷とされ苦しめられているのを見て、憐れに思い、ただ恵みのみ心によってモーセを遣わし、エジプトから脱出させてここまで導いて来て下さり、契約を結んで下さるのです。イスラエルの民に求められているのは、神様が恵みによって与えて下さっている契約の言葉、約束の言葉をしっかりと聞き、そのみ言葉に従って自分たちも契約を結び、そこにおける約束をしっかり守ることです。そうすることによって、イスラエルは神様の宝の民となることができるのです。
 神様の宝の民となるとはどういうことでしょうか。6節がそのことを語っています。「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」とあります。神様の宝である民とは、祭司の王国、聖なる国民です。祭司というのは、神様と人々との間に立ってとりなしをし、人々が神様とよい交わりを持って生きることができるようにする人です。その祭司は聖なる者でなければなりません。聖書において聖なる者というのは、清く正しい人ということではなくて、神様によって選ばれ、召され、神様のものとされている人ということです。神様のものこそが聖なるものなのであって、人間の基準や感覚で聖なるものとは何かを決めることはできないのです。神様が選び、ご自分のものとすることによって聖なる者とされた人が、人々と神様の間のとりなしをする祭司となります。そのことがここでは、国民、民にあてはめられています。イスラエルの民が、神様に選ばれ、神様の民とされ、聖なる国民となり、そして祭司の王国となるのです。イスラエルの民は誰のための祭司となるのでしょうか。それは、他の全ての人々、国民です。イスラエルが、神様との契約によって神の民とされるというのは、他の全ての人々、民族のためにとりなしをし、彼らが神様とよい関係を持って生きることができるために奉仕する祭司としての務めを果すためなのです。そういう務めを果すことにおいて、イスラエルは神様の宝の民となるのです。ですから、神様がイスラエルの民と契約を結び、彼らと特別の関係を結んで下さるとか、イスラエルが神様の宝物となるということを、イスラエルの人々だけが神様の救いの恵みにあずかり、他の人々は滅ぼされるとか、放っておかれるという意味にとることは間違いです。神様が契約によってご自分の民を興し、その民を用いて救いのみ業を行なって下さるのは、全ての人々のためなのです。選ばれた民、神の民は、自分たちが救われるために選ばれただけでなく、他の人々が神様の救いにあずかるために奉仕し、そのことを願っておられる神様のみ心を行なうために選ばれたのです。このことは、創世記第12章で神様がイスラエルの最初の先祖であるアブラハムを選び、彼を神の民の先祖として下さったところにも語られていました。神様はアブラハムが、「祝福の源」となると告げ、「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」とおっしゃったのです。アブラハムとその子孫によって、神様の祝福が、地上の全ての民に及んでいくのです。イスラエルが祭司の国となるということが、そこにも示されていたのです。そしてこのことは、新しい神の民、新しいイスラエルである教会にも当てはまります。教会は神様の新しい契約によって今や新しい神の民とされていますが、それは教会に連なる者が救われるためというだけでなく、教会を通して、主イエス・キリストによる救いが多くの人々に宣べ伝えられ、一人でも多くの人がそれにあずかっていくためなのです。教会はそういう使命を与えられているのです。

契約締結の備え
 このように6節までのところに、主なる神様がイスラエルの民と結ぼうとしておられる契約の根拠と目的が語られています。モーセはその神様のみ言葉を聞いて、山を下り、民の長老たちを呼び集め、主のみ言葉を告げるのです。すると8節、「民は皆、一斉に答えて、『わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います』と言った」のです。これは、イスラエルの人々が、契約を結んで下さる神様の恵みのみ心を受け入れ、そのみ心に従って、自分たちも神様の民として、主なる神様を自分たちの神として歩みます、と約束をしたということです。民の側もこのように約束をすることによって契約は成り立つのです。モーセはまた山に登り、この民の言葉を神様に伝えます。そういうやりとりを経て、いよいよ契約の締結の具体的準備が始まります。それが10節以下です。実際の契約締結の場面は24章にあります。そこを読むと分かるように、モーセとアロンおよび祭司として立てられる者たち、そして民の七十人の長老たちが山に登り、主のみ前に出て契約が結ばれるのです。その他の民は山の麓にいて彼らが山を降りてくるのを待っています。しかし本日の19章に語られているのは、麓で待っている民も、神様との契約締結のために備えをしなければならない、ということです。イスラエルの民全体が契約の相手なのですから、一人一人がそのことをしっかりと覚え、神様の民となる備えをしなければならないのです。
 その備えとして命じられていることは、一つには、シナイ山に登ってはならない、触れてはならない、ということです。それは、11節にあるように、三日目に主がシナイ山に降られるからです。その三日目のことが16~19節にこのように記されています。「三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた」。このように、主なる神様がシナイ山に降られました。そんな時にその山に登ることは、生ける神様のみ前に罪ある人間がノコノコと出て行くことであり、それは滅ぼされずにはおれないことです。罪人である私たちが、神様のみ前に出ることなど本来できないのです。神様が契約を結んで下さるという時に、その相手となる民はこのことをしっかりと覚え、恐れなければなりません。神様が人間と契約を結び、神の民として下さるというのは、本来あり得ないような、驚くべき恵みなのです。神の民は、その驚きと、神様を畏れかしこむ思いを常に忘れてはならないのです。
 もう一つ、備えとして命じられていることは、14、15節にあるように、衣服を洗って清めることと、女に近づいてはならない、ということです。日本のような湿度の高い、水の豊富な世界とは違って乾燥した、常に水が不足している生活をしている彼らにとっては、衣服を洗うことは特別に身を清める時にのみすることでした。女に近づいてはならないというのは男性に対する命令で、女性との性的な関係を避けよということですが、それが「民を聖別する」こととして語られているということは、女性が汚れた存在とされているということになり、女性の皆さんは不愉快に思うでしょう。聖書にはそのように読める箇所がいくつかあるのですが、しかし聖書が全体として語っていることは、男も女も共に神様が「良いもの」として創り、祝福して下さっているのであって、女性が本質的に男性よりも汚れているわけではない、ということです。ここで教えられているのはそういうことではなくて、日常の生活を離れて、神様との契約に備える時を持てということです。衣服を洗うことと女性に近づかないことによって、神様の契約の民とされることに思いを集中させることが求められているのです。

新しい契約の根拠と目的
 イスラエルの民はこのような備えを通して契約の恵みにあずかり、神様の民とされていきました。これらのことは、主イエス・キリストによる新しい契約の恵みにあずかり、新しい神の民、新しいイスラエルとされている私たちにもそのまま当てはまることです。4~6節のみ言葉にあった、シナイにおける契約の根拠と目的は、私たちが主イエス・キリストの救いにあずかることの根拠と目的でもあります。私たちが救いにあずかり、神様の民とされる根拠は私たちの中には何もありません。私たちはそれに相応しい清さや正しさを持っているわけでは全くありません。むしろ罪の奴隷となって苦しんでいるのです。その私たちのことを神様が憐れんで下さり、ご自分の独り子である主イエスを遣わして下さり、その主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって罪の赦しを与え、また主イエスの復活によって私たちにも、神様の子どもとして生きる新しい命を与えて下さったのです。この神様のみ業によって私たちは罪の奴隷状態から解放され、神様のもとに導かれて、契約の恵みを与えられるのです。神様はこのことによって、私たちをご自分の「宝の民」として下さいます。あなたがたは私の大切な宝物だ、と言って下さっているのです。それは神様が私たちを、祭司の王国、聖なる国民として下さるということでもあります。このことについては先ほど既に申しました。私たちは、この世の全ての人々が主イエス・キリストの救いにあずかり、神様の祝福を受けて生きることができるように、キリストの福音を宣べ伝え、人々のためにとりなしの働きをしていく祭司としての使命を与えられているのです。

み前に近づく
 イスラエルの民が、神様の契約の相手となるために求められた備えは、私たちが神様の民として生きる上でもとても大事なことです。罪人である私たちが、神様の契約の相手とされ、神様の民となることは、驚くべき、本来あり得ないような恵みなのです。私たちはそのことが実現するために、神様の独り子主イエス・キリストが十字架にかかって死ななければならなかったことを知らされています。それ以外の方法では、私たちの罪が赦され、神様の民とされることはできなかったので、神様はこの驚くべきことをして下さったのです。ですから私たちは、常に畏れと驚きをもって、主イエスの十字架と復活によって神様が与えて下さった罪の赦しの恵みを見つめていかなければならないのです。そこには、イスラエルの民に与えられた旧い契約と、主イエスによって私たちに与えられている新しい契約の違いが示されています。その違いを明確に語っているのが、本日共に読まれた新約聖書の箇所、ヘブライ人への手紙第12章18~24節です。そこをもう一度読んでみます。「あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。彼らは、『たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない』という命令に耐えられなかったのです。また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、『わたしはおびえ、震えている』と言ったほどです。しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です」。私たちは、新しい契約の仲保者として十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストによって、感謝と喜びとをもって、主イエスの父であられる神様のみ前に近づくことができるのです。それが私たちの主の日の礼拝です。一週間の日常の生活を離れて、私たちは主の日、日曜日に礼拝に集い、主なる神様のみ前に近づきます。そこでみ言葉をいただき、契約の恵みを再確認し、自分が神様の宝の民とされていることを心に刻みます。そして、新しい一週間も、み言葉に聞き従い、神様によって興された祭司の王国の一員として生きていく力を与えられるのです。

関連記事

TOP