夕礼拝

あなたは解放された

説教題「あなたは解放された」 副牧師 川嶋章弘

創世記 第12章1-9節

ルカによる福音書 第13章10-21節

一つの場面

 冒頭10節に「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた」とあり、主イエスが安息日に会堂で教えておられる場面であることが分かります。この場面はどこまで続いているのでしょうか。21節まで、つまり本日の箇所の終わりまで続いていると思います。17節と18節の間に小見出しがあるために、私たちは17節までと18節からを分けて読んでしまいがちです。しかし聖書の小見出しは後から便宜上付けられたものに過ぎません。確かに便利ではありますが、かえって前後の結びつきが分からなくなることもあるのです。18節の冒頭には「そこで、イエスは言われた」とあります。この「そこで」という言葉が17節までと18節からを結びつけているのです。

安息日に会堂で行われていた礼拝

 このように本日の箇所全体が安息日の会堂で起こった出来事を語っています。主イエスが安息日に会堂で教えられるのは、特別なことではありませんでした。ルカによる福音書は、主イエスが安息日にナザレの会堂で教えられたことから、主イエスのガリラヤでの伝道を語り始めました。4章16節にこのようにありました。「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」。そして主イエスは、旧約聖書のイザヤ書のみ言葉を朗読してから、そのみ言葉を説き明かした、つまり説教をしたのです。本日の箇所では「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた」と言われているだけで、主イエスが聖書のみ言葉を朗読し、その説き明かしをしたとは語られていません。しかしそれは、このとき主イエスがみ言葉を朗読したり、説教を語ったりしなかったからではなく、いつも主イエスがこれらのことを行っていたからではないでしょうか。先ほどの4章16節でも「いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとして」と言われていました。本日の箇所でも、主イエスは「いつものとおり」安息日に会堂に入り、み言葉を朗読し、説教を語られたのです。いつも行っていることだから、ここではわざわざ記されていないだけなのだと思います。ですから本日の箇所は、4章16節以下と同じように、安息日に会堂でささげられていた礼拝における出来事として読むことができるのです。安息日に会堂で主イエスがみ言葉を朗読され、説教を語られた礼拝において起こった出来事が語られているのです。

主イエスのメッセージの中心

 主イエスがこのとき聖書(もちろん旧約聖書)のどのみ言葉を読まれたかは分かりません。しかし主イエスが安息日に会堂の礼拝で語るメッセージの中心は、いつも同じであったはずです。4章16節以下ではイザヤ書のみ言葉が読まれていました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(18-19節)。そして主イエスはこのみ言葉を説き明かして、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(21節)と語られたのです。神様が主イエスを遣わしてくださったことによって、捕らわれている人の解放が、圧迫されている人の自由が実現した。このことが主イエスのメッセージの中心でした。本日の箇所でも、主イエスが語ったメッセージの中心は、このことにあったに違いないのです。

十八年間、病気を抱えている女性

 その礼拝に「十八年間も病の霊に取りつかれている女」が出席していました。「病の霊に取りつかれている」と言われているので、この女性が悪霊の類に取りつかれているように思えるかもしれません。主イエスがこの女性から悪霊の類を追い出した出来事が、ここでは語られていると思えるのです。確かにルカ福音書はこれまで主イエスが悪霊を追い出したことを語ってきました。しかし本日の箇所では主イエスが「病の霊」を追い出したとは語られていません。「病人をいやされた」(14節)と語られているだけです。ですから「病の霊に取りつかれている」とは、要するに「病気であった」ということなのです。十八年間という長い期間、病気を抱え、その病気のために「腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった」女性が、安息日に会堂でささげられていた礼拝に出席していたのです。

 当時のユダヤ人の社会では女性の地位は低かったので、この女性は会堂の目立たない場所、後ろや端っこで礼拝を守っていたのではないかと思います。またユダヤ人は、病気になるのはその人の罪に原因があると考えていましたから、「あいつは罪深い女性だ」という周りの人たちからの視線を避けるためにも、彼女は会堂の目立たない場所で礼拝を守っていたのです。その彼女を主イエスは「見て呼び寄せ」ました。聖書を朗読し、説教を語った後だと思います。主イエスが彼女を見て呼び寄せたことは、長い期間、病気を抱えて苦しんでいたこの女性の存在を、主イエスが受け止めてくださった、ということです。主イエスはご自分から離れたところで礼拝を守っていた彼女を、自分の近くに来るよう招かれたのです。

病からの解放

 主イエスはご自分のもとに来た女性に「婦人よ、病気は治った」と言われ、彼女の上に手を置きました。手を置くのは、病を癒すときのジェスチャーです。するとたちまち、曲がったままで伸ばすことのできなかった女性の腰がまっすぐになったのです。「婦人よ、病気は治った」は、直訳すれば「婦人よ、あなたは、あなたの病から解放された」となります。聖書ではしばしば神のみ業が受身の表現(受動態)で語られていますが、ここでも「解放された」と受身で、神のみ業が言い表されているのです。主イエスは女性に、「神様によって、あなたは病から解放された」と告げたのです。先ほどお話ししたように、主イエスが語られた説教の中心は、神様が主イエスを遣わしてくださったことによって、捕らわれている人の解放が実現し、圧迫されている人の自由が実現した、ということでした。長い間、病を抱えていた女性が、その病から解放されたこの出来事は、主イエスが説教で語られたことがまさにそこで実現した、ということなのです。神様が遣わしてくださった主イエスによって、病に捕らわれていた女性が解放され、病がもたらす苦しみや悲しみ、絶望に押し潰されそうになっていた女性が自由にされたのです。

弱さからの解放

 「病」(11節)や「病気」(12節)と訳されている言葉は、「弱さ」とも訳される言葉です。病気だけが弱さなのではありません。病気を抱えていなかったとしても、私たちは様々な弱さを抱えています。この女性のように、長い間、自分の弱さを抱え続け、そのために苦しみや悲しみを味わってきたかもしれません。しかし神様が遣わしてくださった主イエスによって、私たちは「弱さ」から解放されます。それは必ずしも自分の弱さがなくなることを意味しません。なお自分の弱さを抱え続けなくてはならないかもしれない。しかしそうであったとしても私たちの弱さは、もはや私たちを捕らえることはありません。束縛することはないのです。それは、私たちの弱さが自分にとって決定的なものでも、絶対的なものでもなくなる、ということです。なお自分が抱えている弱さによって苦しむこと、悲しむことがあり、時には絶望してしまいそうになることがあるかもしれません。しかし私たちはもはやその苦しみや悲しみ、絶望に押し潰されることはないのです。

会堂長の腹立ち

 この出来事を目の当たりにした人たちの中に、会堂長がいました。会堂長というのは、会堂の管理を担い、会堂で行われる礼拝の準備を担っていた人です。会堂長は主イエスが安息日に病人を癒やされたことに腹を立てて、「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」と言いました。律法で安息日に働いてはいけないと定められているから、安息日に病気を治してもらってはいけない、安息日以外の6日の間に治してもらいなさい、と言ったのです。会堂長の立場になれば、彼の言い分も分かります。女性の病気は、今日、治さなければ命に関わるというものではありませんでした。彼女にとっても、十八年間、患ってきた病気ですから、今日治すのも、明日治すのも大差ないはずなのです。だから会堂長は、わざわざ安息日に治すことはないと言ったのです。彼は特別に融通が効かない人なのでも、冷血漢なのでもなく、むしろ常識的な人物であったのではないでしょうか。神様がお定めになった律法を守るために、当たり前のことを言ったに過ぎないのです。私たちも彼の立場であったなら、同じことを言っていたのではないでしょうか。

束縛から解いてやるべき

 しかし主イエスは、そのように言った会堂長に「偽善者たちよ」と厳しいお言葉でお答えになりました。会堂長は自分が当たり前のことを言っていると思っていました。安息日には働いてはいけないと定められているのだから、安息日に病気を治してはならない。まして命に関わらない病気なら、安息日に治すべきではない。しかしその当たり前が、神様の御心から大きく逸れてしまっていたのです。主イエスは言われます。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」。安息日であっても、牛やろばが飼い葉桶につながれているのを解いて、水を飲ませるために引いて行くのだから、まして一人の女性、しかもアブラハムの娘であるならば、病の束縛から解放するべきではないか、と言われたのです。ここで主イエスは、安息日であっても、この女性を病の束縛から解放したほうが良い、と言われたのではありません。「解いてやるべきではなかったのか」と主イエスは問われていますが、この「解いてやるべき」の「べき」は、神様のご意志を言い表すときに使われる言葉です。ですから「安息日であっても」というより、「安息日だからこそ」、この女性を病の束縛から解放すべきであり、それこそが神様の御心である、と言われたのです。会堂長はこの御心が分かりませんでした。安息日をお定めになった神様の御心を受け止めず、単に、安息日には働いてはいけない、という規則として受け止めてしまっていたのです。

安息日だからこそ

 そもそもなぜ、安息日には働いてはいけないのでしょうか。一つには、安息日は神様のものとして区別され、取り分けられた日だからです。律法の中心である十戒の第四戒で、安息日についてこのように言われています。「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(申命記5章12-14節)。「聖別せよ」とは、「神様のものとしなさい、神様のもとして区別しなさい、取り分けなさい」ということです。安息日にいかなる仕事もしてはいけないのは、この日を神様のものとして区別し、自分の仕事から離れて、神様に心を向け、神様との交わりに生きるため、つまり神様を礼拝するためなのです。ここに「安息日を守りなさい」とお定めになった神様の御心があります。しかしそれは、自分だけが神様に心を向け、神様を礼拝できればそれで良いということではありません。十戒の第四戒では、さらにこのように言われているからです。「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」(申命記5章14節)。安息日にいかなる仕事もしてはならないのは、自分が休むためだけでなく、ほかの人たちにも、家畜にも休みを与えるためなのです。自分は安息を与えられ、神様を礼拝しているけれど、ほかの人はそうでなくても良い、ということには決してならないのです。主イエスが「安息日だからこそ、この女性を病の束縛から解放すべきである」と言われたのは、この女性が病から解放され、本当の安息を与えられ、神様を心から礼拝できるようになるためなのです。13節に「女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した」とあります。病から解放された女性は、その救いに感謝して神様を賛美したのです。本当の安息は、神様への賛美を引き起こします。安息日だからこそ、神様への賛美が起こされなくてはならない。安息日に神様への賛美が起こされるのを妨げて良いはずがないのです。病からの解放、あらゆる弱さからの解放は、まさに安息日だからこそなされるべき神のみ業です。主イエスが安息日に会堂で告げ知らせた捕らわれている人の解放と、圧迫されいてる人の自由は、安息日だからこそ実現すべき神のみ業なのです。

からし種とパン種のたとえ

 この出来事の後で、主イエスは神の国について、つまり神のご支配について、からし種とパン種にたとえて教えられています。まず18-19節では神の国、神のご支配は「からし種」に似ている、と言われています。「それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る」(19節)。このからし種のたとえは、最初は小さなものがやがて大きくなることのたとえです。小さな一粒のからし種が蒔かれ、成長して木となれば、その木は、その枝に空の鳥が巣を作るほどに大きくなるのです。原文では鳥は複数形ですから、木の枝に一羽の鳥がぽつんと巣を作っているというのではなく、何羽もの鳥が巣を作っているのです。木の枝々に鳥たちが巣を作り、そこで鳥たちが憩い、守られ育まれて生きているのです。それほどまで大きな木となることが見つめられています。単に木そのものの大きさだけでなく、多くの命を養うことができる木の包容力を見つめているのです。最初は小さなからし種が、やがて大きな木となるように、神のご支配も、最初は小さくても、やがて世界に広がり、すべての人を包み込んでいくのです。

 20-21節では、神の国、神のご支配は「パン種」に似ている、と言われています。「パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる」(21節)。パン種とは、いわゆるイースト菌のことです。聖書の後ろにある付録によれば、三サトンは約38リットルですから、わずかなパン種であっても、38リットルもの粉に混ぜると、その全体を膨らませるのです。このパン種のたとえは、僅かなものが大きな影響を及ぼすことのたとえです。僅かなパン種が粉全体を膨らますように、神のご支配も大きな影響を及ぼすのです。

主イエスの解放のみ業に神のご支配を見る

 この二つのたとえが、主イエスによる解放のみ業の出来事に続けて語られています。つまり主イエスはこれらのたとえによって、安息日に会堂で主イエスが女性を病から解放した出来事に、神のご支配を見るよう私たちを導いているのです。この出来事は、世界の片隅のユダヤにある、ある会堂で起こった、まことに小さな解放の出来事でした。しかし主イエスによる解放のみ業は、やがて広がっていき、大きな影響を及ぼしていきます。主イエスによって様々な弱さから解放された人たちが、その苦しみや悲しみ、絶望に押し潰されることから自由にされた人たちが起こされていくのです。そこに私たちは神のご支配の広がりと影響力を見るのです。主イエスによって解放された人たちは、神のご支配のもとに安心して憩い、そのご支配のもとで守られて生きていくことができるのです。

 安息日に会堂でささげられた礼拝において、主イエスはみ言葉を読み、それを説き明かして、神様が遣わした主イエスによって捕らわれている人の解放が実現し、圧迫されている人の自由が実現した、と告げ知らせました。そしてまさにそこで、主イエスによる解放のみ業が行われました。この世界の片隅の会堂で起こった小さな解放の出来事は、やがて世界に広がっていきます。このことは、この女性がわざわざ「アブラハムの娘」と呼ばれていることにも象徴的に表れています。共にお読みした旧約聖書創世記12章では、アブラハムは祝福の源であり、アブラハムによってすべての人は祝福に入る、と言われていました。アブラハムに与えられた約束は、「アブラハムの娘」であるこの女性にも及びます。主イエスによって病から解放されることを通して、神様の祝福がこの女性にも及んだのです。そしてそれだけではなく、この女性を通して神様の祝福はさらに世界へと広がっていくのです。

あなたは解放された

 安息日に会堂でささげられている礼拝がそうであったように、今、日曜日に教会でささげられている礼拝においても、捕らわれている人の解放が実現し、圧迫されている人の自由が実現した、という主イエスのお言葉が響いています。世界の片隅のユダヤの会堂で起こった出来事は、世界に広がり、今や、世界中の教会の主の日の礼拝で起こっているのです。礼拝で私たちは、主イエスの十字架による救いによって、ほかならぬ私たち自身が、自分を捕らえ、束縛していた弱さから解放され、自由とされていることを繰り返し告げられています。世界の片隅のユダヤの会堂で実現した主イエスによる解放のみ業は、今、この日本で生きる私たちにまで及び、私たちをも包み込んでいるのです。なお私たちには弱さがあり続けるに違いありません。生涯、弱さと共に生きていかなくてはならないかもしれない。いくつもの弱さを抱え、この社会の中で生きづらさを感じ続けなければならないかもしれない。弱さを抱えて生きることがもたらす苦しみや悲しみ、絶望に押し潰されそうになるかもしれない。しかしその私たちが、日曜日に教会の礼拝に招かれ、集められて、すでに自分たちがあらゆる弱さの束縛から解放されていると知らされます。もはや弱さは、私たちの人生にとって決定的でも絶対的でもない、と知らされるのです。私たちはすでに神のご支配のもとに入れられているのです。私たちは神のご支配のもとに憩うことができるのです。そこで神様に支えられ守られて安心して生きることができるのです。私たちは弱さを抱えつつも平安に生きることができます。苦しみや悲しみに押し潰されそうに思えるときですら、神のご支配のもとに身を寄せ、憩うことができます。私たちはすでに解放されているのです。主イエスの十字架による救いによって、あらゆる弱さの束縛から解放されているのです。今日もこの夕礼拝で、主イエスは私たちに宣言してくださいます。「あなたは解放された」と、「あなたは、あなたのあらゆる弱さの束縛から解放された」と宣言してくださっているのです。

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