夕礼拝

神の国の秘密

「神の国の秘密」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第6章9-10節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第4章1-20節
・ 讃美歌:83、360、72

<たとえとは>
本日の聖書箇所は、少し長いですが、今週と次週の二回に渡って、御言葉を聞いていきたいと思います。

 4章1節に、「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた」とあります。そこには「おびただしい群衆が、そばに集まって来」て、主イエスの教えを聞いていました。
主イエスは何を教えておられたのでしょうか。それは、このマルコによる福音書の最初から語られていること、1章15節にあるように、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」ということです。主イエスは、このことを何度も何度も、大勢の人々に繰り返し語られました。

今日のところで教えておられたのも、この「神の国」だったに違いありません。
そして、主イエスは神の国の教えとして、「種を蒔く人のたとえ」を語られました。これは、聖書の中でもよく知られている、有名なたとえ話の一つです。
その「たとえ」の内容を丁寧にお話するのは次回にして、今回は、主イエスが11節で「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」と語っておられることを、聞いていきたいと思います。

「たとえ話」というのは、本来、ある複雑な物事を相手に分かりやすく説明するために、他のものに置き換えて説明することです。
ところが、おびただしい群衆がこの「種を蒔く人のたとえ」を聞いて、その後主イエスがひとりになられてから、「十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた」とあります。それで、主イエスは後半の部分にあるように、この「たとえの説明」をなさいました。
つまり、主イエスが語られた「種を蒔く人のたとえ」は、「神の国」を単に分かりやすく説明するために語られたものではなくて、教えられても、その場に残って、主イエスからさらに教えていただくのでなければ、分からないようなものだった、ということです。

<内と外>
十二人の弟子と、主イエスの周りにいた人々は、主イエスの許に留まって「たとえについて尋ね」、さらに教えを聞こうとしました。
では、主イエスの許に残らなかった、他の「おびただしい群衆」は、「たとえ」を聞いてどうだったのでしょうか。何だかよく分からなかったな、と思って去っていった人もいれば、何だかよいお話を聞いた気がするな、と納得して去っていった人もいたかも知れません。しかし注目すべきことは、主イエスの教えを聞いて、期待外れだったにせよ、満足したにせよ、ほとんどの人々が主イエスの許を去り、自分のところへ帰っていった。居なくなってしまったということです。
そして主イエスは、そのような人々に対しては、「神の国の秘密」は「たとえ」で示され、その秘密が打ち明けられることはない、と言われたのです。

主イエスは、このように去って行った人々を、11節で「外の人々」と言っておられます。
このことは前回、二週間前になりますが、3章31~35節で聞いたことと重なってきます。
そこでは、主イエスの活動を辞めさせ、自分たちの家に連れて帰るために、主イエスの母マリアやその兄弟たち、つまり肉親である家族がやってきたことが語られていました。
そして、主イエスは、教えを聞こうとする大勢の人に取り囲まれていましたが、マリアや兄弟たち家族は、その人々の中には入っていかず、「外に立ち」、自分たちのところに主イエスを呼び出そうとした、とあります。神の国を告げておられる主イエスの言葉に耳を傾けようとするのではなく、自分たちの思いに従わせようとしたのです。

すると、主イエスは、そのように「外に立っている」肉親に対して、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と言われました。
一方で、教えを聞こうとして、御自分の周りに座っている人々に対して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行なう人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われたのです。

「外に立っている」ならば、主イエスは「その者はわたしと無関係だ」と仰います。
しかし、御自分の許に来て、教えを聞こうとする者に対しては、「わたしの母、わたしの兄弟、わたしの家族だ」と言われます。ここに、内と外の区別がはっきりと示されています。
そして、主イエスの許にいる者、教えに耳を傾ける者に、「あなたたちこそ、神の御心を行なう者だ」、「それが、神があなたたちに望んでおられることだ」と言われたのです。

本日の4章10節以下でも、同じように、この内にいる人々と、外にいる人々が更に明らかにされています。
主イエスは、御自分の許に留まり、さらにその教えを聞こうとする人々に、「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている」と言われました。
そして、主イエスの許から去っていく者は、「外の人々」と呼ばれ、「すべてがたとえで示される」と言われたのです。去っていく人は、わたしには関係ない者になる、神の国のことが何も分からないままだよ、ということです。
どうして、主イエスは、ご自分の許に留まる人と、離れ去る人を、3章に続いてさらにこんなにはっきりと区別なさるのでしょうか。
それこそ、「神の国の秘密」に理由があります。

<神の国の秘密>
「秘密」というのは、許のギリシア語は「ミュステーリオン」という単語で、ミステリーの語源です。謎とか、秘伝とか、奥義と訳すことも出来ます。
この「神の国の秘密」という言葉から分かることは、根本的に「神の国」は隠されているものであるということ。目に見えて明らかなものなのではない、ということです。
ですから「神の国」とは、確認したり、理解したり、納得したりする事柄ではなく、聞いて信じるべき事柄です。この「神の国」の「たとえ話」を聞いたとしても、それはすぐ分かって頭で理解して済むものではないのです。

それでは、この主イエスが語られている「神の国」の教えとは、どういうものなのでしょうか。「神の国」というのは、「神のご支配」という意味です。

わたしたちはすべて、神に造られた者であり、神がわたしたちに命を与え、日々生かして下さっています。神は愛をもって、恵みの中にわたしたちを置いて下さいます。そのような神の恵みのご支配の中でこそ、人は生きることができるし、本当の平安を与えられ、喜んで生きることができるのです。
人は、この神から離れて生きることは出来ません。しかし、人はすぐにこの恵みを忘れて、世の力、または自分の力の方が確かだと思い込んで、神から離れてしまいます。神の思いではなく、自分の思いに忠実になり、自己中心的になって、自分が支配者になろうとして、神を忘れ、神から離れて生きようとします。
それが、聖書が語る「罪」です。そのように命を与える恵みの神から離れることは、わたしたちが滅びへ向かっていくことを意味します。

しかし神は、それを良しとなさらず、御自分に逆らった人間の罪を赦し、また神の恵みの許で、神のご支配の許で生きる者となるため、救いのみ業をご計画して下さいました。その救いの実現のために、神は御自分の御子である主イエスを、この世に、わたしたちのところに遣わして下さったのです。

そして、主イエスは、この神の救いへと、人々を招いておられるのです。主イエスの教え、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とは、この神の救いへの招きです。
神から離れた人々に、神が救いのみ業を実現して下さる時が来た。そのためにわたしが遣わされて来た。目には見えないが、神の支配はすぐ近づいている。今こそ、神の許に帰ってきなさい。この神の救いを信じなさい。そのように告げておられるのです。
あなた自身があなたの支配者なのではない、神こそ、あなたの支配者だ。この方の恵みの許でこそ、まことの命を生きることが出来る。この神のご支配を受け入れなさい。神と共に生きる者となりなさい。これが、「神の国」の教えです。

ですから「神の国」は、教えを聞いて、満足したり、「分かった」と納得して終わるものではありません。また、目に見える王国や楽園ではありません。
神の国は、今は目には見えない、神のご支配です。「神の国」の教えは、聞いた者に、この神のご支配を信じて受け入れるかどうかを問うのです。「悔い改めて福音を信じなさい」と言われています。
神のご支配の許で生きる者となるか、神から離れたままでいるのか。招きに応えるのか、応えないのか。神の支配の内側に来るのか、外に立ったままなのか。そのことが、「神の国」の知らせを聞いた一人一人に問われます。
信仰とは、思想や考え方ではなく、生き方そのものです。自分の存在、人生の在り方、そのものにかかわることなのです。

<秘密を打ち明けられている人々>
 ですから神の国は、人が自分の存在をかけて、この救いを与えてくださる主イエスの御言葉を聞き、主イエスに従うところにこそ、実現します。主イエスと共にあること、その現実こそが、「神の国」が実現している、ということなのです。
 そして、そのような生き方の中でこそ、「神の国の秘密が打ち明けられ」ていく。すべての勝利される神のご支配、救いの恵みを経験し、目撃し、確かなものとされていくのです。

わたしたちの目には、苦しかったり、悩みがあったり、混乱しているような世の中の現実が迫ってきます。とても、神がご支配しておられるとは思えないような世界だ、と思ってしまう。
しかし、主イエスは、この神のご支配を実現するために、神の御子でありながら真の人となり、この苦しみの現実の只中へと来て下さった。そして、苦しみも罪も死も、すべてを担って下さり、十字架の死と復活の御業によって、この世のすべてに打ち勝つ神のご支配、確かな神の救いがあることを、主イエスがご自身を通して、この世に示して下さったのです。
ですから、この方の御言葉を聞くことによってしか、この方と出会い、従うことによってしか、神のご支配を知ることは出来ません。

 何か奇跡を求めてとか、ただ人生のためになる良いお話しを求めて来ても、自分の願いを叶えてもらおうとする思いや、自分の人生をよりよくするためのエッセンスとしてしか御言葉を聞かず、結局主イエスの許を去ってしまうなら、この方に自分の存在をかけないなら、「神の国」のことは何も分からないのです。秘密のままになるのです。
 まさに、イザヤ書から引用して主イエスが言われたように、「彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない」ということになるのです。  

 神が求めておられるのは、わたしたちが「立ち帰って赦されること」です。神に目を向け、神の許に帰り、罪の赦しを信じ、神と共に生きる者となることです。
そして、主イエスの許でこそ、その見えない神の恵みの現実を、知っていくことが出来るのです。見えないけれど、確かにある神のご支配に生かされていく。主イエスが共にいて下さり、神と共にある人生を生かされていくのです。

<百倍も実を結ぶ種>
そして、その神の国の恵みが、13節以下で、「種を蒔く人のたとえの説明」として、十二人と主イエスの周りにいた人たちに対して語られていきます。神のご支配に生きる者の恵みが明らかにされていきます。

14節に、「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」とあります。この、神の言葉を蒔く人とは、主イエスご自身のことです。
そして、様々なこと、サタンに奪い去られたり、艱難や迫害でつまずいたり、思い煩いや誘惑に妨げられたりして、蒔かれた種が実らないことが語られます。
しかし最後の20節に、「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである」と言われています。
「御言葉を聞いて受け入れる人」、つまり、主イエスの許に留まり、御声を聞き続ける人、神のご支配を受け入れる人のことです。こういう人たちは「良い土地」に蒔かれたものであり、想像を超えるような、豊かな実りが与えられるのだ、というのです。
主イエスの招きに応え、神の救いを信じるなら、神のご支配の許に生きる者となるなら、わたしたちの思いを超えた、計り知れない恵みが与えられる、ということです。

 そしてそれは、わたしたちが自分の力で種を実らせるのではありません。頑張って良い土地になるために耕したり、世話をしたりしなければならない、と言われているのではありません。耕して頂き、手入れを受けるために、主イエスの手にすべてお渡しするということです。人は「御言葉を聞いて受け入れる」だけです。御言葉を蒔いて下さるのは主イエスであり、また実らせて下さるのも主イエスです。わたしたちは、この方の御手に、自分を委ねるだけなのです。

<救いの完成>
しかし、実際はその「委ねる」ということがなかなかできません。罪から離れられず、すぐに自分の思いが先立ち、頑なになってしまう。サタンに惑わされるし、苦難の中でつまずくし、思い煩いや誘惑に陥っては神の恵みを疑ってしまったりするのが、わたしたちの目に見える現実です。
わたしたちは、神の許に立ち帰っては、迷い出て、恵みの中に生かされながらも、罪の歩みを繰り返しています。

しかし、主イエスは、そのようなわたしたちの罪を赦すために、ただ一度、十字架の死によって償いの業を成し遂げて下さいました。わたしたちは、この主イエスの十字架の許に、罪の赦しの許に、生涯、何度も立ち帰らされつつ歩んでいくのです。
そのために、わたしたちは、神の恵みの許に留まり続けることが大切です。どんな苦しみの時も、悲しみの時も、また喜びの時も、主イエスが共にいてくださることを信じ、御言葉を聞き続けること。祈り続けること。この、生きておられる方との交わりの中でこそ、わたしたちは神の恵みのご支配を確かにされていくのです。

その神の恵み、神との交わりを最も知ることができるのは、主の日の礼拝です。そこでは、福音を告げる御言葉の説教と、聖餐の食卓が整えられています。神のご支配は目に見えませんが、聖霊が働いて下さり、聖書のみ言葉を通して、わたしたちは神の語りかけを耳で聞き、またパンと杯というしるしを通して、わたしたちは神の恵みを目で見て、触れて、味わい知ることが出来ます。神の恵みの現実を確かにされるために、主イエスが備えてくださったものです。信仰によって体験する恵みです。そこで主イエスは何度でもわたしたちを招いて下さり、何度でも恵みの許に立ち帰らせて下さるのです。
そこでわたしたちは、罪のために死んで下さり、そして復活して生きておられる主イエスが確かに共にいて下さること、この方に確かに生かされていることを、体全体で味わい知ります。この恵みが、わたしたちを捕らえていて下さるから、わたしたちは神の恵みの許に留まることが出来るのです。

そして、終わりの日、主イエスが再び来られる日には、この隠された神の国が、完全に明らかになります。悲しみも労苦も嘆きも過ぎ去り、すべてが新しくなるといわれる。この神の国の完成の時には、わたしたちも復活の体を与えられ、主イエスとこの目で見えることがゆるされる。祝福と栄光に豊かに与る。
この約束を待ち望みつつ、しかし、今この時から、すでに与えられている、神の恵みの現実の中を、生きておられる主イエスと共に、日々歩んでいくのです。

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