「この方はどなた?」 伝道師 乾元美
・ 旧約聖書:詩編 第107編23-32節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第4章35-41節
・ 讃美歌:6、280
<キリスト者ならではの危機>
主イエスが、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われました。そして弟子たちはその言葉に従って、舟を漕ぎ出しました。
主イエスはたびたび、湖のほとりで、教えておられました。主イエスが教えておられたのは、マルコの1:15にあるように「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」ということです。
主イエスは、群衆があまりに多いので、舟に乗られて少し岸から離れ、湖の上から、岸部にいる群衆に語りかけておられました。しかし、この時、主イエスは教えられた後、弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言われ、そのまま舟を漕ぎ出させて、群衆を後に残して出発されたのです。
すると、この主イエスと弟子たちを乗せた舟は激しい突風に襲われ、波をかぶって、大変な危機に陥ります。これは、湖のほとりに残された群衆は、まったく経験することがないことです。船出なんてしなければ、ずっと安全な陸にいて、わざわざ危険に遭うこともなく、平穏で変わらない毎日があります。
主イエスの言葉に従い、主イエスと共に舟に乗って漕ぎ出した者だからこそ、危機に遭遇することがあるのです。
人生の様々な出来事や困難を、航海にたとえたり、「人生の荒波」なんていう言葉で表現したりすることがあります。しかし、本日のところで語られているのは、そのような誰もが人生で味わうような苦しみや困難を、ただ語っているのではありません。ここでは、主イエスに従う者こそが経験する「信仰の危機」が、語られているのです。
<波と共に揺らぐ信仰>
主イエスが「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われました。これは命令ではなくて、「さあ~しよう」というような勧める言葉が使われています。「さあ、わたしたちは向こう岸に渡ろうじゃないか」という感じです。主イエスはそのようにして、弟子たちをご自分に伴わせて、向こう岸に行こうとされます。
弟子たちは素直に御言葉に従って、舟を漕ぎ始めました。この時、まだ湖は穏やかでした。静かな湖面を舟が進んで行きます。弟子の中にはプロの漁師もいました。湖のこと、舟のこともよく知っている。特に変わったこともなく、舟を漕ぐなんていうのは、いつも通りのことだったでしょう。
ここで、ある人が、もしこの船出をしたばかりの弟子たちに「あなたの神への信頼は確かですか?」と聞いたなら、彼らは「もちろんです」と答えたに違いない、と言いました。
しかし、この信頼は、実は神ではなく、水面が静かで、湖が穏やかであることによる信頼だったのではないだろうか。そのように指摘するのです。
また、湖は彼ら漁師のフィールドですから、向こう岸へ行くことは何でもないことだ、という自信もあったかも知れません。とにかく、その神への信頼は、目に見えるものによって、得ているつもりになっていたのではないか、というのです。
ここで、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになる。そうすると、弟子たちの神への信頼は、周囲の平和や静けさが失われるのと共に、一瞬にして消え去ってしまったのです。
わたしたちも、このことをよく経験するかも知れません。穏やかで、平和で、充実した日々を送っている時には、心も穏やかで、静かで、神に感謝をしたり、喜んだりしています。
しかし、ひとたび激しい突風に見舞われたなら、わたしたちは困難や苦しみの中で、とたんに不安になり、動揺し、神のご支配を見失ってしまいます。
自分ではどうしようもないことに突き当たると、なにか圧倒的な悪い力が自分を支配して、飲み込んでしまうのではないか。このまますべてがダメになって、何もかも失ってしまうんじゃないか。そのように思ってしまうのです。
不安や動揺は、わたしたちの目を曇らせて、目の前の荒れ狂う波や、恐ろしいものしか見られないようにしてしまいます。
でも実は、目の前の現実で起きている問題以上に、そこに生じる信仰の危機、神への疑いの方が、かなり深刻です。信仰とは、神に自分の命も存在も、すべてを委ねることです。その自分の存在を支えるものが、揺らぐように感じるからです。
神によって与えられる罪の赦し、永遠の命、復活の希望。あらゆる危機と困難を乗り越えさせ、死の恐れをも克服する希望を与える、その信仰への疑いは、わたしたちを絶望へ導こうとします。
弟子たちは艫の方で眠っておられる主イエスを起こして、『先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか』と言いました。この「溺れる」という言葉は、他にも「失う、消え去る、滅びる」という意味を持つ言葉です。
弟子たちは、激しい突風と荒波によって、自分たちが死んでしまう、滅びてしまう、と感じました。そして主イエスに、「先生、わたしたちが滅んでしまっても良いのですか」と訴えたのです。まさに信仰の危機は、わたしたちにとって「滅びてしまう」と叫ぶほどの、大きな危機なのです。
<主イエスへの非難>
ですから、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」という叫びは、ただ「助けてください」という意味ではありません。「先生、あなたは、わたしたちが滅びても、気にしないのですか」という、主イエスへの強い非難を込めた言い方です。
弟子たちは、プロの漁師でも手に負えない突風と大波に、命の危機を感じています。しかし、主イエスは眠っておられる。あなたに従ったから、こんな目に遭っているのに。あなたが、わたしたちを連れ出して、舟を漕ぎ出させ、そのためにわたしたちは滅びそうなのに、あなたは何もしてくれないのですか。あなたは、わたしを気にかけて下さらないのですか。そのような、混乱と、滅びへの恐れと、主イエスに対する憤りが込められた叫びなのです。
苦しみや困難の中にある時、わたしたちも、どうしてこのような状況を、神が許しておられるのだろうか。何もして下さらないのか。助けて下さらないのかと、憤りを持って神に問いかけることがあるのではないでしょうか。
わたしのキリスト者の友人は、ある病を持っていて、それが取り去られるように、辛い治療も一所懸命行い、祈り続けていますが、なかなかその望みは叶えられません。
彼女は神に対して怒っています。そして、「信仰なんてなければ、神様を知らなければ、こんなに苦しまなかったのに」と言いました。神さまがいるならどうしてこんな病があるのか。神さまがいるなら、どうして癒してくださらないのか。そういう問いが生まれるのです。
信仰者は病の苦しみだけではなく、信仰の苦しみをも覚えます。信仰の苦しみの方が、辛いかも知れません。信仰を与えられた者は、神のみ心を問います。神が御心を行なって下さるということ。もっとも良いもの、必要なものを与えて下さる方であることを聞いています。その方に従っているのに、祈っているのに、応えられない。
神に従う者とされたからこそ、苦しみの現実は信仰の問いを生み、その苦しみそのもの以上に深い苦悩を味わわせるのです。
わたしたちの神が、ご利益や厄除けの神様ではないことは、十分承知しています。
しかし、この苦しみや悲しみには耐えられない。耐えられない試練は与えないと言われても、もうわたしは耐えられません。どうしてこんなことをなさるのですか、どうして何もして下さらないのですか。そのように、わたしたちは神を訴え、怒り、咎めることがあるのではないでしょうか。
<共におられる主イエス>
しかし、聖書は、まさにその困難と苦しみの真っただ中に、大荒れの湖に浮かぶ舟のただ中に、共に救い主イエスがおられるのだ、ということを示します。
この方のご意志で、弟子たちに声をかけ、「向こう岸に行こう」と言って船に乗せ、目的地に向かって漕ぎ出された。主イエスが、弟子たちと共に行くことを望まれたのであり、また、ご自身も共に同じ舟に乗っておられるのです。
主イエスは弟子たちの訴えを聞き、起き上がって下さいます。ご自分に従う弟子たちの苦しみや恐れや不安を、放置してはおかれません。風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」とお命じになりました。すると、風はやみ、すっかり凪になった。主イエスは神の御子です。自然さえも支配し、従わせる、神の権能をお持ちの方です。
しかしこれは、主イエスが単に、悪い状況を不思議な力で納められた、奇跡で問題を解決なさった、ということではありません。
この御業は、まさに主イエスご自身が、神の権威を持つ方であり、神のご支配を実現する方、救いのみ業を実現する方として、そこにおられることを示されたのです。
主イエスは弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言われました。
弟子たちは、これまで神の国の教えを何度も聞き、またその神の権威を現すための奇跡のみ業も多く見てきました。しかし弟子たちは、いざ現実に自分たちの身に具体的な危機が迫ると、その自分を脅かすものに心を奪われてしまいました。そうして、神の権威を持つ方が共にいるということを、すっかり忘れてしまったのです。
しかし、舟に共に乗っておられる主イエスは、その御力によって風と湖を静めて下さり、弟子たちに「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか」と言われます。
これは、言い換えれば「怖がらなくてよい、わたしを信じなさい」ということです。「怖がらなくてよい。信じなさい。」神の御子であるわたしが共にいるではないか。そう仰るのです。
神のご支配の中に自分があることを知り、神に信頼して委ねているならば、主イエスが共におられることを見つめているならば、どのような突風でも荒波でも、怖がらなくて良い、と言われるのです。
<主イエスが召し出し、舟に乗せて下さった>
でも、この意味を取り違えると、主イエスがこのように言われたのは、怖がってしまうような不信仰はけしからん。神を信じているならば、怖がらないはずだ、と責めておられるように思ってしまうかも知れません。
キリスト者は、「信じているから、怖くない」と言わなければならないのでしょうか。怖がってしまった自分の信仰の弱さを指摘されてしまった。もっと強く信じなければ、神に信頼しなければ、と自分を鼓舞しなければならないのでしょうか。
そうではありません。わたしたちは、信仰を持ち、主イエスに従っていこうとするとき、弟子たちと同じように、突風や荒波に激しく動揺し、時に神のご支配を忘れ、神が何もして下さらないと訴え、神の御心が分からないと問うことがあるでしょう。
しかもそれは、自分の実存に関わるような危機です。そして、この主イエスの「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」という言葉によって、神に信頼しきっていない自分の姿を見出すでしょう。わたしが不信仰だから動揺するのだ、信じているなら怖がってはいけないのだ、と考えるかも知れません。
でもだからと言って、わたしたちは自分で自分の信仰を固くし、頑張って神に信頼するようにしよう、とか、何があっても信仰があるなら動揺してはいけない、とか、そのように自分で決意や意志を固く持つことは出来ないのです。わたしたちの意志や心は、とても臆病で弱いからです。
主イエスが「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」、怖がる必要はないのだ、信じなさい、と言われたのは、弟子たちを選び、召し出し、舟に乗せたのは、他でもない主イエスご自身だからです。弟子たちが主イエスと共にいるのは、主イエスがそれを望まれたからです。そして彼らは従った。この弟子たちの面倒を見て下さるのは、主イエスご自身なのです。
神の権威を持つ御子が、一人一人を選び、召し出した弟子たちを連れて「向こう岸に渡ろう」と言われ、共に舟に乗って、ご自身の目的へと向かわれているのです。弟子たちをご自分の歩みに伴わせて下さっているのです。主イエスの目的。それは、神の国、神のご支配の完成。つまり、救いの完成という目的です。
この神のご支配、神の恵みの御業は、岸に残ったままの群衆は、知ることは出来ません。主イエスと共に舟にのり、漕ぎ出したからこそ、目の当たりに出来るのです。主イエスがおられるところ、向かわれるところ、御言葉が語られるところに、神のご支配が実現し、救いのみ業が前進していきます。それは自分の思いをはるかに超えた、神の恵みであり、神の御業です。
この神のご支配を、恵みのみ業を、弟子たちは一番近くで目撃させられていくのです。その歩みの中で、主イエスは、確かな神のご支配を示し、弟子たちを守り、強め、怖がらなくて良いのだと、神をこそ信じるべきなのだと、語りかけて下さるのです。
弟子たち、わたしたちの、信じる思いが弱くなっても、神のご支配は、弱まることがありません。わたしたちが動揺しても、疑っても、主イエスの力強いご支配は変わりません。
わたしたちの信仰が強くなければならないのではないのです。そうはなれない。でも、信仰は、わたしたちの思いの強さや確かさではなく、神の強さと確かさに土台があるのです。
この真実な神の御子、主イエスご自身に招かれ、伴われることによって、弟子たち、わたしたちは、疑いや迷いを打ち砕かれ、荒れる心を静められ、信じる者へ、従う者へと、主によって変えられていきます。
現実問題よりも深刻な信仰の問いは、まことの神の御力に触れたときに、神が、その苦しみや悲しみの現実をすべて覆い尽くして下さる、圧倒的な神の恵みを用意して下さっていることを、教えるのではないでしょうか。
<この方はどなた?>
さて、「黙れ、静まれ」と言って風と湖を治められた主イエスを、弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った、とあります。
弟子たちは主イエスと共にいて、見たり聞いたりしてきました。しかし、今、風と湖を従わせる神の御子の権威を目の当たりにし、いつも共に過ごしてきたこの方が、だれだか分からなくなってしまったのです。彼らは、主イエスのことを、非常に恐れた、とあります。
先ほど弟子たちは、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と非難と憤りを込めて訴えていました。しかし、主イエスが、まさか風と湖に命じて、従わせ、静めるという仕方で救って下さるとは、予想外のことだったでしょう。
神の御業、権威は人の想定内に納まるものではありません。圧倒的な神の権威を示された主イエスのお姿は、弟子たちの理解している「先生」の姿ではありませんでした。
人は、主イエスの救いの御業に触れれば触れるほど、人の思いを超える神の御業、御心に圧倒され、畏れを増していくのです。信仰の歩みは、だんだん神のことが分かって理解していく、というのではなく、むしろ計り知れない、広さ深さを持つお方であることを、益々知っていく、ということなのかも知れません。
彼らの主イエスに対する恐れは、すべてを支配しておられる、神の権威の底知れなさ、想像を超えた神の力に対する畏れだったのです。
そして、弟子たちの「この方はどなたなのだろう」という問いに対して、主イエスはご自身の十字架と復活の御業によって、そのことを明らかにされました。この方はまことの人となられた神の御子、救い主です。
「怖がらなくてよい」と言って下さるこの方ご自身が、わたしたち人間の最も深い苦難と恐れ、罪と、滅びとを、代わりにすべて引き受け、担って下さいました。
ですから、この方だけが、わたしたちを救って下さる神の子だけが、わたしたちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。もう怖がらなくてよい。わたしを信じなさい、と仰ることが出来るのです。
またこれは、弟子たちの「何もして下さらないのか。わたしたちが滅びてもかまわないのか」。という訴えに対する答えでもあります。
主イエスはわたしたちが滅びることをよしとされません。そのために、ご自分がすべての罪を負い、苦しみを担い、わたしたちを罪から、滅びから救い出して下さいます。わたしたちを救うために、御自分を、わたしたちが最も恐れる死の滅びへと引き渡して下さるのです。何もして下さらないどころではありません。わたしたちが滅びないために、この方は御自分のすべてをわたしたちに与えて下さるのです。
そうして救いを成し遂げた御子を、神は死の中から復活させて下さいました。そして、死にも打ち勝たれたこの方の復活の命に、しっかりと、確かに結ばれて、今、わたしたちはこの方と共に、救いの完成に向かう舟に乗っているのです。
<教会の舟>
教会はよく舟にたとえられます。そこには主イエスが共に乗っておられる。わたしたち一人一人の名前を呼んで「わたしについて来なさい」と声をかけて下さり、また従う者たちを「向こう岸に渡ろう」といって共に舟に乗せ、教会に連ならせ、神の国の完成に向かって、船出されるのです。
どんな荒波にもまれても、突風でひっくり返りそうになっても、怖がっても、叫んでも、そこに主イエスご自身が一緒におられるなら、わたしたちは必ず主イエスと共に、向こう岸に渡ることが出来ます。
そして、わたしたちは、荒波を越えるたびに、十字架にかかり、復活されたこの神の御子が、いつも共にいて下さることを益々確かにされていきます。この方は、わたしたちの救い主であり、神の御子である、イエスさまです。「怖がらなくてよい。信じなさい」と言って下さる方です。
岸で傍観していては、この恵みを経験することは出来ません。主イエスに招かれたなら、あやふやで不確かな信仰ながらも、その招きを受け入れ、従い始める者たちが、この神の御力を経験し、信じる者へと変えられていくのです。
わたしたちは、苦しみや嘆き悲しみ、不安を、神に訴えて構いません。むしろ、真剣に神に向かっていくことが大切です。神は、それに御子の十字架の死をもって、主イエスの命をもって、わたしたちを愛し、赦し、救い出して下さることを示されます。
どのような荒波に襲われても、わたしたちは、自分の意志や決意によってではなく、主イエスによって、決して絶望することはないし、信仰を持ち続けることが出来るのです。