夕礼拝

主イエスの注意

「主イエスの注意」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: エゼキエル書 第36章22-32節 
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第16章1-12節
・ 讃美歌 : 353、431

ファリサイ派とサドカイ派
 本日はマタイによる福音書第16章1節から12節をご一緒にお読みします。主イエスの元に「ファリサイ派とサドカイ派の人々」が、主イエスを試そうと「天からのしるし」を見せて欲しいと願い求めて来ました。まず、ここに登場するファリサイ派とは宣べ伝えられてきた教えや言い伝えを大切に重んじ、その教えや言い伝えを細かく解釈をしていた人々です。当時のローマの支配に対しては抵抗していました。このようなファリサイ派に対してサドカイ派とは、エルサレムの神殿を中心としていた人々で、旧約聖書の最初の五つのモーセの文書を重んじていた人々です。ローマとは手を組んでいました。従って、これらの2つのグループは意見が対立していました。しかし、ここでは一緒に主イエスを試そうとして、天からのしるしを見せて欲しいと願いました。敵対している2つのグループが手を組んで、一緒になって主イエスの前に登場しているのです。
 まず、「天からのしるし」を求めるとは主イエスが本当に神様から遣わされた救い主、神の子であるのかということを人々に実証するような、天からの証拠を示して欲しいということです。証拠、しるしを示さないと救い主としては信じないのですから、このことは主イエスを試す質問であったのです。証拠を求めるということです。「天からの」というのですから、神様が直接示して下さるしるしによって、主イエスを神の子、救い主なのだと納得させてほしい、ということです。驚くべきしるしを人々に見せれば人々は主イエスを救い主だと信じる、ということです。そのようにして、主イエスは試された、試みを受けられたということです。
 ファリサイ派やサドカイ派の人々がこのようなしるしを求めたということは、このような願いを人間の誰もが持っているということです。ファリサイ派やサドカイ派というのは、人間の姿を現しております。人間の姿、人間の罪の姿を現していると言えます。新共同訳聖書では、本日の箇所には「人々はしるしを欲しがる」と小見出しがつけられています。ここでは、主イエスに対する人々の態度が記されているということです。その人々の中に、ここにいる私たちもまた含まれているということです。

時代のしるし
 ファリサイ派やサドカイ派の人々は主イエスを試そうとして天からのしるしを見せてほしいと願いました。ここでは主イエスを試そうとして、とあります。「天からのしるし」を求めるとは主イエスを試すという意図をもってなされたのです。主イエスはここで彼らによって「試され」ているのです。
 主イエスは既に第4章において荒れ野で誘惑、試練を受けられました。その場面で主イエスは「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われました。主イエスを試すようなファリサイ派、サドカイ派の質問に対して主イエスは、このようにお答えになりました。2節から4節です。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を敏感に見分ける、天候のことはよく知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」主イエスは、ファリサイ派やサドカイ派が空模様はどうなるかということはよく見分けることができるのに、救い主が到来するという「時代のしるし」を見分けることが出来ないことを指摘されました。「よこしまで神に背いた時代の者たち」は「ヨナのしるし」以外には与えられないと述べております。空模様の変化には極めて敏感であるのに、時代の変化には鈍感であると指摘しております。その鈍感さが、「よこしまで神に背いた時代」の者たちの不信仰に基づいていることが明らかにされているのです。

ヨナのしるし
 実際は主イエスを救い主として認めていないのに、信仰者を装っているのが「よこしまで神に背く」ということです。主イエスの言われた「よこしまで神に背いた時代」と言うのは厳しいお言葉です。しかし、私たちの思い込みを一切取り去って、ファリサイ派やサドカイ派、そして私たちの姿、罪の姿を明らかにしているのです。主イエスは「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」と言われます。「ヨナのしるし」とは、マタイによる福音書第12章38節以下において、主イエスご自身が説き明かしております。「つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」(12章40節)ということです。旧約聖書にはヨナ書というのがありますが、ヨナという人が当時のアッシリアの都ニネベに伝道して、人々が悔い改めて神に立ち帰るように告げよ、という神の命令に背いて逃れようとして舟に乗り、ついには海に投げ込まれて大魚の腹に三日三晩飲み込まれた後で、ニネベに打ち上げられたということが述べられています。この当時のユダヤ人ならば誰でも知っているヨナのしるしのことを取り上げ、主イエスは「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」と言われました。主イエスもヨナのように三日三晩、大地の中におられるというのです。これのことは、主イエスが十字架の上で処刑されて死なれ、葬られて、三日後に復活されるということを示しております。主イエスの十字架と復活の出来事こそ、ただ一つのしるしであると、言われているのです。しかし、そのことを見聞きしたはずの当時の人々も全員がこの「しるし」を信じたわけではありません。私たちもまた主イエスの十字架と復活に疑問を抱くかもしれません。当時の人々も同じだったのです。主イエスの十字架と復活の出来事は、当時も今日も、信仰によって受け止めることなのです。この主イエスの出来事を、信仰を持って信じて受け止める時に、主イエスの出来事は大きなしるしとなるのです。ファリサイ派やサドカイ派の人々は、天からの大きなしるしを求めました。
 主イエスは天からのしるしを求めた人々に対して言われました。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか」。夕焼けだと次の日は晴れる、また朝焼けだと天気が悪くなるということは、私たちも知っていることです。私たちはそのように自分で空模様を見分けながら生活しています。そのことは、天に現れるしるしを判断しているということです。主イエスはそのような判断を日々しているのに「時代のしるし」は見ることができないのか、と言われるのです。主イエスは主イエスの十字架と復活において実現した神様のご支配、救いについても、同じように身近なところに見るべきしるしがある、ということを言われているのです。主イエスはそのような身近なしるしを見なさいと言っておられるのです。
 主イエスは「時代のしるし」を見なさいと言われます。「時代」とは「時」という言葉です。ある意味を持つ時、特別な時、そういう意味では機会とかチャンスとも訳せる言葉です。主イエスは日々の生活の、身近な中において、そのような「時のしるし」がある、空模様を見分けるのと同じように、そういう時のしるしを見分けなさいと、いうことです。そして、主イエスはファリサイ派やサドカイ派の人々を後に残して立ち去られました。主イエスが一人で折られた時にこのようなことが起きたということです。主イエスは、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」とだけ言って、彼らを後に残して立ち去りました。この主イエスの姿勢はファリサイ派やサドカイ派の人々に対する拒絶、決別の姿勢です。

パンを忘れた弟子たち
 そして、5節からは弟子たちが登場します。本日の箇所の直前ですが、15章の39節にはこのようにあります。「イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた」とありました。主イエスはお一人で先に舟に乗って、ガリラヤ湖を渡られたのです。その行った先で、4節までの出来事がありました。弟子たちは後から主イエスを追って来たのです。ところがその時、弟子たちは、パンを持って来るのを忘れていました。主イエスの後を慌てて追って来たので、食料の調達を忘れていたということです。到着した弟子たちに、主イエスは「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われました。それは4節までの話を前提としての教えであることは言うまでもありません。しかし、弟子たちはその主イエスとファリサイ派、サドカイ派の人々との話を聞いていません。それで、主イエスが突然「パン種」という言葉を使われたのを聞いて、「自分たちがパンを持って来るのを忘れたことをしかられたのだ」と思ったのです。私たちも何か気になっていることがあると、全然関係ない話もそのことと結びつけて受け止めてしまう、ということはよくあることです。この時の弟子たちもまさにそうでした。弟子たちは自分の失敗を主イエスに叱られるのではないかと思っていたのです。

小さい信仰
 主イエスは弟子たちの思いに気づかれました。そして「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか」と言われました。「信仰の薄い者たちよ」とは文字通りに訳せば「信仰が小さい」ということです。主イエスは弟子たちの信仰が小さいと言われたのです。それは彼らが、パンを持って来るのを忘れたことをしかられた、と思っていることに対してです。その思いは単なる誤解ではなく、あなたがたの信仰の小ささの現れだというのです。主イエスは「まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか」(9節)と主イエスは言われます。更に「覚えていないのか、忘れてしまったのか」と言われました。この出来事は14章に記されております、主イエスが五つのパンで五千人を満腹にさせて余りも出たという出来事です。また、七つのパンで四千人を満腹にさせたという、いずれの場合にも、人間の常識からすれば到底足りない、一人にほんのひとかけらほども当らないというパンで、みんなが満腹するという奇跡が行われたのです。主イエスはそのようにして、ご自分のもとに集まって来る人々の空腹を満たして下さるのです。その出来事を二度も、弟子たちは経験したのです。そして、弟子たちはただその出来事を見ていただけではありませんでした。主イエスは弟子たちを用いられたのです。弟子たちはその主イエスの御業の中で用いられたのです。弟子たちは主イエスが祈って分けたパンを配りました。みんなが満腹した後、余ったパン屑を集めたのも弟子たちでした。弟子たちは主イエスの奇跡を体で体験したのです。主イエスは弟子たちのその体験を覚えていないのか、忘れてしまったのか、と問うているのです。もし、弟子たちがこの出来事を覚えていればパンを忘れたことに心をを奪われてしまうようなことはないはずでした。主イエスが人々の空腹を満たして下さる、その力に信頼して安心することができるはずです。弟子たちはそうではなく、自分たちがパンを忘れたから叱られる、と思ってしまいました。このことこそ、弟子たちの信仰の小ささ、不信仰であったのです。

思い起こす信仰
 しかし、本当に弟子たちはパンの奇跡の出来事を忘れていたのでしょうか。ここで主イエスは「まだ、分からないのか。覚えていないのか。」(9節)と言われました。弟子たちはその出来事を覚えていることができなかったのです。この「覚えている」という言葉には「思い起こす」という意味があります。記憶に残るというのではなくて、それを積極的に思い起こすということです。「思い起こす」ということは、そのことが、現在の自分の生活、行動、思いにおいて生きた働きをするということを意味します。
 弟子たちは、あのパンの奇跡を忘れてしまっていたのではありません。しかし、積極的に思い起こすことは出来なかったのです。パンの奇跡の体験が彼らの中で生きた経験にはならなかったのです。自分の生活において、行動において生きた働きにはならなかったのです。信仰の生活とは「思い起こす」生活であります。神様に与えられた恵みの経験、救いの体験を思い起こすということです。記憶に留めるというよりも、積極的に思い起こし、その恵みによって今の自分の歩みが支えられ導かれていくということを信じることが信仰です。「時のしるし」を見分ける、とは「思い起こす信仰」に生きるということです。身近な所にある時のしるしを見分けるとは、私たちの日々の生活の中にも現れている神様のご支配や、主イエス・キリストの恵みが示されていることに気づくことです。神様は私たちの全ての歩みを導いて下さいます。「時のしるし」の「時」という言葉は、ある意味を持つ時、特別な時、機会とかチャンスとも訳せるような言葉だと申しました。日々の歩みの中、神の恵みが現れる特別な時、タイミングがあります。主イエスによる神様の恵みを常に思い起こしつつ生きる「思い起こす信仰」によってこそ、私たちは自分の生きているこの時を、意味のある特別な時、神様の恵みにあずかる機会、チャンスとして見つめることができるのです。

主イエス・キリストのしるし
 主イエスはファリサイ派とサドカイ派のパン種に注意しなさいと警告されました。神の恵みを思い起こす信仰によって、自分の生きているこの時を思い起こし、ファリサイ派、サドカイのパン種に注意をし、自由になるのです。弟子たちは、主イエスが注意を促されたのは、パン種そのものではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟ったのです。ファリサイ派とサドカイ派の教えの内容、パン種に譬えられているものとは、しるしを求める彼らの思いです。人間の思いです。証拠を求め、それによって納得するということです。私たちは、既に主イエス・キリストによって「しるし」を与えられております。その十字架の死と復活を、思い起こすことができる恵みを与えられています。神様が、罪人である私たちを愛して、独り子の命を与えて罪を赦して下さり、神様の恵みの下で生きる新しい命を与えて下さった、その一方的な恵みを示されています。神様の恵みを思い起こしつつ生きる時に、私たちにはもう証拠などいらないのです。証拠がなければ信じられないという歩みではなく、日々の身近な生活の中で、神様の恵みのしるしが様々な出来事を通して示されています。小さなことかもしれません。そこに大きな喜びがあるのです。

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