夕礼拝

こう祈りなさい

「こう祈りなさい」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:詩編 第65編1-5節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第11章1-4節
・ 讃美歌:137、500

ルカ福音書の「主の祈り」
 本日、共に読み進めていくルカによる福音書11章1-4節では、私たちが毎週の礼拝で祈っている「主の祈り」を、主イエスが弟子たちに教えられたことが語られています。「主の祈り」は、マタイによる福音書6章9-13節にも記されていて、私たちが普段祈っている「主の祈り」の言葉に近いのは、ルカよりもマタイのほうです。ルカとマタイの一番の違いは、ルカでは、マタイにある「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」、私たちが用いている「主の祈り」で言えば「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りが記されていません。そのためルカの「主の祈り」はマタイよりも短い、簡潔な祈りとなっています。それだけではなく、ルカとマタイでは、主イエスが「主の祈り」を弟子たちに教えられた文脈も異なります。本日は、ルカ福音書の文脈の中で、主イエスが弟子たちに、そして私たちに教えてくださった「主の祈り」の言葉を味わっていきたいのです。

神様と一対一で祈る
 ルカ福音書の文脈では、本日の箇所は冒頭1節の「イエスはある所で祈っておられた」という一文で始まっています。これまでもルカ福音書では、祈っておられる主イエスの姿が度々語られてきました。5章16節では「イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた」と言われていましたし、9章18節でも「イエスがひとりで祈っておられた」と言われていました。「人里離れた所に退いて」とか「ひとりで」と言われていることから分かるように、主イエスは神様と一対一で祈られていたのです。この主イエスの祈りの姿は、私たちの祈りが根本的に神様と一対一でなされるものであることを示しています。礼拝や祈祷会において、そこに集っている方々と共に祈るときも、私たち一人ひとりの祈りは神様に向かっているのです。

隠れて祈っているのではない
 主イエスが神様と一対一で祈られていたことは、主イエスが隠れて一人で祈っていたということではありません。ご自分の祈る姿を誰にも見せないようにしていたわけではないのです。先ほどの9章18節では「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた」と言われています。9章28節でも「イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた」と言われています。主イエスが祈っておられるとき、そこには弟子たちがいました。弟子たちは主イエスが祈っておられる姿を見ていたのです。

祈りを教えてください
 その弟子たちが主イエスに「わたしたちにも祈りを教えてください」と願いました。1節でこのように言われています。「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った」。このように願う弟子たちの気持ちは分かる気がします。私たちも「祈りを教えてください」と思うことがあるからです。特にキリスト者になる前や、なりたての頃に、どうやって祈ったら良いか分からない、どんな言葉で祈ったら良いか分からないという経験をします。そのとき「どのように祈ったら良いか教えてください」と、信仰の先輩に尋ねることがあったのではないでしょうか。けれどもここで弟子たちが主イエスに「祈りを教えてください」と願ったのは、そういうことではありません。私たちの場合には、教会に来て初めて祈りに触れるということも少なくありませんが、主イエスの弟子たちはユダヤ人であり、日々神様に祈ることを欠かしませんでした。ですから彼らはどのような言葉でどのように祈ったら良いか分からなかったわけではないのです。そうであるならば、なぜ彼らは「祈りを教えてください」と願ったのでしょうか。それは主イエスの祈りが、自分たちの祈りとは違っていたからではないでしょうか。弟子たちは主イエスが祈っておられる姿を見て、主イエスの祈りは自分たちの祈りとはなにかが違うと気づいたのです。だから彼らは主イエスに「祈りを教えてください」と願いました。自分たちも主イエスのように祈りたいと願ったのです。

「主の祈り」が招く神との新しい特別な関係
 話す相手との関係が変われば語りかける言葉が変わるように、主イエスの祈りと弟子たちの祈りの違いは、単に祈りの言葉の違いでなく、その祈りを語りかける神様との関係の違いです。主イエスと神様との関係は、弟子たちと神様との関係と違ったのです。弟子たちは、これまで主イエスと共に歩んできた中で、また主イエスの祈る姿を見る中で、主イエスと神様との関係が特別なものだと感じ取り、その特別な関係に惹かれていました。主イエスのように祈りたいとは、主イエスのように神様との特別な関係に生きたいという願いでもあるのです。その弟子たちの願いに応えて、主イエスが彼らに教えられたのが2節以下の祈りです。この祈りは、主イエスご自身が祈っていた祈りというよりも、主イエスが「祈るときには、こう言いなさい」と言って、弟子たちと私たちに教えてくださった祈りです。そして弟子たちと私たちを神様との特別な関係に、主イエスに出会う前とはまったく異なる神様との新しい関係に生きることへ招く祈りなのです。ですから「主の祈り」の言葉を暗記してすらすら祈ることが大切なのではありません。そうではなく主の祈りを祈ることを通して、この祈りが招いている神様との新しい特別な関係に生きることが大切なのです。

父よ
 その新しい特別な関係は、祈りにおいて神様に「父よ」と呼びかけることに最もよく表れています。主イエスは神様に「父よ」と呼びかけられて祈られました。22章42節にはオリーブ山で「父よ」と呼びかけて神様に祈られる主イエスの姿が語られています。マルコ福音書では、主イエスは神様に「アッバ、父よ」と呼びかけていますが、この「アッバ」は、小さい子どもがお父さんを呼ぶときの言葉です。日本語で言えば「お父ちゃん」となるでしょうか。ユダヤ人にとって、小さい子どもがお父さんを呼ぶように、神様に「父よ」と呼びかけるのは考えられないことでした。旧約聖書で神様を「父」と呼んでいる箇所はまったくないわけではありませんがほとんどありません。「父」と呼んでいる箇所でも、たとえば「造り主なる父」(申命記32:6)とか「唯一の父」(マラキ書2:10)とか、あるいは「わたしたちの父」(イザヤ書63:11)と言われていて、これらは「父よ」、「お父ちゃん」と呼びかけるのとはまったく違います。神様を父と呼んでいても、そこには距離があるのです。しかし主イエスは神様に「父よ」と呼びかけられ、そして私たちにも神様に「父よ」と呼びかけるよう教えられます。小さな子どもとお父さんのように距離の近い、親密な神様との交わりに生きるよう私たちを招かれるのです。
 しかし私たちは本来、神様を父と呼ぶことはできません。神様を父と呼ぶことができるのは、神様の独り子である主イエス・キリストただお一人だけだからです。それにもかかわらず私たちが神様を父と呼ぶことができるのは、私たちが主イエス・キリストの十字架と復活による救いに与り、主イエス・キリストと一つとされたからです。神の独り子である主イエスと結ばれ、神様の子どもとされた私たちは、「父よ」と呼びかけて神様に祈ることができるのです。

救いが実現した後の時代を生きる私たちのための祈り
 そのように言われると、ふと疑問に思うかもしれません。主イエスが弟子たちにこの祈りを教えられたのは、彼らがエルサレムへ向かう途上であり、主イエスの十字架と復活の前ではないか、と思うのです。しかしこれまでもお話ししてきたように、エルサレムに向かう主イエスと弟子たちの歩みに、十字架と復活の後の教会の歩みが見つめられています。主イエスが弟子たちにこの祈りを教えてくださったのは、この祈りを祈りつつエルサレムへ向かって歩んでいくためだけでなく、主イエスが天に昇られた後、弟子たちがこの祈りを祈りつつ歩んでいくためです。主イエスの十字架と復活、その昇天後を生きる弟子たちが、そして私たちが「主の祈り」を祈りつつ、この祈りが招く神様との新しい特別な関係に生きるために、主イエスは「主の祈り」を弟子たちと私たちに教えてくださいました。「父よ」の呼びかけに続く祈りの言葉は、主イエスによる救いが実現した後の時代に、その救いに与った私たちが、神様との新しい特別な交わりに生きることへと導いているのです。

御名が崇められますように
 第一の祈りが「御名が崇められますように」であり、私たちが用いている「主の祈り」の言葉では「願わくはみ名をあがめさせたまえ」です。「御名」とは神様のお名前のことです。私たちは、この「願わくはみ名をあがめさせたまえ」という祈りは、私たちが神様のお名前をあがめることを祈り求めている、と思っているのではないでしょうか。しかしそうではありません。「崇める」と訳されている言葉は、「聖とする」、「聖なるものとする」と訳せる言葉です。そして神様のお名前を聖なるものとするのは、私たちではなく、ほかならぬ神様ご自身なのです。ですから「御名が崇められますように」という祈りは、「神様がご自分のお名前を聖なるものとしてください」、と神様のみ業を祈り求めているのです。神様がご自分の名を聖なるものとすることについては、旧約聖書エゼキエル書36章22-24節でこのように語られています。「イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる」。このみ言葉は、捕囚によって諸国に連れて行かれたイスラエルの人たちに向かって告げられています。連れて行かれた国々でイスラエルの人たちが神様のお名前を汚したから、神様ご自身がご自分の名を聖なるものとする、と告げられているのです。それが実現するのは、イスラエルの人たちが捕囚から救い出され、自分たちの土地へ導き入れられることによってです。神様はイスラエルの人たちを救うことによってご自分の名を聖なるものとされたのです。同じように、神様は主イエスの十字架の死によって私たちを救うことによってご自分の名を聖なるものとされました。私たちの救いとは、神様がご自分の名を聖なるものとすることなのです。

御国が来ますように
 第二の祈りは「御国が来ますように」であり、私たちが用いている主の祈りの言葉では「み国を来たらせたまえ」です。み国とは神の国であり、神のご支配のことですから、この祈りは「神のご支配が実現しますように」と祈っているのです。神のご支配が実現するのも私たちの力によるのではありません。ですから「御国が来ますように」という祈りも、「御名が崇められますように」と同じように、神様のみ業を祈り求めているのです。神様は主イエス・キリストをこの地上に送ってくださり、その十字架と復活によって、この地上に神のご支配を実現してくださいました。主イエスによる救いに与って生きるとは、この地上に実現している神のご支配に入れられて生きることなのです。

救いの完成と神の支配の完成を待ち望む
 しかしなぜ、主イエスの十字架と復活によって救いが実現し、神のご支配がこの地上に実現した後の時代を生きている私たちが、「神様がご自分の名を聖なるものとしてください」と祈り、「神のご支配が実現しますように」と祈る必要があるのでしょうか。すでに実現してしまっているのであれば、これらのことを祈る必要がないように思えます。けれども先ほどお話ししたように、主イエスは「主の祈り」を、十字架と復活、その昇天の後の時代を生きる私たちに教えてくださいました。私たちが生きているのはすでに救いが実現し、すでに神のご支配がこの地上に実現した後の時代ですが、しかし同時にいまだ救いが完成していない、いまだ神のご支配が完成していない時代でもあるのです。私たちは「すでに」救いが実現し、しかし「いまだ」その救いが完成していない時代に生きています。だから救いに与り、神のご支配に入れられて生きている私たちは、救いの完成を求めて「神様がご自分の名を聖なるものとしてください」と祈り、神のご支配の完成を求めて「神のご支配が実現しますように」と祈るのです。「御名が崇められますように。御国が来ますように」という祈りは、私たちが「すでに」と「いまだ」の緊張関係の中にあって、救いの完成と神のご支配の完成を待ち望みつつ生きるよう導いているのです。

必要な糧を毎日与えてください
 第三の祈りは「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」であり、私たちが用いている主の祈りでは「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」です。「必要な」とか「日用の」と訳されている言葉は、新約聖書でルカとマタイの「主の祈り」の箇所でしか使われていない言葉であり、また新約聖書と同じギリシャ語で書かれた色々な文献でも使われていない言葉のため、意味がはっきりと分かりません。そのために「必要な」、「日用の」、「日毎の」など様々に訳されています。それぞれの訳について色々と考えさせられることがありますが、ここでは「毎日与えてください」と言われていることから、この祈りは、私たちが、今日、必要な糧を与えてくださいと祈り求めている、と言えるのではないでしょうか。明日や明後日の糧ではなく、今日の必要な糧、今日、生きるのに必要な糧を与えてくださいと祈っているのです。エジプトを脱出したイスラエルの民が荒れ野を放浪したとき、神様が天から降らせてくださったパン(マナ)で彼らを養ってくださったことが思い起こされます。神様はイスラエルの人たちに今日、必要なパンを与えてくださいました。ある人が、そのパンの一部を翌朝まで残すと「虫が付いて臭くなった」(出エジプト記16:20)、つまり食べられなくなったと言われています。この人は、明日パンが食べられないかもしれない、だから明日の分を取っておこうと考えました。しかしそれは、神様に信頼して生きるのではなく自分の力に頼って生きようとすることなのです。この荒れ野を旅したイスラエルの人たちの姿は、この世を生きる私たちの姿でもあります。私たちも明日の不安、一年後の不安、将来の不安に襲われつつ生きています。それらの不安を少しでも和らげるために、自分の力でなんとかしようとあくせくしています。神様に信頼して生きるのではなく自分の力を頼みとして生きようとしているのです。「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」という祈りは、自分の力に頼って生きるのではなく、今日、必要な糧を与えてくださる神様に信頼して生きることへ私たちを導いているのです。そのように生きるとは、明日のご飯の材料を買わないとか、将来のためにお金を貯めないというようなことではありません。そのような表面的な生き方が問われているのではなく、将来への色々な不安や恐れが渦巻く中で、何に信頼して生きるのかが問われているのです。自分の持っているものや自分の力に頼るならば、私たちの不安はますます大きくなるのではないでしょうか。もし自分の持っているものや自分の力が失われたなら、私たちは何に頼って生きたら良いか分からなくなってしまうからです。しかし独り子を十字架に架けてまで私たちを愛してくださる神様に信頼して生きるならば、たとえ不安や恐れに駆られるときも、神様の愛による支えと慰めと平安が与えられます。救いに与り、神のご支配に入れられて生きるとは、独り子を十字架に架けてまで私たちを救ってくださった神様の恵みにすがって生きることなのです。

わたしたちの罪を赦してください
 第四の祈りが「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を 皆赦しますから」です。私たちが用いている主の祈りでは「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」ですが、この翻訳は誤解を招きやすいと思います。このように言われると、私たちの罪が赦されるためには、私たちが自分に罪を犯す人を赦さなくてはならないと受けとめてしまうからです。つまり人の罪を赦すことが、私たちが赦されるための条件であるように思ってしまうのです。しかし4節から分かるように決してそうではありません。この祈りは、なによりも私たちの罪が赦されることを祈り求めているのです。それは、私たちには赦されなければならない罪があるということです。主イエスの十字架による救いに与った私たちは、もう罪を犯さなくなったのかというと、そんなことはありません。自分の日々を振り返れば、私たちは救われてなお神様に背いてばかり、罪を犯してばかりです。独り子の命を犠牲にしてまで私たちを救ってくださった神様に、その救いに感謝するどころか罪を犯してばかりいる私たちが、「罪を赦してください」と祈るのは、とんでもなく自分勝手なことです。もう赦さないと神様に言われても不思議ではありません。しかし主イエスは、救われてなお罪を犯してしまう私たちのために、「わたしたちの罪を赦してください」と神様に祈るよう教えてくださったのです。主イエスが「こう祈りなさい」と教えてくださったから、私たちは「罪を赦してください」と神様に祈ることができるのです。

わたしたちも赦します
 そのように主イエスの十字架によって神様が私たちの罪を赦してくださり、日々、私たちが犯す罪を赦してくださっていると信じ、その計り知れない恵みの内に生かされている中で、私たちは自分に負い目のある人を赦します。「負い目」とは「負債」のことであり、「自分に負い目のある人を赦す」とは負債を帳消しにすることです。負債を帳消しにすれば自分は損をすることになります。それは苦しみを味わうということです。自分に罪を犯した人を口先だけでなく本当に赦すのは、決して簡単なことではありません。苦しみと痛みが伴います。しかし神様は私たちの罪を帳消しにするために独り子の命を犠牲にするほどの苦しみと痛みを負ってくださいました。その恵みの大きさに目を向け、その恵みの内に生かされていく中で、私たちも人を赦していくのです。

誘惑に遭わせないでください
 ルカ福音書の主の祈りは、「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」で終えられます。誘惑とは、神様から引き離そうとする力のことです。これまで主イエスが教えてくださった祈りの言葉を通して、神様の子どもとされた私たちが、神様に「父よ」と呼びかける親しい交わりの中に生きるよう導かれ、すでに救いに与り、神のご支配に入れられた私たちが、「すでに」と「いまだ」の緊張関係の中で、救いと神のご支配の完成を待ち望みつつ生きるよう導かれ、自分の力に頼るのではなく、今日、必要な糧を与えてくださる神様にのみ頼って生きるよう導かれ、そして神様が独り子の命を犠牲にしてまで私たちを赦してくださった、その大きな恵みの内に生かされていく中で、私たちも自分に罪を犯す人を赦して生きていくよう導かれました。誘惑とは、これまで導かれてきたこのような生き方から、私たちを引き離す力です。主イエス・キリストの十字架と復活によって私たちに与えられた、神様との新しい特別な関係を失わせる力なのです。この世にはそのような力が溢れています。だから主イエスは、そのような誘惑から守られ、主の祈りによって導かれてキリストによる救いの恵みの内に生きていくことができるよう、神様との新しい特別な交わりに生きていけるよう「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」と祈ることを教えてくださったのです。

主の祈りに祈られている信仰に生きる
 主イエスの十字架と復活による救いに与って生きるとは、主の祈りによって導かれる生き方を生きることです。私たちが信仰を与えられて生きるとは、日々、主の祈りを祈り、主の祈りに導かれて生きることにほかならないのです。私たちは、日々、主の祈りを祈り、主の祈りに祈られている信仰を生きていくのです。

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