夕礼拝

ともし火と秤

「ともし火と秤」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第9章1節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第4章21-25節
・ 讃美歌:55、441

<主イエスのたとえ話>
 主イエスは、多くの人々に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣べ伝えられました。それは、マルコによる福音書の1章から、語り続けられていることです。そして主イエスは、たとえを使って、「神の国」とはどういうものかを教えられました。

たとえは、普通は、複雑なことを他のものに置き換えて、分かりやすく説明するためのものです。ところが、主イエスの「神の国」のたとえは、決して分かりやすく説明するためのものではありませんでした。なぜなら、神の国そのものが、説明を受けて理解したり、納得したり出来るものではないからです。

 「神の国」というのは、空間や場所や、何かの理論ではなくて、「神の支配」ということです。世界を創造し、一人一人に命を与え、すべてを支配しておられるのは、ただお一人の神です。
人間は本当は、自分という存在を造って下さり、恵みによって生かして下さっている、この造り主である神を知り、この方に従って、この方と共に歩んでいくのが自然なことなのです。神の国は、頭で理解するものではなく、この神のご支配のもとで生きていく、ということなのです。

でも、人はその神の恵みを忘れ、自分勝手に、自分の思い思いのものに従って歩んでいます。様々な世のものに支配されています。それぞれの人生で支えにしているものは、自分自身の信念であったり、社会的な地位や、成功であったり、経済的な安心かも知れません。人からの承認や、やりがいなどかも知れません。
しかし、それらは永遠に残って、わたしたちを支えてくれるものではありません。それらは、失われたり、奪われたり、滅びたりするものです。
わたしたちが大事に持っているものは、わたしたちを救うことが出来るのでしょうか。絶望した時に、希望を与えることが出来るのでしょうか。すべてを失った時に、慰めや癒しを与えてくれるのでしょうか。死に勝つことが出来るのでしょうか。

そのような虚しいものから離れ、すべてをお造りになり、支配しておられる神の下に来なさい。神のご支配を信じ、神と共に生きなさい。それが、神から遣わされた方であるイエス・キリストが、人々に宣べ伝えておられる「神の国」なのです。

 そして、「神の国」のたとえの説明は、特に主イエスに従い、その教えを聞き続けようとした人々に対して語られました。
今日の「ともし火と秤のたとえ」も、二週間前の夕礼拝でお読みした4章10節に「イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた」というところから続いていて、従っていた十二人の弟子たちと、主イエスのもとに残った人々に向かって語られたのです。
そして、それらの人々には、4章11節にあるように、「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」と言われました。主イエスに従う人々には、神の国は明らかにされるけれど、主イエスのもとから立ち去っていった人々には、神の国の秘密は打ち明けられることはない。たとえも、謎となる。そう仰ったのです。

 神の国とは、神の支配の下にいること、神と共にいることです。だからこそ、神から遣わされた神の御子、イエス・キリストと共にいる者たちには、その神の国の秘密が明らかにされていきます。
神の支配とはどのような恵みか。どのように大きなものか。それは、客観的に頭で理解するのではなく、その神の支配の中で、実際に生きていくことによって、味わい知っていくものなのです。主イエスと共に生き、主イエスの言葉をいつも聞いている人々には、「神の国のたとえ」が何を伝えているか、どういう恵みを語っているかが明らかにされていくのです。  

 一方で、主イエスのもとを離れてしまった人々は、自ら「神の国」「神の支配」から出て行ってしまった人々です。そんな人々は、自分と無関係にしようとしている「神の国」「神の支配」のたとえを聞いても、何を言っているのか分からない。恵みを知ることが出来ない。外に立っているままでは、神の国の謎は深まっていくばかりなのです。  

 主イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われます。この主イエスの救いへの招き、神のご支配の中に入って来なさい、との招きに応える時、神の国の恵みが、豊かに、溢れるように、迫って来るのです。

<ともし火のたとえ>
 さて、今日の聖書では、そのように、主イエスと共にいて、教えを求める人々に、主イエスは「ともし火と秤」を使って、神の国のたとえを語られました。  

 まず一つ目は、「ともし火のたとえ」です。21節以下にはこのようにあります。
「また、イエスは言われた。『ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。』」  

 ともし火を持ってくるのは、暗い時に周囲を明るく照らすためです。
この聖書の時代のパレスチナにはロウソクはまだなくて、容器に油を入れて、亜麻の繊維を浸して火を灯したそうです。また、「升」が出てきますが、これは火を消す時に上から被せて使うものです。
ともし火を持って来て、升の下に置くなんて、消すためにともし火を持って来たようなものです。また、寝台の下に置いてしまったら、ともし火は寝台に明かりを遮られて部屋を照らすことは出来ません。
ともし火を持ってくるのは、消すためなのか。明かりを隠すためなのか。そんなはずはありません。燭台の上に置いて、周囲を照らすために持ってくるのです。

これ以上なく当たり前のことが語られています。しかし、これは神の国のたとえです。ともし火のたとえは、一体何を言おうとしているのでしょうか。

ともし火は、「神の国」のことを示しています。「ともし火を持ってくるのは」と訳されていますが、直訳すれば「ともし火がやって来るのは」となります。神の国は向こうからやって来る。到来するのです。それは、まさに神の子であるイエスが来られた、ということです。

そして主イエスがもたらして下さる「神の国」は、世を照らす光であり、消されたり、隠されたりするものではない。ともし火は、当然燭台の上に置かれて周囲を照らすように、神の国も、必ず、当然のごとく、あらわになり、公になる。すべての者に知られ、すべての者に光が及ぶ。そのように言われているのです。

しかしこれは、ひっくり返せば、今は、神の国は隠されている、ということです。まるで升を被せたような、寝台の下に置かれたような状態にある。
神の子である主イエスは、神の国、神のご支配を実現するために、この世に来て下さいました。ともし火はすでに到来している。しかし、まだすべての者に、明らかに示されているのではない。誰の目にもあらわにされているのではないのです。
「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われます。今はまだ神の国は隠されているために、このことは、主イエスと共に歩み、御言葉を聞いて、信じるべきことなのです。

<隠されている神の国>
神は、わたしたちを救う救いのみ業を、人の思いを超えた仕方で行われます。
神から遣わされた主イエス。世を照らす、救いの光として来られた方は、人々が期待するような救い主、立派で勇ましく麗しい王様として来られたのではありませんでした。
まことの神であられるのに、まことの人間となられ、貧しい馬小屋でお生まれになり、大工の家で育たれました。そして、神から離れたすべての人々の罪を赦し、救いを与えるその御業を、「十字架の死」という最も隠れた仕方で成し遂げられたのです。
わたしたちを救うために、神の御子が人となり、すべての人の罪を負って、最も苦しい、呪われた十字架刑によって死刑になる。こんなことがあり得るのでしょうか。しかし、イエス・キリストは、確かにわたしたちの世に来られ、地上の生涯を歩み、そのように十字架で死なれたのです。

この方を、神は復活させ、死者の中から甦らされました。そして、この方が救い主であることが明らかにされた。主イエスを信じる者が、この方の復活に続いて、終わりの日に復活する。神と共に永遠に生きる。その救い完成の約束を、保証して下さったのです。
この主イエスの復活は、これまで隠されていた神の救いのみ業を、人々にあらわに、はっきりと示しました。

しかしまた、復活した主イエスは天に上げられ、そのお姿は、地上を歩む者には見えなくなりました。今の時、わたしたちもまた、見えないものを信じ、隠されているものを信仰の目で見つめながら歩む時を生きているのです。

復活の主イエスが天に上られた後の時代を生きる者にとって、主イエスの十字架と復活の救いのみ業は、聖書が語る証言と、主イエスが送って下さった聖霊によって信じることが出来るのであり、誰の目にも明らかになっているのではありません。
主イエスによって、救いの御業は成し遂げられ、神の国は到来しているけれども、なお、人の目には隠されているのです。

しかし、わたしたちは、聖霊の働きのもとで、主イエスの御言葉を聞くこと。それは礼拝で聖書の御言葉を聞き、また洗礼と聖餐の聖礼典にあずかることで、信仰によって、生きておられる主イエスをはっきりと見聞きし、交わり、神の支配の中を生きることが出来ます。
そして、神の国が完全にあらわになり、公になる日を待っているのです。
その時には、主イエスが再び来られて、すべての者に、神のご支配が明らかになります。そして、信じる者たちが復活に与り、生きておられる主イエスと、直接お会いして見える日が来るのです。

「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」。これは、神の国のたとえであり、今は隠されている神の国は、必ず明らかになり、完成する、という、主イエスの確かな約束の言葉でもあるのです。

<秤のたとえ>
 そして主イエスは、「何を聞いているかに注意しなさい」と言って、秤のたとえを話されました。弟子たちは、主イエスと共におり、神の支配の中に生きており、神の国の秘密が打ち明けられているのだから、主イエスの言葉を注意深く聞かなければなりません。
それは、今礼拝に招かれ、御言葉を聞いているわたしたちも同じです。
 わたしたちは何を聞いているのか。主イエスは何を語っておられるのか。どのように聞くか、ことについて、「秤」でたとえられています。

 主イエスは、「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。 持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」と言われました。  

 まず、「自分の量る秤」とは何のことなのでしょうか。「秤」というのは、ものの重さや量を量るためのものです。
わたしたちは、人の話を聞く時に、自分なりの価値観や基準を持っていて、その内容を量り、判断しています。自分の秤を持っているのです。それが自分に価値があるものだと思えば、注意深く聞いて重要視しますし、自分にとってあまり意味がない、必要ないと判断すれば、軽んじて聞き流したり、適当に受けとめたりします。
その秤は、それぞれの失敗・成功の経験や、考え方によって造り上げてきたのではないでしょうか。人生を生きていく上で、より良い選択、判断をするために、わたしたちには基準が必要だったのです。ところがそれは、自分勝手な基準で造られた小さな小さな秤です。なのに、わたしたちはそれを使って、自分に必要かどうか、価値があるかどうか、様々なことを判断し、しかも結構、信頼しているのではないでしょうか。

ところが、神の御言葉を聞く時に、わたしたちの自分勝手で小さな秤は、主イエスの御言葉を量り尽くすことが出来ません。すると、理解できないことや、耳が痛いと思うことは、いらないと勝手に判断をして、聞き流したり、取りこぼしたりしてしまうのです。
神の言葉は、わたしたちの容れ物には入りきらない、人の思いを大きく超えているものです。神の救いの御業が、神の子の受肉と、十字架、そして復活によって成し遂げられたように、わたしたちの常識や、価値判断など、神の御前では一切通用しないのです。

さて、主イエスは、ご自分に従い、教えに耳を傾けている者に、「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」と言われました。

主イエスに従うとは、自分を支配している世のものから自由になり、自分が自分を支配することもやめ、主イエスにすべてを委ねることです。そのような生き方を神の国に生きると言って良いでしょう。
その時、神に従う者は、自分の価値観や、基準を、捨てることになります。小さな自分のスケールで神を知り、量ろうとしても、それは決して出来ないことだからです。自分を明け渡すしかないのです。
神を信じることが、自分の役に立つとか立たないとか、信じるに値するかどうかなどを、人の基準で判断することは出来ません。自分の求めることに神が応えてくれるかどうかと考えるのも、自分勝手な神に対する基準です。
人は神の御前に立たされたなら、その御力の前に、大きさの前に、栄光の前に、ただひれ伏すしかない者なのです。

人は、神の恵みが入りきらない自分の小さな秤を捨て、神の言葉と恵みを知るための、大きな秤を持たなければなりません。
そしてその秤は、自分で築いたり造り上げたりするのではなく、ただ神から与えていただくしかないものです。
それは、自分の価値基準に従って量る秤ではなく、主イエスの教えに従って量る秤です。主イエスの教えを聞く者とされている時、「あなたたちは、更にたくさん与えられる秤を、もう持っているのだ」と言われます。「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」
自分の小さな秤で、自分に損か得かなどの基準で、神の言葉や恵みを量ろうとすると、それははみだし、こぼれ、失われてしまいます。
しかし、主イエスの教えに従う秤をもって、神の恵みを見つめようとするならば、それは、「神がこのわたしを愛しておられる」という深く広い秤が与えられます。そこで御言葉を受け取る時、神こそが、わたしに価値を見出し、選び、尊び、愛し、重んじて下さったのだと知るのです。そして、神の計り知れない、尽きない恵みを知っていくことになるのです。

<神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。>
 「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、主イエスがずっと教えておられる通り、悔い改めるとは、まさに自分の小さな秤を捨て、自分中心の思いや価値観を捨て、神の方を向き、神を中心に、神の思いに従っていくことです。
そして、神と共に生きる時。神が自分の命も、人生も、すべてを支配し、導き、支えて下さると知る時。そのために、神の御子が来られ、十字架に架かり、復活して下さったと知る時。そこにはさらに多くの恵みと喜びが増し加えられていくのです。神の愛をますます知り、与えられている恵みをますます深く味わうことになるのです。

 わたしたちも今、主イエスのもとに集い、御言葉に耳を傾けています。何を聞いているかに注意しなさい、と言われます。わたしたちは、神の国に招かれ、神がわたしたちを愛し、救って下さるという、良い知らせを聞いているのです。主イエスが十字架にかかり、復活し、生きてわたしたちと共におられるという恵みを与えられているのです。
そして、この神の救いは、ともし火が照らすために燭台に置かれるほどに確かに、終わりの日には、すべての者の目に明らかに、あらわになる、と約束されています。
「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われます。わたしたちは、御言葉によって、ほんとうに、計り知れない神の恵みのご支配の中に、自分が置かれ、包まれ、支えられていることを知らされているのです。

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