夕礼拝

内側を満たすもの

「内側を満たすもの」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:ホセア書 第6章4-6節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第11章37-44節
・ 讃美歌:讃美歌:297、503

ともし火の比喩
 前回の箇所で、主イエスは「ともし火」の比喩を用いて語られました。この世に遣わされたまことの光である主イエス・キリストが、またその十字架と復活によって実現した神の国の到来の現実が、確かにこの世と私たちを照らしていること。それだけでなく救いに与りまことの光である主イエスと一つとされた私たちが、心の内に光を灯され、澄んだ目で光を放って生きる者へと変えられていくことが見つめられていたのです。

ファリサイ派の人の招待を受ける
 このことを主イエスが話しておられると、あるファリサイ派の人が主イエスを自分の家で催す食事会へと招待しました。本日の箇所の冒頭37節にこのようにあります。「イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた」。本日は44節までを読みますが、この話は54節まで続きます。前半の37-44節では、主イエスのファリサイ派の人たちへの非難が、後半の45-54節では律法学者への非難が語られています。これまでも主イエスは度々ファリサイ派の人たちを非難してきましたから、彼らは主イエスに対して良い感情を持っていませんでした。そのため彼らは主イエスが間違ったことを言ったり行ったりしていないか、主イエスの発言と振る舞いに注目してきたのです。私たちは主イエスが敵対関係にあるファリサイ派の人からの招待を受けたことに疑問を感じます。わざわざ自分に対して良い感情を持っていない人の家に行って一緒に食事をしなくても良いのに、と思うのです。それとも主イエスはファリサイ派の人たちを非難するための良い機会だと思って招待を受けたのでしょうか。彼らを徹底的に非難する絶好のチャンスだと思われたのでしょうか。

あなたがたは不幸だ
 確かに主イエスはこの箇所で、ファリサイ派の人たちにとても厳しい言葉を投げかけています。42、43、44節で、繰り返し「あなたたち(ファリサイ派の人々)は不幸だ」と言われていますし、40節でも彼らを「愚かな者たち」と呼ばれています。「あなたたちは不幸だ」というのは、ファリサイ派の人たちが「かわいそうだ」ということではなく、聖書協会共同訳で「あなたがたに災いあれ」と訳されているように裁きを告げる言葉です。ギリシャ語訳の旧約聖書においても預言者が裁きを告げるときにこの言葉を使っています。たとえばイザヤ書5章8-22節では、6回も「災いだ」と繰り返されています。「災いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は」(8節)、「災いだ、朝早くから濃い酒をあおり 夜更けまで酒に身を焼かれる者は」(11節)…。イザヤと同じように、主イエスはファリサイ派の人たちに「あなたがたは災いだ」と裁きを告げているのです。

清さを求める信仰
 このように主イエスがファリサイ派の人に裁きを告げるきっかけとなった出来事が38節に語られています。主イエスがファリサイ派の人の家に入り食事の席に着いたときのことです。「ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った」。「不審に思った」と訳されている言葉は、単純に「驚いた」という意味の言葉です。彼は主イエスが食事の前に身を清められなかったのを見て驚いたのです。「身を清める」と言われていますが、全身を水に沈めて洗うということではないと思います。マルコによる福音書7章3節で「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事を」しなかったと言われているように、手を洗うことが身を清めることであったのです。このファリサイ派の人の驚きは、手を洗わないで食事をするなんて不衛生だ、という驚きではありません。私たちはコロナ禍にあって感染対策のためにこまめな消毒を心がけてきましたが、ここではそのような衛生上の問題が語られているのではなく、宗教上の問題、信仰上の問題が語られているのです。ファリサイ派の人たちの信仰にとって「昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってから」食事をすることは決定的に大切なことでした。当時のユダヤ教は大きく三つのグループに分かれていましたが、その中でファリサイ派は、神殿ではなく村や町での日常生活の中で、律法をしっかり守ることを重んじていました。律法そのものだけでなく、その解釈から生み出された様々な細かいルールも厳密に守っていたのです。彼らにとって食事の前に手を洗うことは、律法と「昔の人の言い伝え」を厳密に守ることであり、自分たちが清くあるために決しておろそかにしてはならないことだったのです。彼らは律法を厳密に守って自分たちが清くあることこそ、信仰において最も大切なことだと思っていました。そのような彼らにとって、主イエスが食事の前に手を洗わなかったことは驚くべきことであり、見過ごすことのできないことだったのです。

内側は強欲と悪意に満ちている
 驚いているファリサイ派の人に対して、主イエスはこのように言われました。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている」。杯や皿などの器には外側があれば必ず内側があります。同じように私たち人間にも外側と内側があるのです。それは私たちの外面と内面とも言えますし、あるいは人の目に見える部分と人の目に見えない心の中と言うこともできます。主イエスは、ファリサイ派の人たちが杯や皿の外側をきれいにするように、人の目に見える自分の外面はきれいにするけれど、人の目に見えない自分の心の中は強欲と悪意で満たしている、と言われたのです。そのように言われたファリサイ派の人たちは心外であったに違いありません。彼らは律法をしっかり守って生きていた人たちです。私利私欲に走ったり、悪事を働いたりしたわけではありません。それにもかかわらず主イエスから「あなたたちの心の中は強欲と悪意に満ちている」と言われたのです。なぜ主イエスはそのように言われたのでしょうか。律法を厳密に守ることによって自分の清さを示そうとするとき、自分の外面ばかりを気にするようになるからではないでしょうか。ほかの人からどのように見られているか、どのように思われているかばかりを気にするようになるのです。要するに彼らは人の目を気にして、律法を厳密に守ることでどれだけ自分が清いのか、どれだけ自分が正しいのかを見せようとしていたのです。そのとき彼らの心の内には、人から良く思われたいという強い欲が満ちていたに違いないのです。
 それだけではありません。自分の外面を気にするならば、必ずほかの人の外面も気にするようになります。ほかの人を見て、その振る舞いが律法に反していないかどうかを気にするようになるのです。そして少しでも間違っていたら、あの人は間違っていると批判したり裁いたりしてしまうのです。人からどう見られるか、どう思われるかを気にして生きることは、人を裁いて生きることと表裏一体だからです。「強欲と悪意」の「悪意」と訳された言葉は「悪」という意味の言葉であり、前回の箇所の34節で「目が…濁っていれば」の「濁る」と訳されていた言葉と同じ言葉です。人を批判したり裁いたりして生きるとき、その心の内には悪が満ちています。濁った目を持って生きるならば、闇を振りまいて生きることになるように、心の内に人を批判し裁こうとする悪が満ちているならば、闇を振りまいて生きることになるのです。

人から認められるために
 さらに主イエスは、42節以下でファリサイ派の人たちに向かって三回「ファリサイ派の人々(あなたたち)は不幸だ」と言われています。42節にはこのようにあります。「それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷(はっか)や芸香(うんこう)やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである」。律法には、自分の得た収穫の十分の一を献げることが定められています。申命記14章22節には「あなたは、毎年、畑に種を蒔いて得る収穫物の中から、必ず十分の一を取り分けねばならない」とあります。その目的も記されていて、29節に「あなたのうちに嗣業の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい」とあります。イスラエルの人たちの中でレビ人は土地を持っていませんでしたから、当然、土地からの実りを得ることができませんでした。また寄留者、孤児、寡婦は、言うまでもなく経済的に弱い立場に置かれていた人たちです。ですから収穫の十分の一を献げる目的は、土地を持たないレビ人の生活を支えるためであり、経済的に弱い立場にある寄留者、孤児、寡婦の生活を保護するためであったのです。主イエスはここで収穫の十分の一を献げる必要がないと言われたのではありません。だから42節の終わりで「もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが」と言われているのです。主イエスは十分の一の献げ物の目的をご存知だからこそ、つまりこの律法に込められている神の御心をご存知だからこそ、このように言われました。しかしファリサイ派の人たちがこの律法を守ることに熱心だったのは、神の御心を重んじていたからではありません。そうではなくこの律法を厳密に守っていることそれ自体が大切だったからです。きっと彼らは収穫した野菜の十分の一を厳密に量るために多くの時間と労力を費やしたに違いありません。そのことによって自分がどれだけ律法を厳密に守っているかを周りの人たちにアピールしていたのです。周りの人たちから「あれほど律法をしっかり守っているなんて、なんて信仰深い人だ」と言われたり、思われたりすることを望んていたのです。ほかの人から認められ、称賛されるために彼らは律法を厳密に守っていたのです。

正義の実行と神への愛
 だから主イエスはファリサイ派の人たちが「正義の実行と神への愛はおろそかにしている」と言われます。「正義の実行」は、聖書協会共同訳では「公正」と訳されています。土地を持たないレビ人や経済的に弱い立場に置かれている人たちを支え守ろうとする「十分の一の献げ物」の規定は、まさに正義が行われ公正な社会が実現するための規定です。この目的をないがしろにすることは、公正な社会の実現という神の御心をないがしろにすることであり、神の御心をないがしろにするとは、神を愛することをおろそかにすることにほかなりません。彼らは神の御心を重んじ、神を愛するよりも、人から認められ、称賛されることを求めたのです。しかし共に読まれた旧約聖書ホセア書6章6節でも「わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない」と言われているように、「十分の一の献げ物」の規定において、神が根本的に求めておられるのは「正義の実行と神への愛」です。このことこそファリサイ派の人たちが行うべきことであったのです。

神からの愛を通り過ぎる
 ところで「おろそかにしている」と訳されている言葉は、元々は「通り過ぎる」という意味の言葉です。ファリサイ派の人たちは、ほかの人から認められようと人の目を気にすることによって、「正義の実行」と「神への愛」に目を向けることなく通り過ぎてしまったのです。別の言い方をすれば、彼らは隣人を愛することを通り過ぎ、神を愛することを通り過ぎてしまったのです。けれども私はそれだけではないと思います。なぜなら「神への愛」は、「神の愛」、あるいは「神からの愛」とも訳せるからです。彼らは「神への愛」を通り過ぎてしまっただけでなく、「神からの愛」を通り過ぎてしまったのではないでしょうか。いえ、むしろこのように言ったほうが良いかもしれません。彼らは「神からの愛」を通り過ぎたからこそ、「神への愛」も通り過ぎてしまった。彼らは神から愛されていることに気づけなかったからこそ、神を愛することをおろそかにし、隣人を愛することをおろそかにしてしまったのです。

人からの誉れを求める
 43節で主イエスは「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ」と言われています。会堂とか広場というのは、多くの人たちが集まるところです。ファリサイ派の人たちは、多くの人たちが見ているところで重んじられ、尊敬され、優遇されることを好んだのです。ここにおいても彼らが人の目を気にして生きていることが見つめられています。人からの誉れを求め、人の目を気にして生きていることに、ファリサイ派の人たちの不幸、災いがあるのです。彼らは人からの誉れを求めることによって、神に栄光を帰するのではなく、自分自身に栄光を帰そうとしていたのです。

人目につかない墓のようなもの
 さらに44節で主イエスは「あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない」とも言われています。律法では、死体や墓に触れた人は汚れると定められていました。そのため当時のユダヤ人の社会では、誰かがうっかり墓に触れて汚れてしまわないように、人目につくように墓を白く塗っていたのです。しかし「人目につかない墓」であれば、そこに墓があると分からずに、近づいてしまう人がいるかもしれません。ファリサイ派の人たちが「人目につかない墓のようなもの」であるとは、墓に汚れた死体が納められているように、ファリサイ派の人たちの内側に汚れが満ちている、39節の言葉で言えば「強欲と悪意」が満ちているということであり、それにもかかわらず彼らの外見や振る舞いからはそのことに気づけないということです。むしろ律法を熱心に守って、清く正しく生きているように見えるのです。「人目につかない墓」とは、ここに汚れがあるということを隠している墓です。同じようにファリサイ派の人たちは、自分の心の内に汚れがあり、強欲と悪意があることを隠し、それを知られないように自分の外見をきれいにしているのです。細心の注意を払って死体による汚れを避けてきたに違いないファリサイ派の人たちに対して、主イエスはあなたがたの心の内には汚れが巣くっていると言われます。まことに痛烈な、厳しいお言葉を主イエスは投げかけられたのです。

クリスチャンは現代のファリサイ派?
 主イエスのファリサイ派の人たちに対する痛烈で厳しいお言葉を、私たちは他人事のように聞いているわけにはいきません。ファリサイ派の人たちは、自分の外側ばかりを気にして自分の内側をないがしろにしている、どうしようもない人たちだ。主イエスに批判されて当然だ、などと思っているならば、私たちは大きな誤りを犯しているのです。なぜならこのファリサイ派の姿は、私たちクリスチャンの姿でもあるからです。現代のファリサイ派とは、私たちのことにほかなりません。そんなことはない。自分は清さを求めて生きているわけではない、と思われるかもしれません。確かに律法に定められている汚れを避けて生きるという意味では、私たちは清く生きようとしているわけではないでしょう。しかし私たち自身も、ほかの人からどのように見られているか、どのように思われているかを気にして、自分の外側ばかりをきれいにしているのではないでしょうか。そのとき私たちの心の内には、人から良く見られたいという強い欲が満ちているのです。「自分は清く正しく生きています」と言うことはなくても、自分の言葉や行いを見て、周りの人から「あの人は、清く正しく真面目に生きている、敬虔で信仰深いクリスチャンだ」と思われたり、言われたりしたいのです。ほかの人からどのように見られているかを気にするならば、私たちはほかの人の言葉や行いも気になるようになります。そしてあの人の言葉は、あの人の行いはクリスチャンにはふさわしくない、と批判したり裁いたりしてしまうのです。ほかの人を批判し裁いてしまう悪が、私たちの心の内に巣くっているのです。そのような心の中の欲と悪を私たちは隠して、それを知られないように、自分の外見をきれいにしています。私たちは十分の一の献げ物に限らず、色々な行いを人に見せるための形だけのものにしてしまい、神を愛し、隣人を愛することをおろそかにしてしまっているのです。人から尊敬され、重んじられ、認められることを好み、人からの誉れを求めることによって、私たちも神に栄光を帰するのではなく、自分自身に栄光を帰そうとしてしまうのです。

神からの愛で内側を満たす
 そのような私たちに主イエスは「不幸だ」と言われます。そのように生きる私たちは「災い」だと言われるのです。「愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか」と言われるのです。ここで主イエスは神の創造のみ業を見つめておられます。神は人間の外側だけを造られたのではなく内側も造られたのです。それにもかかわらず私たちが自分の外側ばかり、人の目に見える外面ばかりを気にして、人の目に見えない自分の心の内に目を向けないならば、たとえどれだけの知識を持っていたとしても私たちは「愚かな者」なのです。何が私たちの内側を満たしているのか。何が私たちの心の内を満たしているのか。私たちはこのことにこそ目を向けなくてはなりません。続く41節に「ただ、器の中にある物を人に施せ、そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」とあります。しかしこれはおかしな話です。私たちの内側は「強欲と悪意」に満ちているのです。それをほかの人に与えるならば、ますます強欲と悪意が広がっていくだけです。闇を振りまいて生きるならば、その周りにいる人たちも闇を振りまいて生きるようになるのです。ですから私たちは、まず自分の心の内を空っぽにする必要があります。周りの人から良く思われたという強い欲と、ほかの人を批判し裁きたいという悪を手放す必要があるのです。しかしそれは、私たちが自分の力で自分の心の内を空っぽにするということではありません。そうではなく私たちが「神からの愛」を通り過ぎてしまわないようにすることです。私たちは自分の力で神からの愛を獲得するのではありません。一方的な恵みによって神からの愛が私たちに与えられているのです。独り子を十字架に架けるほどの神からの愛が、私たち一人ひとりに与えられているのです。この神からの愛を通り過ぎるのではなく受け入れることによってこそ、私たちの心の内に巣くっている強欲と悪意が追い出され、心の内が空っぽになります。そしてその空っぽになった心の内に神からの愛が注がれるのです。私たちが神からの愛を通り過ぎるのではなく受け入れることによって、私たちの内側は神からの愛で満たされるのです。そのとき私たちは、自分の心の内に注がれた神の愛を周りの人にも届けていくことができるようになります。「器の中にある物を人に施せ」とは、このことを見つめているのです。澄んだ目で光を放って生きるならば、その光が周りの人を照らすように、私たちの心の内に注がれた愛が、周りの人へと広がっていくのです。神からの愛に気づかされ、強欲と悪意から解放された私たちにとって、すべてのものは清くなります。こんなことをしたら汚れるかもしれないとビクビクする必要がなくなります。こんなことを言うのは、こんなことをするのはクリスチャンとしてふさわしくないのでは、と不安になったり恐れたりする必要がなくなるのです。そのような不安と恐れから自由になることによって、私たちは神からの愛に心から感謝して、喜んで神を愛し、隣人を愛するよう導かれていくのです。

主イエスの招き
 主イエスは、ファリサイ派の人を裁くために彼の家に行ったのではありません。ましてファリサイ派の人たちを徹底的に非難する絶好のチャンスだと思ったのではありません。「不幸だ」、「災いだ」という言葉は、裁きを告げるときの言葉であると同時に、嘆きの言葉でもあります。主イエスはファリサイ派の人たちの生き方を、そして私たちの生き方を「不幸だ」、「災いだ」と嘆かれ、自分の外側ばかりをきれいにするのではなく、自分の内側に神からの愛を満たして生きるよう招いてくださっているのです。主イエスがファリサイ派の人の招きを受けられたのは、主イエスこそが、そのファリサイ派の人を招くためにほかならないのです。主イエスは、私たちが人から良く思われたいという強い欲と人を批判し裁こうとする悪で心を満たして生きるのではなく、神からの愛に満たされて生きるよう招いておられるのです。

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