主日礼拝

前のものに全身を向けつつ

「前のものに全身を向けつつ」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第46章3-4節
・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙 第3章12-14節
・ 讃美歌:56、197、463

目標を目指してひたすら走る
 本日のお話しの題は、「前のものに全身を向けつつ」です。それは先程読まれた新約聖書の箇所、フィリピの信徒への手紙の第3章13節の言葉です。13節の後半から14節にかけて、このように語られています。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。後ろのものを忘れて、前のものに全身を向け、目標を目指してひたすら走ろう、私たちのなすべきことはそれ一つだ、と語られているのです。とても元気のいい、威勢のいい勧めです。なんだか、目標としている売上を達成するために全力で頑張ろう、という会社のスローガンのようだ、と思われるかもしれません。実際今の世の中では、後ろのものを忘れ、前を向いて、目標を目指してひたすら走ることが求められています。これまではこうしてきた、という過去にこだわっていては新しい時代に対応したビジネスを展開することはできません。前例踏襲ではもうやっていけない、時代に合わせて大胆に変わっていくことができるところが生き残ることができる、今はそういう世の中です。しかしだからといって、ただやみくもに前へ進めばよいということが言われているわけではありません。今は、仕事を進める上で「PDCA」が大事だとされています。「PDCA」とは、Plan,Do,Check,Actionです。プラン、計画を立て、それを実行(Do)し、そしてやりっぱなしではなくてその結果をちゃんとチェックしなければならない、うまく行ったとしたらその要因は何か、失敗だったとしたら何故うまくいかなかったかを検証するのです。そして良かったことを次に生かし、改善すべきことは改善する、それがアクションです。そのように、いつも結果を振り返りつつそれを次の前進のために生かしていくことが大切だと言われているのです。だからある意味では、後ろのものをちゃんと振り返らなければならない。しかしそれは、さらに前進していくためにです。後ろのものは、チェックしてアクションすることが大事だけれども、それにこだわっていてはならない、やはり前を向いて目標を目指してひたすら走っていくことが求められている、それが今の社会だと言えるでしょう。

疲れ果てている私たち
 そして私たちは、このように常に前を向いて目標を目指して走ることが求められているせわしない世の中で、様々なストレスを覚え、疲れ果てているのではないでしょうか。目標を目指して走るビジネスの波に乗って、その先端を走ることができている方々は、充実した、生き甲斐のある日々を送っているかもしれません。しかし、ひたすら走り続けるのはとても疲れることです。PDCAのサイクルはどこまでも続きます。計画を立て、それを実行し、結果をチェックし、改善して、それに基づいてまた新たな計画を立て、実行していく、その歩みに終りはありません。それは充実しているけれども同時に、日々身をすり減らすような歩みなのだと思います。今の社会で仕事をしている多くの人がそういうストレスをかかえています。走り続けることができなくなったらこの社会から落ちこぼれてしまう、という恐れを感じて、無理をして走り続け、それによって体も心も病んでいく人がいます。目標を目指してひたすら走ることが求められているこの社会は、厳しいストレスを生み、私たちを疲れさせるのです。そういう疲れを覚えて安らぎを求めて教会に来たら、そこでまで、「目標を目指してひたすら走りなさい」などと言われたら、もういい加減勘弁してくれ、と感じてしまうかもしれません。 後ろのものを忘れ
 しかし聖書が語っていることは、会社のスローガンとは違います。目標を目指してひたすら走りなさいという聖書の言葉は、成果を上げるためにひたすら走ることを私たちに求めてストレスを与えている、今の世の中に満ちている言葉とは全く違うものです。でもどこが違うのでしょうか。「なすべきことはただ一つ、目標を目指して走ることだ」という聖書の言葉が、私たちにストレスを与えるものではない、と言うことはどうしてできるのでしょうか。
 私は、その根本的な理由は、「後ろのものを忘れ」にあると思います。聖書は、「後ろのものを忘れて、前のものに全身を向け、ひたすら走る」ことを教えているのです。「後ろのものを忘れる」ことが、この教えにおいてはとても大事な、本質的なことです。後ろのものを忘れるからこそ、前のものに全身を向けて、ひたすら走ることができるのです。聖書は私たちに、後ろのものを忘れて前に進むことを教え、勧めているのです。聖書が語っている信仰に生きるならば、私たちは、後ろのものを本当に忘れて新しく歩むことができるのです。

後ろのものに引きずられている私たち
 目標を目指してひたすら走ることを求めている今の社会が私たちにストレスを与えているのは、「前を向いて走れ」という叱咤激励の声に満ちているこの社会において私たちが、常に、後ろのもの、これまでの自分の歩みに引きずられているからではないでしょうか。この社会において私たちは常に、過去の実績、これまでどんなことをしてきたか、どんな成果を挙げてきたかによって判断され、評価され、ランクづけされ、選別されています。最近は学生が就職する時だって、自分はこれまでどんな活動をしてきた、どういうボランティアをしてきた、などのことをプレゼンして、自己アッピールをすることが求められています。そして会社に入れば入ったで、仕事の成績、実績をいつも査定され、評価され、それが昇進につながっています。そこで実力が客観的に評価されるならともかく、実際には上司との相性のような偶然の要素がかなりからんでいたりします。いずれにしても、自分のそれまでの歩み、過去のこと、後ろのものが、それからの歩みを左右しているのです。先程のPDCAというのも、そのポイントはC、チェックにあります。計画し、実行したことをしっかりチェックしてこれからに生かす、それは仕事を効率的に進めるためには勿論必要なことですが、しかしそれはある意味、いつも自分のしたことを評価、査定され続ける、ということでもあるわけです。一昔前までは「学歴社会」と言われていました。どこの学校を出たという「後ろのもの」によって人が評価、判断されていたのです。今はもう民間企業では学歴などよりも実力が重んじられるようになっていると思いますが、中央省庁など、なおそういうことが残っているところがあるでしょうし、むしろ私たち個人の感覚の中にそれは根強く残っているようにも思います。例えば、自分の子供の結婚相手について、その人の人物ではなくて「どこの大学を出ている」ということを気にしてしまうようなことです。それはその人の現在ではなくて過去、後ろのものによってその人を判断している、ということです。ビジネスにおいてだけでなく、個人の生活においても、私たちは様々な「後ろのもの」に捕われ、引きずられて生きているのです。

前を向いて走ることができない私たち
 そしてそのことが、私たちの足を止めさせ、歩みを滞らせる原因となっています。私たちが、前のものに全身を向けて目標を目指して走ることができないのは、これまでの自分の歩み、してきたこと、それに対する周囲の評価などが妨げになっているからなのではないでしょうか。私たちが引きずっている後ろのものが、前進を妨げているのです。私たちが引きずっている後ろのもの、それは、自分がこれまでどのように生きてきたか、何をしてきたか、そこでどんな成果を挙げることができたか、あるいはどんな失敗をしたか、ということであり、また、人とどのような関係を築いてきたか、あるいは築けなかったか、人を愛してきたか、愛することができずに傷つけてしまったか、ということです。さらには、愛される体験をしてきたかどうか、ということでもあります。私たちはこれまでの人生において、年配の者だけでなく、若い人は若い人なりに、いろいろなつらい体験、失敗や苦い思い、恥ずかしい思いをしてきています。自分の弱さや罪を感じており、人に対するうしろめたい思いをかかえているのです。そしてそれらの、もはや変えることのできない自分の過去のゆえに、社会的にも評価され、判断されてしまうし、人との関係も、過去の自分の生き方によって左右されているのです。それは、人が自分を見る目が自分の過去の歩みによって左右されている、というだけのことではありません。私たちは、人には見せずに隠していても、自分だけは、自分がしてきたこと、自分の弱さ、失敗、挫折、そして犯してきた罪を知っている、ということがあります。それぞれに、人知れず引きずっている自分の過去があるのです。人には見せていないから、それによって人から批判されることはないかもしれません。でも自分自身が、自分の弱さ、失敗、罪にがっかりして、自分はダメだ、と思ってしまうのです。そういう自分への落胆が足かせになって、前のものに全身を向けてひたすら走ることが出来ない、ということも起ります。このように、後ろに引きずっているもののゆえに、前を向いて積極的に走っていくことができない、それが私たちの現実なのではないでしょうか。それなのにこの社会においては、目標を目指してひたすら走ることを求められている、だからストレスが溜まるのです。後ろのものを忘れることができず、それに捕えられ、それを引きずっているのに、その中でひたすら前を向いて走れという無理なことを強いられていて、そのストレスに押し潰されている、今の社会において私たちはそういうことを体験しているのではないでしょうか。

後ろのものを忘れて新しく歩み出すことができる
 前のものに全身を向け、目標を目指してひたすら走れという聖書の教えは、無理なことを強いてストレスを与えるようなものではありません。なぜなら、聖書の教えは、「後ろのものを忘れ」と語っているからです。聖書は単に、過去のことにこだわるのはやめなさい、それらはもう忘れて新しく前向きに歩みなさい、と勧めているのではありません。今見てきたように、そんなことを言われても私たちは過去のことを忘れることなどできないのです。後ろのものを無かったことにはできないのです。だから苦しんでいるのです。「後ろのものを忘れ」という聖書の言葉は、「あなたがたは、後ろのもの、過去のこと、これまでの自分の歩み、そこにおけるいろいろな失敗や弱さ、引きずっている罪の全てから解放されて新しく歩み出すことが出来る。神がそういう恵みをあなたがたに与えて下さっているのだ」という宣言なのです。人間の努力や心構えによって後ろのものを忘れて歩もう、と言っているのではなくて、神があなたがたを後ろのものから解放し、それを忘れて歩むことが出来るように、あなたがたを新しくして下さっている、その恵みを受けて、その恵みに支えられて歩みなさい。そうすればあなたがたは、「前のものに全身を向け、目標を目指してひたすら走る」ことができる、聖書は私たちにそのように語りかけているのです。

後ろのものを忘れて下さる神
 それは別の言い方をすれば、神さまが私たちの罪を、弱さを、失敗してきたことを、申し訳ないことをしてしまったと思っていることを、全て赦して下さっている、それをもうなかったことにして下さっている、ということです。神さまは、私たちが引きずっている過去を全てご存知です。人には見せずに隠している弱さや罪も神さまはしっかり見ておられ、知っておられます。その上で神さまは、私たちの「後ろのもの」を赦して下さったのです。私たちはそれを忘れることができず、いつまでも引きずってしまうけれども、神さまはもうそれを忘れた、と言って下さっているのです。

主イエスの十字架によって
 それは、神さまは私たちより忘れっぽい方だとか、いろいろなことを水に流すことが得意な方だ、ということではありません。神さまは私たちの過去を、後ろのものを、罪を、忘れて下さるために、まことに痛ましい、つらく苦しい、驚くべきみ業を行って下さったのです。それが、神の独り子イエス・キリストの十字架の死です。神の独り子であり、まことの神であられる主イエスが、人間となってこの世に来て下さって、私たちの全ての罪を、弱さを、つまり私たちが引きずっている過去を背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。十字架は死刑の道具です。しかも、最も苦しい、残酷な仕方での死刑であると言われます。その痛み苦しみ絶望を、まことの神であられるのに人間となって下さった主イエス・キリストが、私たちのために、私たちに代って、引き受けて下さったのです。この主イエスの苦しみと死とによって、神は私たちの罪を、私たちの歩みを妨げ、滞らせている「後ろのもの」を、なかったことにして下さったのです。それは、もう水に流して忘れた、ということではなくて、それらを全て私たちから取り上げて、ご自分が背負って下さったということです。その上で神は、「ほら、あなたにはもう引きずっている後ろのものはない、だから後ろのものを忘れて前を向きなさい。そして目標を目指してひたすら走りなさい」と言って下さっているのです。

キリスト・イエスに捕えられているから
 私たちは、自分の「後ろのもの」、これまでの歩み、そこにおける罪や弱さ、それによる失敗や挫折を自分で忘れることはできません。水に流してしまうことはできません。あの時ああするべきだった、こうすればよかった、という後悔はいつまでも残ります。それらの後ろのものを忘れることができない私たちが、前のものに全身を向けて新しく歩み出していくことは、自分が心の持ちようを変えようといくら努力してもできることではないのです。神さまが、独り子イエス・キリストの十字架の死によって私たちの罪を赦して下さっている、主イエスが、私たちの引きずっている後ろのものを全て引き受けて、私たちをそこから解放して下さっている、その救いを信じることによってのみ、私たちは後ろのものを忘れて新しく歩むことができるのです。12節に語られているのもそういうことです。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです」とあります。何とかして捕えようと努めている、それが、前を向いて、目標を目指してひたすら走っている、ということです。それができるのは、自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。キリスト・イエスに捕えられている、それは、主イエス・キリストの十字架による救いを受けている、主イエスによる罪の赦しの恵みの中に入れられている、主イエスが救いのみ手をもって自分をしっかり捕えて下さっているということです。キリスト信者、クリスチャンは、自分は主イエス・キリストに捕えられていることを感じています。でもそれは不自由で窮屈な縛られた生き方をしているということではありません。全く逆であって、主イエスがしっかり捕えて下さっているから、その恵みによって私は、後ろのものを忘れて、前のものに全身を向けて、目標を目指してひたすら走ることができるのです。「後ろのもの」から自由になって、身軽に、軽やかに、前向きに、積極的に生きることができるのです。

神が上へ召して与えて下さる賞
 14節には「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」とあります。主イエス・キリストによって捕えられ、後ろのものを忘れて前を向いて生きていく信仰者が目指す目標は、神が上へ召して与えて下さる賞を得ることです。「上へ召して」ということは、この賞は地上の人生において与えられるのではなくて、神のみもとで、神による救いの完成において与えられるということです。地上の人生を越えたところで神が与えて下さる賞を目指して、地上の人生をひたすら走るのです。地上の人生の歩みの中で賞が与えられるのでないなら、走っても仕方がないではないか、と思うかもしれません。でもそれは違います。地上の人生を越えたところの目標を見つめているからこそ、地上の人生において前を向いて走ることができるのです。地上の人生には多くの困難、苦しみ、悲しみがあり、その中で私たちの罪や弱さが明らかになります。それによって私たちは人からも評価されるし、自分でも自分を評価します。それらのことは皆「後ろのもの」となって私たちの歩みを妨げるのです。そのように自分の地上の歩みばかりを見つめている間は、「後ろのもの」から解き放たれることはありません。神が上へ召して与えて下さる賞を目標として見つめることによってこそ、後ろのものを忘れて、前を向いて走ることができるのです。しかもその賞は、神がキリスト・イエスによって与えて下さるものです。つまりそれは私たちの頑張り次第で獲得できるかできないかが決まるような賞ではなくて、主イエス・キリストの十字架による救いによって、神が恵みとして与えて下さっているものなのです。主イエスによるこの救いの恵みを見つめることによってこそ私たちは、後ろのものを忘れて新しくされ、前を向いて地上の人生をしっかり走っていくことができるのです。

前を向いて生きることができる者とは
 ですから、後ろのものを忘れて、神が上へ召して与えて下さる賞を目指して走るとは、地上の人生を無責任に生きることではありません。後ろものを忘れることが、自分のこれまでの歩みにおける罪や弱さ、失敗や挫折、後悔していることを全て忘れてしまうことだとしたら、それは正しい生き方ではないのではないか、過去の過ちを認め、それを悔い改めて、謝罪すべきことを謝罪して生きるのでなければ、本当に責任ある前向きな生き方にはならない、ということも言えるでしょう。しかし私たちがそのように責任ある前向きな生き方を本当にできるのは、主イエス・キリストの十字架の死によって神が私たちの罪をご自分の身に引き受け、それを赦して下さったことを信じて、その神の赦しの恵みに応えて生きていくことにおいてだと思うのです。主イエスの十字架によって神が自分の罪を赦して下さっていることを信じるところでこそ、私たちは自分の罪や弱さ、失敗や挫折、申し訳ないことをしてしまったという過去の歩みを、目を背けることなく見つめることができるのです。罪を悔い改めることも、主イエスによる赦しが告げられている中でこそできることです。謝罪すべきことを謝罪することは、過去を引きずっているうちはできません。主イエスによって与えられている罪の赦しの恵みの中でこそ私たちは、謝罪することも、また相手の謝罪を受け入れて新しい関係を築くこともできるのです。それこそが、本当に前向きな、積極的な生き方です。主イエスが背負って下さったことによって後ろのものを忘れることができた者こそが、後ろのものをしっかりと振り返りつつ、しかしそれに引きずられることなく、前のものに全身を向けて走ることができます。地上における何十年かの人生のみを見つめているのでなく、主イエス・キリストによって神が上へ召して与えて下さる、地上の歩みを超えた救いの希望を見つめている人こそが、地上の人生を前向きに、なすべきことをしっかりとなしつつ生きることができるのです。

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