夕礼拝

失われたものを捜すため

「失われたものを捜すため」 副牧師 川嶋章弘

エゼキエル書 第34章11~16節
ルカによる福音書 第19章1~10節

徴税人の頭、ザアカイ
 先週の夕礼拝では、主イエスがエリコの町に近づいたときに、町の門のそばの道端で物乞いをしていた目の見えない人を癒やされた出来事を読みました。本日の夕礼拝では、主イエスがいよいよエリコの町に入り、町を通っておられたときに起こった出来事を読み進めます。
 このエリコの町に、ザアカイという人がいました。「この人は徴税人の頭で、金持ちであった」と言われています。「徴税人の頭」で、「金持ちであった」ことから、彼がどんな人物で、また周りの人たちが彼をどんな目で見ていたかが容易に想像できます。ザアカイは生粋のユダヤ人でしたが、徴税人として、ローマ帝国の税金を同胞のユダヤ人から集めていました。彼はその頭であったと言われていますが、「徴税人の頭」が具体的にどのような仕事であったのかは分かりません。少なくとも、何人かの徴税人を束ねるような責任ある立場にあったのだと思います。徴税人はローマの手先となって同胞から税金を集めていましたが、ただ集めていただけではなく、徴収しなくてはならない額よりも多くのお金を徴収し、自分の懐に入れていました。徴税人の頭であったザアカイは、自分の束ねていた徴税人それぞれが懐に入れたお金の何割かを自分に渡すよう命じていたのかもしれません。ザアカイは、自分自身が、あるいは自分の束ねていた徴税人たちが懐に入れたお金を蓄えることによって金持ちになったのです。このようにローマの手先となって同胞である神の民から税金を集め、さらにはそのお金の一部を自分の懐に入れていた徴税人は、ほかのユダヤ人から罪人の最たるものと見なされ、嫌われ、恨まれていました。神の民の一員として扱ってもらえず、ユダヤ人のコミュニティから疎外されていたのです。
 ザアカイがなぜ徴税人になったかは、何も語られていません。甘い汁を吸って手っ取り早く金持ちになれる楽な仕事だと思ったからかもしれません。あるいは何らかの理由で、たとえば家族を支えるために(家族がいたのかも分かりませんが)、お金が必要で徴税人になる以外に道がなかったのかもしれません。どんな理由であったとしても、ザアカイは自分が同胞を傷つけ、同胞から嫌われ、恨まれていることを、コミュニティから疎外されていることを知っていました。そして、それは仕方のないことだとあきらめ、開き直っていたのではないかと思います。自分はこうやって生きるしかないんだ、どうせ嫌われるなら徹底的に嫌われて、ほかの人よりたくさんお金を稼いでやる、と思っていたのではないでしょうか。しかしあきらめ、開き直っていたとしても、彼が孤立し、深い孤独を抱えていたことにかわりはありません。自分自身では気づいていなくても、コミュニティの中にあってコミュニティから疎外されている孤独が、同胞を傷つけ同胞から恨まれずにはいられない人生への絶望が、彼を蝕んでいたに違いないのです。

主イエスを見ようとして
 だからザアカイは、「イエスがどんな人か見ようとした」のではないでしょうか。このとき大勢の群衆が主イエスを見ようと、主イエスと弟子たちの周りに押し寄せていました。彼ら彼女たちはこれまで主イエスがなさった数々のみ業を見たり聞いたりして、この人こそ自分たちが待ち望んでいた救い主に違いないという期待を持って、主イエスを見たいと思っていたのです。しかしザアカイが主イエスを見たいと思った理由は、それとは少し違ったのではないでしょうか。彼は主イエスが徴税人とも交わりを持たれたという話を聞いていたのだと思います。15章1、2節で、「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」と言われていました。ザアカイは主イエスが罪人の最たるものと見なされていた徴税人とも一緒に食事をしてくださる方だと聞いていたのです。食事を一緒にするとは、人格的な交わりを持つことです。孤独と絶望にとらわれていたザアカイは、自分のような徴税人とも人格的な交わりを持ってくださる主イエスがどんな人か見てみたいと思ったのです。群衆に遮られて主イエスを見ることができないと、4節にあるように、「走って先回りし、いちじく桑の木に登っ」てしまうほどの思いに駆られたのは、ザアカイが無意識の内に、主イエスなら「徴税人」の一人としてではなく、一人の人間として自分に接し、交わりを持ってくれるかもしれない、という期待と希望を持っていたからではないでしょうか。それは、ザアカイが心の底では、コミュニティから疎外されて孤独に生きるのではなく、コミュニティの中で生きたいという願いを持っていた、同胞を傷つけ同胞から恨まれるような人生とは違う人生を生きたいという願いを持っていた、ということなのです。

見ることができなかった
 そのような心の奥底にしまっていた願いによって、主イエスを見たいという思いに駆られたザアカイでしたが、結局、彼自身が主イエスを見つけることはできませんでした。3節には「背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった」と言われています。とはいえ、背が低かったことが、主イエスを見ることができなかった本当の理由ではありません。たとえ背が低くても、ザアカイがほかのユダヤ人と良い関係を持って生きていたなら、人々は背の低い彼を遮るのではなく、主イエスが見える前の方に通したはずなのです。「そんなところにいたら見えないから、もっと前の方に行きなさい」と、声を掛けてくれたはずなのです。けれども実際はそうではありませんでした。「背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった」というのも、人々がいかにザアカイを嫌っていたか、恨んでいたか、そこにいてもいないかのように扱っていたかを物語っているのです。ザアカイが主イエスを見ることができなかった本当の理由は、彼がほかのユダヤ人との関係に修復不可能に思える破れを抱えていたからなのです。
 群衆に遮られて見えないなら、高いところに登れば見えるかもしれないと思ったのでしょうか。ザアカイは走って先回りし、主イエスが通り過ぎようとしているところにある「いちじく桑の木」に登りました。それでもザアカイが主イエスを見ることができた、とは語られていません。主イエスがどんな人か見ようとして、「いちじく桑の木」にまで登ったザアカイでしたが、主イエスを見ることはできなかったのです。もっともたとえ見ることができたとしても、それ以上のことを何か考えていたわけではないと思います。主イエスと話をしたいとか、まして一緒に食事をしたいと思っていたわけではないのです。ですからザアカイは主イエスとの出会いを求めていた、というわけではありません。ただ主イエスを見てみたかった、木の上からでも見てみたかったのです。

主イエスが一方的に出会ってくださる
 ところがザアカイが予想もしていなかったことが起こりました。いちじく桑の木のところに来た主イエスが上を見上げて、その木に登っていたザアカイに声を掛けられたのです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。ザアカイは確かに主イエスを見たいと思っていました。その思いは、心の奥底にしまっていた、今の生き方とは違った生き方をしたいという願いが引き起こしたものであったでしょう。しかしだからといって、彼は主イエスと出会う準備ができていたわけではありません。主イエスを見て、眺めることは思い描いていたとしても、主イエスと出会うことを思い描いていたわけではないのです。その彼に、主イエスが一方的に呼びかけてくださり、出会ってくださったのです。ザアカイにとっては突然の出来事、青天の霹靂であったに違いありません。主イエスは彼を見つめ、彼の名を呼んで、「ザアカイ」と呼びかけてくださいました。ほかのユダヤ人からは、「徴税人」の一人としてしか扱われていなかったのに、いてもいないかのように扱われていたのに、主イエスは一人の人間としてザアカイを見つめてくださり、その名を呼んでくださったのです。それは、主イエスがザアカイと人格的に出会ってくださった、ということにほかなりません。主イエスがザアカイを見つめるまなざしは、ザアカイが心の奥底にしまっていた願いを見つめるまなざしであり、彼の孤独や絶望を、そして彼の罪をも見つめるまなざしでした。この主イエスのまなざしを受けることを通して、ザアカイは主イエスが自分以上に自分のことを知っていてくださることに気づかされたのです。自分が徴税人として働く中で抱えている葛藤を、どこかであきらめ、開き直って、お金を稼げれば良いと思っていることを、それでも本当はコミュニティの中で生きたい、同胞を傷つけ同胞から恨まれるしかない人生とは違う人生を生きたい、と思っていることを、主イエスが知ってくださり、受けとめてくださったことに気づかされたのです。そのザアカイに、主イエスは「急いで降りて来なさい、今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」、と言われたのです。
 私たちにとっても主イエスとの出会いは突然の出来事、青天の霹靂であるのではないでしょうか。私たちは主イエスと出会う準備が整ったときに、主イエスと出会うわけではありません。出会う準備なんてまったくできていないのに、主イエスが突然、一方的に私たちを見つけ出してくださり、見つめてくださり、一人ひとりの名を呼んで、出会ってくださるのです。主イエスをお迎えし、お泊めする準備など何もできていないのに、家の中はまったく片づいていなくて主イエスをお迎えする場所もないのに、そんなことはお構いなしに、主イエスは私たちに、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」、と言われるのです。

ぜひあなたの家に泊まりたい
 主イエスはザアカイに、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われましたが、それは、「あなたの家に泊まらせてほしい」とお願いしているわけではありません。原文を直訳すれば、「あなたの家に私は泊まらねばならない」あるいは「泊まることになっている」となり、お願いしているのではなく、「あなたの家に泊まる」、と宣言しているのです。この「ねばならない」や「ことになっている」は、神様のご意志、神様のご計画を言い表しています。13章33節で主イエスは、「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」と言われていました。エルサレムで十字架に架けられて死なれる、そこへ向かう道を進んでいくのが神様のご意志、ご計画であると言われたのです。同じように神様の御心とご計画によって、主イエスはどうしてもザアカイの家に泊まらねばならなかったのです。

喜んでイエスを迎えた
 この神様の御心とご計画をザアカイは受け入れました。彼は急いで木から降りて来て、自分を見つけてくださり、自分の名を呼んで、「あなたの家に泊まらねばならない」と言われた主イエスを、「喜んで」お迎えしたのです。一人の人間として自分を見てくださり、自分の葛藤を、孤独や絶望を、そして罪をすべて知っていてくださる方が、「あなたの家に泊まらねばならない」と言われる。そのことにザアカイは心の底から喜び、主イエスを自分の家に迎えました。主イエスをお迎えする準備など何もできていないし、家の中はまったく片づいていないのに、それでも喜んで主イエスを自分の家に迎え入れたのです。それは、単に主イエスをお迎えしたというだけでなく、主イエスが宣べ伝えている神の国を、福音を喜んで受け入れた、ということでもあります。主イエスがこの世に来てくださることによって実現した神の国と神のご支配を、主イエスによる救いを喜んで受け入れたのです。だからこそ8節では、ザアカイがイエスに、「主よ」と呼びかけています。自分の人生の主人は自分自身ではなく、主イエスであると信じ、イエスを「主」と告白しているのです。これまでザアカイは、自分の人生は自分のものだと思ってきました。自分で徴税人という仕事を選び、定められたよりも多くの税金を徴収して自分の財産を蓄えてきました。それが自分の選んだ人生だとも思っていました。その結果、同胞を傷つけ、同胞から恨まれることで自分自身をも傷つけてきたのです。しかし主イエスを喜んで自分の家に迎え入れるとは、自分のものだと思っていた自分の人生を、お迎えした主イエスに明け渡すことです。自分自身ではなく主イエスが自分の人生の主人であることに救いがあると信じて、自分の人生を主イエスに委ねることなのです。ザアカイはこれまでとは違う人生を、イエスを自分の主人とする人生を新しく生き始めたのです。

皆つぶやいた
 ザアカイが喜んで主イエスを迎えたことを見た人たちは皆、「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」、とつぶやきました。ぶつくさ不満を漏らしたのです。「皆つぶやいた」と言われているので、ファリサイ派の人々や律法学者たちだけでなく、主イエスを取り囲んでいた群衆たちもつぶやいたのだと思います。当然といえば当然です。自分たちが罪人の最たるものと思い、嫌い、恨んでいる徴税人の家に、主イエスが泊まったからです。もしかしたら「皆」の中には、弟子たちも含まれていたのかもしれません。「徴税人と一緒に食事をするぐらいならともかく、その家にまで泊まるなんて…」という思いが、つぶやきとなったのではないでしょうか。群衆や弟子たちのつぶやきそのものは間違っていません。確かに主イエスは罪深い男であるザアカイの家に行って泊まったのです。群衆や弟子たちの間違いは、自分たちもザアカイと同じ罪深い者だと気づけなかったことにあります。主イエスに自分たちの家にも来てもらい、泊まっていただく必要があることを、言い換えるならば、自分たちも自分自身を明け渡して、主イエスをお迎えする必要がある罪人だということを分かっていなかったのです。

救いの喜びに満たされているゆえに
 8節では、ザアカイが新しく生き始めたことが具体的に語られています。人々のつぶやきに対して、ザアカイは立ち上がって、主イエスにこのように言いました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。律法には、横領したお金は、横領した額にその額の五分の一を加えて返すと定められていました(レビ記5章24節)。ザアカイはそれよりはるかに多い額を返す、と言っています。しかし私たちは、ザアカイが自分の財産の半分を貧しい人々に施し、だまし取ったお金を四倍にして返したから救われた、などと考えてはなりません。定められたものよりも多くを施し、返したから救われたのではないのです。むしろその逆です。救われたから、救いの喜びに満たされていたから、彼は定められたものよりも多くを施し、返さずにはいられなかったのです。このことはザアカイが、主イエスが自分に出会ってくださったことに本当の喜びを持ってお応えし、新しく生き始めたことを見つめています。定められている分だけ返すことは、本当の喜びを持って応答することに遠く及びません。「ルールで決まっているからこれだけ返せば良いよね」という考えは、救いに喜んでお応えして生きる姿ではありません。主イエスが出会ってくださったことに、その救いにお応えして生きるとは、しなくてはいけないことだけをする、ということではないのです。もちろんだからといって、何でもしなくてはいけないとか、すべてを献げなくてはいけないということでもありません。ザアカイも半分の財産は残しました。徴税人をやめたわけでもありません。しかし問題はどれだけするか、どれだけ献げるかではないのです。しなくてはいけないから「そうする」というのではなく、救いの喜びに満たされているゆえに「そうせずにはいられない」ということこそ、救いに喜んでお応えし、イエスを自分の人生の主人として新しく生き始めることなのです。ザアカイはかつて、定められたよりも多くの税金を徴収して、自分の懐に入れて私腹を肥やしていました。しかし今や、救いの喜びに満たされて、そうせずにはいられないから、定められたよりも多くのものを貧しい人々に施し、だまし取った人に返しているのです。

今日、救いが訪れた
 主イエスは言われました。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」。「今日、救いが」ザアカイの家に来たのは、主イエスが上を見上げて、ザアカイを見つけ出してくださり、その名を呼んでくださり、「あなたの家に泊まらねばならない」と言ってくださったからです。主イエスと出会う準備など何もできていないザアカイに、一方的に主イエスが出会ってくださったことによって、救いが起こったのです。自分の葛藤を、孤独や絶望を、そして罪をすべて知っていてくださる方が、自分と出会ってくださり、「あなたの家に泊まることになっている」と言ってくださったことに救いがあるのです。私たちの救いもここにあります。主イエスは礼拝において私たち一人ひとりに出会ってくださっています。日々の歩みの中で抱えている私たちの葛藤や孤独や絶望を、そして誰にも言えない私たちの罪を知っていてくださるお方が、私たちに出会ってくださり、「今日、あなたの家に泊まることになっている」、と語りかけてくださっているのです。その主イエスを、私たちもザアカイのように喜んでお迎えしたい。自分自身を自分の人生の主人とするのではなく、自分自身を主イエスに明け渡して、イエスを自分の人生の主人として、新しく生き始めたいのです。

失われたものを捜すため
 主イエスは「失われたものを捜して救うために」、この世に来られました。私たちは皆、「失われたもの」であり、「行方不明になっていた者」であったのです。共に読まれた旧約聖書エゼキエル書34章11節以下で、このように言われています。「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す」。16節でも「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」と言われています。私たちは皆、ちりぢりになって、失われていた羊です。神様に背き、神様のもとから離れ、行方不明になっていた罪人なのです。その失われ、行方不明になっていた私たちを、まことの羊飼いである主イエスが捜し出してくださり、一人ひとりの名を呼んで救ってくださったのです。主イエスは、私たち失われたものを捜して救うために、この世に来られ、十字架で死んでくださいました。その十字架の死によって、自分の人生を自分のものだと勘違いし、隣人を傷つけ自分自身をも傷つけている私たちが、主イエスの愛に包まれ、癒やされるのです。その十字架の死によって、日々抱えている葛藤や孤独や絶望に打ちのめされている私たちが、力を与えられ、強くされるのです。今日、この礼拝で私たち一人ひとりのところに救いが訪れています。十字架で死んでくださるほどに、失われた私たちを捜し出そうとする主イエスの愛が私たち一人ひとりに告げられているのです。私たちはその救いと愛を受け入れて、主イエスを自分の人生の主人とし、新しく生き始めることができるのです。

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