主日礼拝

正しい人はひとりもいない

「正しい人はひとりもいない」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第14編1-3節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第3章21-26節
・ 讃美歌:205、470、509

神さまって本当にいる?  
 皆さんは、神さまって本当にいると思っていますか。牧師さんがそんなことを聞くの?ってびっくりするかもしれません。でもこれは、私たちにとってとても大事な問いかけだと思います。神さまは目に見えません。手で触れて感じることもできません。神さまの声が直接聞こえてくるわけでもありません。神さまって本当にいるんだろうか、よく分からないなあ、という気持ちはいつも私たちの心の中にあるのではないでしょうか。  
 皆さんは、神さまはおられる、おられるに違いない、と思っているからこそ、こうして教会の礼拝に来ているのだと思います。そう、教会は、神さまを信じている人たちの集まりです。今日は一年に一度、大人と子どもが一緒に礼拝を守る日です。神さまがおられることを信じている人たちが、大人も子どもも、毎週これだけ集まって神さまを礼拝しているのです。普段は教会学校の礼拝に来ている皆さん。皆さんの周りにいるこんなに大勢の大人の人たちが、神さまを信じてこの教会で礼拝をしているんだということを知って欲しいと思います。そしていつも大人の礼拝に集っている皆さんにも、今ここにいる子どもたちが、神さまを信じてこの教会に集っているのだということを覚えいただきたいと思います。こういう礼拝の体験を通してこそ私たちは、大人も子どもも、神さまが本当におられることを感じ取っていくのです。

「神などいない」  
 でも私たちの周りには、「神さまなんていない」と思っている人たちが沢山います。私たちが暮らしているこの日本の社会は、神さまを抜きにしていろんなことがなされています。神さまのことを持ち出すと、「あの人変わってる」と思われてしまいそうで、そういうことはあんまり人には言えない、と感じている人も多いでしょう。私たちの周りでは、神さまがおられることは当たり前ではないのです。でもそういうことは聖書が書かれた頃にもありました。さっき読まれた旧約聖書の箇所、詩編第14編の1節に「神を知らぬ者は心に言う『神などいない』と」とありました。神さまなんていない、と言っていた人は、旧約聖書の時代からいたのです。聖書はそういう人たちのことを1節の続きで、「人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない」と言っています。つまりその人たちは腐っている、悪いことをしている、ということです。「神さまなんていない」と言うことは、神さまに従おうとしないことですから、それは何よりも悪いこと、大きな罪です。世の中そういう人ばかりで、善を行う人、つまり神さまを信じて従う人がいない、とこの詩を書いた人は嘆いているのです。私たちはこうして教会で神さまを礼拝しています。だから私たちは「神を知らぬ者」ではありません。私たちは、神さまがおられることを信じています。だから私たちは、ここに語られているような悪いことをしている人たちとは違う、私たちは、神さまを信じて善を行なっている人、良いことをしている人だ、ということになるのでしょうか。

神さまを信じるとは  
 いったい神さまを信じるってどういうことなのでしょう。神さまという方がどこかにおられると思っていればそれが神さまを信じていることなのでしょうか。そうではありません。神さまを信じているというのは、毎日の生活を神さまと共に生きている、ということです。神さまが自分のことを本当に愛して下さっていて、その愛によっていつも導いて下さっていることを知っていて、その神さまの愛に感謝して、神さまに従って歩もうとしていることです。つまり神さまを自分にとって本当に身近な方として愛していることが、神さまを信じているということなのです。だから、神さまがおられると思っているとしても、その神さまと関わりなく毎日を過ごしているのであれば、その人にとって神さまはいないのと同じです。神さまを信じるというのは、自分の毎日の生活は神さまの恵みなしには成り立たない、というくらい神さまが身近な方になることなのです。神さまがおられるというのは、宇宙人がいるというのとは全く違うことです。神さまがおられると本当に信じている人は、神さまと共に生きているはずなのです。

「神を知らぬ者」とは私たちのこと  
 そこで、最初の問いにもう一度戻ります。皆さんは、神さまって本当にいると思っていますか。この問いかけは、皆さんは神さまを愛して、神さまと共に生きていますか、神さまの恵みなしには自分の毎日の生活は成り立たないと思うくらい神さまを身近な方として感じていますか、ということです。教会に来て礼拝をしているからといって、私たちの生活がそうなっているとは言えないでしょう。私たちは、神さまはおられると思って礼拝をしているし、神さまの恵みを受けたいと願っている、だから「神さまなんていない」とは言いません。でも、神さまの恵みなしには生きていけない、とは思っていない。神さまと共に歩むことを何よりも大事なこととはしていないのではないでしょうか。神さまの恵みを受けて神さまと共に生きることも大事だと思うけれども、でも今自分にはそれよりももっと必要なものがある。お金が必要だし、それを得るための仕事が大事だ。神さまとの関係も大事だけれども、それよりも人との関係、家族や友人たちとの付き合いの方がもっと大切だ。自分の趣味や生きがいも大事にしたい。そして充実した幸せな人生を送るためには、先ずいい学校に入ることが必要で、そのための受験勉強の方が、神さまを礼拝することよりも大事だ。そんなふうに思っていることがその証拠です。つまり私たちは、自分の人生にとって本当に必要なものを、神さま以外のところにいろいろ見出していて、神さまと共に生きること、神さまの恵みを受けることは二の次になっていて、まあそれもあったら有り難い、ぐらいに思っているのです。それはつきつめて言えば、神さまなしにも自分はやっていける、と思っているということであり、「神さまなんていない」というのと同じことなのです。だから私たちは、詩編14編1節の「神を知らぬ者」、心の中で「神などいない」と言っている者というのは自分のことだ、と認めなければなりません。その続きの3節に「だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない、ひとりもいない」と言われているのは、私たちみんなのことなのです。

「わたしたちは皆罪人です」  
 この詩編の箇所は、今教会学校の礼拝で用いている「カテキズム教案」の今日の箇所ですが、この教案は昨年出版された「新・明解カテキズム」に基づいていて、今日の箇所はその問9です。週報に書かれているのでご覧下さい。問9「罪を犯さない人間はいますか」。答「いいえ、いません。わたしたちは皆罪人です」。罪を犯さない、悪いことをしていない人間など一人もいない、とこの問答は語っています。罪を犯す、悪いことをする、というのは、人を殺したり、泥棒をしたり、意地悪をすることだけではありません。それらのいろいろな悪いことの大元には、「神さまなんかいない」という思いがあります。神さまなしで、自分の力で、自分の思い通りにやっていこうとする時に、私たちはいろいろな悪いことにはまっていってしまって、人を傷つけてしまうのだし、それによって自分自身も苦しい思いをしていくのです。そして今日私たちがはっきりと知らなければならないのは、「神さまなんかいない」と思っている罪に陥っているのは、「わたしたちは皆」だということです。教会に来ていないで、「神さまなんていないよ」と言っているこの世の中の多くの人たちだけではなくて、教会で礼拝を守っている私たち、神さまはおられると思っている私たち、毎週ここで聖書のお話をしている牧師である私も含めた、私たちみんなが、本当には神さまを信じて生きていない、神さまと共に生きることを何よりも大切にしてはいない、神さまよりも自分の思いや願いを大事にしていて、「神などいない」と思っているのと同じ生き方をしてしまっているのです。私たちは皆、そういう罪人なのです。こうして礼拝を守っている私たちの中にも、「正しい人はひとりもいない」のです。

神の恵みにより無償で義とされる  
 さっき読まれたもう一つの箇所、新約聖書の箇所はローマの信徒への手紙第3章21節以下です。ここにも、「正しい人はひとりもいない」ということが語られています。23節です。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが」とあります。私たち人間は皆、罪を犯しているので、神さまの栄光を受けられなくなっているのです。神さまはもともと私たち人間を、ご自分に似せて、神さまの栄光を受けて、それを輝かせることができるはずの者として造って下さったのです。でも人間は、神さまに背いて、神さまなしに自分の思い通りに、自分の力で生きていこうとしたために、神さまとの繋がりを失ってしまいました。だから神さまの栄光を受けてそれを輝かせることができなくなっています。私たちは誰もが皆そういう罪の中にいるのだ、ということがここにも語られているのです。でもここには、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」と語られています。罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている私たちに、イエスさまによる救いが与えられているのです。それは、「キリスト・イエスによる贖いの業」を通しての救いです。イエスさまによる贖いというのは、イエスさまが私たちの罪をすべてご自分の身に背負って、十字架にかかって死んで下さったということです。十字架にかかったというのは、死刑になったということです。イエスさまは、神さまに背いている、神さまをないがしろにして、神さまなんていないかのように生きてしまっている私たちの罪のために、私たちに代って、十字架の死刑を受けて下さったのです。このイエスさまの十字架の死によって、私たちは「神の恵みにより無償で義とされる」のです。イエスさまが十字架にかかって死んで下さったことによって、神さまは私たちを義として下さいました。私たちの罪をすべて赦して下さって、私たちをもう罪のない者として新しく生かして下さるのです。しかもその救いは「恵みにより、無償で」与えられます。無償でっていうのは、タダで、ということです。代金はいらない、ということです。イエスさまによる救いは、私たちが何かをすることと引き換えに手に入るものではないのです。私たちが頑張ってこれをしたら、こんな人になったら救われる、というのではなくて、神さまの独り子であるイエスさまが、私たちの救いのための全てのことをもうして下さったのです。だから私たちは、十字架にかかって死んで下さったイエスさまを信じるだけで、神さまによって罪を赦されて、神さまの子どもとして新しく生きることができるのです。

赦されて生きる喜び  
 「正しい人はひとりもいない」という聖書の教えは、このイエスさまによる救いへと私たちの目を向けさせます。神さまがおられると信じて礼拝を守っている私たちの中にも、正しい人はひとりもいない、みんな罪を犯しているんだ、と言われると、なんだか暗くなってしまう、そんなこと言われたら、何もやる気がしなくなる、元気が出なくなる、と思うかもしれません。でもそうではないのです。「正しい人はひとりもいない」という教えは、私たちが、自分の力で、自分の思い通りにやっていくことによって本当に幸せな人生を送ることはできない、ということを示しています。自分は正しい、と思って歩んでいる時にこそ私たちは人を傷つけ、苦しめてしまうのです。私たちが、本当に幸せな人生を歩むために必要なのは、正しい人になろうとすることではなくて、正しくない、罪のある自分を、神さまが、イエスさまの十字架の死によって赦して下さって、神の子として下さっていることを知ることです。私は正しいから救われるのではなくて、神さまの恵みによって罪人である自分が赦されて救われている、そのことを信じている人は、人に対してやさしくなれるのです。人の罪や弱さや欠点を赦して受け入れることができるのです。イエスさまによる救いを信じて生きるところにはそういう新しい人生が与えられていきます。「正しい人はひとりもいない」、私たちは皆罪人だ、ということを信じるときに私たちは、その私たちを心から愛して下さって、正しくない私たちのために十字架にかかって死んで下さったイエスさまの愛を受けて、神さまの恵みによって赦されて新しく生かされる、その喜びに満たされていくのです。「正しい人はひとりもいない」という教えによって私たちは希望を失うのではなくて、どんな人でもイエスさまの十字架の恵みによって救われる、という希望を与えられるのです。

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