主日礼拝

生きている者の神

「生きている者の神」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:出エジプト記 第3章1-6節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第12章18-27節  
・ 讃美歌:328、152、325

主の復活の記念日
 本日は、主イエス・キリストの復活を記念するイースターです。主イエスは十字架につけられて殺され、三日目のこの日曜日の朝、復活なさいました。教会はそのことを喜び、感謝するために、この日曜日に礼拝を守っていきました。毎週の日曜日は主の復活の記念日です。教会が日曜日に礼拝を守っていったことによって、後にこの日が休日になりました。日曜日は休日で集まりやすかったからその日に礼拝が行なわれたのではありません。それは逆です。教会が日曜日に礼拝を守っていったことによって、その日が休日となったのです。日曜日が休日であるのは、主イエスの復活によってなのです。

復活のつまずき
 このこと一つを取っても、主イエスの復活が教会の信仰において決定的に重要であることが分かります。主の復活を記念する礼拝が私たちの信仰生活の中心なのです。しかしこの復活ほど、つまずきの多い教えはないということも確かでしょう。主イエスの教えやみ業は感銘深い、考えさせられ、また聞き従うべきものだと思うが、復活ということだけはどうもいただけない、これさえ外してもらえれば、イエスの教えを学び、その生き方を模範として歩もうということだけなら、自分もクリスチャンになれるのだが、と思っている方もこの中にはおられるのではないでしょうか。既に洗礼を受けたクリスチャンの中にも、そう思っている人がいます。復活は昔の人が信じていた迷信の名残で、現代に生きる自分たちには受け入れ難いものとして、それを括弧に入れてしまっている人もいるのです。現代の社会において、死者の復活を信じるのはなかなか難しいことです。

復活を否定するサドカイ派
 けれども、それでは聖書が書かれた時代においては復活を信じることは容易だったのかというと、決してそうではありません。復活などということはない、と考えていた人々が主イエスの時代に既にいたのです。それが、本日の箇所、マルコによる福音書第12章18節以下に登場するサドカイ派の人々でした。サドカイ派は当時のユダヤ教において、ファリサイ派と並ぶ党派でした。そしてファリサイ派とサドカイ派は対立していました。その対立点の一つがこの、死者の復活があるか否かということでした。どうしてそういう対立が起るかというと、サドカイ派は、聖書、この場合には旧約聖書ですが、その中の最初の五つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のみを信仰の規範としていたのです。これらはモーセが書いたと言い伝えられており、「モーセ五書」と呼ばれています。十戒を中心とする律法がそこに記されているという意味で、聖書の中の最も大事な部分です。サドカイ派はそれのみを聖書としていました。そのモーセ五書には、死んだ者が復活するということは書かれていません。それゆえにサドカイ派は18節にあるように「復活はない」と言っていたのです。それに対してファリサイ派は、モーセ五書以後に書かれた歴史書や預言書、またイスラエルの民の歴史の中で培われてきた言い伝えの教えをも受け入れていました。それらの、比較的後期になって書かれたものの中には、死者の復活を語っているものがあります。それゆえにファリサイ派は復活があると主張していました。主イエスも復活を語っておられました。何よりもご自分の死と復活を予告しておられたのです。その点では主イエスはファリサイ派の仲間とみなされました。それでサドカイ派の人々は主イエスに、復活の問題で論争を挑んで来たのです。

ファリサイ派とサドカイ派
 ところでこのサドカイ派とファリサイ派の復活をめぐる対立の根本には、彼らが生きていた世界の違い、見つめている事柄の違いがあります。サドカイ派は、神殿の祭司を中心とする貴族階級の人々でした。祭司たちは、定められた祭儀をきちんと行なうことを第一に考えます。また彼らは支配者階級とのつながりが深く、勢い保守的になり、現状維持の姿勢になります。彼らは、今自分たちが得ている高い地位や豊かな生活を守るために、変化を嫌っているのです。そのような彼らにとっては、復活によって与えられる新しい命よりも、現世の生活が大事なのです。彼らが復活を否定するのは、聖書に書かれていないからと言うよりも、関心が現在の生活にあり、死後の復活には興味がないということによるのです。
 それに対してファリサイ派は、民衆の中で生きていました。彼らは「律法学者」でもありましたが、それは書斎に籠って律法の研究ばかりしているということではありません。彼らは律法を研究すると共に、律法に基づく生活を人々に教え、民衆が神の民イスラエルとしての自覚と誇りを持って、神に従って生きる者となることを目指しているのです。彼らがモーセ五書以降の書物をも受け入れたことは、歴史と共に変化していく民衆の歩みに関わろうとする姿勢と関係があります。そしてイスラエルの民衆は今、ローマ帝国の支配による苦しみと屈辱の中にあります。その人々に、神の民としての誇りと自覚を持たせようとする彼らの目は自然に、将来における神による救いの完成へと向かっていきました。今は神の力が隠されているが、来るべき世にはそれがあらわになり、神の民イスラエルの救いが完成する。そういう将来の希望を見つめていく中で彼らは、死者の復活を信じ受け入れるようになったのです。

現世中心主義
 このように、復活をめぐるサドカイ派とファリサイ派の対立の根底には、彼らがどこに身を置いて、何を大切にして生きているかということがあります。サドカイ派が復活を否定するのは、それが非科学的だからではありません。彼らが、現世の生活、この世における人生のことだけを考えているからです。この世における幸福が彼らの関心事なのです。信仰の事柄も、この世における幸福にいかに役に立つかという目で見ているのです。そういう現世中心主義においては、死者の復活は、信じられないと言うよりも関心が向かないのです。私たちが復活のことを避けて信仰を考えようとする時にも、そういう現世中心の思いが働いているのではないでしょうか。復活など信じなくても、イエスの教えやみ業を学び、それを指針として人生を歩んでいけばそれでよいと思う時、私たちは、この世の人生のことだけを考えているのです。この人生をいかに幸福に、充実したものとして、あるいは正しく有意義なものとして生きるか、それが全てになっているのです。信仰もそのためにある、そのためにどれだけ役に立つかで信仰の価値も決まる。だとしたら、死んだ後の復活などは役に立たない、そんなものはむしろない方が受け入れやすいのです。復活が信仰のつまずきになるのは、このように、私たちの思いがこの世の人生のみを見つめているからです。死者の復活など科学的にあり得ない、というのは実は根本的な問題ではありません。自分にとってそれが本当に必要なことだと思えば、どんなに非科学的なことだって私たちは信じるのです。復活が信じられないのは、復活などいらないと思っているから、この世の人生が全てだと思っているからなのです。

復活をこの世の歩みの延長上で考えている
 サドカイ派の人々は、死者の復活がいかにナンセンスな、矛盾に満ちた教えであるかを示そうとして、あることを持ち出しました。彼らは先ずモーセの律法を引用します。19節「ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」。これは申命記25章5節以下にある結婚についての掟です。イスラエルの民にとっては、子孫を遺し、家系を絶やさないことが神様の祝福を受け継いでいる印でした。そのためにこのような掟が定められていたのです。彼らはこの掟を確認した上で、一つの極端な例をあげます。20~23節「ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」。彼らはこれによって、死者が復活するという教えが不都合なものであり、一人の夫と一人の妻という神の教えにもとる結果を生むものであることを論証しようとしています。このように一人の女性が七人の男と結婚するというのは極端としても、こういうことは私たちにおいても起こります。配偶者と死別して再婚する人は多くいるのです。復活したらどちらの人が自分の妻あるいは夫となるのか、両方なのか、などと考えていくと、復活というのはやはり無理のある教えではないかとも思えてくるのです。
 けれども、まさにこのようなことを考えるところに、サドカイ派の人々が現世のこと、この世の人生のことしか見つめていないことがはっきりと現れているのです。彼らは、復活をも、この世の人生の延長上にしか考えていません。だから、復活したら誰と誰が夫婦なのか、と問うているのです。私たちが復活について抱く疑問も皆この類いです。復活が世の終わりに起るとしたら、死んでから世の終わりまでの間はどういう状態にあるのかとか、復活するのは死んだ時の姿でなのか、もっと若く盛んな時の姿を与えられるのかとか、この世で障がいを持って生きた人は復活してもやはり障がい者なのか、などです。これらは全て、サドカイ派の人々の問いと同じく、復活をこの世の人生の延長上に考えることによって起る疑問です。今のこの世のことを基準にして復活を見つめるから、こういう疑問が起ってくるのです。

聖書も神の力も知らない
 主イエスはこのサドカイ派の人々に「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」とおっしゃいました。彼らサドカイ派は、聖書、少なくともモーセ五書はなめるようによく読んで知っていたのです。また彼らは祭司として神に仕えていました。しかし主イエスは、彼らが聖書も神の力も知らないとおっしゃっています。聖書をいくらよく読んで知っていても、この世の人生を充実させるための教えとしてだけ読んでいたのでは、聖書を本当に知ることはできないのです。また神様に熱心に仕えていたとしても、その神様を、この世の生活を支え、充実させてくれる方としてのみ見つめていて、神様の力が、この世の人生を越えたところまで、肉体の死の彼方にまで及ぶことを見つめようとしないなら、神の力を知っているとは言えないのです。

天使のようになる
 そして主イエスは彼らの問いへの答えとして25節で、「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」とおっしゃいました。復活においては、めとることも嫁ぐこともない、このことをどう受けとめるかは人によって様々でしょう。ある人にとっては、これはとても寂しいことだと思われるでしょう。そのように思う人は幸せな夫婦関係に生きている、あるいは生きていたのでしょう。しかしある人にとっては、これは大いなる解放の知らせかもしれません。この世では我慢しているが、復活してまであの人と一緒なのはご免被りたいと思っている人もいるでしょう。あるいは、いろいろな事情で結婚せずに独身で生きており、そのことにある引け目を感じている人にとってもこれは喜ばしい教えに感じられるかもしれません。しかしこの「めとることも嫁ぐこともなく」を寂しいとか喜ばしいとか思うのはやはり、復活をこの世の人生の延長上に見ているからです。主イエスのこのお言葉の大事なポイントはむしろその後の、「天使のようになるのだ」にあるのです。天使のようになるというのは、白い衣を着て背中に翼のある者になるということではありません。ここは口語訳聖書では「天にいる御使」となっていました。この方が原文に忠実な訳です。天にいる、ということが大事なのです。天にいるとは、神様のみ手の内に置かれている、ということです。聖書において天使は人間と同じく神に造られた被造物です。人間も天使も神に造られ、神のみ手の内に導かれています。しかし天使は自分が神のみ手の内にあることをはっきりと知っているのに対して、人間の目にはそのことが隠されており、私たちはしばしばそれを見失ってしまうのです。しかし復活においては私たちも天使のようになる。神様のみ手の内に置かれている恵みをはっきりと知る者とされるのです。その復活においては「めとることも嫁ぐこともない」。それは、今のこの世における私たちの人間関係が、復活において神様のみ手の内に置かれることによって新しくされ完成されるということでしょう。ですから、今この人生において良い夫婦関係を与えられている人は、復活において、今以上の完成された関係を与えられるのです。また、今この人生においては夫婦の間に問題があり、復活してまで一緒にいたくないと思っている人には、そのような問題や罪が全て解消された新しい関係が与えられるのです。また、この世の人生においては結婚しなかったり、複数の人と結婚した人にも、それらのことを越えた新しい、祝福された関係が与えられるのです。いずれの場合も、この世における関係が復活において継続するのでなく完成するのです。それは夫婦の関係だけの話ではありません。この世の人生において私たちは様々な人間関係に生きています。恵まれた、喜ばしい関係もあれば、顔も見たくない、という問題に満ちた関係もあるのです。それらの関係が、復活において神様のみ手の内に置かれることによって、あらゆる問題から解放されて完成するのです。復活というのはこのように、様々な罪や弱さをかかえてこの世の人生を歩んでいる私たちが、神様の恵みのみ力によって新しくされ、み手の内に置かれ、この世においてはどうしようもなくまつわり着く罪を拭い去られ、一切の苦しみ悲しみから解放されて新しく生かされるということです。その復活を信じて待ち望むことが私たちの信仰なのです。

生きている者の神
 主イエスは26節以下で、そのような復活が確かに与えられるのだということを、サドカイ派が拠り所としているモーセ五書の一節を引いてお語りになりました。「モーセの書の『柴』の箇所」です。それは本日共に読まれた、出エジプト記第3章の始めの所、モーセが神の山ホレブで、燃え上がる柴の中から語りかける主なる神と出会った時の話です。そこにおいて主なる神様はモーセに、ご自分のことを「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と語られました。このみ言葉が、死者が復活することを語っていると主イエスはおっしゃったのです。それはどういうことでしょうか。私たちは普通この言葉を、「私はイスラエルの先祖であるアブラハムとその子イサク、孫のヤコブにかつて現れ、彼らを導いた神である」という意味に読んでいます。しかし主イエスはここに、そのような単なる自己紹介を越えた深い意味を読み取っておられます。その深い意味を知るためのヒントが27節の「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」という言葉です。この言葉を土台として「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という言葉を読む時、それは単に昔そうだったという自己紹介ではなくなります。生きている者の神である方が、「わたしはアブラハムの神である」とおっしゃったなら、アブラハムは神のみ前に生きている者とされるのです。神が名前を呼んで、私はこの人の神だと言って下さるなら、その人は命を与える神の恵みのみ手の内に置かれ、肉体の死を越えて生かされるのです。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、そのように神に名前を呼ばれたことによって命を与えられたのです。そして、神が与えて下さる命は、ただ魂だけの事柄ではありません。神は人間を、肉体をも備えた者として造り、生かして下さるのですから、神に名前を呼ばれた人々は、肉体の死によって滅びてしまうことなく、いつか必ず復活して新しい体を与えられるのです。ご自分のみ言葉に忠実な神は、全能の力によって必ずそれを実現して下さいます。そこに、私たち自身の復活を信じる根拠があるのです。神様が私たちの名前を呼んで、「私はあなたの神だ」と言って下さるなら、私たちは死を越えて生かされ、復活する。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」とはそういうことを言っているのです。このことを信じることこそが、神の力を信じるということなのです。

神が名を呼んで下さるなら
 私たちの復活の先駆けとして、またその保証として、最初に復活を与えられたのが主イエス・キリストです。父なる神様が、主イエスの名を呼び、「お前は私の子、私はあなたの父である神だ」と宣言して下さったのです。神がそう語って下さったのですから、死の力もそれに打ち勝つことはできません。肉体の死が主イエスを一時捕えましたが、生きている者の神である方がその死を打ち破り、永遠の命を生きる新しい体を主イエスに与えて下さったのです。主イエスの復活とはそういう出来事であり、それは私たちの復活の先駆け、保証です。今日私たちはそのことを喜び祝っているのです。
 主イエスを復活させて下さった主なる神様は、今私たち一人一人の名を呼び「私はあなたの神だ」と語りかけて下さっています。生きている者の神である主が私たちの名を呼んで下さるなら、私たちは肉体の死を越えて生きる者とされるのです。主イエスの復活にあずかって私たちも、復活と永遠の命の希望に生きる者とされるのです。神様によって名前を呼ばれ、復活なさった主イエスのもとに呼び集められて、復活と永遠の命の希望に生きている者たちの群れが教会です。本日も三名の方々が、神様によって名前を呼ばれ、それに応えて洗礼を受け、この群れに加えられます。先週は教会員の家族である一人の兄弟が、重い病の中で神様に名前を呼ばれ、群れに加えられました。旧約聖書、イザヤ書第43章1節に「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」というみ言葉があります。私たちの信仰は、そして救いは、神様が名前を呼んで下さり、あなたはわたしのものだと言って下さることに、そのことのみによっているのです。そして私たちの名前を呼んで下さる神は「生きている者の神」であられます。この神様が名前を呼んで下さるなら、肉体の死もそれに打ち勝つことはできません。主イエスの復活がそのことを示しています。それゆえに主イエスの復活は私たちの信仰の、決して括弧に入れてしまうことのできない中心です。そのことを覚え、喜び祝い、復活の命にあずかるために、主イエスの復活の記念日である主の日、日曜日に私たちはここに集い、主イエスを復活させて下さった神様を礼拝するのです。

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