主日礼拝

わたしたちの資格

「わたしたちの資格」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:エレミヤ書 第31章31-34節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙二 第3章4-6節  
・ 讃美歌:51、352、451

 わたしたちの資格は、神様の前に立つ資格、救いに与る資格、神様の子としてのクリスチャンである資格です。そしてさらに、今日明らかになるわたしたちの資格があります。それは、わたしたちが霊に仕える資格です。まずわたしたちはイエス様によって神様の前に立つ資格を与えられました。わたしたちは神様の前に立つ資格も、神様の救いに与る資格も、クリスチャンである資格も、もともと持っていません。わたしたちはなにかの条件をクリアして、それらの資格を得たのではありません。ただイエス様によって、ただイエス様がわたしたちのために死んで下さり、それらの資格をわたしたちは与えられたのです。

 パウロが今日の御言葉の中で述べている「資格」というのは、伝道者としての資格のことです。そのような「資格」つまり伝道者としての「資格」は、自分にはないということを、パウロはここで述べています。「独りでなにかできると思う」と書いてありますが、ここは原文に近く訳すと、「わたしたち自身でなにか要求、主張したりするには十分でない」ということです。おそらく、これは、コリントの教会に対しての勧告であったり、お願いであったり、または彼らに御言葉を語ること、それらをする権利や資格は、「そもそも自分にない。」ということをパウロはここで言いたいのでしょう。

 わたしたちが一般的に「資格」というものを考える時には、運転免許のようなものを想像すると思います。そして同時になにかテストをしてそれに合格すれば、その資格が与えられると考えていると思います。パウロは伝道者でした。パウロは、なにかこの時代に伝道者となるテストを受けたのかというと、そのようなものはもちろん、この時代にはありませんでしたから、テストを受けておりません。現代は、わたしが、昨年受けたような、教師試験というものがあります。それに合格し、准允を受ければ日本基督教団の教師となります。それがある意味、資格となり、世の言う資格と言えるでしょう。ですが、パウロの時代に、教師試験のようなものがあったとしても、パウロは「わたしには要求したり、教えたり、御言葉を取り次いだりする資格がある」とはコリントの人々に言わないと思います。それはなぜか。パウロは、ここで本当は、自分には十分な伝道者としての技量があり、伝道者としての資質があるのだが、試験制度がないために、自分が認められていないと主張しているのでないのです。また、試験制度がないために、5節後半でいっているように、「神様」を使って、その資格が与えられていると無理矢理パウロが主張しているのでもありません。パウロは、自分にはまったくと言っていいほど、伝道者となる者としての資格はないといっているのです。しかし、ただ神様によってその資格が与えられているということを彼は、5節で主張しているのです。原文を見ると、これはパウロが自分だけのことを言っているのではないことに気付かされます。「わたしたちには、その資格がない」と言っています。ですから、パウロにだけ伝道者としての資格がないのではなく、誰一人として、本来は伝道者になる資質はないし、資格も持ち合わせていないということです。

 これは、わたしにも該当します。教団の試験を受けて合格したとしても、本当の意味で伝道者としての資質、資格が自分にはないのです。しかし、わたしは、伝道者となった、資格を有しているということを、いつのまにか、自明の出来事のように思っていることがあります。当たり前になってしまっていることがあります。当たり前になっているせいなのか、自分には伝道者としてこのようなところが良いところがある、声がでかいところが良い、でも、もうちょっと説教準備をちゃんとしたほうが良いなどと、勝手に「伝道者像」を作り上げ、伝道者ならばこれらのことができないといけないという条件を知らず知らずにつくりあげていることがあります。そして、その条件を自分で作っているのに、自分でその条件に苦しんでいることがあります。しかし、神様はわたしを、「伝道者として、これこれの基準を満たしているから認めよう」といわれて、わたしを伝道者とされたのではないのです。神様はただ、わたしを伝道者としようとされたから、今わたしが伝道者、また説教を語る者となったのです。これは、実はわたしにとって大変な慰めなのです。神様が、わたしの何かの条件を考慮して、伝道者としたのならば、わたしは苦しみます。たとえば、声がでかいということが、伝道者の絶対条件であったとするならば、もしわたしがのどを怪我し、声が小さくなってしまった時に、わたしは伝道者としての資格がなくなったと思うでしょう。またさらには声の小さい他の伝道者をわたしは裁いてしまうと思います。そうではなくて、なにも条件を満たしていないし、資質に関係なく、神様はわたしを選んでくださったことによって、わたしは何を失おうが、伝道者として立つことができます。これはわたしにとって慰めであり、励ましであります。

 実はこのパウロの伝道者としての資格の話しは、牧師や伝道師だけに語られていることではありません。ここに集うすべての人と関係している話です。わたしたちの資格には、初めに申し上げました通り、神様の前に立つことのできる資格があります。いまこの礼拝に来て、礼拝に臨んでおられ、ここにいてくださっている神様の前に立つ資格がわたしたちには与えられています。本当は、わたしたちは誰一人として神様の前に立つことのできる資質を有している者はいないのです。本当の所は、穢れ無き、聖なる存在のみが神様の前にたつことができるのです。わたしたちの中で、生まれながらに穢れ無く、聖なるものであり、ただしい存在のものはいるでしょうか。おりません。ですから、この礼拝堂で神様の前にたち、御言葉を聞くということも、神様の赦しがあり、そして聖なる者としてわたしたちを、一方的に認めてくださっており、義しい者として、一方的に認めてくださっているから、今礼拝をなすことができているのです。罪ある、穢れある者が、ここにいることができるのは、それは、4節で「キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。」とパウロがいっているように、「キリストによって」です。イエス様によってということです。イエス様の十字架上での犠牲によって、その血によって、今も罪と穢れを持つわたしたちなのに、赦されて、神様の前に立つことができているのです。神様は、わたしたちが優れているから、素晴らしいから、ここに立つことを認めておられるのではないのです。神様が、ただわたしたちを愛していてくださるからです。神様が、その愛をイエス様によって実現し、今わたしたちがこの礼拝にいて、御自分の前にわたしたちが立つことを赦してくださっているのです。

 それなのに、それを忘れ、わたしたちはこの礼拝に来ていることも、当たり前のように思っていることがあります。礼拝者である自分が、当たり前のようになっていることがあります。また、同様に、クリスチャンつまり神の子たちであること、救いに与ることも、当たり前になっていることがあると思います。わたしたちは救いに与る資格、神の子とされる資格も本来はなく、その資質ももともとありません。しかし、それも、ただイエス様によって、ふさわしく無い自分が赦され、救いに与る資格が与えられ、神の子とされる資格が与えられたのです。しかし、これらすべてが、あたり前の事柄となった時に、わたしたちはそれぞれ、勝手に正しい「礼拝者像」「クリスチャン像」を作り上げ、それになるための条件を造り、その条件に自分が苦しむことがあったり、またその条件によって他者を裁くことを始めてしまうのです。5節の前半は口語訳では「自分自身で事を定める力は自分にはある、と言うのではない」と言われており、つまり「自分自身で何かを事柄を定める力は持っていない」ということをパウロは言っています。すなわち、パウロは自分自身が伝道者として、このようなものであるとか、クリスチャンはこうであるべきだとかを、定める力はわたしたちにはないと言っています。しかし、パウロの他の書簡を見れば、わかるように、彼は神様の子としてこうあるべきだとか、教会に対して注意をしたりしています。彼がそのようにする資格は、自分自身には一切ないことを認めながら、神様によってその資格が与えられていることを、確信して、そのような教えや注意を語ります。

 なぜそのような事が、彼にできるのか、その理由が、6節に書かれてあります。その理由の一つが、新しい契約に仕える資格が与えられていること、そしてもうひとつは霊に仕える資格が与えられていることです。新しい契約、すなわちそれは、イエス様が十字架上で流された血によって結ばれた契約のことです。それは、神様と人との契約です。それは、わたしたち人が、創世記のアダムとエバ以来失われた神様との関係を、イエス様がその犠牲によって修復して下さったことにより、神様の前に立つことができ、神様と共に生きることができ、神様とつながって永遠の命に与ることができるようになるという契約です。この契約は、先ほど申し上げたように、こちらには、なんの資質も条件も必要がありません。ただこの恵みの契約を受け止めるか、受け止めないかです。その契約を受け止める、すなわちイエス様の救いの業を信じ受け止めるということは、信仰によってです。その新しい契約を信じる信仰を与えてくださるのも、すなわちその契約を、心を開いて受け止めることができるようになるのも、聖霊なる神様によってです。よってすべては一方的に起こるのです。聖霊なる神様が、わたしたちの心をひらいてくださったので、わたしたちはイエス様を信じることができるのです。

 霊に仕えるというのは、つまり、その聖霊なる神様に委ねるということです。パウロは6節で「文字に仕えるのではなく、聖霊なる神様に仕える」と言っています。文字に仕えるとは、つまり、先ほどのように、わたしたちが礼拝者であることが当たり前になった時に、自らで作った「礼拝者像」に基づく「礼拝者としての条件」というのと同じです。そのわたしたちが作り上げた「条件」にわたしたちが仕えている時は、わたしたちは自分を殺してしまいますし、また他者を裁き他者を傷つけようとします。パウロにも似たような経験があります。彼は熱心なユダヤ教徒であり、ユダヤ人でした。ユダヤ人は神様に選ばれた「神の民」でした。その「神の民」には神様からの戒めが与えられていました。その戒めとは十戒であり、つまり律法です。律法とは、「あなたはわたしの民であり、わたしはあなたの神である」という、恵みの契約に対する、民が感謝の応答をするための掟でした。なにも選ばれるにふさわしくない、小さな民であるユダヤであるのに、神様が選んで下さり、守ってくださり、救いだしてくださりました。それは、なんの条件もないのに、神様の愛故に、ユダヤ人たちは「神の民」とされていたということです。そのユダヤ人たちは、いつの日か、愛ゆえに無条件に選び救い出され「神の民」とされているということを忘れ、神の掟、すなわち律法に書かれている掟を守れる者が「神の民」であり、「神の民にふさわしいものである」と考えるようになっていました。パウロも同じでした。律法に書かれてある文字、すなわち条件を、絶対視するようになり、それに仕えるように、その掟を違反するものを裁くものになっていました。昔のパウロからすれば、クリスチャンたちは、イエス様を神と崇めていたので、「何者をも神としてはならない」という律法違反をしているものにしか見えていませんでした。そのため、彼は裁判所に彼らを引っ張りだし、裁き、彼らを死刑にしていました。ですから、彼の現実と経験から、彼は、そのような自分のつくりだした「条件」「文字」は人を殺すということを、身をもって知っていたのです。パウロは、そのような「文字」に仕えるのではなく、「聖霊に」仕えると言っています。また聖霊に仕える資格を神様から与えられたと言っています。「文字に仕える」というのは、自らその条件に従い、自分を判断し、また他者をも判断し、その条件と自らの力で自分を変えたり、自分の力と条件の力で他者を変えようとすることです。霊に仕えるとは、条件によってでなくて、ただ愛ゆえに赦し選び救いだしてくださった神様の霊によって、自分を判断し、他者を見つめること、そして、自分の力で自分を変えようとせず聖霊なる神様によって変えられることを望み、また隣人もおなじように条件や自分の力で変えようとせずに聖霊なる神様によって変えられていくことを望むことです。その聖霊なる神様は、人の心を開き、その心の内でイエス様のことを知らせ、イエス様に気づかせ、信じる信仰を造り、イエス様と結ばせて、人を新たな者に造り変え、活かすのです。3節で、「生けるの神の霊は人の心の板に書きつけられると」書いています。わたしたちは、そとにある石の板にかかれてある「条件」を見て、ふさわしいものに変われると思っています。しかし、その石の板に書かれてある「条件」では、わたしたちは死んでしまいます。そうではなくて、聖霊なる神様が自分自身では触れることもできない心に、「イエス様は私の救い主である」という福音を刻んでくださらなければ、わたしたちは生きないのです。

 このことは、掃除機によって例えられると思います。電源が父なる神様、掃除機がわたしたち、コードを電源に指してくださったのがイエス様です。わたしたちには、電気が送られています。しかし、掃除機は電源がオンになっていなければ動きません。そのスイッチをオンにしてくださるのが聖霊なる神様です。わたしたちにクリスチャンスイッチがあるとしましょう。しかしそれは、外側についてはいません。それは心という自分の内側のどこにあるかもわらないところにあります。ですので、自分の力では押すことできません。そのスイッチを入れる条件は、ありません。時に勘違して、ここを叩けばつくと勘違いすることもあります。そうではなくて、わたしたちたちが、神様の子となるということは、聖霊なる神様がわたしたちの内側にきてくださり、心のスイッチをオンにしてくださらなければ、父なる神様の愛と恵みが体のうちにまっとうしないのです。

 神様を信じているわたしたちのスイッチは既にオンになっています。時にそのスイッチが切れているかのように思うことがありますが、切れていません。聖霊なる神様が心の板に刻んで下さった言葉は消えません。言い換えれば、今も聖霊なる神様はわたしたちのうちにおり、スイッチをオンのままに押し続けてくださっています。

 その聖霊なる神様に仕えるということは、まずその聖霊なる神様の働きを信じることです。そして、具体的には、まだ信ずるに至っていない、わたしたちの隣人の心のスイッチをオンにしてくださるように必死に祈ることです。そして、わたしたち自身が、キリストの手紙となり、わたしは、もう電源に繋がりこんなに動けるということを隣人に示すのです。イエス様という方がわたしを神様につなげてくださったということを、わたしたちは実感をもって、伝えることができます。あなたも、イエス様によって赦され、神様との関係は既に回復していますということを伝えることができます。その後は、聖霊なる神様の役目です。心を開き、その人がそのことを受け止めることができるようになるのは聖霊なる神様の働きです。そこに委ねるのが、わたしたちが霊に仕えるということです。

 わたしたちは、神様の前にたつことがゆるされています。神様の子であることがゆるされています。それはただイエス様の犠牲によってであることを忘れずにいましょう。そしてわたしたちには、聖霊なる神様に仕える資格が与えられています。ですからキリスト手紙となり述べ伝え、聖霊なる神様に委ね、祈ってまいりましょう。

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