主日礼拝

神の独り子

「神の独り子」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:創世記 第22章1-18節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第3章16-18節
・ 讃美歌:

父と子と聖霊を信じる
 毎週の礼拝で告白している「使徒信条」に導かれつつみ言葉に聞いています。これまで、使徒信条の最初の文章、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」を読んできました。この文章が、使徒信条の第一の部分です。使徒信条は三つの部分から成っています。第一の部分には「父なる神」への信仰が、第二の部分には「子なる神イエス・キリスト」への信仰が、第三の部分には「聖霊なる神」への信仰が語られています。つまり使徒信条は、「父と子と聖霊」であられ、しかしお一人であられる神、いわゆる「三位一体の神」への信仰を告白しているのです。このような信条が生まれた背景には、洗礼があります。洗礼は、父と子と聖霊の名によって授けられます。洗礼を受ける者は、父と子と聖霊なる神を信じる信仰を告白することによって教会に加えられるのです。その洗礼において告白され、またその準備のために用いられるものとして、父と子と聖霊という三つの部分から成る信条が生まれたのです。これまで私たちはその第一部である「父なる神」への信仰の部分を読んできました。本日からは第二部、「子なる神イエス・キリスト」を信じる信仰を語っている部分に入るのです。

イエス・キリストを神として信じる
 使徒信条の第二の部分は「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」と始まります。原文の順序に即して言えば、「イエス・キリストを信ず、その独り子、我らの主」となっています。ここでちょっと面倒なことを申しますが、ラテン語で書かれた使徒信条の原文の第二部の冒頭には、「我信ず」という言葉はありません。第一部の冒頭には「我信ず」があって、その後に「神を」と語られているのですが、その「神」の前に in という言葉があります。ラテン語の in は英語の in とは意味が違っており、信じる相手、対象を示しています。つまり「神を」の「を」に当たるわけです。第二の部分の冒頭には「我信ず」はありませんが、「イエス・キリスト」の前に同じ in があります。そのことによって、第一部の冒頭の「我信ず」がここでも生きており、そのもう一つの対象がここに示されていることが分かるのです。こうして、神を信じるのと同じようにイエス・キリストを信じることが言い表されています。つまり何が言いたいかというと、使徒信条は、父なる神を信じるのと同じように、イエス・キリストを神として信じる信仰を告白している、ということです。それは第三部の聖霊についても同じです。父と子と聖霊をそれぞれ同じように神として信じる、しかし三人の神ではなくてお一人の神を信じる、それが「三位一体の神」を信じる教会の信仰なのです。

神の独り子であるイエス・キリスト
 さてそのようにこの第二部には主イエス・キリストへの信仰が告白されているわけですが、そこにおいて先ず語られているのは、イエス・キリストが「その独り子」であるということです。「その」とは第一部に語られた父なる神の、ということです。ここに、「天地の造り主であり全能の父なる神」と「イエス・キリスト」の関係が示されています。主イエス・キリストは神の「独り子」であられるのです。本日はこの「神の独り子であるイエス・キリスト」ということについて、聖書のみ言葉に聞きたいのです。
 主イエス・キリストが神の「独り子」であることが語られている代表的な箇所は、先ほど朗読されたヨハネによる福音書第3章16節以下でしょう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。この言葉はヨハネ福音書全体の主題と言ってもよいもので、ヨハネ福音書の連続講解説教において何度も読みました。またこれは聖書が語っている福音の見事な要約であると言える文章で、宗教改革者ルターはこれを「小福音書」と呼んだと言われています。父なる神がその独り子である主イエスを人間としてこの世に遣わして下さったことにこそ、神による救いのみ業があり、私たちが罪による滅びから解放されて永遠の命を得る唯一の道がそこに開かれているのです。

コロサイの信徒への手紙第1章13?20節
 しかしこの言葉を味わう前に、もう一つ別の箇所を読みたいと思います。それはコロサイの信徒への手紙第1章13節以下です。13?20節を朗読します(368頁)。聞いていてくださればよいです。
「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」。

造られずに生まれた御子
 ここには、父なる神がその愛する御子によって私たちに救いを与えて下さったことが語られています。冒頭に語られていたように、父なる神は私たちを闇の力の支配から救い出して、御子の支配下に移して下さったのです。それが御子イエス・キリストによって私たちに与えられた救いです。その救いを実現して下さった主イエス・キリストが、神の「御子」であられることがここでは強調して語られています。主イエスが神の「御子」であることにどういう意味があるのか、がここに語られているのです。御子である主イエスは、「すべてのものが造られる前に生まれた方」だと語られています。御子イエス・キリストは、すべてのものが造られた天地創造に先立って、父なる神から生まれた方なのです。この「生まれた」に「御子」つまり「子ども」という言葉の意味が示されています。御子である主イエスは、天地創造において神によって造られた「被造物」ではなくて、それに先立って父である神から生まれた「子」なのです。造られたもの、被造物は、造った方、創造主とは違って、神ではありません。しかし主イエスは、神によって造られたのではなくて、神から生まれた子なのです。それは主イエスが神であられることを意味しています。主イエスは、天地創造において造られた被造物ではなくて、それ以前に、父なる神から生まれた独り子なる神なのです。「御子はすべてのものよりも先におられ」という言葉もそれを語っています。それゆえに主イエスは、父なる神と共に、天地創造のみ業に関わっておられたのです。「万物は御子において造られたからです」とか、「万物は御子によって、御子のために造られました」とあるのはそのことを語っています。主イエスが御子であるということは、父と共に天地の全てをお造りになった神であられるということを意味しているのです。

万物を御自分と和解させるために
 父なる神はその御子を一人の人間としてこの世に遣わして下さいました。それは、御子の十字架の血によって、つまり主イエスが十字架にかかって血を流して死んで下さったことによって、平和を打ち立て、万物を御自分と和解させて下さるためだった、とコロサイの信徒への手紙1章は語っています。私たち人間は、神に背き、神と共に生きることを拒む罪によって、神との良い関係を失い、平和を失っています。それは人間が神のみ心に従ってこの世界を管理することができなくなったということでもあります。この人間の罪のために、人間だけでなくこの世界の万物が神との平和を失ってしまっているのです。その平和な関係を回復し、人間とこの世界の万物を御自分と和解させるために、神は御子を遣わして下さったのです。御子イエス・キリストが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによってそのことが実現しました。神である主イエスが、私たちに代って、私たちの罪の償いを全てして下さったのです。この御子の十字架の死によって父なる神は私たちに贖い、すなわち罪の赦しを与えて下さり、私たちを御自分と和解させ、平和な関係を回復して下さったのです。

復活と永遠の命を与えるために
 それだけではありません。父なる神は十字架にかかって死んだ御子主イエスを復活させ、永遠の命を生きる者として下さいました。コロサイの信徒への手紙が語っていたように、御子は「初めの者、死者の中から最初に生まれた方」となられたのです。それは、御子主イエスの復活に続いて、私たちにも死者の中からの復活が与えられる、その先駆けとなられたということです。つまり父なる神は、御子主イエスの復活によって、私たちにも復活と永遠の命を与えようとしておられるのです。そのために神は、御子をその体である教会の頭として下さいました。神が御子イエス・キリストを頭として、キリストの体である教会を築き、私たちをそこへと招いて下さっているのです。この招きに応えて洗礼を受け、キリストと結び合わされ、キリストの体の部分とされることによって、私たちは、闇の支配から御子の支配下へと移され、罪を赦されて神との和解、平和を与えられ、復活と永遠の命の約束を与えられるのです。
 これが、あのヨハネ福音書3章16節が語っている「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された」の内容です。コロサイの信徒への手紙第1章を読むことによって私たちは、独り子を与えて下さったほどの神の愛とはどのようなものだったのかを示されるのです。そして、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」ことができるのは何故かもここから分かります。神の独り子である主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、罪の贖い、赦しを実現して下さったのです。また復活して永遠の命を生きる最初の者となって下さったのです。その独り子を信じることによって私たちは罪を赦され、滅びから救われると共に、永遠の命の約束を与えられるのです。また独り子を信じるとは、ただ心の中で信じることではなくて、洗礼を受け、御子キリストが頭であるキリストの体である教会に連なる者となることです。それによって私たちは、主イエス・キリストと結び合わされ、罪を赦されて神との良い関係を回復され、神が約束して下さった復活と永遠の命を待ち望む者となるのです。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」とはそういうことなのです。

世を裁くためではなく、救うために
 ヨハネ福音書はこの3章16節に続いて17、18節で「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」と語っています。私たちは、この世界を造り、私たちに命を与えて下さった神の愛に応えようとせず、神を無視して、神との交わりを拒み、神なしに、自分が主人となって生きようとする罪に陥っています。神との平和な良い関係を失っているのです。そのために、神を愛することができないだけでなく、自分自身をも本当に愛することができなくなっています。つまり、自分が自分であることを喜ぶことができず、不平不満に満たされ、人と自分を見比べては落ち込んだり、妬みの思いにかられたりしています。そしてそのように自分自身を愛し、自分が自分であることを喜ぶことができない者は、人を愛し、人が人であることを喜ぶこともできません。人を受け入れ、寛容であり、良い関係を築いていくよりも、批判し、攻撃し、傷つけ、関係を破壊していってしまうことが多いのです。つまり神との平和を失っていることによって、自分自身とも、他の人とも、平和に生きることができなくなっている、それが私たちの罪であり、その私たちが築いているこの世は罪の闇の中にあるのです。そこに、神が御子をお遣わしになった。それは、罪人である私たちを裁いて、この世を滅ぼすためであっても少しも不思議ではありません。むしろ、これほど恩知らずの罪にまみれている私たちが裁かれ滅ぼされない方が不思議だと言うべきでしょう。しかし父なる神が独り子イエス・キリストをこの世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためだったのだ、とこの17節は語っているのです。

御子を信じる者は
 しかもその救いは、私たちが自分の罪を悔い改めて罪から離れ、神と良い関係をもって生きる者となることによって実現するのではなくて、「御子によって」与えられるのです。先ほどのコロサイの信徒への手紙第1章に語られていたように、父なる神が、御子イエス・キリストの十字架の死と復活による救いを実現して下さり、私たちをその救いにあずからせるために、御子キリストを頭とする教会を築いて下さったのです。私たちは、御子キリストを信じてキリストの体である教会に連なる者となることによって、それだけで、この救いにあずかり、神との平和を回復され、永遠の命の希望を与えられるのです。「御子を信じる者は裁かれない」という18節前半の言葉はそれを語っています。御子を信じる者は、それだけで、他に良い行いや信仰による奉仕や愛の業などに励むことがなくても、裁かれて滅びてしまうことなく、永遠の命を与えられるのです。神による救いにあずかることにおいて、御子イエス・キリストを信じることが決定的に重要なのです。そのことをひっくり返して語っているのが18節後半の「信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」です。裁かれ、滅びるのは、何かの罪を犯したからと言うよりも、元々罪によって滅びるしかない私たちを、神が独り子イエス・キリストを与えて下さってまで救おうとしておられるのに、その御子を信じないでその救いを拒むことによってなのです。

神の驚くべき愛
 父である神から生まれた子である神主イエス、そしてそのように父から生まれた方は主イエスお一人なのですから、父なる神の「独り子」であられる主イエスが、この世に来て下さり、人間として生きて下さり、私たちの罪を全て背負って十字架の苦しみと死を引き受け、それによって私たちの罪の赦しを実現して下さった、そのように私たちのために独り子の命をすら与えて下さった神の愛によって、私たちは滅びから救われ、永遠の命の希望を与えられている、そういう救いを聖書は告げています。主イエスが神の「独り子」であられると信じるというのは、この神の驚くべき愛を信じることなのです。
 「独り子」という言葉に込められたこの驚くべき愛が示されている旧約聖書の箇所が、先ほど朗読された創世記第22章です。ここには、神がアブラハムに、独り息子であるイサクを、焼き尽くす献げ物とするようにお命じになったことが語られています。イサクはアブラハムにとって、長い間待ち望んできた、そして人間の常識ではあり得ない仕方で神によって与えられたまさに独り子でした。そのイサクを殺して献げよと主はお命じになったのです。2節に「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを」とあります。アブラハムにとってイサクはどのような存在であるか、この命令がどれほど残酷なことであるかを主がよくご存じであることがここに示されています。しかしアブラハムは、この命令に黙って従っていきます。6節にあるように、イサクに薪を背負わせ、自分は火と刃物を持って、主が示された山に登っていったのです。そして山の上で彼は祭壇を築き、薪を並べ、そして息子イサクを縛って薪の上に載せ、刃物を取って殺そうとしたのです。その時主の御使いがそれを止めて、「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」と言いました。そしてそこには、焼き尽くす献げ物とするために羊が備えられていたのです。「自分の独り子である息子すら惜しまなかった」という言葉は16節にもあります。このことによってアブラハムは主の祝福を受け、神の民イスラエルの先祖となったのです。
 この話は私たちにいろいろな疑問を引き起こします。こんなことを命じる神はひどい、なんて残酷な神なんだ、とも思うし、それに一言も異を唱えずに従っていくアブラハムはどうかしている、と思ったり、こんな仕方でアブラハムの信仰を試すような神は嫌いだ、と思ったり、いろいろ文句を言いたくなるのです。それらの疑問はしっかり問うていったらよいのですが、この話は、神がその独り子イエス・キリストの命をすら私たちの救いのために与えて下さったことと合わせて読む時に、一つの大事な意味が見えてきます。この命令によってアブラハムは深く苦しんだでしょう。理不尽だ、納得できない、なぜこんなことを、と思ったでしょう。その思いの全ては、独り子を与えて下さった父なる神ご自身が引き受け、味わい、体験して下さったことなのです。しかも、アブラハムは土壇場で、イサクの代わりとなる羊を与えられました。イサクを殺して献げることはしないですんだのです。しかし神の独り子主イエスは、十字架につけられて殺されたのです。イサクの代わりに主の山に備えられていた羊こそが主イエス・キリストを指し示していると言うことができます。その羊が代って献げられたことによってイサクが生きたように、神の独り子主イエスが十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちは罪を赦され、救われ、神との良い関係を回復されて、新しく生かされているのです。「自分の独り子である息子すら惜しまなかった」のは、実は主なる神ご自身なのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」、その驚くべき愛を、この話は指し示しているのです。

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