夕礼拝

憐れみ深い者よ

「憐れみ深い者よ」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編 第63編1-11節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第5章7節  
・ 讃美歌:297、475

 今日この場に集った誰もが、憐れみを受けることができます。ここに集う誰もが、憐れみを受けなくては生きてはいけない者です。では、誰から憐れみを受けるのか、それは、神様です。神様から憐れみを受けた者は幸いです。神様から憐れみを受けるものは、自分自身が憐れみを受けなくてはいけない存在であることを知ることができます。神様から憐れみを受けるものは、自分自身が憐れみを受け続けなければ生きていくことができない存在であることを知ります。また神様から憐れみを受けるものは、自分は神様から憐れみを受けるに値しないものであることを知ることができます。神様から憐れみを受けるものは、そのような憐れみを受けるに相応しくない者なのに、憐れみを与えられているという恵みの事実を知ることできます。最後に、神様から憐れみを受けるものは、他者、隣人に対しても憐れみ深くできないわたしが、神様の憐れみによって、憐れみ深くあることができるように変えられていくことを知ります。「憐れみ深い人々は幸いである、その人たちは憐れみを受ける」
わたしたちは幸いです。なぜならば、このイエス様の宣言はわたしたちに向かって語りかけられた言葉だからです。

 今イエス様はわたしたちに向かって、「憐れみ深い人々よ」と言葉を投げかけられます。この言葉を投げかけられた時、わたしたちは、最初に自分自身を省みることでしょう。「わたしは憐れみ深いのか。わたしのどのような行いが憐れみ深いのだろうか。」そのように考えはじめます。その時、考え始めたばかりのわたしたちは「わたしが憐れみ深い者です」とイエス様の前で、堂々手を挙げることができません。それは言わば、イエス様のこの宣言される「憐れみ深い人」の中に「自分は含まれていないかもしれない」という疑いを払拭できないためでしょう。しかし、イエス様は、そのようなわたしたちを憐れみ深い者であると言われます。

 ここに集っている人と、今日ともに読みましたマタイ5章の山上の説教を聞いている人々とは、一緒であるということを毎週申し上げています。この山の上にいるのは、イエス様と出会い、イエス様に従って歩もうと思った弟子たち、それと、イエス様の評判を聞いて、会ってみたいと思ってイエス様の所にいき、そこから山上までイエス様に従って付いて来た群集たちです。ここに集うわたしたちは弟子か群集かです。どちらが優れているということではなくて、このどちらにも共通していることは、イエス様に従って歩んでいるということです。それは、イエス様と共に歩んでいるということです。

 今日、イエス様がわたしたちに向かって語られているこの言葉は「イエス様と共に歩んでいる」ということのみが、前提となっています。「憐れみ深い人々よ」とイエス様がおっしゃる時には、イエス様は現実に向き合ってイエス様についてきている弟子たちと群集たちに向かって言っていますから、言わずもがな「共に歩んでいる」ということが前提となっています。ですから、わたしたちが「憐れみ深いものである」ということと、イエス様と「共に歩んでいる」ということは結びついており、そのため重要な事柄となります。

 イエス様が憐れみ深い方であるというのは、なんとなしに、わたしたちは理解していると思います(癒しや奇跡、十字架)。その方と共に歩むというのは、その方と一緒にいることだから、その憐れみ深い方が隣にいるので、わたしたちもその方を見習って憐れみ深くあろうとして、努力して、自分が憐れみ深くなるのかなと、わたしたちは想像してしまいます。そのように憐れみ深くなれれば、わたしたちは、なにか幸いになることができるのかなとも想像します。ここまで、「憐れみ深い」とか「憐れむ」とか、何度も言ってきましたが、一体「憐れむ」とはどんなことでしょうか。まずそれをはっきりとさせなければなりません。わたしたちが一般的に考えている「憐れむ」とは、なにか哀れな人がいて、その人を見て「哀れだなぁ」と感ずること、もしくはその哀れな人に施しをすること、それが、憐れむということなのではないかと考えていると思います。その時わたしたちが想像している哀れな人というのは、他人ではないでしょうか。町にいるホームレスの人、不幸にあった人とか、想像しますけれども、おそらくどなたも、その想像の中で、その哀れな人の具体的な顔は見えていないのではないか思います。ボワっと哀れそうな人をわたしたちは思い浮かべているのではないでしょうか。憐れむことが、「哀れに思うこと」であるならば、それでも良いでしょう。住む家を持っていない、お金をもっていない、友人がいない、家族がいない、そのような状況に該当する人が哀れだなぁと思う、それに対して、その状況を打破するために、なにかしてあげること、それが「憐れむこと」であるとわたしたちは思っています。憐れむことを定義付けるのならばそれで良いかもしれません。しかし「憐れむ」というのは、実際には、具体的な、生きた対象が必要となります。「憐れむ」ということは、想像上の出来事とは違います。具体的な人と人との関係の中でしか、実際には起こらないことです。

 わたしたちは、憐れむということを考える時に、哀れな状況、悲惨な状況に置かれた、それに該当する人を「憐れむ」と考えます。しかし、どうでしょうか、わたしたちが想像する哀れな状況の中で生きている人に実際にあったが、その方が全然そのことを哀れに思っていなかったら、どうでしょうか。それはその人にとっては、哀れな状況ではないでしょう。実際に「哀れ」な状況にあっていても、それを哀れであると認識してないものに、「憐れむ」ことをしても、無意味のように思えます。

 「憐れみ」が実際の力を発揮する所は、生きている人が、なにかが起きて、それが哀れである、悲惨であるとその人が認識している時です。そうであるので、「憐れむ」ということは、人と出会い、顔を知り、知り合った関係の中で、かつその人の苦しみを理解し、なにか憐れむことをしなければ、起きません。その人が本当に苦しんでいる、悲惨だと思っていることを知っているものが「憐れむ」ことができます。しかし、わたしたちは、個々人の内側にもっている苦しみを本当に知ることはできないことを知っています。そのことが隠されていたのならば、苦しんでいることもわからない。また、その人の苦しみを、わたしが、苦しみや悲しみだと思えないということもあります。だから、簡単に「憐れむ」ことは、わたしにはできないと思うし、憐れみ深くなれないと思ってしまいます。確かに、それはそうでしょう。わたしたちは、わたしたち自身では、他者の苦しみを味わうことはできないし、100%共感することはできません。ですから、わたしたちは憐れんで、なにか具体的な行動を起こすという前に、その対象との関係を築いた後に、相手を本当に知ることできないとわかり、挫折してしまうものであるでしょう。

 そのようなことを考えていくと、わたしたちは、いかに「憐れみ深い者」から遠いものであり、「憐れむことの難しいもの」であるということを思わされます。しかし、そこが、わたしたちのイエス様と歩むための第一歩となります。わたしたちは、自分自身の力では憐れみ深いものとはなれないということを知ること、それが、イエス様に「憐れみ深い者よ」と呼びかけられた時に、わたしたちが気付くことのできる一つ目の重要な事柄です。
では、わたしたちの想像する「憐れみ深いもの」に該当しないのに、イエス様はなぜわたしたちのことを憐れみ深いと言われまた、幸いであると言われるのでしょうか。イエス様の言葉をもう少し注意深く聞いていきましょう。憐れみ深い人々は幸いであるという言葉の後の言葉を注意深く聞いてみましょう。「その人たちは憐れみを受ける」とイエス様は言われておられます。憐れみを受けるとありますが、これは誰から憐れみうけるのでしょうか。これは、憐れんであげた人から、お返しに、憐れまれるということではないでしょう。また、誰かに憐れんだことが、巡り巡って自分に帰ってきて、自分が苦しい時に憐れまれてラッキーで幸いであるということでもないでしょう。この憐れみは、自分発進のものではありません。そして、この憐れみは、人からのものではありません。この憐れみは神様からの憐れみです。「憐れみ深い人が幸いなのは、神様から憐れみは受けるからである」とイエス様は言われているのです。これを聞くと、わたしたちがだれかに憐れんであげた功績で、神様から憐れまれるのかなと思ってしまうことがあると思います。先ほど、この憐れみは自分発進のものではないと申し上げました。ですから、神様の憐れみは、わたしたちのなにかの功績によって与えられるものではありません。
しかし、その前に、なぜわたしたちは、神様から憐れみを与えられているのでしょうか。なにかわたしたちは、神様に憐れまれるようなことをしたのでしょうか。むしろ、わたしたちは憐れまれる覚えはないと思っている。もっと強気な人は、覚えがないのに憐れまれるなんてまっぴらごめんだと神様に思っているでしょう。

 そのようなわたしたちが、神様の憐れみを知る上で、知っておかなければならないことがあります。それは、旧約聖書に書いてあることです。それは、人と神様との関係のことです。神様とわたしたちの関係が、旧約聖書に神様とユダヤの民との関係の中で示されています。神様は、ユダヤの民をお選びになりました。そして、この民に、約束を与えました。ノアとの約束、アブラハムとの約束、モーセとの約束、神様は繰り返して、民との固い絆を作り、お互いの関係を守るために、そのきずなを守るために約束をしてくださいました。この約束は、聖書では契約と言われております。そして、この約束を、誠実に守るようにと、神様は民に求められました。それは、「あなたはわたしの民であり、わたしはあなたの神」であるということです。また神様の教え、戒めを守ること、言い換えると、十戒に代表される神様からの戒めを守ること。それらは、すべて神様との関係を壊さないために守らなければならないものでした。しかし、ユダヤの民は、その約束も何度も破りました。わたし以外を神としてはならないと言っていたのに、他の神を信じ始めたり、自分の手で作った像を拝んだり、自分を神のように思って真の神様を下にみたり、神様のものである人を傷つけたり、悲しませたり、神様が大事に育てる人々の命を軽んじたり、神様の関係によって造られた夫婦の関係を壊すようなことをしたり、もう数え切れないほどです。これは、約束破りで、契約違反なのです。そもそも、この約束を与えられたのも、アダムとエバが神様との約束を破り離れたことから始まっています。自分が神様のようになりたい、そして神様が主人であるように、わたしも主人になりたい、それはすなわち、神様をしもべとして扱いたいということで、そのために、アダムとエバは、自分が主人となりたいと思ったため、神様の言いつけを守らず、神様を疎んじ、神様のもとから離れなくてはいけなくなってしまったのです。このように、人の方から離れてしまったのに、神様が憐れんで下さり、神様の方が近づき、譲歩してくださり、約束を何度も結んでくださっていたのです。その憐れんでくださって与えられた約束を、ことごとくユダヤの民は破りました。神様との関係を切ろうとしたり、神様の所有のものを壊したりした。本来はそれの償いを求められ、その代償を民が払わなければいけないし、それ以上に、神様が関係してくださるというその約束を捨てられても仕方がなかった。それなのに、神様は民を見捨てず、守ってくださった。そして、「あなたはわたしの民であり、わたしはあなたの神である」という約束を貫き通してくださった。民が、不誠実であっても、憐れみをうけるに値しなくても、民に近づき、捕らえ、守り、愛してくださる。それが旧約聖書で言われる、神様の憐れみです。

 わたしたちは、このユダヤの民の行いと無関係といえるでしょうか。わたしたちも、ユダヤの民と同様のことをしてしまっていました。自分が一番大切で、自分が他を押しのけても幸せになろうとする、友人、家族、愛する人を傷つけたり、悲しませたりする。その友人も家族も、愛する人も、神様が創造された、神様の所有されている命であり、そのような存在です。そのような神様のものである人々を軽んじたり、傷つけたりしてしまいます。またアダムとエバのように、神様のように、わたしがすべてを決定し、善悪を判断し、他のものをしもべに、支配したいという、神様のように主人になりたいという、自己を高めたいという罪を持っています。その罪のために、わたしたちは、他者を傷つけることもするし、また傷つけられたりもする。関係のこじれはこの罪によって起こっています。わたしたちはこの罪のために、神様がユダヤの民と結んで下さった「あなたはわたしの民であり、わたしはあなたの神である」という神様の民という約束を破り、十戒が教える戒めを破ってしまいます。
 しかし、ここでわたしたちが思うのは、わたしたちはユダヤ人でないし、神様と約束をした覚えはないということです。だから、たとえ、そのように自分が罪あるものだと認めても、その罪の故に約束を破っていたと知っても、また神様はそれでも約束を貫き通すといわれても、わたしたちはピンとこないし、憐れみを受けたと思えないのです。確かに、わたしたちの側で、直接神様と契約を結んだという人はいないでしょう。神様と直接、神様の民となって、神様と共に生きると約束をした人はいません。しかし、今日、冒頭で大前提となっていることがあるということを、申し上げしました。それは、この教えを聞いている弟子たちや、群集たちはイエス様との出会いは様々でも、イエス様に従って「イエス様と共に歩みたい」と思っていたこと、イエス様と「共に歩むと決心して付いてきた」者たちだったということです。イエス様と共に歩むということは、この「神様の民となる」という約束を受いれた者たちのことです。神様が主人で、イエス様が真の王であるということを認め、「神様の民」となるということです。そこまで、考えていなくても、イエス様と共に歩むということは、この約束の中に入れられているということです。クリスチャンはそれを、信仰告白という形で口にし、洗礼を受けて目に見える形でそれを表します。それは「神の民」として生きるということです。その時、わたしたちは、神様がわたしの神様となり、主人となり、王様となることを認めることを約束し、わたしは神様の民となり、神様の子となり、神様に従う者になるということを約束しているのです。そのために、十戒を守ることも求められるのです。

 しかし、現実はどうでしょうか。それをわたしたちは、守ることができないのです。神様のことを主人であると忘れるばかりか、その存在をなかったかのように忘れることもあり、または存在をなかったかのごとくして生きることがあります。神様のものである隣人を傷つけます。そのようにして、わたしたちもユダヤの民と同じように、約束を破り続けて生きているのです。

 そのわたしたちを神様は、ユダヤの民と同様に憐れんでくださるのです。「あなたが、わたしの民となることに、なんら値しなくても、あなたがわたしとともに歩むに、なんにもふさわしくなくても、あなたが時に、わたしをいないように扱っても、あなたがわたしの愛する者を傷つけてしまうことをしても、わたしは、あなたを離さない。絶対に離さない。わたしの民とし続ける。わたしの子としていつまでも愛しつづける」とその約束を貫き通してくださるのです。それが神様のわたしたちに対する憐れみです。この憐れみを受けている故にわたしたちは、幸いです。いつもでも、神様の民なのです。イエス様が「わたしに従いなさい、付いてきなさい、わたしのもとにきなさい」といっておられるのは、その民となる約束の中に入れされ、その憐れみを与えようともされているからです。

 そのイエス様は、わたしの罪のために、死んでくださいました。わたしたちは、神様に約束破りをしてしまっていたし、これからもちゃんと神様の民として100%相応しいものになることはできないから、これからも約束を破るようなことをしてしまう。それはつまり、これからも契約違反をし続けるということです。神様は本来は被害者です。もしわたしたちが裁判の席に立っているとしたら、わたしたちは被告人として、立たされています。神様は被害者席におられるのかというと、そうではないのです。神様は裁判長でもあられます。被害者兼裁判長です。それであるから、わたしたちは、そっこく処罰を与えられてもおかしくないのです。わたしたちが神様に憐れみを求めるというのは、この裁判長に「ゆるしてください、あわれんでください」ということです。契約違反をして直ぐ裁かれてもおかしくなかったのに、神様はそのかつての契約を上回る新しい契約を結んでくださってわたしたちを赦してくださいました。その契約の条件は、イエス様を信じ神様の民となるということです。そこには、とても大きな憐れみが隠されているのです。実は、かつての契約、約束の中で、犯した違反に対する処罰を本来は、犯した張本人であるわたしたちが負わねばならないのです。その処罰とは死です。神様との関係を壊すという罪の結果は死です。神様はその死刑宣告を、新しい契約で有耶無耶にしたということではないのです。その古い契約に基づく死刑を、神様は御自分の愛する独り子に、わたしたちの身代わりとして負わせたのです。愛する唯一の子を、神の子を、神様は、わたしたちの愚かな罪のために差し出されていたのです。それでいて、古い契約が全うされ、新しい契約を結ぶことができたのです。新たに、「神様の民」として、生きることを赦されたのです。それが大きな神様の憐れみです。わたしたちはその憐れみに与って生きています。わたしたちは罪がイエス様によって赦されたものとして歩みます。しかし、今でも罪を犯します。しかし、神様は憐れみつづけてくださり、その神様の憐れみという恵みにあずかり続けながらわたしたちは歩んでいます。その神様の憐れみを受けた、いや今でも受け続けているわたしたちが、今度は、「憐れみ深い者」になるのです。それは、神様の憐れみによってです。

 イエス様はそのことを、この福音書の18章でお教えになっています。18章21節以下の「仲間を赦さない家来のたとえ」です。ある王が、自分に一万タラントンの借金のある家来を、憐れに思って赦してやったのです。借金を帳消しにしてやったのです。一万タラントンというのは、とんでもない額です。一生かかっても絶対に返すことのできない額です。それほどの借金を赦してもらったその家来が、その直後、自分に百デナリオンの借金のある仲間と出会います。百デナリオンというのは、決してはした金ではありません。しかし彼が赦してもらった一万タラントンに比べれば、やはりそれは雀の涙です。しかし彼はその仲間を赦さず、あくまでも借金を取り立てようとしました。それを聞いた王は怒って、彼の借金帳消しを取消し、彼は破滅してしまったのです。王は彼にこう言っています。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」。これが、わたしたち一人一人に神様が語りかけておられるみ言葉です。考えてみれば、わたしたちは、百デナリオン以上の一万タラントンを神様に赦してもらったものです。憐れんでもらったものです。借金を背負っている時、罪に苦しんでいる時、絶望の時、それがどんなに苦しかったか、わたしたちは知っています。その辛さを神様が引き受けてくださったということを知っています。だから、わたしたちは、その百デナリオンを借金している人の苦しさも同様にわかるはずです。そこにかつての自分の苦しみがあるということを知っています。それが赦された喜びをわたしたちは知っています。だから、わたしたちは、隣の人を、憐れんで赦すのです。「イエス様の憐れむべきでなかったのか」という言葉を受けて、わたしたちは、神様の憐れみとは比べ物にならない小さな憐れみだけれども、わたしたちはその隣人を憐れんで赦すことできるようになるのです。その神様の憐れみとは比べ物にならない小さな憐れみだけれどもイエス様は「憐れみ深い」と言ってくださいます。わたしたちが、自分に嫌な思いをさせられた、もっといえば敵のような人を隣人をゆるす時、憐れんで忍耐する時、憐れんでその隣人との関係を忍耐して続ける時、神様はわたしたちを「憐れみ深い」と言ってくださいます。その忍耐の先になにがあるのかをわたしたちは知っています。神様が約束をやぶるわたしたちに忍耐してくださり関係を続けてくださった、そしてイエス様という最高の犠牲の故に、わたしたちは神様との関係を再び結ばれることができました。そして、憐れむものに変えられました。わたしたちが、傷つけられるような人、嫌な思いをさせられる人、それは大抵近い人でしょう。それは友人であったり、家族であったり、愛する人であったりします。しかし、それらの人に対する忍耐の先には、わたしたちが神様の忍耐と大きな憐れみによって変えられたように、その者たちも神様によって変えられるのです。その人たちも、神様の民に、そして憐れむものに、変えられるのです。それが、わたしたちの忍耐の先にある希望です。

 わたしたちは神様の憐れみよって神の民にされました。わたしたちの隣人も、神様に憐れまれています。気付いているかどうかわかりません。しかし、神様が憐れまれている、赦されているその人を、わたしたちが、憐れまず、ゆるさないということはできません。本来は、憐れむものに値しない、わたしを神様は今も憐れみつづけてくださっています。だから、わたしたちは隣の人が、わたしたちと同様に憐れむものに値しなくても、憐れむことができるのです。なぜならば、神様がその人を、わたしと同様に、憐れんでくださっているからです。わたしたちのその小さな「憐れみ」は、神様の憐れみによってです。その小さな憐れみを神様は「深い」と思ってくださいます。「憐れみ深い人々は幸いである、その人たちは憐れみを受ける」わたしたちは幸いです。なぜならば、このイエス様はわたしたちに向かってこの言葉を宣言して下さるからです。

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