主日礼拝

キリストの苦難と栄光

「キリストの苦難と栄光」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:イザヤ書 第53章11-12節
・ 新約聖書:ペトロの手紙一 第1章10-12節
・ 讃美歌:14、513

難しい箇所
 ペトロの手紙一を読み進めてきまして、本日は1章10-12節のみ言葉に聞いていきます。少し話が逸れますが、聖書を読んでいると難しい箇所、よく分からない箇所に直面することがあります。ひと言で「難しい」とか「よく分からない」と言っても、その「難しさ」とか「分からなさ」には幾つか種類があると思います。文章そのものの意味は分かるけれど、そこでなにが見つめられているのかよく分からないという場合があります。たとえば主イエスの譬え話で、譬え話そのものは分かるけれど主イエスが何をおっしゃりたいのか分からないということがあるのではないでしょうか。また、その箇所で使われている文章のスタイル(表現の仕方)が分かりにくいという場合もあります。ヨハネの黙示録の独特な文章とか、終わりの日について語られている箇所の表現、たとえば「ラッパが鳴り響く」というような表現がそうです。あるいは、聖書が書かれた場所や時代と現代日本に生きる私たちとの隔たりによって生じる難しさもあります。このように幾つかの「難しさ」がありますが、特に文章の意味そのものが読み取りにくい箇所に直面するとき、私たちは聖書の難しさ、分かりにくさを強く感じるのではないかと思います。本日の箇所も、そのような文章の意味そのものが読み取りにくい箇所の一つだと思います。一度、読んだだけでは分からない。二度三度読んでもやっぱりよく分からない。そのような箇所かもしれません。たとえば12節に「それらのことが」とか「それらのことは」とありますが、「それらのこと」というのが何を指しているのか分かりにくいのです。色々な訳を読み比べてもはっきりしません。原文を見てみると、英語の文法で言う関係代名詞がいくつか出てくるのですが、その先行詞が分かりにくいのです。けれども私たちは、このような難しい箇所のみ言葉を受けとめていく中で、思いもかけない神の語りかけに出会うことがあります。本日は、この箇所を読み進めつつ、そのような体験を共に味わっていきたいと思います。難しい箇所を読むときには、前後の文脈の中で読むことと、ほかの聖書箇所を手がかりにして読むことが大切です。そこでまず、これまで読み進めてきた部分を振り返りつつ、その文脈の中で本日の箇所に目を向けていきます。

神がキリストによって与えてくださっている救い
 3節の後半に「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」とあり、使徒ペトロは迫害下にある小アジアのキリスト者たちに「生き生きとした希望」が与えられていると告げていました。迫害の中にあって、小アジアのキリスト者たちの目に見える現実は、希望を持てるようなものではありませんでした。いつ迫害が終わるか分からない先行きの見えない日々の中で、彼らは大きな不安と恐れを抱え、自分の力や努力によって希望を持つことなどできませんでした。しかしそれにもかかわらず、キリストの十字架と復活によって救われた彼らには、彼らの内側からではなく外側から、つまり神から終わりの日の復活と永遠の命の「生き生きとした希望」が与えられていたのです。6節に「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです」とあったように、この「生き生きとした希望」は、彼らに「心からの喜び」を起こしました。彼らの目を将来の救いの完成に向けさせることによって、迫害の現実の中にあっても「心からの喜び」を与えられて歩むことができたのです。その歩みは、8節にあるように「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれて」いる歩みにほかならなかったのです。
 3-8節を簡単に振り返りましたが、前回お話ししたように、この箇所は神がキリストによって私たちに何をしてくださったかを見つめています。神はキリストの十字架と復活によって、私たちに「生き生きとした希望」を与え、その希望によって終わりの日の喜びを、今を生きる私たちに起こしてくださっています。キリストは私たちを愛し続けてくださり、その愛にとらえられた私たちが目に見えないキリストを愛し、信じ続けられるようにしてくださっています。このことこそ、神がキリストによって私たちに与えてくださっている救いなのです。

旧約時代の預言者たち
 本日の箇所の10節冒頭にある「この救いについては」の「この救い」とは、3-8節で語られている「神がキリストによって私たちに与えてくださっている救い」にほかなりません。ですから10節では、ほかならぬこの救いについて、「あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探究し、注意深く調べました」と言われているのです。唐突に感じますが、ここで「預言者」が登場します。そして本日の箇所の大部分において「預言者」について語られているのです。「預言者たち」とは、旧約聖書の預言者たちのことです。それは必ずしもイザヤ書、エレミヤ書のように預言書の名前になっている預言者に限られません。旧約の時代に神の言葉を預かり語った者たちのことを「預言者」と呼んでいるのです。
 この手紙はこれまで将来に目を向けてきました。将来、終わりの日に救いが完成し、私たちキリスト者が復活と永遠の命に与ることに目を向けることによって、今、困難の中にあっても、私たちが希望と喜びを持って歩むことができる、と語られていたのです。しかしここでは将来ではなく過去へと目が向けられています。過去の旧約の時代の預言者たちに目を向けることによって、その預言者たちと今を生きるキリスト者との関係が見つめられているのです。預言者たちは、「この救い」について、つまり神がキリストによって私たちに与えてくださっている救いについて探究し、注意深く調べた、と言われています。それは、すでに旧約の預言者たちが、今、私たちが与っている救いについて知っていたということです。すべてを知っていたわけではありません。部分的に知っていたのです。だから彼らは「この救い」についてさらに探究し、注意深く調べようとしたのです。

預言者たちの内におられるキリストの霊
 預言者たちはどのようにして「この救い」について、部分的であったとしても知ることができたのでしょうか。11節の前半に「預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際」とあります。つまり預言者たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ彼らに証しした、と言われているのです。なぜ旧約の預言者たちの内に「キリストの霊」がおられる、と言われているのでしょうか。御子キリストはクリスマスに母マリアから人としてお生まれになりました。ですから旧約の時代には、当然、キリストはお生まれになっていたわけではありません。しかしそれは、クリスマスより前には御子キリストが存在しなかったということではないのです。最初に、難しい箇所を読むときは、ほかの聖書箇所を手がかりにして読むことが大切だと申しました。ここでもクリスマスより前に御子キリストが存在していた、と語っている聖書箇所を見ておきます。コロサイの信徒への手紙1章15-17節をお読みします。「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」。御子キリストは「すべてのものが造られる前に生まれた方」と言われています。つまり御子キリストは天地創造より前に父なる神から生まれた方なのです。別の言い方をすれば、御子キリストは天地創造より前から存在するということです。しかもただ存在しているだけではありません。「万物は御子によって、御子のために造られました」とあるように、天地創造のみ業は父なる神のみ業であるだけでなく御子のみ業でもあります。創造の初めから御子キリストは存在し働かれていたのです。そうであるならば旧約の預言者たちの内に、創造の前から存在している「キリストの霊」がおられても不思議ではありません。そしてただおられるだけでなく、「キリストの霊」は預言者たちに働きかけ、「キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた」のです。

キリストの苦難と栄光を指し示す
 キリストの霊によって「キリストの苦難とそれに続く栄光」を知らされた預言者たちは、神から預かった言葉としてこのことを語りました。たとえば預言者イザヤは、共に読まれた旧約聖書イザヤ書53章12節の後半で「彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった」と預言しています。11-12節は、いわゆる「苦難の僕」についての預言の一部です。主の僕が、自分自身をなげうって死に、罪人の一人になることによって、多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしてくださる、と言われています。神に背いた者たちとは罪人のことであり、神との良い関係を失ってしまった者たちのことです。しかしこの主の僕が、苦難を受けて死ぬことによって、神と罪人との失われた関係を回復させてくださる、と言われているのです。預言者イザヤは「キリストの霊」の働きによって、神から知らされた「キリストの苦難と栄光」についての預言を語りました。もちろんそれは、私たちと同じようにイザヤが主イエス・キリストを知っていたということではありません。イザヤの預言では、「主の僕」と言われているだけで、主イエス・キリストとは言われていないのです。しかしイザヤの預言は、確かに主イエス・キリストを指し示し、とりわけその苦難と死を指し示していたのです。

いつ、いかなる時に救いは明らかになるのか
 改めて11節全体に目を向けます。長い文章ですが、その骨格となる部分だけを取り出すと「預言者たちは…それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです」となります。この「それが」というのがなにを指しているのかよく分かりませんが、10節冒頭の「この救い」と考えるのが良いように思います。そうであるならば、預言者たちは「この救い」について、「だれを、あるいは、どの時期を指すのか調べた」と言われていることになります。「だれを、あるいは、どの時期を」とありますが、聖書協会共同訳では「いつ、いかなる時を」と訳されています。文法的には「だれ」とも訳せるし「いつ」とも訳せます。しかし私は、聖書協会共同訳のように「いつ」と訳すのが良いと思います。なぜなら使徒ペトロが本日の箇所で見つめているのは、「時」だからです。「時代」と言い換えても良いかもしれません。3-9節までは、将来の救いの完成の時に目が向けられていました。そして本日の箇所では、旧約の預言者の時代に目が向けられています。そうであるなら預言者たちが調べていたのは、いつ救いが明らかにされるのかであったのではないでしょうか。彼らはキリストの霊があらかじめ証しした「キリストの苦難と栄光」による救いが、「いつ、いかなる時」に明らかになるのかを調べていたのです。
 いつ、いかなる時に、救いが明らかになるのかという問いは、旧約聖書の色々な箇所で語られています。たとえば、終わりの時における救いの幻を見たダニエルは「主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか」(ダニエル書12:8)と尋ねますが、「ダニエルよ、もう行きなさい。終わりの時までこれらの事は秘められ、封じられている」という答えを聞きました。またハバクク書2章3節では「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」と預言されていて、「救いは必ず来る、遅れることはない」と言われています。どちらも将来の救いが約束されています。しかしその救いが、いつ、いかなる時に明らかになるのかは隠されているのです。ダニエルは「終わりの時までこれらの事は秘められ、封じられている」と言われました。ハバククも「必ず来る、遅れることはない」と告げていますが、その救いがいつ、いかなる時に来るのかは告げていないのです。

キリストの十字架と復活において明らかになる
 12節前半にはこのようにあります。「彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受けました」。最初にお話ししたように、この「それらのこと」というのがなにを指しているのか分かりにくいのですが、おそらく預言者たちが「だれを、あるいは、どの時期を指すのか調べた」ことを指しているのだと思います。つまり預言者たちは、いつ、いかなる時に救いが明らかになるのか調べたけれど、それが「自分たちのためではなく、あなたがたのためである」という啓示を受けた、と言われているのです。「自分たちのためではなく」とは、先ほどの11節後半を踏まえれば、預言者たちは約束された救いを待ち望み調べていたけれど、その救いは彼らには隠されたままであるということです。それに対して「あなたがたのためである」とは、あなたがたには、つまり小アジアのキリスト者には、また私たちには、その救いが明らかにされるということなのです。救いは旧約の預言者たちには隠されていたけれど、私たちには明らかにされているのです。
 だから続けて、「それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており」と言われています。「天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たち」とは、聖霊の導きによって小アジアの諸教会に福音を宣べ伝えた人たちのことです。その彼らが、かつて預言者たちには明らかにされなかった救いを、今、小アジアのキリスト者たちに告げ知らせている、と言われているのです。福音を宣べ伝えるとは、いつ、いかなる時に救いが明らかにされたかを告げ知らせることと切り離すことはできません。いつ、いかなる時に救いが明らかになったのでしょうか。主イエス・キリストが十字架に架けられて死なれたときです。その主イエス・キリストが死者の中から復活させられたときです。キリストの苦難と栄光は旧約の預言者たちに示されましたが、その苦難と栄光によって、いつ、いかなる時に救いが明らかになるのかは、なお隠されていました。しかし今や、明らかになったのです。キリストの苦難とは、キリストの十字架の苦しみと死にほかなりません。キリストの栄光とは、神がキリストを死者の中から復活させて、栄光をお与えになったことにほかならないのです。

救いが明らかになった時代に生きている
 このように神がキリストによって私たちに与えてくださっている救いは、旧約聖書と切り離されてはいません。旧約の預言者たちは、この救いを部分的に知っていたし、キリストの苦難と栄光を知らされ、指し示したのです。しかし預言者たちには、この救いが完全に明らかになることはありませんでした。いえ、預言者だけではありません。12節の終わりに「天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです」とあります。つまりこの救いは預言者だけでなく天使にも隠されていたのです。しかし今や、小アジアのキリスト者には、そして私たちには、旧約の預言者たちにも天使にすらも隠されている救いが明らかになっています。主イエスはこのことをマタイによる福音書13章17節でこのように言っています。「多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」。確かに旧約の預言者たちの預言の先に私たちの救いがあります。しかし旧約の預言者たちの時代と、小アジアのキリスト者や私たちの時代は決定的に異なるのです。小アジアのキリスト者や私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活によって神の救いが明らかになった時代に生きています。神の愛が明らかになった時代に生きている。そのように言うこともできます。私たちは預言者が切望しつつも見ることができなかった時代を生きているのです。それは私たちが誇ることではありません。自分たちが旧約の時代の人たちよりも優れているということではまったくありません。私たちは自分自身の能力や功績によってではなく、ただ神の計り知ることのできない救いのご計画の中で、神の一方的な恵みによって、キリストの十字架と復活によって始まった新しい時代に生かされているのです。

救いが明らかになった時代であり続けている
 私たちが生きている今は、どんな時代でしょうか。ポストモダンの時代でしょうか。ICT(情報通信技術)の時代でしょうか。もうメタバースの時代が始まっているのでしょうか。どれも私たちが生きている時代の一面を表していると思います。しかしこれらは、私たちにとって決定的な意味を持っていません。私たちにとって決定的なのは、私たちがキリストの十字架と復活によって始まった神の恵みによる支配の時代に生きているということです。すでに救いが実現した時代に生きていることこそが決定的なのです。この手紙の宛先である小アジアのキリスト者と私たちとの違いはたくさんあります。しかし同じこともあるのです。変わらないこともあるのです。それは、彼らも私たちもキリストによる救いが実現した時代に生きている、ということです。普通に考えれば、彼らと私たちは別の時代に生きている、と言ったほうが良い。しかし本日の箇所で見てきたように、救いが隠されていた時代と、救いが明らかになった時代という分け方で歴史を見るならば、彼らと私たちは同じ時代に生きているのであり、このことこそが私たちにとって決定的に大切なのです。世の中はどんどん変化していきます。特にこの数十年の変化は驚くべきものがあります。しかし世の中がどれほど変化しても、あのキリストの十字架と復活以後、この世界はキリストによる救いが明らかになった時代であり続けています。神の恵みによる支配の時代であり続けているのです。だから私たちは世の中の変化を恐れる必要はありません。救いが実現した時代に根ざして生きているからこそ、私たちは世の中の変化に柔軟に対応していくことができるのです。

目に見えない救いの実現した時代を見つめる
 私たちの目には、今、この世界が救いの実現した時代、神の恵みの支配の下にある時代であるようには見えません。むしろ混沌とした時代、不安と恐れに満ちた時代、問題だらけの時代に見えます。しかし私たちはそのような目に見える時代だけでなく、目に見えない時代をこそ見つめたいのです。目に見えないキリストを信じ、愛するように、目に見えない救いの実現した時代を見つめます。そのとき私たちは生き生きとした希望を与えられ、言葉で言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れるのです。目に見える時代にばかりとらわれてしまう私たちに、神は主の日ごとの礼拝で、すでにキリストによる救いが明らかになった時代に私たちが生かされていることを告げてくださり、生き生きとした希望を与えてくださり、言葉で言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れさせてくださるのです。

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