夕礼拝

神に願う

「神に願う」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編 第27編1-14節
・ 新約聖書:ヨハネの手紙一 第5章13-17節  
・ 讃美歌:532、474

 今日与えられました御言葉の14節で、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」。そして15節で「わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」
 これをわたしたちが聞いた時に出てくる疑問は二つあります。一つは、本当に自分の願い事を神様はなんでも聞き入れてくださるのだろうか?という問い、もう一つは神様の御心とは一体何なのだろうか?という問いです。
まず、最初の問いに対して、聖書からその答えを聞いていきたいと思います。15節で「わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」これと同じことが福音書の中で何度も告げられていることをわたしたちは知っています。例えば、マルコによる福音書11章24節「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」マタイによる福音書7章7節「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」あるいは、ヨハネによる福音書14章13~14節「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」、15章7節「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」、16章23節「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。」この他にも、ヨハネの手紙一の14節15節と類似している箇所はたくさん存在します。この手紙と福音書で語られることの違いは、福音書ではイエス様が直接語った言葉であるという点です。このイエス様は、神様に願うこと、すなわち神様に祈ることはなんでも、かなえてくださるということを言っています。このことを、言葉通りに受け取ってしまうと、なんだか神様ってわたしたちの願いをなんでもかなえてくれるランプの魔人のような方なのかと、思ってしまいます。金持ちになって悠々自適に暮らしたいので、お金をください。病気にかからないように、健康にしてください。世界に評価されるような人に変えてください。そのような自分の願い、このような願いは言葉を変えると欲ですね、自分の欲を神様に願えばそれをかなえてくれるのかと、というとそうではありません。信仰者であるものは、経験上知っていると思います。そのような、欲に似た願いを神様に祈った経験のある人はここにもいると思います。わたしも、小学生の時に、寝る前に神様に本気で、「ドラえもんの4次元ポケットをわたしにください」という 祈りを良くしていたことを覚えています。これは現実離れしすぎている事柄ですし、もちろんそのような願いはかなえられておりません。まだドラえもんと友達にならせてくださいならば可愛げがあるのですが、ポケットだけくださいというところが、如何に自分の欲ばかり祈っていた都合の良い祈りだったかということがわかります。神様は一体このお祈りに毎晩聞かされて、どのようにお思いになっていたのだろうかと、今は思います。青年期になっても、わたしに関しましては、あの子が振り向いてくれるようにしてくださいとか、成績がよくなりますようにとか、自分のことばかり祈っていたことを覚えています。今思えば、その当時は、自分は女の子であればそのことに、勉強がうまくいかなければそのことばかりに夢中であり、自分に関係する事柄にしか興味がなかったので、自分の思いをかなえて欲しいとしか祈らなかったのだと思います。
今日与えられました御言葉では、神様はなんでも聞き入れてくださると書いてありますが、そこに条件が負荷されています。その条件とはその願いが「神様の御心に適うこと」であることです。自分の欲だけでそれが神様の御心でなければ、願いは神様に聞き入れられることはないでしょう。しかし、逆を言えば、自分のことしか考えていなくて祈っても、それが神様の御心であるならば、その願い聞き入れられるということをも示しています。
 では神様の御心とは一体何なのだろうか?という問いがわたしたちの一番気になることになってくると思います。神様の御心は、なんなのか。じつは、神様が具体的に何をご計画されているのか、どのように人をお導きになるのかは、神様がわたしたちに明日なにをなさるのかということはわたしたちにはわかりません。そのような神様のご計画はわたしたちにはわかりません。こう「わかりません、わかりません」と言われると、わたしたちは、「神様の御心なんて分かるはずないから、どんな祈りが聞き入れられて、どんな祈りが聞き入れられないのかはわたしたちにはわかりません。わからないのであれば祈る意味なんてあるの」という心がでてきます。わたしたちは神様のお考えになっている、具体的なご計画はわかりません。しかし、わたしたちは、そういう神様のお考えになっていることを知らなければ、祈ることはできないのでしょうか。わたしたちが、祈る前にそれが神様の御心に適っているか、適っていないかを判断してそれが神様の御心であると確信してしか祈れないのであれば、わたしたちは祈るということはとても困難となるでしょう。それでも、信仰者が神様に祈ることができるのは、神様がわたしたちに対して、その御心の中で、わたしたちにとって一番良いものを、一番良い時に、一番良い方法で与えようとお考えになっているということを知っているからです。それは、ルカによる福音書の11章の11節以下に書いてあります。「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。」「また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。」「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」ここには、わたしたちが、祈り求めるときに、父なる神様は子どもたちであるわたしたちの、その求めた事柄に対して、悪いものではなく、最良なものを与えて下さるということの約束が書かれています。
 いつ、何を、どのように与えてくださるかは、神様のご計画の中にあります。わたしたちは神様を信頼し、神様の御心に委ねることで祈ることで、神様のご計画がなんであるかわからなくても祈ることが出来るのです。
 また15節に「わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」とあります。いつ、何を、どのように与えてくださるかは分かりませんけれど、わたしたちが祈った時、神様は必ずこれを聞いてくださっているのです。そして、聞いてくださったのならば、御心の中でそれに対しての対応、解決の道をお定めくださっているのです。ですから、わたしたちが祈ったのなら、その事柄は既に神様の御心の中では、最良の答えが出ており、わたしたちの目の前では、それが解決していなくても、神様の中では解決しているのです。このことをわたしたちは信じます。確かに、いつ、何が、どのようになるのかは分かりません。しかし、神様の中では、もう決まっていて、そしてそれは、わたしたちの思いを超えた、一番良い結果となるようになっています。ですから、わたしたちが心のそこからの祈りを神様に捧げたのならば、その事柄はもう終わっているのです。確かに、現実は少しも変わらないかもしれません。しかし、もう神様の御前に出したのですから、神様がその祈りに誠実に応えて下さることを信じるのです。「既に与えられている」と信じて祈る。これが、今日の15節で「既にかなえられている」と言われていることです。既にかなえられていると信じる祈りとは、「神様への信頼」と「わたしたちの祈り」が一つになるということです。
 それでも、「そうは言っても」と言いたくなることもわかります。わたしたちの信仰はまことにあやふやなものになりがちですので、この「そうは言っても」という所が実際にあり、その悩みは解消されていないと思います。そのようであるならば、その時こそ、祈る必要があります。「神様を信頼して祈ることができるように」と祈ることが始まりです。その祈りから、必ずこの「既に与えられている」という確信へと導かれていくからです。それは、祈り続けていく中で御言葉が与えられて、「ああ、そうだ。」となることもあるでしょうし、あるいは、なにかの出来事に出会って、「ああ、そうだ。」となることもあるでしょう。そのプロセスは様々でが、必ず「既に与えられている」という確信へと、神様の中では既に解決済みであるということが納得出来る全き平安へと、導かれるでしょう。もちろん、生きている限りは祈りの課題は尽きませんから、一つが「ああ、そうか。」と思っても、次にはまた別の課題に直面するということになるでしょう。しかしその時に、その時の祈りをしましょう。
 なぜわたしたちの拙い祈りが神様に受け入れてもらえるのかといえば、それは、イエス様が父なる神様のそばで、わたしたちの祈りを聞いて、執り成してくださっているからです。わたしたちの祈りの言葉が足りていなくても、時に見当違いの祈りをしてしまっていても、イエス様の御名を通して頼ってお祈りをするならば、父なる神様の御心をすべて知っておられるイエス様がわたしたちに本当に必要なことやものや出来事が与えられるように、父なる神に代わりにお願いしてくださっているからです。イエス様に頼って、イエス様が父なる神様の御心にあった願いをわたしたちのためにしてくださっていることをわたしたちが知る時、その時わたしたちは、自己中心的な自分のためのお祈りをやめています。その時、神様のみ心が成るように、ということを願う祈りとなっているのです。それでも、わたしたちは、最初はやはり自分のことを多く祈ってしまうでしょう。しかし、それで、「祈ることもできない、祈れば自分のことばかり、そんな自分はだめだぁ」と自分を裁く必要はありません。その自分のことばかりを見て自分のことばかり祈るお祈りをイエス様が聞いて、そのように自分のことばかり見てしまい自分のことしか祈れない「わたし」に、そのわたしに本当に必要なものをイエス様が神様に伝えてくださります。父なる神様はその祈りに応えて、わたしたちに必要なものを、一番良い時に、一番良い方法で、聖霊をわたしたちがの内に送って下さり、与えてくださります。
 この手紙は14節に最初に「神の子の名を信じているあなたがたに」と書かれているように、神様の子であるイエス様を信じている信仰者に向けて書かれた手紙です。この信仰者たちの中で、洗礼を受け、信仰を告白しても、自分はまだまだ「神様にゆるされていないんじゃないか、救われる存在じゃないんじゃないか」と思う人がどうやらいたようです。わたしたちも同じようにそのようなことを思う時があると思います。洗礼を受け、信仰を告白したけれども、自分は相変わらず罪を犯すし、決して自分のことが潔い存在であるなんて言えないなぁと考えている人が多くいると思います。16節に「死に至る罪」と「死に至らない罪」のことが書かれています。ここを読んで、死に至る罪があると言われると、「ああ、自分は死に至る罪を犯しているかもしれない。いや、何が死に至らない罪で、何が死に至る罪なのかわからないから怖い」というふうに感じます。死に至る罪がどういうような具体的な行いをすることなのかということを、はっきりと書いている聖書箇所はありません。しかし、ゆるされない罪ということが福音書にかかれています。聖霊を冒涜する者はゆるされないということが書かれている部分があります。そこには人の子、つまりイエス様の悪口を言うものはゆるされるがというこが書かれています。イエス様は罵倒されて十字架にお掛かりになり、苦しんだこと、そのために背負ったあらゆる罪はゆるされるとおっしゃっています。しかしそのことを聖霊が証ししてくださり、聖霊が証ししてくださるということは、その救いについて完全に知らされており、自覚している状態です。わたしたちはまだ発展途上であるので、完全にイエス様のことも、神様の御業もわかりません。しかし終わりの時、終末の時、わたしたちがイエス様と顔と顔あわせることができるほどに、わたしたちもイエス様を知ることが出来るそのような、本当に新たな存在になるその終わりの時に、そして聖霊なる神様の働きを侮辱するかのごとく、イエス様を目の前にしても、あなたの救いはインチキであると、信じないというのであれば、それはイエス様に出会ったけれども、最後にイエス様とつながることができず、命に与ることができず死に至るということでありましょう。救いを信じているものは、その時どきで、イエス様を見ることができなくなる様なことがあったりと、自分ばかりみることがありますが、それは執り成しの祈りによって、イエス様にゆるされているということです。その執り成しの祈りは、隣の友人であり、その祈りを聞いて下さるイエス様であるでしょう。
 信仰を与えられたばかりの頃は、自分のことで精一杯というのが正直なところかもしれません。いわゆる「お願い」が、祈りのすべてとなっていることでしょう。しかし、わたしたちの信仰は聖霊なる神様によって成長させられていきます。その中で、神様が求めていることと自分が願うことが重なってくる、そういうことが起きてくるのです。14節に、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら」と言われていることです。それは、イエス様が与えてくださった「主の祈り」にあるように、御名があがめられること、御国が来ること、御心が天になるごとく地にもなること、そのように祈る者になっていくということです。具体的に申しますと、自分以外の者のために、その人たちの救いのために祈るようになっていくのです。執りなしの祈りが、自分のための祈りよりも大きくなっていくのです。このことは、16節で「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。」と言われていることです。

 わたしたちは、神様の御心が一体何かわからないけれども、イエス様に頼ってお祈りすることが大事であると聞いてきましたが、じつはわたしたちは神様の御心がすべてわからないというわけではありません。なぜならば、神様ご自身がその御心を、わたしたちに知らせてくださっているからです。この聖書をとおして、このヨハネの手紙を通して、この説教を通しても、神様はご自身の御心を知らせてくださっています。では、示されている神様の御心を振り返ってみましょう。
 わたしたちはヨハネの手紙一を一章から聞いてきましたが、この手紙において、神様がわたしたちに伝えたいメッセージが首尾一貫して示されています。それは、この手紙の冒頭と、今日与えられました御言葉、5章13節に書かれています。神様は信仰者対して、「あなたがたには永遠の命を既に与えた。」ということをおっしゃっているということです。これがヨハネの手紙一で貫き通されているメッセージです。またこのヨハネの手紙一は信仰者に対して書かれた手紙ですが、ヨハネによる福音書では、ヨハネによる福音書の20章31節で、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」とこの福音書の目的は、まだ信仰者でない人に神様は「永遠の命を与えたい」とお考えになっているという御心が示されています。ヨハネによる福音書は、イエス様を未だ知らず、信じていない人のために書かれ、ヨハネの手紙一は、既にイエス様を信じた人のために書かれたのです。つまり、信じていない人は、信じることによって命を受けるためであり、信じている人は、永遠の命を得ていることを悟るためだだと神様はお考えになっているということです。
 いずれにせよ、命、信仰によって与えられる永遠の命を与えたいもしくは与えたということが神様の御心であれば、神様の御心に適った願いというのは、何よりもこの命、イエス様を信じることによって与えられる永遠の命を求める祈りということになるのでしょう。これは、罪の赦し、体のよみがえり、神様の救いを信じ、願い求める祈りでしょう。信仰者は、既にこの救いに与っているのです。この命を、わたしたちは「既に与えられている」と信じて願い、祈るのです。そして、信仰者はこの命が、あの人にもこの人にも与えられるようにと願い、祈るのです。この祈りをささげる時、わたしたちの心は神様の御心と一つにされているのです。何故なら神様は、わたしたちが祈るその人もまた、イエス様を信じて救われることを求めておられるからです。ですから、この祈りは、必ず聞き届けられると信じることができる。わたしたちは、家族の救いを願い求めています。その祈りが、神様を全く信頼してのものであるならば、「既に与えられている」と信じて良い。もし、「そうは言っても」との思いが残るのなら、もっと祈り続けていきましょう。神様は、そのような祈りを既に御心の中で聞き届け、解決してくださっています。

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