主日礼拝

本当に恐れるべき方

「本当に恐れるべき方」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:箴言 第24章21-22節
・ 新約聖書:ローマの信徒へ手紙 第13章1-7節
・ 讃美歌:57、289、517

上に立つ権威に従う
 先週に引き続き、ローマの信徒への手紙の13章1-7節よりみ言葉に聞きたいと思います。先週申しましたように、この箇所には、権力をもって人々を支配している力、パウロがこの手紙を書いた当時はローマ帝国でしたが、その国家権力とどのように向き合ったらよいか、ということが語られています。現在の私たちの国においては、主権者は私たち国民であり、その国民の選挙によって選ばれた国会が立法権を持ち、そこで立てられた内閣が官僚機構を通して行政権を行使し、それとは独立して裁判所が司法権を行使する、という仕方で国が運営されています。つまり国家権力は国民の信託によって立てられているわけです。立てられ方はそのように様々であっても、国家権力が力をもって国民を支配していることには変わりはありません。およそ国というものが存在する以上、国家権力の行使は不可欠です。その国家権力に対して、信仰者はどのように向き合い、どのような態度を取るべきか、それは私たちにとってとても大きな問題です。そして先週見ましたように、パウロがここで基本的に語っているのは、国家権力を神によって立てられたものと認め、それに従いなさい、ということです。しかしそれは先週も申しましたように、国家権力への絶対服従を教えているのではありません。国家権力が神によって立てられたものだと彼が言っているのは、神が国家権力をも支配しておられることを示すためです。信仰者は、その神のご支配、神の権威に従うのです。そのことの中に、国家の秩序を認め、尊重し、その権威を行使している者に従うことも位置づけられているのです。だから私たちは無批判に国家に服従するのではありません。神にこそ従って生きるために、場合によっては国家を批判し、不服従に生きることもあり得るし、そうしなければならないこともあるのです。それによって迫害を受けるかもしれません。パウロも迫害によって殉教の死を遂げたのです。しかし時として信仰者を迫害し、殺す国家権力も、根本的には神のご支配の下にあるのだ、ということをパウロはここで語っているのです。

偽りのない愛に生きるために
 以上のことを先週確認したわけですが、それとは別に、この箇所を読む時に見失ってはならない大切なことがあります。それは前後の箇所との繋がりです。パウロは、国家権力を信仰においてどのように受け止めるべきかという問題を、それだけ独立させて論じてはいないのです。13章1節以下は、12章9節以下の流れの中にあります。12章9節以下には、キリスト信者の生活はどのようなものであるべきか、あるいはどのようなものであることができるのか、が語られています。その根本は「愛に生きる」ということです。12章9節は「愛には偽りがあってはなりません」と始まっています。その「偽りのない愛」に生きるとは具体的にどういうことかがその後のところに様々な仕方で語られているのです。愛に生きるのは、信仰の仲間たち、教会の兄弟姉妹の間だけにおいてではありません。14節には「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい」と教えられています。17節にも「悪に対して悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」とあります。19節には「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」ともあります。これらは、様々な対立や軋轢のあるこの世の具体的な生活の中で、隣人と共に生きるための教えです。その教えの一環として、「上に立つ権威」つまり国家権力とどう向き合うかも取り上げられているのです。だからこの後の13章8節以下は、12章9節以降の一連の教えを総括するように「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」と続いていくのです。「上に立つ権威」についての教えはこのように、偽りのない愛をもって隣人を愛することの中に位置づけられているのです。

まことの隣人となる
 このことが本日の箇所を読む上での大事な前提です。キリスト信者として国家や国家権力と向き合う時に、私たちはそこに隣人を見つめなければならないのです。仲の良い友人や気の合う仲間だけが隣人なのではありません。隣人とは、神が自分の隣に、共に生きるべき者として置かれた全ての人々です。その中には、自分にとって好ましく思えない人もいるし、自分に悪を行い、敵対する人もいるのです。しかし主イエスはまさにそのような敵対する者の隣人となることを教えられました。それが、ルカによる福音書第10章にあるあの「良いサマリア人」の話です。あの話において主イエスは、「私が愛するべき隣人とは誰ですか」と問うた人に対して、「誰が隣人かと考えるのではなくて、出会う人の隣人になりなさい」とお教えになったのです。国家権力を握っている支配者に対するあり方においても、それと同じことが求められているのです。国家権力は私たち信仰者に対して必ずしも親切であるわけではありません。むしろ迫害し、命を奪うようなことも多々あるのです。しかしそのような場面において私たちは、国家の、支配者たちの、隣人となること、迫害する者を呪うのではなくてかえって彼らのために祝福を祈ること、復讐の思いを捨てて、国家をもみ手の内に支配しておられる神に全てをお任せして、敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませること、それが主イエス・キリストを信じる者の国家権力に対する向き合い方なのです。それは権力に対する卑屈な服従とは全く違います。本当に隣人になるとは、相手の人格を尊重しつつ、言うべきことを言い、批判すべきことを批判することです。迫害する者のために祝福を祈り、悪に悪を返さず善を行い、自分で復讐せずに神の怒りに任せることは、悪を見過ごしにしてただ我慢することではなくて、むしろ12章の最後にあったように「悪に負けることなく、善をもって悪に勝つ」ということです。善によって悪の力を無力化し、善の勝利を目指すことです。それが、あの良いサマリア人のしたことでした。強盗に襲われて傷つき倒れていたのはユダヤ人です。ユダヤ人の心には、サマリア人への軽蔑や敵意があり、こんな連中と付き合うのはまっぴらだという気持ちがあるのです。あのサマリア人はそのようなユダヤ人を介抱し、世話をすることを通して、彼の中にある悪意に善をもって打ち勝ち、隣人としての交わりを築こうとしたのです。それと同じことを主イエスはご自分を裁く国家権力に対してなさいました。先週も読みましたが、ヨハネ福音書19章8節以下において、自分を裁き死刑にすることができる権力を握っているローマ帝国の総督ピラトの前で主イエスは、「ローマの権力によるあなたの裁きなど認めない」と言ったのではなくて、「あなたが私を裁いているその権力も、神が与えたものであって、神の許しなしにはあなたは私に何をすることもできないのだ」と宣言なさり、その上でピラトの裁きにご自分を委ねたのです。主イエスは、ローマの権力によるピラトの裁きを否定したのではなく、しかしその権力におもねって命を助かろうとしたのでもなく、むしろ、あなたは神によって与えられている権力をどのように用いるのか、と問い掛けたのです。それは主イエスがピラトの前に、まことの隣人として立たれたということです。

隣人となることを放棄せずに
 国家権力とどう向き合い、関わるかという時に、このように、隣人となること、隣人として愛することを土台として考え、行うことが大切です。そのことは私たちのように、基本的にキリスト教と無関係な社会、ともすれば私たちが信仰をもって生きることを妨げ、迫害するような社会に生きる者においてはとりわけ重要です。先週も申しましたように、戦前のキリスト信者は「天皇とキリストと、どちらが偉いのか」という踏み絵の前に立たされたのです。そのような記憶が残るこの社会において私たちは、国家権力が教会に敵対してくることへの警戒や懸念を常に抱いています。その中で、一方では、国家や政治のことから一切手を引いて、内面的な信仰に逃げ込み、そこで平安を得ようとする生き方が生まれます。また他方では、国家や権力を敵視して、それらを全て悪と決めつけ、国家のすることには何でも反対を叫ぶ、という生き方も出てきます。しかしそれはどちらも同じ過ちに陥っています。国家や権力のことを、あるいはその下で共に生きている人々のことを、隣人として愛そうとしていない、という過ちです。国家も、その権力を握っている人々も、そしてキリストへの信仰とは無縁に生きているこの社会の多くの人々も、皆私たちが共に生きるべき隣人なのです。神は私たちが彼らの隣人となることを求めておられるのです。自分の内面的な平安に逃げ込むことも、国家や権力を悪と決めつけることも、隣人となることの放棄です。私たちは、キリストへの信仰と無縁の、むしろそれに敵対する傾向のある社会の一員であるからこそ、本当の意味で国家の、またそこに生きる人々の隣人となり、愛に生きる努力をしなければならないのです。つまり、迫害する者のために祝福を祈り、善をもって悪に打ち勝っていくことをこそ目指していくべきなのです。

迫害を受けないためにではなく
 けれどもそこで誤解してはならないことがあります。それは、このように国家の、またそこに生きる人々の隣人となるならば、私たちのその善意が必ず悪を打ち破って勝利する、国家や周囲の人々の理解を得ることができて、良い交わりがそこに生まれる、ということが保証されているわけではない、ということです。祝福を祈れば迫害が止むわけではないし、悪に悪を返さず善を行えば悪が行われなくなるとは限らないのです。つまり私たちが国家の、また人々の隣人となるのは、迫害を受けないで済むための、人々に嫌われないで済むための自己防衛の手段ではない、ということを私たちは弁えておかなければなりません。隣人になるのは、自分の身を守るためではありません。あの「良いサマリア人」も、ユダヤ人に良く思われるために、差別されなくなるためにあのようなことをしたのではありません。あのたとえ話は、彼が傷ついたユダヤ人を介抱し、親切に世話をした、ということで終わっていて、その後そのユダヤ人が彼に対してどうしたかは語っていません。そのことを想像してみるのも面白いと思います。私たちは普通、あのように親切にされたユダヤ人は、サマリア人に心から感謝し、もはやサマリア人への軽蔑や敵対の思いは捨てて、良い関係を結ぶようになったというのが当然あるべき結末だと思います。でもそうとは限りません。回復したユダヤ人が、「サマリア人の世話になどなりたくなかった」と恩を仇で返すようなことを言うことだってあり得ます。あるいは、内心では助けてくれたサマリア人に感謝しながらも、仲間のユダヤ人たちの手前、やはりサマリア人を軽蔑するような態度を取り続けるということは大いにあり得るのです。つまり、自分が隣人になれば、相手も隣人になってくれるとは限らないのです。それでも、隣人となり続けなさい、と主イエスはあの「良いサマリア人」の話で教えておられるのです。主イエスの場合ですらそうでした。主イエスは先程申しましたようにローマの権威によるピラトの裁きを否定したわけではなく、ピラトの隣人となり、その裁きに身を委ねたのです。その結果ピラトが下した判決は、ユダヤ人たちのご機嫌を取るために主イエスを十字架につけて殺す、ということだったのです。

あなたに益を与えるための神の僕
 私たちが、国家やこの世の人々の隣人となろうとしても、そこに起る結果はやはり迫害であるかもしれません。国家権力は、私たちの善意や、善をもって悪に勝とうとする思いを嘲笑うようにますます激しく教会を圧迫してくるかもしれません。教会の歴史において、事実そのようにして多くの人々が投獄され、殺されたのです。そのような現実の中で、私たちがなお、上にある権威を尊重し、国家に対しても人々に対しても隣人となり続けていくことはいかにして可能なのでしょうか。それは先週も申しましたように、上に立つ権威、国家権力が、主イエスの父である神のご支配の下にあり、神のみ心によらなければ私たちに対して何の力もないことを信じる信仰によってのみ可能なことでしょう。国家権力が何をしようとも、その全ては主なる神のみ手の内にあるのです。このことについて4節に注目したいと思います。「権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです」とあります。ここは以前の口語訳聖書では「彼は、あなたに益を与えるための神の僕なのである」となっていました。むしろこのように訳した方がよいのではないかと思います。「善を行わせるために」と訳すと、国家権力が、悪を罰し善を奨励することによって人々に善を行わせようとしている、という意味になり、それは先週申しましたように国家のあるべき姿であるとは言えます。しかしここはそういう国家の理想のあり方を語っているのではなくて、国家はあなたに益を与えるために神に仕えている、と読む方がよいのではないでしょうか。その「益」という言葉の意味ですが、国家は治安を維持して人々の平和な暮らしを守り、他国の侵略を防ぎ、インフラを整備し、産業を起し、という仕方で国民に益を与える、ということが言えます。今日の民主主義における国家の存在意義はそこにあるわけで、国家権力はそのためにあると言うことができるのです。しかしパウロがここで語っているのは信仰に関わることであり、ここで「あなた」と言われているのは教会に連なるキリスト信者たちです。国家は信仰者たちに益を与えるために神に仕えているのです。その「益」とは何でしょうか。国家はむしろ信仰者に害を与えることがあり、パウロの時代はまさにそうでした。その国家が信仰者に益を与えるとはどういうことか。そこで思い起こされるのが、この手紙の第8章28節の言葉です。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」。神に召されてキリストによる救いにあずかり、神を愛して生きている信仰者たちには、万事が益となるように共に働く、この「益」が本日の箇所で「益」あるいは「善」と訳されているのと同じ言葉なのです。ということは、国家が信仰者に益を与える、とパウロが言う時、彼が考えているのは、この8章28節と同じことなのではないでしょうか。つまりそれは、良いことをしてくれる、保護や援助を与えてくれる、というようなことではないのではないか。「万事が益となる」の「万事」は、良いこと、喜ばしいことだけではありません。つらいこと、苦しいこと、悲しいこと、迫害を受けるとか、殺されてしまうとか、そういうことをも含めた全てのことが、しかし信仰者には「益」となる、神がご自分の救いのご計画の中でそれらのことをも用いて「益」を、救いのみ業を行って下さる、ということを8章28節は語っているのです。13章4節もそれと同じことを語っているのではないでしょうか。だとしたら、ここに語られているのは、国家権力がたとえどのように教会を迫害し、私たちを苦しめ、よしんば殺すことがあったとしても、そのことをも神はみ手の内に置いておられるのであって、その苦しみを通して私たちの救いのみ業を実現して下さる、ということです。その「益」はもはやこの世のものさしで測れるものではありません。神が、独り子主イエス・キリストの十字架の死と復活によって与えて下さる罪の赦しと永遠の命という益です。国家権力は私たちを迫害し、殺すかもしれないが、主イエスの父である神はその国家権力をもみ手の内に支配しておられ、私たちをキリストによる救いにあずからせるという益を与えて下さるのです。国家権力はこの神のみ業に仕えることしか出来ないのです。このことを信じるがゆえに、私たちは国家に対しても、また敵対し、迫害する人々に対しても、隣人となって生きることができます。隣人となり続けることが出来ます。つまり迫害する者のために祝福を祈り、悪に悪を返さずに善を行い、善によって悪に打ち勝っていく道を歩み続けることが出来るのです。

本当に恐れるべき方を恐れて生きる
 7節には「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」とあります。この後半の「恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」ですが、「恐るべき人」と「敬うべき人」はどう違うのでしょうか。「人」という言葉はどちらも原文にはありません。直訳すれば、「恐るべき存在を恐れ、敬うべき存在を敬いなさい」となります。その「恐るべき存在」とは神のことであり、「敬うべき存在」とは人間の支配者のことだと考えることができるのです。恐れるべき方である神を恐れ、敬うべき者である支配者を敬いなさい、と言っているということです。それにはいくつかの根拠があります。一つは、これに似た言葉がペトロの手紙一の第2章17節に、「神を畏れ、皇帝を敬いなさい」という教えがあることです。神を畏れ、の「畏れ」は今の翻訳では畏敬の畏が用いられていますが、原文の言葉は、本日の箇所の「恐るべき」の「恐れ」と同じです。神をおそれ、皇帝を敬うことが教えられているのです。だとしたら本日の7節も「恐るべき方である神を恐れ、敬うべき者である支配者、皇帝を敬いなさい、という意味ではないかと思われるのです。さらに、このペトロの手紙の言葉の元になっている旧約聖書の箇所が、本日共に読まれた箴言24章21節です。そこには「主を、そして王を、畏れよ」とあります。主なる神をおそれ、次に王を、支配者をおそれなさいと語られているのです。ここでは「おそれる」という言葉が主と王の両方に用いられていますが、ペトロの手紙では神に対してのみ「おそれる」が用いられ、皇帝に対しては「敬う」が用いられています。それは、おそれるべき相手は神のみであり、人間の支配者、国家権力は敬うべきものだ、という区別を意識してのことでしょう。これらの箇所を合わせて読むならば、パウロはここで、本当におそれるべき方である神を先ずおそれることを教えているのだと言えるでしょう。その「おそれる」には恐怖の恐と畏敬の畏の両方の漢字を当てることができます。私たちは、主イエスの父である神をまことの神として畏敬し、礼拝し、従うのです。それは同時に、この神をこそ恐れて生きることでもあります。私たちが本当に恐れなければならないのは、天地を造り、私たちに命を与え、それを取り去る方であり、この世の支配者、国家権力をも支配し、それを立てることも倒すこともおできになる神なのです。この神をこそ恐れることによって、私たちは地上の支配者、国家権力を恐れることから解放されます。本当に恐れるべき方である神が、その独り子イエス・キリストの十字架の死と復活による救いの恵みをもって私たちを支配し、私たちの人生の、またこの世の全てのことをみ手の内に置いて下さっているがゆえに、私たちはいろいろな苦しみや悲しみ、病や死、また迫害をも恐れずに、国家に対しても、また共に生きる人々に対しても、主イエスがそうなさったように、常に隣人となり、隣人として愛していくのです。

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