主日礼拝

聖霊が降り、教会が生まれた

「聖霊が降り、教会が生まれた」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:ヨエル書 第3章1-5節
・ 新約聖書:使徒言行録 第2章1-13節
・ 讃美歌:

集まっていた一同
 本日はペンテコステ、聖霊降臨日です。クリスマス、イースターと並んで、教会にとって大事な祝いの日です。クリスマスは世の多くの人が知っており、イースターも最近は「春の祭り」として知られるようになってきましたが、ペンテコステは全く知られていません。しかし私たち教会にとっては、とても大事な記念日です。それは、この日にキリスト教会がこの世に生まれたからです。その出来事が、使徒言行録第2章に語られているのです。
 その1節に「五旬祭の日が来て」とあります。この「五旬祭」がペンテコステです。「五旬」とは「五十日」という意味です。過越の祭りの五十日後に祝われたこの祭りは、ユダヤ人たちにとっては元々は小麦の収穫を喜び祝う春の収穫の祭りでした。しかしこの日に起った特別な出来事のゆえに、ペンテコステはキリスト教会にとって大事な祝いの日となりました。その出来事が1?3節に語られています。1節には「一同が一つになって集まっていると」とあります。その「一同」とは、主イエスを信じている人々です。その中心には弟子たちがいたわけですが、しかし彼らは、主イエスが捕えられ、十字架につけられた時には、みんな逃げ去ってしまったのです。中にはイエスのことを三度「知らない」と言ってしまった人もいました。主イエスの葬りに彼らは加わっていません。そこにいたのはむしろ何人かの女性たちでした。彼女らは、主イエスの十字架の死を遠くから見ており、その埋葬を見届け、三日目の朝に主イエスの遺体に香料を塗ろうと墓に行きました。この女性たちが、主イエスの墓が空っぽになっていることを最初に発見したのです。この女性たちもこの「一同」の中にいたでしょう。このように、この「一同」は主イエスを信じている人々ですが、主イエスが捕えられ、十字架につけられ、葬られた時の行動は様々です。しかし彼ら「一同」に共通していることが一つだけあります。それは、復活した主イエスと出会ったということです。十字架の死から復活した主イエスが、彼らの前に現れて、ご自分のもとにもう一度迎えて下さったのです。その主イエスが1章4節で彼らに、「父の約束されたものを待ちなさい」とおっしゃいました。彼ら一同はこの主イエスのお言葉に従って、一つになって集まって、父なる神が約束して下さったものを待っていたのです。この日彼らが「一つになって集まっていた」のは、何かを相談するためでも、親睦を深めるためでもなくて、主イエスの約束の実現を共に待つためでした。そこに、この出来事が起ったのです。

聖霊に満たされた
 「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らの座っている家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と2、3節にあります。この場面を想像してみようとするのですが、どうもうまく思い描くことができません。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」というのがどんな光景なのか、よく分からないのです。この場面を描いた絵もいくつかありますが、なるほど「炎のような舌」とはこういう感じか、と納得できるものはなかなかありません。この場面を絵にすることはとても難しいのです。しかし、ここで起ったことは要するに何だったのか、ははっきりしています。4節にそれが語られています。「すると、一同は聖霊に満たされ」、これがこの時起ったことの中心です。一つになって集まって、「父の約束されたもの」を待っていた一同に、聖霊が天から降り、一人一人が聖霊に満たされたのです。主イエスが言っておられた「父の約束されたもの」とは聖霊だったのです。「激しい風が吹いて来るような音」も「炎のような舌」も、彼ら一同が聖霊に満たされたことの、耳に聞こえ、目に見える現れだったのです。

ほかの国々の言葉で話しだした
 聖霊に満たされたことによって、彼らはどうなったのでしょうか。それが4節の後半です。「霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。聖霊に満たされた彼らは、いろいろな国の言葉で話し始めたのです。そのことは、7節以下の、それを聞いた人々の反応からも分かります。ユダヤ人たちは、当時の地中海周辺の様々な地域に住んでいました。様々な国々から、この五旬祭にエルサレムに巡礼に来ていた人が大勢いたのです。その人々が、それぞれの暮らしている国で使われている言葉が語られているのを聞いて、驚き、とまどい、「いったいこれはどういうことなのか」と言ったのです。
 この4節を原文のギリシア語で読むと、先ほどの3節の「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」という不思議な表現の意味が分かってきます。「舌」と訳されている3節の言葉と、4節の「ほかの国々の言葉」の「言葉」は原文では同じ言葉なのです。つまり「舌」という言葉には「言葉」という意味もあるのです。その舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまったことによって、一人一人が違った言葉で語り出したのです。「舌」と言われているのでイメージがしにくいわけですが、それは「言葉」との繋がりにおいて語られているのであって、その舌が「分かれ分かれに現れて一人ひとりの上にとどまった」ことは、一人一人に違った言葉が与えられ、彼らが様々な言葉を語る者とされたことを描いているのです。「炎」は聖霊を表していますから、彼ら一同の上に聖霊が降り、聖霊に満たされたことによって、一人一人がいろいろな言葉を語り始めた。それがこの日に起った出来事だったのです。

神の偉大な業を語る
 聖霊に満たされることによっていろいろな言葉を語ることができるようになるのだとしたら、私も聖霊に満たされて英語ペラペラになりたかった、と思います。しかしペンテコステに起ったのはそういうことではありません。確かに、聖霊に満たされた彼らは「霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだし」ました。しかしそこで何が語られたのかは、それを聞いた人々の驚きの言葉から分かります。11節の後半です。人々は、「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」と驚いたのです。聖霊に満たされてほかの国々の言葉を語るようになった彼らは、それによって国際的ビジネスを始めたのでも、観光旅行に行ったのでも、異文化交流に努めたのでもなくて、神の偉大な業を語っていったのです。このことによって、いろいろな異なった言葉を語りつつ生きている世界中の人々が、神の偉大な業を伝える言葉を聞くことができるようになったのです。
 彼らが語った「神の偉大な業」とは、神がその独り子主イエス・キリストをこの世に遣わして、その十字架の死と復活によって成し遂げて下さった救いのみ業です。先ほど申しましたように、彼らは皆、復活した主イエスと出会った人々です。彼らは以前から主イエスに従っていた人々でしたが、主イエスが捕えられ、十字架につけられる時には、逃げ去ってしまったり、「知らない」言ってしまったり、あるいは遠くから見ていることしかできませんでした。主イエスに従う弟子であることを全うすることができた人は一人もいなかったのです。そのような弱い罪人である彼らに、復活した主イエスが出会って下さり、彼らの罪を赦して、もう一度主イエスを信じて従う者として招いて下さったのです。主イエスの十字架と復活によって神が成し遂げて下さった罪の赦しと新しい命という偉大な救いのみ業を、彼らは自分自身のこととして体験したのです。この神の偉大な救いのみ業を、世界中の人々に語り伝えていく言葉が、聖霊に満たされたことによって彼らに与えられたのです。つまり聖霊がほかの国々の言葉を語ることができるようにして下さったというのは、外国語を自由に操れるようにして下さったということではなくて、主イエス・キリストの十字架と復活によって罪人である自分が赦され、主イエスと共に新しく生きる者とされた、という神の偉大な救いのみ業を体験した者として、それを証しし、語る言葉を与えられた、ということなのです。使徒言行録第1章8節において主イエスは「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」とおっしゃいました。まさにこのお言葉が実現したのです。復活した主イエスによって招かれ、主イエスを信じる者として新しく生かされた者たちが、主イエスによる神の偉大な救いのみ業を証しするために、様々な異なる言葉が語られている地の果てにまで遣わされていく。そのようにして世界中の人々が、主イエス・キリストによって実現した神の偉大な救いのみ業を告げる言葉を聞くことができるようになる。ペンテコステの日に聖霊が降ることによってこのことが実現したのです。

教会が誕生した
 それは、この世に教会が誕生した、ということです。教会とは、復活して生きておられる主イエスが出会って下さり、招いて下さった、主イエスを信じ、従っていく者たちの群れです。しかし主イエスを信じている者たちが集まっただけで教会が誕生するわけではありません。その群れに連なっている者たちにできることと言えば、「父の約束されたものを待ちなさい」という主イエスのみ言葉を信じて、その約束の実現を待つことです。そこに、聖霊が降り、一人ひとりが聖霊に満たされることによって、主イエスによって成し遂げられた神の偉大な救いのみ業を語り、証しする言葉が与えられるのです。主イエスのもとに集められている人々が、聖霊に満たされて語り始める。そこに教会が誕生するのです。

信仰者一人ひとりに言葉が与えられる
 そのことは私たち一人ひとりにも起っています。私も、聖霊に満たされて、こうして礼拝で説教を語っています。英語ペラペラにはなりませんでしたが、聖霊は確かに私を導いて、神の偉大な業を証しする言葉を与えて下さっているのです。それは牧師、伝道者のみの話ではありません。教会に連なり、主イエス・キリストによる救いにあずかって生きている信仰者一人ひとりが、主イエス・キリストによる救いにあずかっています。そして聖霊が一人ひとりに、その救いを証しする言葉を与えて下さるのです。いや私にはとてもそんなことはできない、神の救いを証しすることなど自分にはできない、と思ってはなりません。自分にできるとかできないとか考えてしまうこと自体がそもそも間違いです。これは私たちの力、能力によってすることではありません。私たちの能力の問題ではないのです。聖霊が言葉を与えて下さるのです。そしてその言葉は、人を説得し、納得させてキリストを信じさせようとする、セールストークのようなものではありません。人を説得できるプレゼン能力が備えられるのでもありません。「自分は主イエス・キリストによる救いにあずかり、主イエスを信じ、教会の礼拝によって慰めと力づけを与えられて生きている」という事実を告げることこそが、「神の偉大なみ業を語る言葉」なのです。その自分が人に自慢できるような立派な人であるかどうかは全く関係ありません。弱く、罪深く、何のとりえもない自分が、主イエス・キリストによって赦されて、神の子とされている、そこにこそ、神の偉大な救いのみ業が証しされているのです。だから「わたしはクリスチャンです。教会に通っています」という一言を語ることができたなら、それは聖霊のお働きです。聖霊に満たされて、それまで語ることができなかった言葉を語ることができるようになったということです。そこに、神の偉大な救いのみ業が示され、証しされているのです。

言葉が届くことも聖霊のお働き
 本日の最後の13節には、「しかし、『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた」とあります。聖霊に満たされて神の偉大な業を証しする言葉を語っても、それがすんなり受け入れられるわけでは全くありません。「何馬鹿なことを言ってるんだ、お前気は確かか」とか、「変な教えに洗脳されてるんじゃない?早く目を覚ました方がいいよ」なんて言われたりもするのです。つまり、聖霊に満たされて神の偉大なみ業を語る、その言葉が相手に受け止められ、届いていくことも、聖霊のお働きによるのです。だからそれは私たちの能力やスキルの問題ではないのです。能力があればできることでもなければ、能力がないからできないことでもありません。聖霊が私たちに降り、私たちに満ちて、み業を行って下さるならば、私たちは、神の偉大な救いのみ業を証しする新しい言葉を与えられ、それを語っていく者とされるのです。そのようにして、神の救いのみ業が、人から人へと伝えられ、地の果てにまで及んでいくのです。この聖霊によって立てられ、遣わされている群れが教会なのです。

教会を誕生させて下さる霊
 私たちは今、主日礼拝において、「使徒信条」に導かれつつみ言葉に聞いています。5月は四回にわたって、「我は聖霊を信ず」というところについて、いろいろな聖書箇所から聞いてきました。父なる神と、その独り子主イエス・キリストを信じることと並んで、聖霊を信じるのが、聖書に基づく教会の信仰です。その聖霊とはどのような方であり、私たちに何をして下さっているのか、をこの5月に聞いてきたのです。その備えが与えられた上で、6月に入って今日、聖霊が降り、教会が生まれたことを記念するペンテコステの日を迎えたことに主の導きを感じます。聖霊は、私たち一人ひとりに降り、信仰を与え、主イエスによる救いにあずからせ、新しく生かして下さると共に、教会を生まれさせ、導いて下さっているのです。私たちは教会において聖霊を受け、聖霊に満たされて、主イエスによる神の救いのみ業を証しする者とされ、それぞれの生活の場へと遣わされていくのです。その証しの言葉は聖霊が与えて下さいます。聖霊が私たちを用いて、神の偉大な救いのみ業を告げ知らせて下さり、新たな人々を教会へと招いて下さるのです。聖霊によって生まれた教会において、人々が聖霊に満たされ、新しい言葉を与えられて遣わされていったことによって、主イエスによる神の救いのみ業が全世界へと広がってきて、今私たちにもそれが及んでいるのです。そして聖霊は私たちをも遣わして、証しの言葉を語らせ、救いのみ業をさらに前進させようとしておられるのです。

聖餐においても働いて下さる聖霊
 本日私たちは聖餐にあずかります。主イエス・キリストが十字架の上で肉を裂き、血を流して死んで下さったことによって私たちの罪を赦し、神の子として新しく生かして下さった、その救いの恵みを、パンと杯にあずかることによって体全体で味わい、主イエスと一つとされるのです。聖餐にあずかることによって、キリストが教会の頭であり、私たち一人ひとりがそのキリストに繋がっている部分であり、また兄弟姉妹と共に一つのキリストの体とされていることを私たちは確かに体験するのです。その体験を与えて下さるのも聖霊です。聖霊がこの場に臨み、聖餐のパンと杯にあずかる私たちを、キリストの体と血とにあずからせ、キリストと一つにして下さるのです。そのようにして聖霊は、キリストの体である教会を築いて下さるのです。その聖霊が私たちに新しい言葉を与え、救いのみ業を宣べ伝えさせて下さいます。そして新たな人々がその救いへと導かれ、教会へと招かれていく。ペンテコステに実現したそのみ業が、今も、私たちにおいても起っています。私たちはその聖霊を信じて、聖霊よ来て下さい、み業を行なって下さい、と祈りつつ歩むのです。

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