夕礼拝

御業は成し遂げられる

「御業は成し遂げられる」 副牧師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 詩編 118:1-29
・ 新約聖書; ルカによる福音書 13:31-35

 
1 (ファリサイ派の忠告)

 「ちょうどそのとき」という言葉から、ルカは語り出しています。「そのとき」というのはすぐ前、主イエスが「狭い戸口」から入るようにと、勧めておられたその時、ということでしょう。その時語られていたのは、単に主イエスと食事を共にしたり、その教えを聞いたりしたというだけでは、終わりの時の裁きに耐えることはできない、ということでした。だからこそ、真実に御言葉に生かされる歩みを、御言葉を生きる歩みを、今ここから始めなければならない。それを邪魔する不義が自分の中にあるならば、その不義との闘いを始めなくてはならない。救いの恵みから離れないで、そこに留まり続ける、そこに生き続ける歩みを刻んでいく。そこに主イエスが命がけで注いでくださった愛に応える私たちの歩みが与えられていくのです。それは救いの恵みに生き続けるための闘いに加わるように、という主からの招きであります。私から離れず、私と共に生き続けてほしい、という主イエスの心からの願いなのです。
 そういうことが語られているまさに「そのとき」です。ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、主イエスに忠告をしたのです。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」(31節)。ある人の個人訳ではこうなっています、「すぐにここを逃げ出しなさい。ヘロデ王があなたを殺そうと思っています」。気をつけたほうがいい。今の調子であなたが語り続け、行いを重ね続けるなら、それはあなたにとって命取りになるぞ、と言っているのです。
 このファリサイ派の人たちが、いったいどんな意図でこんなことを主イエスに告げたのか、それは必ずしもはっきりといたしません。彼らはヘロデ王から命令を受けて、実際にこの王の意向を主イエスに伝えるようにと言われて派遣されてきたのかもしれません。あるいは自分たちも主イエスに敵意を抱き、日ごろから殺意さえ抱いていたわけですから、同じ思いを持っているヘロデ王と手を組んで、協力して主イエスを陥れ、挫折させようとしたのかもしれません。あるいはそうではなくて、彼らはファリサイ派の人々の中でも主イエスに対して同情的で、ヘロデ王の悪意を聞き及んだとき、これは大変だと思って、ここで本当に心からの忠告をしているのかもしれません。彼らがどういう意図でこう語ってきたのかははっきりとしているわけではありません。
 ただ、たとえそれがどんな意図で話されたにしても、そのいずれの思いも、今ここで語り、働いておられる主イエスの御心をまったく理解できていない、自分勝手な思いであることに変わりはありません。考えられるどんな意図も、主イエスの御心をしっかりと受け止めているものはないのです。この前の22節にもありましたように、主イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられるのです。主イエスの進む道は、エルサレムへと向かう道です。そこに入っていくことを省略したり避けたりするならば、神の御心は成就しない。その道から逃げたりするならば、主イエスがこの世に遣わされた目的が満たされない。人々はそのことが全く分かっていませんでした。ですから、悪意を持ってであるにせよ、善意で助言したつもりにせよ、このファリサイ派の忠告は、主イエスの御心をないがしろにし、主イエスが歩もうとする道を邪魔し、御業の実現を阻もうとしていることになるのです。

2 (自分の静けさを乱す言葉への敵意)

 さらに言うならば、「ここを立ち去ってください」という勧めの言葉の背後には、自分たちの生活している世界に、主イエスが入ってくることを喜ばない気持ちが隠れているのではないでしょうか。聖書には何人かのヘロデ王が出てまいりますが、ここに出てくるヘロデは、ヘロデ・アンティパスと呼ばれる王で、父親のヘロデ大王の死後、ガリラヤとペレアを治めていた人物です。主イエスが今旅をしているその道もまた、ガリラヤやペレアの領内を進み行くものであったのでしょう。ヘロデはまた、よくエルサレムの祭りに出かけて行ったと伝えられてもおります。実際、後に主イエスが十字架にお架かりになる前に、ヘロデが主を取り調べたのも、ちょうどその時ヘロデが滞在していたエルサレムであったのです。だから彼にとって、主イエスがガリラヤやペレア、エルサレムで活動することは面白いことではなかった。気に食わないことであったのです。
 ヘロデは「静けさを愛した」と伝えられております。しかしその「静けさ」の意味は、自分の思い通りになることでやっと保たれている心の平静さ、という意味です。ヘロデの愛した静けさとは、なんでも自分の思い通りになる限りでの平安でしかありません。逆に言うなら、自分の心の静けさを打ち破り、自分の心を揺さぶるような言葉や存在に対しては激しい敵意を抱き、それを消し去ろうとし始める、ということになるのです。
 このヘロデは、あの洗礼者ヨハネを殺害した人物です。ヘロデは自分の兄の妻を横取りする罪を犯しましたが、そのことを洗礼者ヨハネに咎められたために、ヨハネを牢に閉じ込め、後には殺害しているのです。静けさを愛するなどといっても、結局は自分の支配に従わない、自分の思い通りにならないものに対してはむきだしの憎しみをぶつけ、その存在を消し去ることに心を傾けるのです。ヘロデにとっての静けさは、周囲の人々が自分の言いなりになり、世の中が自分の思い通りに動いている限りでの「静けさ」でしかなかったのです。
 先ほど、ヘロデはよくエルサレムの祭りにも出かけたと伝えられていることを紹介いたしました。それはまた言い換えるならば、ヘロデもまた、私たちと同じように、礼拝を重んじた、大事にしていたということであります。それなのに彼の中には、神の言葉を本当には受け入れようとしない頑なさがあったのです。自分の好き勝手を認めようとしない、自分の支配を脅かすような神の言葉には、耳を傾けようとしなかったのです。ましてその神の言葉が人となって、自分の領土で動き回っているなどということは脅威でしかなかった。自分の支配をひっくり返しかねない、ヨハネよりも危険な存在であったのです。
 このヘロデの敵意を知らせているファリサイ派の人々だって、同じような敵意を内に秘めながらも、主イエスのためを思って言っているようなふりをしているだけなのかもしれないのです。あるいは実際のところはエルサレムに主を寄せ付けまいとする自分たちの思いを、ヘロデがこう言っていると嘘をつきながら伝えたのかもしれないのです。いや、人のことばかりではない。私たちだってどうでしょうか。自分の静けさを破るような神の言葉の前に、本当に自分を明け渡していると言えるでしょうか。むしろ自分の静けさを破るような神の言葉は殺してしまうような、御言葉の聴き方をしているかもしれないのです。自分の中に受け入れられる限りでの言葉は聴くけれども、自分の過ちを暴き、悔い改めを迫り、変わることを求めるような言葉には拒否反応を示してしまう。そういう御言葉の選り好みが起こっている。今の自分を肯定し、そのままでいいのだ、あなたはなにも悪くない、そのままで進んで行ったらいいのだ、どこかでそう言ってもらいたいと思っています。
 私たちの祈りの言葉もまた、神に現状肯定を求める言葉に陥りがちです。「今週一週間お守りくださってありがとうございました。また一週間無事に過ごせますように」。「とどこおりなく礼拝を守ることができてありがとうございます」。しかし御言葉は私たちの心の中に、私たちの生き方に、よい意味での「とどこおり」を引き起こさずにはいないものです。私たちの中にとどこおりを引き起こしたところから、主の御業は始まっていくのではないでしょうか。そのようにして自分に働きかけ、自分の生き方を変えてしまうような力を持つ御言葉に、自分を明け渡すこともしないうちに、不愉快な言葉には、硬い貝殻のように心を閉ざしてしまう、そういうことが私たちにも起こるのです。

3 (命を注ぐめん鳥の愛)

 この、自分にとって不愉快な神の言葉を殺す心が、エルサレムの歴史、神の民の歴史をかたちづくってきたのだ、主は今そう告げられるのです。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」(34節)。エルサレムの歴史、それは預言者殺しの歴史であります。神は何度となく預言者をこの都に遣わされ、彼らを通してその御心を伝えてこられました。めん鳥が雛を羽の下に集めるような愛を注いでこられたのです。

 めん鳥の雛はたくさんいたはずです。私はこの主の言葉を聴くと、庭のあちこちを駆け巡りながら、必死になって雛を翼の下に寄せ集めようとしているめん鳥の姿を思い浮かべます。こちらに行って走り回っていた雛のかたまりを翼の中に抱き寄せたかと思うと、あちらではまだ他の雛が叫びながら好き勝手に走り回っている。あわててめん鳥は向こうの方にも走りよって雛を抱きかかえようとする。すると、抱きかかえようとして広げた翼の隙間から、さっき抱え込んだ雛たちがすり抜けるようにしてまた逃げ出していく。好き勝手な方向に散り散りになって逃げていく。途方にくれながら、時にイライラしながら、深い嘆きを覚えながら、涙を流しながら、なお必死で逃げ回る雛たちを抱きかかえようと懸命に走っている。そのめん鳥の姿こそ、自分の姿なのだ、主はそうおっしゃっておられるのではないでしょうか。

4 (主イエスの道は進みいく)

 そんな深い嘆きにとらえられている時、もし「ここを立ち去ってください」などと言ってくれる人があったのなら、私たちだったら「願ってもないことだ、いい忠告をありがとう」、と言ってしまうのではないでしょうか。そしてさっさとエルサレムへと向かう道から取って返して、来た道を戻り始めてしまうのではないでしょうか。自分がこれから苦しみの中へと分け入っていかねばならないことを知っている時、「そこから離れていいのだよ、立ち去っていいのだよ」、と言われることは大きな誘惑に違いないのです。
 しかし主はその誘惑に飲み込まれてしまうことはなかったのです。むしろこうおっしゃったのです。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」(32-33節)。主イエスのことを脅したつもりでいたヘロデのことを、逆に挑発するかのように、ヘロデのことを「狐」呼ばわりしているのです。大変厳しい言葉です。
 狐はずる賢さで有名な動物です。しかしまたその知恵は浅はかな知恵だとも言われます。どういう意味で浅はかなのか。自分が差し向けたファリサイ派に脅しの言葉を取り次がせれば、主イエスの進む道を阻むことができると高をくくっている、その思いが浅はかで、神の御心を全くわきまえていないことになるのです。私たちもまた、自分の中に預言者殺しの伝統を抱え込んでいます。神の言葉を受けつけず、自分の気に食わない言葉を拒み、それを取り次ぐ者には憎しみを抱く心の傾きを持っています。誰しも「御言葉を拒むイスラエル」を心のうちに隠し持っているのです。だれもこの預言者殺しの歴史から自由な者はいません。エルサレムの住人だって、信仰を持たない異教の民などではないのです。まさに自分たちが神の民、神の子供たちだと思っていた。その思いに忠実に生きているつもりで、まことの神の子を迫害し、本気で追い払おうとしているのです。「こっちに来るな、入ってくるな。あっちへ行け。ここは私が主人、私が王様である土地だ。だれにも邪魔はさせない」と叫びながら、近づいてくる主を、中に入ってこようとする神の言葉を、拒んでいるのです。礼拝に生きる神の民だと自分自身思っている、その私たちの中でも起こりえることです。
 しかしそれでも、主の歩みは止められたりはしません。エルサレムでこそ成し遂げられねばならないこと、果たされなければならないことがあるということを、主はご存知なのです。たとえそれを邪魔する人間の言葉、人間の思いがどんなに押し寄せてこようとも、主イエスの歩みはそれをも乗り越えて進み続けるのです。「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」。口語訳で言えば、「わたしは進んで行かねばならない」。神の子の道は、どんな邪魔があろうとも進み続けるのです。御業が成し遂げられるまで進んで行くのです。神の御業は御心が成し遂げられるまで進み続けるのです。
 主イエスには定められた道があるからです。それはどなたによって定められた道でしょう。もちろん父なる神によって定められた道です。「進まねばならない」と訳されたところには、「神がそう定められた」、「神がそのように決意された」という意味の言葉が使われているのです。神の並々ならぬ決意があり、主イエスはそれに突き動かされるようにして、定められた道を進み行く。父なる神の御心に、自らの思いを重ね合わせるようにして、神の決意に従って進んでいく。それは私たちの心を暗く覆う罪の闇、御言葉を拒み、自分が支配者であり続けたいという思いにも負けることなく、私たちの中に突き入ってくださり、私たちの中でも御業を成し遂げてくださるのです。

5 (主の名によって来られる方に、祝福があるように)

 そのためにこそ、主はエルサレムで十字架にお架かりになったのです。あのヘロデの敵意にも真正面から向き合い、その悪の闇を一身に受け止めるようにして十字架に上られたのです。そして罪と死の力に打ち勝って、復活してくださいました。私たちの中にもある「御言葉を拒むイスラエル」と戦って、これに打ち勝ってくださったのです。預言者殺しの歴史の中に飛び込んでこられ、かつての預言者と同じように自らを捧げ、神の前に命を注がれた。どうして応えてくれないのだ、どうか応えてほしいのだ、嘆きの涙を流しながらついにはご自分の命を注ぎ尽くすほどの愛を貫かれた。その死によってこそ、預言者殺しの歴史に終止符が打たれたのです。見捨てられた神の家が再び集められるための道がここに拓かれているのであります。
 「主の名によって来られる方に、祝福があるように」。これは後にエルサレムに主が入城された時、群衆が叫んだ言葉として伝えられているものです。しかしまさにこの言葉を叫んだ人々の手にかかって、主は十字架につけられていったのです。群衆にはまだ主イエスの本当のお姿が見えていなかったということです。「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない」。主の十字架と復活、さらには主が高く天へと挙げられたことの後に、礼拝の中でこの御言葉が語られるのを聴いたルカの教会が思い起こしたことは、主が再び来られる時、再臨の時でした。「その時にはあなたたちは再びわたしを見るようになる、しかも真実の意味で目の当たりにする。失われ、見捨てられていた神の家はその時、再び起こされるのだ、再びひとつに集められるのだ」、その約束を聴き取ったのであります。だからこそ礼拝の中で、御言葉によって今自分たちのうちに入って来てくださろうとしてくださっている主をお迎えする思いを新たにしたのです。
 詩編の詩人が歌ったように、御業を成し遂げられる主への感謝と讃美を新たにしたのです。

「激しく攻められて倒れそうになったわたしを 
 主は助けてくださった。
 主はわたしの砦、わたしの歌。
 主はわたしの救いとなってくださった」。

「死ぬことなく、生き長らえて 
 主の御業を語り伝えよう。
 主はわたしを厳しく懲らしめられたが
 死に渡すことはなさらなかった」。

「今日こそ主の御業の日。
 今日を喜び祝い、喜び踊ろう」。

「祝福あれ、主の御名によって来る人に。
 わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。
 主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方」。

 今主は私たちの中にも御業を成し遂げてくださろうとしておられるのです。信仰の歩みの中にあっても、いつも心を頑なにし、御言葉によって自分が変えられることを恐れ、不愉快に思い、むしろ自分の中にある自分のエルサレム王国にこだわってしまう私たちです。私たちの生き方にとどこおりを引き起こしながら、繰り返し迫ってくる御言葉にぶつかって、「こっちに来るな。あっちへ行け」と言いたくなるような思いにたびたび悩まされる私たちです。しかし主イエスは今ここに、救いの道を拓いていてくださる。従い尽くすことのできない弱さを抱えた、わがままな私たちにも関わらず、父なる神に従い尽くす主イエスが、今日も私たちの中にあるエルサレム王国の城門の中へと入ってきてくださる。御言葉によって中へと突き入って来てくださり、救いの御業をすべて終えるまで、私たちの中にある罪と戦いきってくださるのです。だからこそ私たちは願わずにいられません。祈り求めずにはいられません。今日という日のあるうちに、私たちが力ある御言葉の前に自らを明け渡し、主のみ翼の陰に宿らせていただくことを。終わりの時が来る前に、私たちを抱き寄せてくださろうとしておられる主のみ翼の中に自分をすべておゆだねすることを。どうか私たちの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださいますように。

祈り

 主イエス・キリストの父なる神様、頑なな私共をどうか憐れんでください。御言葉を選り好みし、自分に都合のよい言葉しか受け入れることのない頑固さを憐れんでください。それらすべてにも関わらず、今日も私たちの心の中にある砦を打ち破り、私たちの中にまで進み入ってくださり、私たちの中にあるエルサレムで御業を行ってくださるあなたの愛に、信頼させてください。あなたの愛の確かさは、私たちの心の硬さにもまして確かで力強いものであることを信じます。どうか今日という日のあるうちに、私たちが力ある御言葉の前に自らを明け渡すことができますように。主のみ翼の陰に宿らせていただくことができますように。終わりの時が来る前に、私たちを抱き寄せてくださろうとしておられる主のみ翼の中に自分をすべておゆだねすることができますように。私たちの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださいますように。
 御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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