夕礼拝

しぼまない財産

「しぼまない財産」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第16編1-16節
・ 新約聖書: ペトロの手紙一 第1章4-5節
・ 讃美歌 : 1、473

神様を讃美する
 私たちは、夕礼拝においてペトロの手紙1を通して神の御言葉を聞いております。この手紙は、私たちの歩むべき信仰生活の姿を伝えてくれているのではないでしょうか。信仰の生活とは、礼拝から礼拝へと歩む生活です。礼拝から遣わされ、礼拝へと向かう1週間の歩みと言えるでしょう。神様を礼拝することは同時に神様を讃美する、ほめたたえることです。この手紙の著者ペトロは、挨拶に続いてすぐ、神様を讃美しましょう、神様をほめたたえましょう、と言います。手紙ということは、その相手、宛て先がいるものです。この手紙の内容を伝えるべき相手がいるのです。この手紙の場合ですと、最初の1節でありますが「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。」とあります。ペトロは現在の小アジアと呼ばれる地域のキリスト者たち、キリスト者たちが集まっていた教会へと手紙を送ったのであります。挨拶を記し、続けて3節「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。」神様への讃美を綴ります。この讃美の流れは、第4章の11節まで続きます。この1章3節から、4章11節まで箇所は初めの頃の教会において、主イエス・キリストを信じて洗礼を受ける人のためのテキストとして用いられていたのではないか、または洗礼を受ける際の説教であったと言われております。3節は、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。」と讃美の言葉をもって始まり、4章11節は「栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。」と神様への讃美の言葉を持って締めくくられております。そのため、この部分は一つの少し大きな讃美のまとまりであると考えることができます。説教であり、讃美であり、信仰を告白する際の学びの箇所であったのです。

生きた望み
 本日は特にその讃美の途中の4,5節の御言葉を聞いておりますが、4節はその前の3節の文章の続きであります。なので、3節も少し振り返りたいと思います。「神は豊かな憐れみにより、私たちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、」そして4節「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」ペトロは小アジアの教会のキリスト者たちに対して「あなたがた」と呼びかけております。主イエス・キリストの父である神様は豊かな憐れみによって、罪と死の中にあった人間を主イエス・キリストの十字架と復活によって、罪を赦し、新たに生まれさせられました。イエス・キリストの復活によって生き生きとした希望を与えられたのです。「生き生きとした希望」というのは、以前の口語訳聖書では「生きた望みをいだかせ」とあります。キリスト者は「望みに向かって救われている」と言うのです。この望みは生きた望みであり、希望も死んでいる希望ではなく生き生きとした希望なのです。死んでいる、つまりその効果がはっきしない望みは望みとは言えず、希望も希望とは言えません。しかし、神様が与えて下さる希望は、「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者」とする、というはっきりとした効果を持つ、生きた希望なのです。

天に蓄えられた財産
 財産というのは、もともと親から子どもに、子どもから孫にと伝えられていく資産、いわゆる遺産のことを意味する言葉であります。先ほど、詩編16編1節から10節までをお読みしました。5節、6節をもう一度お読みします。「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。測り縄は麗しい地を示し わたしは輝かしい嗣業を受けました。」。この「嗣業」が「遺産」という意味です。遺産と言うのは、私たちにとっていつの日にか手に入り、将来は自分のものとなるものを意味しております。ここでは神様が「あなたがたを天に蓄えられている財産を受け継ぐ者とした」と言っておられます。あなた方は確実にこの財産を受け継ぐ者である、あなたに将来確実に譲渡する、と約束しておられるのです。まだ、私たちはその財産は手に入れてはいないけれども、神様が約束をして下さった確実な財産なのであります。さらにこの財産は確実なものであるということを伝えるために、「朽ちず、汚れず、しぼまない」という三つの表現を用いております。「朽ちず、汚れず」とは、腐らない、壊れない、壊されないという意味です。敵の攻撃から守られているから、壊れないのです。敵というのは外から来るものだけではなく、人間の内部にある罪深さであります。また、「しぼむ」というのは、生気、生きる力を失ってしおれる、ふくらんでいたものが小さくなるという意味です。けれども、信仰者の受け継ぐ財産はそのようなことがないのです。それは、この地上の財産とは違うのです。財産と言うと一般的に、経済的価値のあるものを言います。また地上の財産が永遠ではないということは、現代の日本社会に生きる私たちは特に痛感していると思います。経済的な尺度で測ることの出来る財産と出来ない財産とがありますが、この世の財産は、どちらにしても、この世において価値のあるものです。けれどもキリスト者はそのようなこの世の価値とは違う、「天に蓄えられている財産」を受け継ぐと言われております。主イエスはこのように話されました。「富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。」(マタイ6:20)地上の財産、富は様々な形で虫が食い、さび付き、盗人が盗み出すのです。けれども天に積まれた財産は朽ちず、汚れず、しぼまないのです。そのような財産をキリスト者は受け継ぐのです。

受け継ぐ嗣業
 それでは、天に蓄えられ、受け継ぐ財産とはどのような財産なのでしょうか。先ほどの詩編16編の5節、6節をもう一度お読みします。「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。測り縄は麗しい地を示し わたしは輝かしい嗣業を受けました。」この詩人は主なる神様から輝かしい嗣業、遺産を受けたと言っているのです。キリスト者が朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐのは、神様が与えて下さったからです。しかも神様は、ご自身を与えて下さったのです。神様がご自身をお与え下さったということは、独り子主イエス・キリストをお与え下さったということです。主イエス・キリストが地上に来られ、十字架にかかり、復活なさったことです。人間の罪を赦すために十字架にかかられた主イエスは天に挙げられ再び来られると約束しておられます。キリスト者の歩みは、主イエスが再び来られるという神様の約束の実現を待つという希望に生きる歩みであります。信仰に生きるということは、そのように約束されたものを仰ぎ見つつ歩むということです。ペトロは、この約束を与えて下さった神様を讃美しましょう、ほめたたえましょう、と小アジアの各地において離散している状況にある者たちに対して力を込めて呼びかけているのです。

再び来られる時
 この手紙の歴史的背景には、キリスト教会に対する迫害がありました。詳しく触れることはいたしませんが、そのような苦難の状況の中にある教会のキリスト者たちへの励ましとして書き送られたのです。あなたがたは「天に蓄えられている財産を受け継ぐ」のだと。地上を歩む人間、困難や試練の中にいる人間は。天に蓄えられている財産をまだ手に入れてはおりません。まだ神様による救いが完成をしていないということです。この小アジアの諸教会の状況を考えるならば、最初にこれらの教会についての嘆きや思い煩いが語られても不思議ではないでしょう。そのような事柄がいくらでも起きておりました。教会の内部の状況も様々な困窮の状況があったのでしょう。具体的な状況に関してはペトロの手紙を読み進めていくと、その内容が記されておりますので、ここでは触れることはいたしません。ペトロは、主イエス・キリストの信仰に生きる者にも多様な試練がある、と言っているのです。私たちの歩みもそうです。問題の質は多少異なるかもしれませんが、私たちが地上を歩む限り試練がなくなることはないのです。人生がなかなか思う通りに行かない、予定にないことが急に入る、思いがけない病や怪我をする。環境が整わず条件が満たさない、という経験は誰にでも起ることです。何よりも私たちは自分の死から逃れることはできません。ペトロはそのような苦難や試練の状況の中にある教会に対して、どのような状況においてもあなたがたは神を讃美することができるのだ、と記しております。それはペトロが、どのような状況においても神様への確信を持っているからです。なぜ、確信を持つことが出来るのか。それは、5節「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られているからです。

仰ぎ見つつ歩む信仰生活
 神様は、キリスト者を、準備されている救いを受けさせるために、信仰によって守って下さっているのです。ペトロはこのようにキリスト者を励ましています。その根拠は、この地上に人間として来られた私たちの救い主イエス・キリストです。その方の十字架と復活によって私たちは罪を赦されました。そして、天にあげられた主イエス・キリストが、再びこの地上に来られるのです。その時が「終わりの時」であります。主イエス・キリストはそのご支配を完成するために、再び来られるのです。ヨハネの手紙一の3章2節にはこのようにあります。「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。」私たちは今既に、神の子どもですが、これから自分がどのようになるかはっきりとは示されていません。けれども、主イエスが再び来られるとき、その主イエスに似た者とされるのです。それが私たちのために準備されている救いです。地上を歩む私たちはまだその救いの完成には与っていません。けれども約束されたものを信じ、望み見つつ歩むことが私たちの信仰生活です。この世界を創造された神様はその歴史の始めから世界の完成である終わりに至るまでご支配なさる方であり、永遠の方であります。その方の歴史の中で生きる私たちは罪深く、弱い、小さいものであります。この地上における教会も小さな群れかもしれません、けれどもキリスト者が天に蓄えられた財産を受け継ぐ者とされたというのは、将来受け継ぐ希望を与えられているということです。その希望は、「終わりの時に現される」救いでもあります。それを待ち望みつつこの週も歩んで参りましょう。

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