主日礼拝

真実で理にかなったこと

「真実で理にかなったこと」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; イザヤ書、第49章 1節-6節
・ 新約聖書; 使徒言行録 、第26章 1節-32節

 
パウロの最後の演説

 使徒言行録の第26章には、ローマ帝国ユダヤ総督フェストゥス、ローマの傀儡政権であるユダヤ王アグリッパ、そしてその妹ベルニケの前でパウロが語った長い演説、説教が記されています。この後27章ではパウロはローマへと護送され、ローマに到着したところで使徒言行録は閉じられていますから、この26章が、まとまった形で残されているパウロの演説の最後のものです。本日はこのパウロの演説あるいは説教をご一緒に読みたいと思います。

 さてこの演説の中でパウロは、自分がもともとはキリスト信者たちを迫害していた者だったところから、イエス・キリストと出会い、信仰者となり、逆にその信仰を宣べ伝える者となったいきさつを語っています。そのことは、22章にも語られていました。22章は、パウロがエルサレムの神殿の境内で、ユダヤ人たちのリンチによって殺されそうになったのを、ローマの兵隊によって保護拘束されて連行される途中で、階段の上からユダヤ人たちに対して語った演説です。パウロが自分の回心を振り返って語っているのはこの22章と本日の26章の二か所です。この二つの箇所の話を読み比べてみると、いくつかの違いに気づきます。その違いからいろいろと興味深いことが見えて来るのですが、22章の方の話を読んでおられない方もいるでしょうから、最初から違いについてお話するのではなくて、まずは、共通していること、パウロの回心の出来事の基本的なところをおさえておきたいと思います。

パウロの回心

 パウロはまず、自分がキリスト信者になる前の、若い日のことを語っています。それは本日のところでは5節です。その中に、「私たちの宗教の中でいちばん厳格な派である、ファリサイ派の一員として生活していた」とあります。ファリサイ派は、イスラエルの民に神様から与えられた掟、律法を厳格に守ることを信仰の中心としていました。そこに、神様に選ばれた民としての誇りを見いだし、それによって救いの確信を得ようとしていたのです。そのファリサイ派の立場から見れば、律法にとらわれない自由な生き方をしておられた主イエスは、神様の民ユダヤ人の誇りを奪い、道を誤らせるけしからぬ男でした。主イエスは本当は、律法を無視していたのではなくて、その本来の精神に立って歩んでおられたのですが、彼らにはそれが分からなかったのです。それゆえにファリサイ派は主イエスを十字架につけて亡き者にしようとする勢力の中心でした。パウロ自身が主イエスの十字架の時どうしていたのかははっきりしませんが、エルサレムで学んでいたのですから、主イエスの十字架を目撃したことも十分あり得ます。その後、主イエスの復活を信じる弟子たちの群れが生まれ、伝道が始まり、イエスこそキリスト、約束されていた救い主だ、という信仰が広まり始めた時、ファリサイ派の一人としてパウロは激しく憤慨し、先祖の神を冒涜するこの教えを撲滅しなければならないと強く思ったのです。最初の殉教者ステファノが殺された時、彼はそれに直接関わってはいませんでしたが、石を投げ付けてステファノを殺す人々の上着の番をしていました。そしてその後彼はキリスト信者迫害の急先鋒として頭角を現していきました。9~11節で彼はその自分の姿をこのように振り返っています。「実は私自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました。そして、それをエルサレムで実行に移し、この私が祭司長たちから権限を受けて多くの聖なる者たちを牢に入れ、彼らが死刑になるときは、賛成の意思表示をしたのです。また、至るところの会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒涜するように強制し、彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです」。  しかし、祭司長たちからキリスト教会迫害の御墨付きをもらってダマスコに向かう途中で、大きな転機が訪れました。彼は、主イエス・キリストと出会ったのです。その出会いによって彼は、イエスこそまことの神、救い主であり、自分が迫害し、撲滅しようとしていた教えこそ、生けるまことの神のみ心だったことを示されたのです。この大きな体験によって、彼はまさに180度の方向転換を与えられ、キリスト信者となり、さらには主イエス・キリストによる救いを宣べ伝える者となったのです。そのように彼が、かつて撲滅しようとしていた教えを逆に宣べ伝え、しかもユダヤ人だけでなく異邦人たちもこの救いにあずかることができると語っていったために、彼はかつての仲間であったユダヤ人たちから激しく憎まれるようになりました。エルサレムの神殿で殺されそうになったのはそのためであり、それによって今、彼はローマの囚人となっているのです。

とげの付いた棒

 以上が、パウロのこれまでの歩み、その回心の概要です。そのことを彼は22章でも、またこの26章でも語っているわけですが、先ほど申しましたように、この二つの章にはいくつかの違いがあります。すぐに気付く最も大きな違いは、ダマスコへの道において、当時サウルと呼ばれていたパウロに語りかけられた主イエスのお言葉にあります。本日の箇所の14節でパウロは、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」という主イエスの語りかけを聞いたと言っています。しかし、「とげの付いた棒」云々という言葉は、22章にはありませんでした。この回心の出来事そのものを語っている第9章にもそれはありませんでした。26章においてのみ、この言葉が出てくるのです。「とげの付いた棒をける」とはどういうことなのでしょうか。「とげの付いた棒」とは、牛をくびきに繋いで働かせる時に、そのかかとの後ろに取り付けた棒のことだそうです。牛が飼い主に逆らって足をけりあげようとすると、この棒についたとげによって痛い目にあうのです。それが、「とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」ということです。この棒はそのように、牛を飼い主の思う通りに働かせるためのものなのです。この26章において、パウロへの主イエスの語りかけにこの言葉が付け加えられているのは理由のないことではありません。この言葉は、神様が、パウロの飼い主として、彼をある方向へと歩ませ、ある働きをさせようとしておられたことを示しています。それなのにパウロは、教会を迫害することによって、牛が飼い主に逆らって足をけ上げるようなことをしていたのです。ですから、主イエスが彼に現れたのは、ただ彼に迫害をやめさせ、キリスト信者たちを、教会を守るためではなかったのです。主イエスは、彼を、あるご用のために用いようとしておられるのです。使命を与えようとしておられるのです。主イエスが、ある使命のために彼を遣わし、用いようとしておられるのだから、そのみ心に逆らって足をけり上げても、自分が傷を負うだけだ、ということをこの言葉は教えているのです。つまり26章は、神様がパウロを選び、一つの使命を与えようとしておられる、ということを中心に据えて、パウロの回心の出来事を語り直しているのです。

伝道の使命

 主イエスが彼に与えようとしておられる使命とは何でしょうか。それが16節以下に語られています。そしてそこに、22章とのもう一つの大きな違いが見られるのです。22章の話ではこの部分に、主イエスの光に打ち倒された彼の目が見えなくなってしまったこと、そして手を引かれて入ったダマスコで、アナニアというキリスト信者と出会い、彼によって再び見えるようになったこと、そしてその後、エルサレム神殿で祈っていた時に、主イエスが再び彼に現れて、異邦人に主イエスによる救いを宣べ伝えるために遣わされたことが語られていました。ところがこの26章では、それらのことが全て省略されています。「主よ、あなたはどなたですか」というパウロの問いに対して主イエスは、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」とお答えになり、それに続いて直ちに16節で「起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである」と言われたのです。つまりこの26章では、パウロが主イエスと出会い、迫害する者から信じる者へと変えられたことと、主イエスの奉仕者、証人として伝道に遣わされたことが同時に見つめられているのです。パウロが神様によって選ばれ、立てられて、伝道の使命へと遣わされたことを中心としてこの回心の出来事を語ろうとする26章の姿勢がそこにも現れているのです。

サタンの支配からの解放

 パウロが奉仕者、証人として立てられて語ったことのエッセンスが17、18節に凝縮して語られています。「わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである」。パウロは、人々の目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせるために遣わされたのです。サタン、悪魔は、私たちを神様のもとから引き離そうとします。そのサタンは様々な姿をとって私たちに働きかけてきます。幸福、成功、繁栄という形で来ることもあれば、不幸、苦しみ、悲しみという姿をとって来ることもあります。いずれの場合にも私たちは、心の目を自分自身の内側だけに向けてしまい、神様を見つめることができなくなるのです。喜びによるにせよ悲しみによるにせよ、私たちが自分の心の中に閉じこもって堂々回りをするようになってしまうなら、そこにはサタンが支配しています。サタンに支配されて自分自身の中に閉じこもる時、私たちの目は闇に閉ざされ、見るべきものが見えなくなってしまうのです。主イエス・キリストは、その私たちの目を開き、闇から光へと連れ出し、神様の恵みのご支配を見させて下さるのです。神様の恵みのご支配こそ、本当に見つめるべきものです。それを見つめるようになることが、サタンの支配から神に立ち帰ることなのです。そして神様の恵みのご支配を見るとは、言い換えれば、罪が赦されることです。神様が自分を、罪に対する怒りの目で見、裁く方として支配しておられるのではなく、罪を赦す恵みと慈しみのまなざしで見つめていて下さることを知るのです。そのことは、主イエス・キリストの十字架の死と復活を見つめることによってこそ示されます。主イエスを信じる信仰によって、罪の赦しが得られるのです。これがパウロの宣べ伝えている福音、喜びの知らせなのです。

教会に加えられる

 主イエスへの信仰によって罪の赦しを得た者はさらに、「聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになる」とも語られています。ここは口語訳聖書では、「聖別された人々に加わるためである」と訳されていました。つまり「聖なる者とされた人々」の群れに加えられるということです。それは教会のことです。主イエスへの信仰によって罪の赦しを得た者は、教会に加えられ、教会の一員となって生きるのです。信仰はある思想や主義主張を持つことではありません。キリストが頭である群れに加えられ、その群れの一員として生きていくという具体的な生活です。また教会が「聖なる者とされた人々」であるというのは、教会に集っている人々が、清く正しく罪がない人々だ、ということではありません。「聖なる」とは、「神様のものとされた」という意味です。清く正しく罪がないからではなく、神様のものとされたがゆえに、罪と汚れに満ちた私たちもまた、「聖なる者とされた人々」に加えられるのです。主イエスと出会う前のパウロは、自分で自分を清く正しい者とすることによって聖なる者となることができると思っていたし、そのために努力していました。しかし主イエスとの出会いによって彼は、神様が「あなたは私のものだ」と言って下さることによってこそ、つまり神様の恵みによってこそ、聖なる者の群れに加えられることを知ったのです。だからその救いは異邦人にも及ぶのです。彼はこの福音を宣べ伝え、異邦人たちが聖なる者の群れである教会に加えられるために派遣されたのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書49章の6節の終わりに、「わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」とあります。まさにそのような働きをパウロは与えられたのです。

復活の希望

 23節でパウロは、「私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです」と言っています。ここにパウロの語った福音のもう一つの大事なポイントが示されています。それは、主イエス・キリストの復活は、死者の中からの最初の復活であって、キリストを信じる者たちの復活の希望の根拠だ、ということです。世の終わりの時に、死者が復活することを神様が約束して下さっている、ということは、ファリサイ派がもともと主張していたことでした。そのことは既に7、8節に語られています。7節に「私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んでいます。王よ、私はこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです」とあります。そして8節には「神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか」とありますから、「この希望」とは、神が死者を復活させて下さるという希望であることが分かります。パウロは、ファリサイ派の一人として抱いていたこの希望が、主イエス・キリストの復活によって神様の確かな約束となったことを宣べ伝えているのです。

真実で理にかなったこと

 パウロがここまで話すと、総督フェストゥスは言葉を遮り、大声でこう言いました。「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ」。フェストゥスには、パウロが語っていることがとても正気の沙汰とは思えなかったのです。パウロの語っていることは、この世の現実とかみ合っていない、現実離れした妄想だ、おまえは現実を正しく捉えていない、と言ったのです。それに対してパウロはこう言いました。「フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです」。「理にかなった」と訳されている言葉の意味は、「頭がおかしい」の反対です。気が確かな、正気な、醒めた、分別のある、という意味です。私の語っていることこそ現実を本当に醒めた目で正しく捉えているのだ、と言っているのです。ここには、現実とは何か、現実を正しく捉えるとはどういうことか、をめぐる対立があります。パウロは、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しと、復活による私たちの復活の希望を語り、これこそが本当の現実であり、現実を正しく捉えるとはこのことを知ることなのだと言います。フェストゥスは、そういうことを信じるのは現実離れした妄想であって、おまえは現実を正しく捉えることができなくなっている、と言います。この対立は、他人事ではありません。私たちも常に、この問いの前に立たされています。聖書が語っている、私たちの罪と、そして主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みと復活の希望は、本当の現実なのか、それとも現実に目を塞いだ思い込みなのかという問いです。世の中の圧倒的に多くの人々は、後者のように、つまり神様を信じることは現実からの逃げだ、と考えています。その中で、キリストによる救いこそ本当の現実であり、真実で理にかなったことであると私たちは信じているのです。

復活の主イエスとの出会いによって

 この私たちの信仰は、そのように思い込むことによって得られるのではありません。「鰯の頭も信心から」とは違うのです。パウロは19節で「私は天から示されたことに背かず」に伝道してきたと語っています。彼の信仰と伝道の根拠は、「天からの示し」なのです。神様が見えなくなっていた目を開き、本当に見るべき現実を示して下さったのです。その示しは、復活して今も生きておられる主イエスとの出会いによって与えられました。それまで彼はファリサイ派の一人として、自分が律法を厳格に守ることで神の救いに到達することができると確信していたのです。しかし復活された主イエスとの出会いによって彼は、自分の力で救いを得ようとすることこそが人間の傲慢の罪であったことを示されたのです。そして救いは神様が、独り子イエス・キリストの十字架の苦しみと死、そして復活によって無償で与えて下さっている、私たちはこの恵みのご支配の下に既に置かれている、この神様の恵みのご支配こそが本当の現実なのだ、ということを示されたのです。私たちの目を開き、本当に現実を見つめさせてくれるのは、復活された主イエス・キリストとの出会いです。私たちのために十字架にかかって死んで下さり、私たちの先駆けとして復活して下さった主イエス・キリストとの出会いにおいてこそ私たちは、目に見えるこの世の現実の背後に隠されている神様の恵みの現実を見ることができるのです。その出会いが与えられるのがこの礼拝の場です。これから共にあずかる聖餐も、その本当の現実、神様の恵みの現実を私たちに味わわせてくれるのです。

恵みの現実の中で、ユーモアを持って

 信仰とは、この神様の恵みの現実の中で生きることです。そして私たちは、この神様の恵みの現実を人々に示し、その現実の中で共に生きようと語りかけていくのです。それが伝道です。パウロは26節以下で、アグリッパ王に、「あなたはユダヤの王として、主イエス・キリストの出来事を見たはずだ、そこに示されている本当の現実を受け入れなさい」と迫っていきます。しかしアグリッパは、「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか」と逃げてしまいます。フェストゥスにせよ、アグリッパにせよ、ベルニケにせよ、この世の現実を誰よりもよくわきまえ、その中で権力を保っている海千山千の人々です。彼らが、パウロの語る主イエス・キリストの福音を、現実離れした頭がおかしい者の言葉と受け止めたのは当然かもしれません。しかし、本当に理にかなったことを語っているのは、本当の現実を見つめているのは、パウロの方なのです。イエス・キリストを信じる信仰者は、本当の現実を見つめる目を開かれていない人々の中で、あざけられ、迫害を受けます。しかしパウロはそのような中で、むしろユーモアを持って語りかけています。「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが」。「私はあなたがたも、また全ての人々が、私の宣べ伝えている神様の恵みのご支配の現実に目を開かれ、私と同じようにその現実の中を生きる信仰者になって欲しいのです。このように鎖につながれることまで一緒にとは言いませんが」。自分を獄につないでいる人々に向かってこのようにユーモアをもって語ることができる彼の姿こそ、本当に気が確かな、正気な、醒めた者の姿です。彼は本当に現実を知っているのです。見るべきものを見ているのです。それは神様の恵みのご支配の現実です。主イエス・キリストの福音は、目に見えるこの世の厳しい現実の中で、私たちに神様の恵みのご支配という本当の現実を見つめさせ、確信をもって力強く、またユーモアをもって生きる力を与えるのです。

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