主日礼拝

キリストに会う

「キリストに会う」  牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; イザヤ書、第19章 16節-25節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第21章37節-22章21節
・ 讃美歌21; 231、241、402

 
殺されそうになったパウロ

 使徒言行録第22章には、初代教会最大の伝道者パウロが、自分の回心、人生の大転換の出来事を振り返って語っている演説が語られています。パウロは以前はサウロと呼ばれており、ユダヤ教ファリサイ派の若きエリートとして、キリスト教会を激しく憎み、迫害の急先鋒でした。そのサウロがまさに180度の転換をとげ、キリスト信者になったばかりか、今や最も力強くイエス・キリストを宣べ伝える伝道者となったのです。彼の回心の出来事は、使徒言行録の第9章に語られていました。本日のところは、9章に語られていたこの出来事を、パウロ自身が振り返って語っている自伝的な演説です。この演説がどのような状況において語られたのかを、まず確認しておきたいと思います。先週読んだ21章27節以下には、パウロが、エルサレム神殿の境内で、ユダヤ人たちのリンチによって殺されそうになったことが語られていました。神殿を監視するために隣接して造られていたローマ帝国の守備隊の砦から軍隊が出動して騒ぎに介入し、パウロを逮捕したのです。それはむしろ殺されそうになっていたパウロを保護した、ということです。守備隊の千人隊長は騒ぎの原因を調べるためにパウロを兵営へ連行しようとします。その途中でパウロは千人隊長に、群衆に話をさせてくれるように頼んだのです。隊長の許可を得てパウロが階段の上から人々に語った演説が22章1節以下です。つまりこの演説は、ユダヤ人たちが激しい怒りによってパウロを殺そうとしている、そういう大変緊迫した場面において、そのユダヤ人たちに対して語られたのです。

ユダヤ人たちに語りかける

 ユダヤ人たちは何をそんなに怒っているのでしょうか。騒ぎが起った直接の原因は、何人かのユダヤ人の誤解でした。彼らは、パウロが、エルサレム神殿の「ユダヤ人の庭」、つまりユダヤ人しか入ってはいけない所に異邦人を連れ込んで神殿を冒涜した、と勘違いしたのです。そのような事実はなかったのですが、しかしこのような誤解が生じた背景には、ユダヤ人たちが以前からパウロに対して深い憎しみ、敵意を抱いていたということがあります。ユダヤ人たちの間で、パウロは有名人でした。それはよい意味ではなく、裏切り者としてです。律法に最も忠実なファリサイ派の一員でありながら、先祖伝来の信仰を捨て、ナザレ人イエスを救い主キリストとする新しい信仰に転向し、神の民イスラエルとしての誇りを捨てて、異邦人も、割礼を受けてユダヤ人にならなくても、異邦人のままで神様の救いにあずかることができる、などと教えている。伝統的なユダヤ教の立場に立つ人々にとっては、パウロは許すことのできない裏切り者だったのです。それゆえにパウロを暗殺しようとする人々もいました。20章3節には、第三回伝道旅行の終わりに彼がギリシャからエルサレムへ向かおうとしていた頃、彼に対するユダヤ人の陰謀があったことを伝えています。それはパウロを暗殺しようという陰謀です。そういう背景があるからこのような騒ぎが起ったのであって、パウロがエルサレムに来て、神殿に向かえば必ずこのようなことが起ることは目に見えていたのです。つまり問題は彼が神殿に異邦人を引き込んだことが事実か否かではもはやないのです。パウロもそのことはよく分かっていました。それゆえに彼はここで、自分のこと、自分がどのようにしてキリスト信者となり、異邦人に伝道をするようになったのか、を語ったのです。つまりこの22章の演説は、パウロが、自分のことを裏切り者と思っているユダヤ人たちに、自分の回心の事情を説明しているものです。そのために彼は、ユダヤ人たちにできるだけ理解してもらえるように配慮しながら語っています。その一つが、21章40節にあるように、ヘブライ語で話したということです。また22章1節で彼は、「兄弟であり父である皆さん」と語り始めています。パウロがヘブライ語でそのように語り始めたのを聞いて群衆は静かになったのです。

ファリサイ派サウロ

 静まった群衆に彼は自分の生い立ちを語っていきます。3節です。「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました」。パウロは、キリキア州のタルソス生まれの、つまり外地生まれのユダヤ人です。しかし彼はこの都つまりエルサレムで育ち、ガマリエルのもとで律法について厳しい教育を受けたのです。ガマリエルという人は以前第5章34節に登場しました。そこには、「民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエル」とありました。パウロはこの人の弟子としてファリサイ派の教育を受け、将来はユダヤ教の指導者となることを期待されていたのです。当然のことながら彼は律法を熱心に守り、神殿での祭儀を重んじ、熱心に神に仕えていたのです。その点においては皆さんと同じだった、と彼は言っています。彼らもまた、神に熱心に仕えているつもりでいるのです。その熱心さのゆえに、パウロを許せない、許すべきでないと思っているのです。それと同じ怒りを私も抱いていた、とパウロは言います。それが4節です。「わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです」。「この道」とはキリストを信じる信仰のことです。使徒言行録には、キリスト教信仰のことが「この道」と言われているところがいくつかあります。それが使徒言行録の一つの特徴です。このことの持つ意味については、後で触れたいと思います。ここに語られているように、サウロと呼ばれていた彼は、今彼を殺そうとしているユダヤ人たちと同じように、神様に対する熱心さからキリスト信者たちを迫害し、殺そうとしていたのです。

神による大転換

 その彼に大転換が訪れました。それは5節にあるように、彼が大祭司や長老会から手紙をもらい、ダマスコにいるキリスト信者たちを捕えてエルサレムに連行し処罰しようとしてダマスコへ向かった、その途上で起こりました。その出来事は6~8節にこう語られています。「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました」。彼は主イエスと出会ったのです。復活して天に昇り、栄光に輝いておられる主イエスが彼に現れ、「なぜ、わたしを迫害するのか」と言われたのです。パウロはこのことによってまさに天地がひっくり返るような衝撃を受けました。神への信仰の熱心によって敵対していたナザレのイエスこそまことの神であり、そのイエスを信じる者たちの群れである教会を迫害することは、神様ご自身を迫害することだった、ということを示されたのです。天からの光、主イエスの栄光の輝きによって彼は目が見えなくなりました。手を引かれてダマスコに入った彼の目を開いてくれたのは、アナニアというキリスト信者でした。このアナニアのことを語る22章の記述は、9章とは少し違っています。9章ではアナニアはダマスコに住む一人のキリスト信者とだけ言われていますが、ここでは「律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判のよい人でした」とあります。ここにも、自分の回心の出来事をユダヤ人たちに理解してもらおうとするパウロの思いが示されています。そのことは、アナニアがパウロに語った言葉にも現れています。14節でアナニアはパウロにこう言ったのです。「わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです」。「わたしたちの先祖の神」、それはユダヤ人たちが先祖代々拝み、仕えてきた主なる神様です。ユダヤ人の主なる神ご自身がパウロを選び、御心を悟らせて下さったのです。そのために、「あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせ」て下さったのです。パウロは主なる神様の選びによって、「あの正しい方」つまり主イエス・キリストに会い、そのみ声を聞いたのです。これらのことによって語られているのは、パウロに起った大転換が、先祖伝来の神を捨てたとか裏切ったということでは決してなくて、ユダヤ人が信じ、仕えてきた先祖の神ご自身が、イエスこそキリストであるというみ心を示して下さったのであって、これは神様によって与えられた大転換だったのだ、ということです。

神の選びと召し

 この大転換によってパウロは、キリストを信じる者となっただけでなく、主イエス・キリストの証人として立てられたのです。アナニアはそのことを15節で語っています「あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです」。神様がパウロを選び、キリストと会わせ、その声を聞かせたのは、彼をキリストの証人、証し人とするためだったのです。神様はキリストによる救いの知らせを宣べ伝えさせるために、敵対していたパウロを選び、召されたのです。この神様の選びと召しの御心に応えるためにパウロに求められたことが16節です「今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい」。ためらわずに立ち上がり、その方の名、主イエス・キリストの名を唱えて洗礼を受けること、神様はそのことをパウロにお求めになったのです。

洗礼を受ける

 このクリスマスに、何名かの方々が洗礼を受けることを志願され、準備をしておられます。本日の午後に、長老会によってその方々の試問が行われます。洗礼を受けるとはどのようなことなのでしょうか。本日の箇所の言葉で言うならばそれは、主イエス・キリストのみ名を唱える者となることです。常にこの方のみ名を唱えつつ生きる、それはこの方のみ名の下で生きるということであり、さらにはっきり言えば、イエス・キリストのものとなる、ということです。自分はイエス・キリストのものであって、自分の主人はもはや自分ではなく、主イエス・キリストです、と公に宣言することです。そして、主イエスによって指し示される道を、主イエスの導きによって歩んでいくのです。キリストを信じる信仰のことが「この道」と呼ばれているのはそのためです。イエス・キリストを信じる信仰は一つの道です。道とは、そこを自分の足で一歩一歩具体的に歩んでいくものです。つまり信仰は、単なる「心の持ちよう」ではないし、「思想」でもない、あるいは「悟り済ました境地」のようなものでもない、ある道を具体的に歩んでいくことなのです。その道は、イエス・キリストによって示された道です。自分の主人はもはや自分ではなく、イエス・キリストである、その主人が示し与えてくれる道を歩んでいくのです。私たちが、自分の歩む道を好きなように選び取るのではありません。どの道を行ってもよいのではなくて、まさに「この道」、主イエスがお示しになる道を行くのです。信仰に生きるとは、「わが道を行く」ことではありません。「主イエスの道を行く」のです。洗礼を受けるとは、「わが道」を歩んでいる生まれつきの私たちが、主イエス・キリストと出会い、「主イエスの道」へと方向転換することです。回心とはそういう方向転換のことであり、パウロはそれをしたのです。主イエスによって示される道は人それぞれに違うでしょう。私たちはそれぞれに、主イエスが自分に示しておられる主イエスの道とは何なのか、どのような道を歩むことが自分に求められているのかを祈り求めていかなければなりません。パウロに示された主イエスの道は、キリストを宣べ伝える伝道者として歩む道だったのです。

新たな方向転換

 パウロは主イエス・キリストと出会うことによってこのような決定的な方向転換を与えられました。しかしその方向転換はこの時にただ一度きり起ったことではなかったのです。パウロはその後も、神様によって方向転換を与えられました。そのことが17節以下に語られていると言えるのです。ここには、彼が回心した後、エルサレム神殿で祈っていた時に、再び主イエスにお会いしたことが語られています。彼に現れた主イエスは、21節にあるように、彼を異邦人のもとへと遣わされたのです。つまりここには、パウロが異邦人への伝道者として立てられたこと、その使命が他ならぬエルサレムの神殿における祈りの中で与えられたことが語られているのです。
 ところでここでの主イエスとパウロとの対話はうまくつながっていないように感じられます。祈りの中でパウロに現れた主イエスは18節で「急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである」と言われました。エルサレムの人々、つまりユダヤ人たちがあなたの証しを受け入れないから、エルサレムを出て行け、と主はお命じになったのです。それに対してパウロは19、20節でこう言っています。「主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです」。このパウロの言葉は何を語っているのでしょうか。「エルサレムの人々が私の証しを受け入れないのは当たり前です。私はついこのあいだまで、この教えに反対し、教会を迫害していたのですから」ということでしょうか。普通に読めばそう感じられるわけですが、しかしパウロが何故そのようなことを言うのか、その理由は今一つはっきりしません。そしてそのパウロの言葉と、21節の主イエスの言葉、「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ」とのつながりも不自然です。両者の言っていることが噛み合っていないように思われるのです。しかしここでのパウロの言葉を別の意味で読むならば、その不自然さは解消されます。別の意味とは、ここでパウロは、主イエスの18節の言葉、あなたの証しを人々が受け入れないからここを出て行け、という命令に反論したのではないか、ということです。つまりパウロは、「ここの人々はあなたの証しを受け入れない」という主イエスのお言葉に対して、「いや、そんなことはないでしょう。私がこの間までキリスト信者たちを迫害し、教会を荒し回っていたことを、ユダヤ人たちは皆知っているのです。最初の殉教者ステファノが殺された時も、私がその場にいて、彼を殺す人々の上着の番をしていたこともよく知られているのです。そのような私が、今まで迫害していた教えを今度は全く反対に宣べ伝えていくのですから、誰もが、いったいこの人に何が起ったのか、と興味を持ち、私の話に耳を傾けるはずです。そして、このような大転換が私に起ったことに驚き、主イエス・キリストの偉大な力を知るようになるでしょう。だから、私がこの地でユダヤ人たちに伝道していくことこそ最も効果的であり、よい働きができるに違いありません」。パウロはそのように主イエスに言ったのではないでしょうか。そのように理解するなら、次の主イエスの「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ」という言葉は、パウロの反論に対する主イエスの再反論と言うか、いやむしろパウロの思いを退けて主イエスが下された命令としてつながるのです。「私はあなたを、異邦人のために遣わそうとして選び、立てたのだ。だからあなたはつべこべ言わずに私の示す道を歩め」ということです。この対話をこのように読むならば、パウロはここでも、主イエスにお会いしたことによって方向転換を迫られているということになります。彼は彼なりに、自分のこれまでの歩みを思い、今自分が与えられた伝道者としての立場を考え、このようにすれば最も効果的な働きができる、成果を上げることができる、と考えたのです。しかし主イエスは、そのような彼の思いを拒否なさる。「お前が考える道ではなく、私が示す道を歩め」とお命じになるのです。つまりパウロはここでも、「わが道」から「主イエスの道」への方向転換を求められているのです。異邦人への伝道者として生きることは、このようにして彼に与えられた「主イエスの道」だったのです。

主イエスの道

 そして結果的に見れば、この「主イエスの道」においてこそ、パウロは本当によい働きをし、成果を上げることができたのです。彼がこの時「これが一番効果的だ」と思った「わが道」は、実際にはまことに見通しの甘い、実現不可能な道だったのです。迫害者だった者が伝道者になったからといって、それで人々が真剣に話を聞いてくれるなどということはありません。むしろ、まさに今起っているように、裏切り者として排斥され、殺されそうになるのが落ちなのです。私たちが自分で考え、選び取ろうとする「わが道」とはこのようなものです。それは決して私たちが本当に生き生きと歩むことのできる道ではないし、私たちに与えられている賜物が本当に生かされる道でもないのです。私たちの賜物が本当に生かされ、本当に自分らしい歩みが与えられるのは、「わが道」を行くことによってではなく、「主イエスの道」、主イエス・キリストによって示され、与えられる道においてなのです。主イエスは私たちに出会い、語りかけることによって、私たちの主人となり、それによって私たちを、本当に歩み甲斐のある、自分が本当に生かされ、賜物を発揮してよい働きのできる道へと方向転換させて下さるのです。「わが道を行く」ことから、「主イエスの道を行く」ことへと方向転換することによってこそ、私たちは本当に祝福された人生を生きることができるのです。またそこでこそ、神様の救いのご計画が実現していくのです。本日は共に読まれる旧約聖書の箇所として、イザヤ書19章16節以下を選びましたが、そこには、神様の救いのご計画の完成において、エジプトやアッシリアという、当時イスラエルを苦しめていた異邦人の国も、主なる神様の祝福を受けるようになることが語られています。パウロが主イエスの道へと方向転換し、異邦人への伝道者となったことによって、この神様の救いのご計画が実現していったのです。

「わが道」から「主イエスの道」へ

 ダマスコへの道の途上でパウロに出会い、語りかけられた主イエス・キリストは、今、この礼拝において、私たち一人一人にも出会い、語りかけておられます。生まれつきの私たちは皆、「わが道を行く」という歩みをしている者です。自分の人生は自分のものだ、自分の道は自分で選ぶ、と思っているのです。しかしそのような歩みは、パウロにおいてもそうであったように、私たちにおいても、自分にとって決して幸せな生き方ではないばかりか、神様の独り子、主イエス・キリストを迫害し、神様に敵対して歩むことなのです。そのような歩みをしている私たちに、主イエス・キリストが出会われ、「なぜ、わたしを迫害するのか」と語りかけられるのです。その時私たちは、「わが道を行く」ことが、主イエスを苦しめ、神様に敵対することであることを示されて愕然とするのです。そのことこそが、悔い改めの、回心の、即ち信仰の入り口です。そこにおいて私たちは、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死が、「わが道を行く」私たちの罪によることであり、主イエスがその罪を全て背負い、私たちの赦しのために死んで下さったことを示されるのです。私たちは今、クリスマスに備えるアドベントの時を歩んでいます。主イエス・キリストがこの世に、一人の人間として生まれて下さったのは、「わが道を行く」私たちの罪を背負い、その苦しみを受け、死んで下さることによって、私たちに新しい道、主イエスの道を示し、歩ませて下さるためです。その新しい道への招きの言葉が16節です。「今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい」。この招きは、ここに集う全ての者に与えられています。このクリスマスに洗礼を受けようと準備している方々は、この招きに応えようとしているのです。今年は、病気の痛みや苦しみをかかえながら、自宅でこの礼拝の録音を聞きつつ洗礼に備えておられる方もおられます。神様は実に様々な仕方で、様々なことを通して、私たちを招いて下さるのです。招きに応えようとしている方々と共に、既に洗礼を受けた私たち全ての者も、この招きをもう一度新たに覚え、主イエスが示し与えて下さる「主イエスの道」へと、方向転換して歩んでいきたいのです。そこには、「わが道」を歩んでいた時とは比べ物にならない、神様の恵みによって本当に自分らしく生き生きと生かされる歩みが与えられるのです。
 パウロはユダヤ人たちの怒りによって殺されそうになり、ローマの囚人となりました。これからどうなっていくかわからない、危機的な状況に置かれています。しかし彼の姿は、そのようなことを全く感じさせない、落ち着いた、毅然としたものです。そのように歩むことができるのは、彼が「わが道」をでなく、「主イエスの道」を歩んでいるからです。主イエスにお会いし、「わが道」から「主イエスの道」へと方向転換することによってこそ私たちは、たとえ病や苦しみや悲しみの中にあっても、そして死に直面する時にも、慰め、喜び、平安の内に歩むことができるのです。

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