夕礼拝

いつ来てもよいように

「いつ来てもよいように」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 民数記、第15章 27節-31節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第12章 35節-48節
・ 讃美歌21; 229、573

 
1 今日からアドベント、待降節に入りました。アドベントというのは、「来る」という意味のラテン語に由来する言葉です。「来る」とは、だれが来るというのでしょうか。ほかならぬ主イエス・キリストです。主イエスが来られる。そのことを待ち望む時期がこの待降節なのです。今日の聖書の箇所が、12章の35-48節であることに、私は上思議な導きを感じます。待降節の第一主日にこの御言葉にご一緒に聴くことができることは幸いなことです。なぜなら教会は伝統的に、今日の箇所を、待降節の時期に読むべき箇所として大切にしてきたからです。
主イエスが来られるのを待ち望む、という時、私たちがまず思いますことは、クリスマスにお生まれになる主イエスを待ち望む、ということです。神の独り子、救い主イエス・キリストが、人の肉の体を持ってこの地上にお生まれくださった。乙女マリアからお生まれになった。神の御子がそのようにしてこの世に降って来られた、ここに現れた神の私たちに対する愛を、深く思う時なのです。けれども、待降節はそのことのみを待ち望む時でもありません。主イエスは実際に、この世に来てくださり、私たちの下に来てくださったのです。そのことを覚えるということだけであるならば、もうこの待ち望んでいたことは実現していることになります。待っていたお方、救い主は来てくださったのです。それにも関わらず、教会がこのアドベントになお何かを待ち望み続けているからこそ、今もこの待降節という時期は大事な、意味のある、今の私たちの心を目覚めさせるような時として、生きているのです。そこで待ち望まれ続けていることは何か。この地上に来られ、十字架におかかりになり、死んだ後に甦られ、天に挙げられた主イエス・キリストが、再び私たちのところに来てくださることです。神の右に座しておられるキリストが栄光を帯びて、再び私たちの下に来てくださる。そして私たちの救いを完成してくださる。十字架と復活によって開かれた救いの道を、その最終的な目標地点まで至らせてくださる。そのことをこそ、今を生きる私たちは待ち望んでいるのです。

2 教会の最初の世代の人たちも、今日の箇所をそういう思いで聴き取ったに違いありません。主人が婚宴に出かけている。その間の留守を任されているのが自分たちであることを知らされたのです。そこで留守を与かる僕たちがなすべきことは何か。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」(35節)。帯をしっかりと締めて衣の裾をひきからげ、いつでも帰ってくるご主人をお迎えできるように備えていなさい、というのです。ともし火をともし、主人が入ってくる時に暗がりを明るく照らすことができるようにしておきなさい、というのです。ところが主人はいつ帰ってくるのか分からない。主人が帰ってきて戸をたたくのはいつになるのやら見当もつかない。ということは、いつ主人が帰ってきてもいいように準備をしていなければならない、ということです。それは大変なことです。忍耐がいることです。自分自身の心の中での戦いを必要とすることです。
 「待つ」ということは、私たちの苦手とするところです。誰か人と待ち合わせをする場合でも、予定の時間より5分でも10分でも過ぎるというと、もうすぐ上安になってまいります。30分や一時間も、予定より遅れたとなれば、もう怒ってしまうでしょう。駅で人と待ち合わせをしていても、時間になっても相手が現れないと気をもみ始めます。次々と改札口から出てくる人ごみの中に相手を見つけ出そうと、背を伸ばし、目を凝らし始めるのです。特に現代はみんな忙しくしています。ちょっと待たされるだけですぐいらいらしてくる時代なのです。コンビニエンスストアのコピー機でコピーをしていても、10枚もコピーしていれば、後ろで待っている人のいらいらした息遣いが聞こえてくる、そういう時代です。ここでは主人は婚宴に出かけています。この当時の結婚のお祝いは数日間、あるいは数週間にもわたって続いたものです。今のように、ホテルで二三時間会食をしておしまい、というようなものではありません。時間を決めて待ち合わせをするどころの話ではない。いつ主人が帰ってくるのか皆目検討もつかないという状況なのです。けれども、ただ一つ、はっきりしていることがあります。それは、この主人は必ず帰ってくるということです。「私はこれから結婚の祝いに行って来る。その間、家の事は頼んだよ。必ず帰ってくるから」、そう言って出かけていったこの主人は、いつかは分からないけれども、約束どおり必ず帰ってこられるのです。待てども待てども帰ってこない。ついに主人は戻らずじまいであった、そんなことには決してならない、というのです。主人は必ず帰ってくる。そのことに望みを置き、「目を覚ましつづけている」僕は幸いなのです。この家にともし火がともり続けている限り、この家には主人がおられる、主人は必ず帰って来られるということを、まわりの家々に向かって示し続けていることになるのです。

3 このようにして、主人の留守の間、僕たちが目を覚まして持ちこたえたならば、彼らはどういう意味で幸いだというのでしょう。37節に、帰ってきた主人の驚くべき姿が語られています。「はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」。これはみんな、本来僕がなすべき務めです。僕こそ主人を、ようこそお帰りくださいましたと言って迎え入れ、主人を食事の席に着かせ、そばで給仕するべき話です。ところがすべては逆になっています。僕がなすべき務めを主人が行ってくださっているのです。「わたしが留守の間、よくこの家を守ってくれた。さあ、あなた方を豊かな食卓に着かせよう。わたしと一緒に喜んでくれ」。主人の語りかける声が聞こえてくるような思いがいたします。僕たちは目を丸くして驚きながら、主人の給仕を受けることになるのです。ここで僕たちが与かる食卓、それはこの主人が行っていた婚宴の食卓と無関係なものではないと私は思います。いや切っても切れない関係にある。主人はこの婚宴の食卓の豊かな喜びを携えて、自分の家に帰ってきたのです。他でもない、家を預かっていた僕たちと、この喜びを分かち合うためです。そうすると、主人は僕たちをそっちのけにして、自分だけいい思いをして現を抜かしていたのでは決してない。むしろ初めから、僕たちとこの喜びを分かち合うことを楽しみにして、婚宴に出かけていったのです。私たちの主人である主イエス・キリストは、十字架の上で死に、甦られた後、父なる神のもとへと昇られました。それはまた、再び来られて、僕である私たちにも、父の御許での喜びを分かち合ってくださるためにほかならないのです。父の御許での喜びと栄光の中へと私たちを招きいれるためにこそ、主人は婚宴に出かけていったのです。そうしますと、この婚宴は誰か第三者の結婚祝いではないかもしれません。まさしく、御子イエス・キリストと父なる神との結婚、御子と父なる神との豊かな交わりのことであり、そこに僕たちをも与からせようとしていてくださる、そういう深い御心が、ここに示されているのだと思うのです。

4 ところが、ここまで話を聞いていたとき、口を挟まずにはいられなくなった人がいました。弟子のペトロです。「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」(41節)。おそらくペトロは思ったのでしょう。今主が話された、神の国の喜びに与かるにふさわしいのは、こんなに毎日主に仕え、託されている群衆たちの世話をしている自分たち、目を覚まして毎日働いている自分たちであるに違いない、と。それで確かめたくなったのです。「ほかでもない、私たちのことなんでしょう、主よ」と。主はそれに直接にはお答えにならず、こうおっしゃいます、「主人が召し使いの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない」(42-44節)。ここでは、僕の中のある者が「管理人」に立てられることが語られています。主人の留守の間、召使いたちに時間どおりに食べ物を分配し、お世話をする「管理人」が必要とされるのです。そうしますと、それはまさしく、群衆の世話をしているペトロを始めとする弟子たちに他なりません。主はここでペトロの問いに直接にはお答えになっていませんが、やはりこのたとえは第一にペトロたち弟子たちに向かって語られていることを暗に示しておられるのです。

5 ペトロは心の中で「しめたぞ!これは自分たちのことなんだ。自分たちには将来とも神様の特別の顧み、特別な恵みに与かる特権が認められているんだ」、そう思って浮かれ気分にひたりかけたかもしれない。ところが、そこで主のお応えは終わらないのです。「しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、上忠実な者たちと同じ目に遭わせる」(45-46節)。主はおっしゃるのです。「そうだ、確かにあなたがたには特別な務めが与えられており、大きな報いも約束されている。けれども覚えておいてほしい。それだけあなたがたの責任は大きいのだよ。わたしが留守の間、この僕たち、召し使いたちが、わたしのことを忘れることなく、わたしが必ず帰ってくることに望みをおいてこの神の家を守り続けるように、この      世にあってわたしの恵みの支配を指し示し続けるように、ともし火を掲げ続けるように、あなたたちが彼らを励まし、慰め、共に歩んでほしいのだ」、と。管理人として立てられた者は、特別な顧みを約束されています。しかしそれだけ責任は大きいのです。重いのです。もし与えられた務めを放棄して、自分勝手に振舞うのならば、思いがけない日に主人が帰ってきて、管理人たちをこそ真っ先に裁かれるというのです。
 ロシアの文豪、ドストエフスキーの書いた小説『カラマーゾフの兄弟』には、大審問官という人物が登場します。15世紀のスペインのセビリャが舞台です。そこにある時ひょっこり、主イエスが現れる。主イエスが再び来られるのです。ところが、強大な権力と富を蓄え、政治の世界にも力を奮い、この世にどっぷりと浸かりきっている教会は、法王の権威の下に、自分たちを神、主人としてしまっていたのです。だから、再び来られた本当の主人を喜んで迎えることができない。主を裁きの場に引き出した大審問官は主にこう言い渡すのです。「もうお前はすっかり法王に渡してしまったじゃないか。いま一切のことは法王の手中にあるのだ。だから、今となって出て来るのは断然よしてもらいたい」。「お前は自分の口から誓言して、人間を結んだり解いたりする権利を我々に授けてくれた。だからもちろんいまとなって、その権利を我々から奪うわけにゆかない。どうしてお前は我々の邪魔に来たのだ」?恐ろしいことです。これが「主人の帰りは遅れる」と勝手に決め込み、主人への畏れを失い、好き勝手をし始めた教会の姿です。主人を迎えるためにともし火を掲げるのをやめてしまった教会の姿です。目を覚まして主のご支配を見つめ続けるのをやめて、自分たちの支配を確立し、自分を主人にすることに心を傾けた教会のなれの果ての姿です。下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔って騒いでいる姿です。主人の手前、我慢していた憎しみや欲望、怒りが噴出し、神を主人とする家であることを忘れた教会の姿です。特別な務めを与えられていながら、それを軽視したり、無視したりして、むしろ主人の留守をよいことに我が物顔に振舞うならば、主イエスは思いがけない日に突然帰って来て、教会をこそ、裁かれるのです。主ご自身が、誰が本当の主人であるのかを明らかにし、神がまことに神であることを貫かれる。その時、それは上忠実な者たちには裁きとなって現れるのです。ましてこの群れを牧するようにと、主から託されている牧師、長老、執事の責任は重いのです。いずまいをただされるような思いを持って聴くべき御言葉です。
「待つ」というのは、これからやって来るお方のほうに自分を合わせるということです。自分の都合を優先させるのではなく、やってくるお方に自分を合わせるのです。待つということは、自分を相手に従わせること、相手よりも低く立つことなのです。「目を覚まして待っている」ということはそれゆえ、自分自身ではなく、やって来られるお方をこそ、主人とし続けるということなのです。礼拝に行かなくても、一週間全く祈らなくても、別に日常生活に何の差し障りもなかったじゃないか、だいたいこの世界に本当に主は再び来てくださるのか、そうは思えないことばかりが現実に起き続けているではないか、そんな思いが忍び込んでくる時、私たちの中にも、主人の帰りを待つことを放棄する誘惑が入り込んでくるのです。待ちきれずに自分で御国を実現しようとするなら、その結果は自分を神とする王国の建設なのであり、そのせいでたくさんの下男や女中が傷つき苦しむことになるのです。そんな時、主は語りかけられます。「わたしは必ず帰ってくる。腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」。「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」。教会は、主が十字架におかかりになる前に、オリーブ山で私たちに先んじて誘惑と戦ってくださったそのお姿に倣って、目を覚まして祈っていなくてはなりません。

6 先ほど読まれた旧約聖書の箇所、民数記の15章には、罪を犯した者を、二種類に区別していました。「誤って過失の罪を犯した人」と「故意に罪を犯した者」であります。誤って罪を犯した者は、贖いの儀式によって赦されるけれども、「故意に罪を犯した者」は、「主を冒涜する者」であり、「主の言葉を侮り、その命令を破ったのであるから、必ず絶たれ、その罪責を負う」というのです。私たちは、神の独り子、御子イエス・キリストの十字架の死によって、神の前での罪を赦され、神の子、僕としていただいた者です。その恵みをはっきりと示され、またそれに現に与かっていながら、あたかもそれがないかのように振舞い、主が命をかけて注がれた愛をないがしろにするならば、私たちは自らを神から引き離し、自分で救いから遠ざかることになってしまうのです。「主人の思いを知りながら何も準備しなかった僕」、「主人の思い通りにしなかった僕」になってしまうのです。
主の来られる時を、目を覚まして待ち望むということは、私たちに与えられている主イエスによる救いを重く受け止め、主の十字架の下に立ち続けるということです。主イエスを本当に私たちの主とし続けること、このお方の与えてくださる御国の喜びに生き続ける、留まり続けることなのです。このことを知らずにいたがために、鞭打たれる人は、打たれても少しで済むなら、教会にまだつながっていない、主イエスのことを知らない人の方が気楽なんじゃないか。そんなふうに思ってしまうかもしれません。けれどもここで「思い」と訳されている言葉は「御心」、「願い」とも訳せる言葉であることを思うべきです。つまり主はここで、教会に生きる私たちには、御心を、その心の内を特別に明かしてくださっているのです。「わたしがあなたたちの本当の主だ。わたしは再び来る。それまであなたがたに託した羊の群れを牧してほしい。わたしの願いは、さらに多くの者が集められ、この家の者として加えられることだ。そのために先んじて集められたあなたがたに、恵みを分配する務めを託したのだ。だからこそまずあなたがたが目を覚まし、いつも新しく御言葉に聴き、わたしの恵みの中に立ち続けてほしい」、これが主の願いであります。主の招きの言葉なのです。「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」(48節)。これは私たちに重荷を負わせようとする御言葉ではありません。多く与えられ、多く任されている私たち教会が、それだけ、神に愛され、重んじられ、期待されていることを語っているのです。主イエスの恵みのご支配の下におかれ、主が再び来てくださる時を待ち望みつつ、この世にあってまことの主を証しする御言葉のともし火を掲げ続ける、主の再び来てくださる時に備えて、「準備のできた民を主のために用意する」(1:17)、こんな光栄で、幸いな務めのために、今日も生かされ、用いていただいている、それが私たちなのです。待ち望む教会、わたしたちのまことの姿がここにあるのです。
祈り 主イエス・キリストの父なる神様、独り子をこの世にお与えになり、十字架の死に引き渡されるほどまでに、私共を愛し抜かれたあなたの愛の重さを、今しっかりと受け止めさせてください。十字架の愛をかろんじることなく、今私共がおかれておりますはかりしれない恵みの中にどうか立ち続けることができますように。主イエスが再び来られる時に至るまで、御言葉のともし火を掲げ続ける務めに生かしてください。牧師・長老・執事を強め、託された神の民がまことにあなたの恵みの中を歩み続けることができるように奉仕する、そのことに必要な一切のものをお与えください。
再び来られる主、イエス・キリストの御吊によって祈ります、アーメン。

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