夕礼拝

祈りと御言葉に専念する

「祈りと御言葉に専念する」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編第119章105-112節
・ 新約聖書:使徒言行録第6章1-7節
・ 讃美歌:11、393

 教会には様々な人がいます。この横浜指路教会でも、年齢も、性別も、職業も、趣味も、性格も何もかも違う人たちが、毎週日曜日に集まってきます。
 普通、こんなに違う人々が集まっていれば、意見の違いとか、対立とか、あの人が好き、嫌いとか、色々な問題が生じてくるものです。むしろ、こんなに違う人々が集まってくる所は、他にも中々ありません。
 違いがあるというのは全く悪いことではありません。でも違いがある中で、実際に問題が起こってきた時に、教会においては何で人々が一致するのか、何を一番大切にしてこの問題を解決しようとするのか、それが最も重要なことです。それは、お互いの利益や不利益を計算して、ちょうど良い妥協点を見つけることではありません。誰かが誰かを説得して、みんなの意見を一つにまとめることでもありません。
 今日の聖書箇所は、ペンテコステに聖霊が降って誕生してから間もない、初代教会が、何を中心に、何を一番大切にして、違いや問題を乗り越えたのか、そのために何をしたのか、ということを、教えてくれています。このことは、今のわたしたちの教会の歩みにおいても、まったく変わらずに、同じように一番重要なことなのです。

 初代教会は、どのような教会だったのでしょうか。使徒言行録に書かれていることは、人々が心を一つに、思いを一つにして祈り、使徒たちが主イエスを証しし、どんどん人数が増え、互いに持ち物を共有して恵みを分かち合っていた、ということです。わたしたちにとって、とても理想的と思えるような、信仰の純粋さと熱心さを感じます。
 しかし、聖書は、教会がいつも理想通りにはいかなかったこと。迫害という外からの攻撃はもちろん、教会の内部でも、様々な問題やトラブルを抱えていたことを伝えています。今回書かれているのは、どのような問題だったのでしょうか。
 
 1節に、ギリシャ語を話すユダヤ人と、ヘブライ語を話すユダヤ人が出てきます。どちらも同じユダヤ人ですが、それぞれ生活してきた文化も、言葉も違います。
 ギリシャ語を話すユダヤ人というのは、国を離れて外国に移住し、そこで生活をしていた人たちです。この当時の世界の共通語はギリシャ語でした。ですから、この外国生活をしているユダヤ人たちもギリシャ語を話し、世界の他の国の人々と接し、様々な文化や新しい思想に触れて、生活を送っていたのです。このギリシャ語を話すユダヤ人の中には、エルサレムのお祭りに参加するために、海外からエルサレムへやってくる者、また後でお話ししますが、祖国に晩年に戻ってくる者もたくさんいました。そうして滞在している間に、主イエスの十字架と復活の福音を聞いて、信仰を得て、教会に加わった者が大勢いたのです。
 もう一方で、ヘブライ語を話すユダヤ人たちがいました。この人たちはずっとエルサレムの周辺にいて、自分の国を離れたことがなく、ユダヤ人としての習慣を守り、旧約聖書の律法をとても大切にし、また神殿での儀式などを重んじていた人々です。この人たちの中にも、主イエスの福音を信じ、教会のメンバーになった者がたくさんいました。

 彼らは同じユダヤ人でしたが、言語も違えば、生活習慣も、文化も違っていました。そのような人々が、共にこのエルサレムにおいて、主イエスの復活の出来事を聞き、主イエスが救い主であると信じ、教会のメンバーになったのです。
 
 ここで、すでに大切な一致のための共通点が明らかにされました。それは1節に「弟子の数が増えてきて」と書かれていることです。ギリシャ語を話すユダヤ人も、ヘブライ語を話すユダヤ人も、主イエスを信じて、主イエスの弟子になった、ということです。
 この「弟子」という言葉は、使徒言行録ではここで初めて使われます。十二使徒たちのことではありません。ここでは彼らは特別に「使徒たち」と呼ばれています。「弟子」というのは、主イエスを信じて教会に加わった人たちすべてのことです。
 主イエスを信じた人は、言葉が違っても、文化が違っても、みな主イエス「弟子」になります。わたしたちも、主イエスを信じるならば、主イエスの弟子になったのです。みな、お一人の主イエスを信じ、お一人の主イエスに従うのです。教会の人々は、ただ「主イエスの弟子である」ということの一点において、共通しており、主イエスを信じた、ということだけにおいて、一つになって集まっているのです。

 さて、この主イエスの弟子たちの中で、ある苦情が出ました。それは、ギリシャ語を話すユダヤ人たちからの苦情で、自分たちの仲間のやもめたちが、日々の分配において軽んじられている、見落とされている、ということでした。ギリシャ語を話すユダヤ人の中でも敬虔で熱心な人は、年を取ると、聖なる都エルサレムに葬られたいと願って、祖国に引っ越すことが多かったようです。すると、特にこのギリシャ語を話すユダヤ人の中で、そのような形でエルサレムへやってきて夫を亡くし、やもめになる人も多かったと考えられます。
 やもめたちは身よりがなく、収入を得るのも困難なので、この日々の分配を特に必要としていました。
 日々の分配はこれまでに何度か述べられていましたが、改めて4:32-35(220頁)を読んでみましょう。

 「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい者がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足元に置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。」

 主イエスを信じた人々は、お一人の主イエスに結ばれ、また互いにも一つに結ばれていました。一つとなって、主イエスに救われた者として新しく生き始めた人々の群れは、持ち物を自分のものだと言わないで、すべてを共有しました。自分だけが満たされていれば良いと考える人がいなかった、ということです。
 主イエスの救いを信じた人々は、神の恵みに生かされている者として、自分に与えられているものを、必要とされているところで用いられるように、自発的に喜んで、使徒たちのもとに、神への献げものとして持って来ました。そして、この日々の分配は、使徒たちがその役割を担っていたようです。

 初代の教会において人々は、罪人である自分を救って下さった神に感謝し、また共に生きる隣人のために奉仕すること、神を愛し、隣人を愛するという交わりの具体的な形として、このように自分の持ち物を共有し、また分配して、恵みも貧しさも分かち合っていたのでした。
 そして多くの人々に称賛されていたとあります。
 しかしこの、良い交わり、神に従おうとする良い行いの中から、苦情が出てきました。わたしたちも、神に喜ばれることを熱心にしようとする中で、一番大切なことを見落としていないかを心に留めなければならないと思います。

 さて、苦情を聞いた使徒たちからすれば、日に日に弟子の数が増え、多くの人々に神の御言葉を語り続け、さらに分配を必要とする人もどんどん増加していく中で、手が回らなくなっていたのかも知れません。
 しかし、このような苦情が生じて、使徒たちは改めて、最も大切にすべきことに気づき、それをはっきりと弟子たちに示すことが出来ました。2節にあるように、彼らはこう言いました。

 「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」

 これは、ただ単に、忙しくてもう手が回らないから分業しましょう、役割分担しましょう、という提案ではありません。
 使徒たちは、この苦情が起こったことについて、「神の言葉をないがしろにしている」ということを問題にしました。使徒たちは、このような時こそ、すべての弟子たちが神の言葉に集中しなければならない。また、その言葉を語る務めを担っている自分たちが、このことにもっと励まなければならない、と気づいたのです。
 使徒たちが担っていたのは、人々が聞くべき神の言葉、主イエスの十字架と復活の福音を語る務めです。また、祈ることです。これは礼拝のことであると言えます。説教が語られ、人々がその御言葉で生かされると共に、まだ福音を知らない人々に伝道することです。
 この神の言葉、福音によって、人々は救われ、主イエスの命に生かされ、神と隣人との愛の交わりの中で生きることが出来るのです。神の言葉、神の恵みに生かされているからこそ、感謝の心で物を共有すること、貧しい人に分配をすることも起こったのです。
 教会はどのような時も、この神の言葉を聞く礼拝に集中することを第一にします。ここにこそ、キリスト者の命の源があり、喜びがあるからです。
 「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」というのは、使徒たちが、その神の言葉を人々に取り次ぐ奉仕を何よりも優先し、また教会全体が神の言葉を聞くことを最も大切にしていこう、という決意表明です。

 そして、教会が神の言葉を大切にし、そのために祈りと御言葉の奉仕に使徒たちが集中できるように、教会全体が礼拝を何よりも大切にするために、一つの具体的な形として、霊と知恵に満ちた評判の良い人七人に、これまで使徒たちが担ってきた、食事の世話の仕事を任せることしました。
 これは教会の「執事」という務めの最初だとも言われています。執事はギリシャ語で「ディアコノス」と言いますが、これは日々の分配の「分配」という言葉、また食事の世話の「世話」という言葉のギリシャ語「ディアコニア」と同じ言葉なのです。
 教会にこのような務めをするための組織が生まれました。この横浜指路教会にも、御言葉の奉仕をする牧師・伝道師がおり、また長老と、執事が立てられています。
 これらの務めが立てられている理由は、一つの目的のため、教会が祈りと御言葉、つまり礼拝を中心として、神の言葉を聞き、主イエスのもとで一つであるために、立てられている務めなのです。

 「執事」の務めには、次のような人が選ばれました。それは、霊と知恵に満ちた人、そして評判の良い人です。
 霊に満ちている、というのは、聖霊の賜物を受けて、信仰生活を忠実に送っている人。
 また、知恵に満ちている、というのは、聖霊の実りとしての知恵、信仰に基づく知恵を持っている人。これは様々なことについて、信仰的に判断が出来る、ということもあると思います。
 そして、評判が良いこと。「評判がよい」と訳されているのは、本来は「証明されている、証しされている」という意味の言葉です。なので、これは人気がある人とか、感じが良い、とかではなくて、生活において、その信仰が証しされていることです。その人自身が神の言葉によく聞き従う人であり、実際に礼拝を重んじる生活をしている人である、ということです。

 そして教会は7人の人を選びました。そして、「使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた」と書かれています。このことを「按手」と言います。牧師を任職する時に行われますし、また長老、執事の任職でも行うことが多くなっています。
 按手というのは、教会がその人をある務めに任命すること、またその務めのために必要な恵みと力が聖霊によって与えられるように祈る、ということです。また教会を通して示される神の召命である、とも言われます。
 按手は教会において、教会の一同が支持するところで行われます。使徒言行録の6章5節にも、「一同はこの提案に賛成し」と書かれています。そうやって、教会全体において選ばれ、按手を受けた人は、それぞれの職務において、具体的な務め、責任を担っていくのです。
 また、教会において、そのような特別な務めについている人だけが、奉仕をしていくのではありません。この執事の務めは、教会のメンバーが献金や財産を献げたり、賜物として与えられているものを献げた時に、それを神のため、教会のために配慮しつつ用いていく働きです。
 ですから、教会がこのような執事の務めに、ある人々を召し出す時、同時にすべての教会の人々が、自分たちに与えられている聖霊の賜物を思い起こし、奉仕に召されていることを覚えずにはいられないでしょう。教会に繋がっている一人一人が、それぞれに与えられている恵み、賜物を献げて、活かして、神のため、教会のため、隣人のために、その賜物を用いる責任があるのです。

 このように、教会全体が7人を選び、手を置いて祈る按手をし、食事の世話の働きを任せることになりました。一つの教会の中にある二つのグループは、分裂したりするのではなく、神の御言葉に集中すること向かって再び一つになり、そのために執事の務めを担う者を選び、教会の新しい体制を整えました。
 人が増えて、教会において様々なことが起こりる中で、教会がしたことは、いつもに増して神の御言葉を最も大切にしていくことでした。神の言葉を真剣に聞いていくために、使徒たちが祈りと御言葉に専念すること。そのためには変化も恐れず、積極的に新しい体制を整えて、神の言葉において弟子たちが心も思いも一つになることでした。またこの新しい務めによって、人々の交わり、愛の業や奉仕もますます豊かになったでしょう。

 教会が御言葉を中心とするということは、教会が神ご自身によって支配されているということです。主イエス・キリストのみが頭となり、主人となって、教会を治めておられるということです。わたしたちは、主イエスの十字架の死によって罪を赦され、救っていただいた者の集まりです。主イエスだけが、わたしたちを罪と死から解放し、神の恵みの支配の中に入れて下さった方なのです。
 もし教会が主イエスによって一つになっていないなら、トラブルが起きれば分裂するでしょうし、また人の思いや感情が優先したり、ある力のある人が支配しようとしたり、また利益や不利益によってものごとを判断するような、教会ではないものになってしまいます。
 祈りと御言葉を中心にして歩むところでのみ、神の愛のご支配のもと、主イエスの福音が語られ、聖霊によって主イエスの復活の命にあずかり、神に従っていく教会であることが出来るのです。教会が神のご支配のもとにあるなら、皆が神の言葉のみに聞き従うなら、教会はどのような困難も乗り越えていくことができるでしょう。
 教会はキリストを頭とする、一つの体です。主イエスを信じた一人一人は、主イエスに結ばれた一つの体です。教会はそのようにして御言葉を聞き、主イエスの御心に従って、神の御国の完成、神のご支配の完成に向かって、歩んでいくのです。

 使徒たちが祈りと御言葉に専念し、また食事の世話の務めを担う人を選び、そうやって教会が神の言葉を重んじた結果、どうなったのでしょうか。
 7節には、「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った」とあります。
 御言葉によって教会が一つとなり、礼拝に集中していくことで、ますます主イエスの救いが多くの人々に広がっていったのです。ますます神の救いの恵みが多くの人に知れ渡り、聖霊なる神様のお働きによって、信仰を与えられ、主イエスの救いにあずかったのです。主イエスの福音があらゆる国の人に宣べ伝えられること。それが、神の御心に適う教会の歩みです。

 按手を受け、食事の世話の務めに選ばれた7人のうち、特にステファノとフィリポは、使徒言行録における、教会の伝道の新たな展開に繋がっていく人々です。
 今日の続きの8節では、「ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」と書かれています。不思議な業としるしは、主イエスの福音を証しするためのものです。つまり、ステファノは主イエスの十字架と復活を力強く伝道していた、ということです。

 伝道や福音を告げ知らせることは、牧師や伝道師などの、礼拝において御言葉を語る務めにある人だけの専売特許のようなものではありません。すべての者が、それぞれ自分に与えられたところ、与えられた賜物によって、主イエスのことを宣べ伝えていくのです。
 礼拝において、御言葉の奉仕に当たる者が聖霊の導きによって聖書を説き明かし、神の言葉が語られる時、その御言葉に生かされ、恵みを受けた一人一人が、また聖霊の力を受けて、その恵みを語っていくのです。自分が受けた喜びを広めていくのです。

 神のご支配のもとで一つとなり、御言葉と祈りに集中することで、教会の一人一人が豊かな恵みの賜物を受け、それを喜んで、神のために、隣人のために用いることができます。また、主イエスの愛を伝え、神の救いへの招きを、まだ知らない人々に届けていくのです。

 神の言葉が、主ご自身がこの教会を、わたしたちを支配し、恵みの御手の内に置いて下さっていますから、わたしたちも、祈りと御言葉を重んじ、ただ神の言葉によって一つとなりましょう。そして、神の言葉、主イエスの十字架と復活の福音がますます広まり、主イエスの弟子がますます教会に加えられますように。

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