夕礼拝

失われた一匹を見つけるまで

説教題「失われた一匹を見つけるまで」 副牧師 川嶋章弘

エゼキエル書 第34章11-16節
ルカによる福音書 第15章1-10節

14章からの流れを意識しつつ
 本日からルカによる福音書15章を読み始めます。この15章には、よく知られている主イエスの三つのたとえが語られています。4-7節の「見失った羊のたとえ」、8-10節の「無くした銀貨のたとえ」、11-32節の「放蕩息子のたとえ」です。本日は、最初の二つのたとえを見ていきますが、その前に、主イエスがこれら三つのたとえを話された状況に目を向けたいと思います。これらのたとえはよく知られているだけに、独立した話として語られることも多くあります。しかしせっかく続けてルカ福音書を読み進めているので、14章からの流れを意識しつつ15章も読み進めていきたいのです。

徴税人や罪人と共に食事をする
 本日の箇所の冒頭1節に「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」とあります。直前の14章25-35節では、主イエスの弟子であり続けるために主イエスにのみ信頼して生きることが教えられていました。そのように生きることが、主イエスの弟子として塩味を失うことなく生き続けることである、と語られていたのです。その終わりで主イエスは、「聞く耳のある者は聞きなさい」(35節)と言われました。この主イエスのお言葉を聞いて、徴税人や罪人が主イエスの話を聞こうとして、主イエスのもとに近寄って来たのかもしれません。するとファリサイ派の人たちや律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言い出しました。この福音書の5章30節で、主イエスに対して「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と言われていたように、主イエスは徴税人や罪人と一緒に食事をされたのです。前回まで見てきた14章で、安息日にファリサイ派のある議員が催した食事会に出席した主イエスは、そこにいた人たちにたとえを用いてお語りになりました。ファリサイ派の人たちや律法学者たちが、神の国の食事へ招かれているにもかかわらず、その招きを拒んでいることをお示しになり、神様が「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」を、つまり当時の社会では、食事会に招かれるにふさわしくないと考えられていた人たちを、神の国の食事へ招かれることをお語りになったのです。まさにこの神のみ心の通りに、主イエスは地上のご生涯において、当時の社会で、食事会に招かれるにふさわしくないと考えられていた、一緒に食卓を囲むことから排除されていた、徴税人や罪人と共に食事をされたのです。

互いに受け入れ合う交わりの象徴
 このことは、単に食事を一緒に食べるか食べないかの問題に留まりません。「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と言われているように、ある人と一緒に食事をすることは、その人を迎え入れること、自分たちの交わりに迎え入れることだからです。ルカ福音書の続きである使徒言行録では、誕生したばかりの教会で、誰と一緒に食事をして良いのかについて問題になったことが記されていますが、それは要するに、誰を教会の交わりに迎え入れて良いのかという問題でした。私たちの教会においても一緒に食事をすることが大切にされてきたのは、単に一緒にご飯を食べると楽しいからではなく、共に食事をすることが教会の交わりの象徴であったからです。共に食事をすることが、互いに受け入れ合う主にある交わりの象徴であったからなのです。

一緒に食事をしたくない
 徴税人や罪人を受け入れ、共に食事をされる主イエスに対してファリサイ派の人たちや律法学者たちは不平を言いましたが、その不平の理由は、主イエスが彼らと食事をしなかったからではありません。徴税人や罪人だけと共に食事をするなんて許せない、と不平を言っているのではないのです。14章で語られていたように、主イエスはファリサイ派の人たちや律法学者たちとも共に食事をされました。主イエスは徴税人や罪人だけでなく、ファリサイ派の人たちや律法学者たちをも一つの食卓へと招かれるのです。しかし彼らにとって徴税人や罪人と一緒に食事をすることは汚れることでしたから、一緒に食事をすることも、交わりを持つことも考えられないことでした。彼らの不平の理由の根本には、自分たちが徴税人や罪人と一緒の食事に招かれていることがあったのです。平たく言えば、彼らはこんな人たちとは一緒に食事をしたくない、と思っていました。こんな人たちとは交わりを持ちたくない、と思っていたのです。

私たち自身の振る舞い
 このようなファリサイ派や律法学者の姿に、私たちは嫌悪感を抱くのではないでしょうか。そこに差別があることを敏感に感じ取るからです。そして教会の交わりは、私たちの交わりはそのようであってはならない、と思うのです。しかしどうでしょうか。私たちも教会で、こんな人たちとは一緒に食事をしたくない、こんな人たちとは交わりを持ちたくない、という思いを抱いてしまうことがあるのではないでしょうか。ファリサイ派や律法学者は、律法の掟をしっかり守って生きている自分たちと、そうでない徴税人や罪人を比べて、自分はあんな人たちとは交わりを持ちたくない、と思っていました。私たちも自分自身とほかの人を比べて、相手を下に見て蔑んでしまったり、逆に相手を上に見て妬んでしまったりすることがあります。蔑みや妬みによって、私たちの心はこの人とは一緒に食事をしたくない、交わりを持ちたくない、という思いで占領されてしまうことがあるのです。私たちが嫌悪感を抱かざるを得ないようなファリサイ派や律法学者の振る舞いは、実は私たち自身の振る舞いでもあるのです。主イエスは、不平を言っているファリサイ派の人たちや律法学者たちに、そしてこの人とは交わりを持ちたくない、という不満でしばしば心が一杯になってしまう私たちに語りかけてくださっているのです。
 私たちは自分が、あの人とは交わりを持ちたくない、と思ってしまうことをよく知っています。そのような弱さや醜さを自分が抱えていることをよく知っています。しかし私たちはそのような思いを自分の力で押し殺すことによって、自分の弱さや醜さを取り除くことができるわけではありません。そうではなく主イエスの語りかけに聞くことによって、私たちは自分とほかの人を比べて、その人との交わりを拒んでしまうような弱さや醜さから自由にされるのです。

失われた一匹を見つけるまで
 主イエスは、まず4-7節で「見失った羊のたとえ」を話され、続く8-10節で「無くした銀貨のたとえ」を話されています。この二つのたとえは、どちらも失われたものを見つけ出すまで捜すことが見つめられています。「見失った羊のたとえ」では、このように言われています。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」。「あなたがたの中に」と語り始めることによって、主イエスは、ファリサイ派の人たちや律法学者たちに、そして私たちに、このたとえを自分のこととして受け止めるよう導かれます。私たちが百匹の羊を持っているとして一匹を見失ったとすれば、その一匹を見つけ出すまで捜し回るだろう。自分の大切なもの、大切な財産が失われないために当然そうするだろう、と言われているのです。ところが私たちは、九十九匹をそのまま野原に残して、見失った一匹を捜しに行くのは無謀だ、と考えたりします。野原に残された九十九匹が獣にでも襲われて殺されてしまったら、見失った一匹を見つけたところで、より多くの財産を失ってしまうので元も子もないと考えるのです。しかしそのように考えなくて良いと思います。このたとえは、九十九匹を危険に晒してまで一匹を捜しに行くのか、それとも一匹を犠牲にしても九十九匹の安全を守るのかについて語っているわけではないからです。「九十九匹を野原に残して」というのは、九十九匹を危険に晒すことを意味しているのではなく、なんらかの手段によって、たとえばほかの仲間に預けるなどして、九十九匹の安全が確保されていることを前提としているのです。このことは次のたとえ、「無くした銀貨のたとえ」を読むことによってはっきりと示されます。そこでは「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」と言われています。ドラクメ銀貨はデナリオン銀貨と同じ価値で、一日の賃金に当たります。一日の賃金に当たるドラクメ銀貨を無くしたら、それを見つけるまで捜すだろう。自分の大切なお金が失われないために当然そうするだろう、とここでも言われているのです。このとき九枚の銀貨については特に問題になっていません。一枚の銀貨を見つけるまで捜すからといって、九枚の銀貨が危険に晒されるわけではないからです。ですから見失った羊のたとえにおいても、そこで見つめられていることの中心は、九十九匹を危険に晒すことにあるのではなく、失われた一匹を見つけ出すまで捜すことにこそあるのです。

神の驚くべきお姿
 このように、ここでは私たちが失われた一匹の羊を、無くなった一枚の銀貨を見つけ出すまで捜すだろう、当然そうするだろうと言われています。しかしこれらのたとえで本当に描かれているのは私たちの姿ではなく、もちろん神様のお姿です。私たちが当然そうするように、神様も当然そうしてくださる、と語られているのです。しかし主イエスが、神様は当然そうしてくださる、とお語りになったことは、私たちにとって驚くべきことです。私たちは主イエスのたとえで示されている、この神様の驚くべきお姿にこそ目を向けたいのです。

滅びかけている私たちを捜して
 私たちは羊です。そして私たちはかつて失われた羊でした。このたとえにおいて、失われた一匹の羊こそが私たちなのです。いや、失われた一匹の羊とは徴税人や罪人であり、野原に残った九十九匹の羊がファリサイ派の人たちや律法学者たちであるなら、私たちも野原に残った九十九匹の羊ではないか、と思うかもしれません。先ほど、私たちはこのたとえで、九十九匹を危険に晒してまで一匹を捜すのか、一匹を犠牲にして九十九匹を守るのかについて考えなくて良いと申しました。しかし私たちがそのように考えがちなのは、自分は行方不明になった一匹の羊なのだろうか、それとも野原に残った九十九匹の羊なのだろうか、と想像するからではないでしょうか。自分が九十九匹の羊であるなら、野原に放っておかれるのは堪らないと思うのです。けれどもそのように考える必要はありません。私たち一人ひとりは皆、失われた一匹の羊だからです。徴税人や罪人だけが失われた羊ではない。ファリサイ派の人たちや律法学者たちも失われた羊なのです。「見失った羊」、「無くした銀貨」の「見失う」、「無くす」と訳されている言葉は、「滅びる」という意味の言葉です。徴税人や罪人は、その罪のゆえに滅びかけていました。ファリサイ派の人たちや律法学者たちも、自分の正しい行いによって救われるのは当たりまえと思い、神の招きを拒むことによって滅びかけていたのです。そしてほかならぬ私たちも滅びかけていました。神様の守りのもとに生きるのではなく、自分の力で生きることができると勘違いして神様から離れてしまい滅びかけていたのです。しかし神様は、そのような私たち一人ひとりを見つけ出すまで捜し回ってくださいます。あの女性が、「ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて」捜したように、神様は私たち一人ひとりを見つけ出すまでとことん捜してくださるのです。

神の愛
 見失った一匹が、ほかの九十九匹と比べて特別であったわけではないように、無くなった一枚の銀貨が、ほかの九枚となんら変わらない銀貨であったように、神様が滅びかけている私たち一人ひとりを見つけ出すまで捜し回ってくださるのは、私たちがほかの人と比べて特別だからではありません。私たちが自分の羊や銀貨を失わないために捜すように、神様はご自分のものを失わないために私たち一人ひとりを捜してくださるのです。しかしそれは、驚くべきことです。神様は私たちをご自分のものとしてくださっている、ということだからです。私たちに、神様が私たちをご自分のものとしてくださるにふさわしい何かが少しでもあったのではありません。まったくなかったのです。私たちは神様から離れて、神様に背いて、滅びかけていました。滅んでしまって当然でした。それにもかかわらず、神様は私たちをご自分のものだ、と言ってくださり、私たちが滅んでしまわないように、見つけ出すまで捜し回ってくださるのです。ここに神様の愛があります。この神様の愛を、主イエスはこの二つのたとえを通して伝えているのです。共にお読みした旧約聖書エゼキエル書34章11節以下では、主なる神が羊飼いとしてその民を養われることが語られています。その16節に「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」とあります。まさに神様の愛とは、「失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」愛です。もちろん私たちが失われ、追われ、傷つき、弱ったのは、私たち自身の罪のためです。私たちは神様から離れ、自分勝手に生きることによって失われてしまい、追われてしまい、傷ついてしまい、弱ってしまっていたのです。その私たちを神様は計り知ることのできない愛によって尋ね求め、連れ戻してくださり、私たちの傷を包んでくださり、弱っている私たちを強めてくださったのです。

悔い改めに先立つ神の愛
 どちらのたとえでも「そして、見つけたら」とあります。「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」(5-6節)。「そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう」(9節)。失われたものが見つけ出された喜びで満ち溢れています。滅びかけている一人が見つけ出されることを、神様は喜んでくださるのです。だからそれぞれのたとえの最後でこのように言われています。「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(7節)。「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」(10節)。「悔い改める」とは、反省することではありません。そっぽを向いていたのに神様のほうに向き直り、神様に立ち帰ることです。神様から離れてしまっていたのに、神様のところに帰ってくることなのです。とはいえ失われた羊は、自分で帰って来たのではなく、見つけ出されて、しかも担がれて帰ってきました。無くした銀貨も、自ら出てきたのではなく見つけ出されたのです。ですからこの二つのたとえでは、はっきりと悔い改めが語られているわけではありません。それが語られているのは、むしろ11節以下の「放蕩息子のたとえ」においてなのです。それにもかかわらず、それぞれのたとえの終わりで、「悔い改める一人の罪人については…大きな喜びが天にある」と言われ、「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」と言われているのは、私たちの悔い改めに先立って、神様の愛があることを示すためではないでしょうか。私たちが神様のところに立ち帰ることができるのは、私たちの決意や行動に先立って、神様の愛があるからなのです。確かに悔い改めは、私たちが神様のほうに向き直り、神様に立ち帰ることです。しかしその悔い改めは、神様が滅びかけている私たち一人ひとりを見つけ出すまで捜し回ってくださるからこそ、私たちに起こされていきます。私たちを見つけたら、喜んで担いで帰ってくださるほどの神様の愛を示されるからこそ、私たちは悔い改めへと導かれるのです。神様の愛こそが、私たちの悔い改めに先立ってあるのです。

共に喜ぶ交わりへ入れられる
 神様は失われた一人が見つけ出されることを、滅びかけていた一人が救われることを喜んでくださいます。そして私たちに「一緒に喜んでください」と呼びかけられるのです。神様は私たちに一緒に失われた一人を捜しに行こう、と言われているのではありません。失われた一人を見つけ出し、滅びかけていた一人を救ってくださるのは、ほかならぬ神様です。でも、失われていたのに見つかったのなら、滅びかけていたのに救われたのなら、一緒に喜んでください、と神様は私たち一人ひとりに呼びかけられています。神様は、私たち一人ひとりを共に喜ぶ交わりへと招かれているのです。その招きにお応えして、私たちは一緒に喜ぶことができるでしょうか。その招きにお応えして、共に喜ぶ交わりへと入っていくことができるでしょうか。私たちが自分とほかの人を比べている間は、その招きに応えることはできそうにありません。この人が失われていたのに見つけ出されたことに、滅びかけていたのに救われたことに喜ぶよりも、この人を上に見て妬んだり、下に見て蔑んだりして、この人と共に喜ぶ交わりへ入っていくことはできない、と思ってしまうからです。自分とほかの人を比べている間は、共に喜ぶ交わりへ入っていくことができずに、交わりから離れたところにいるしかないのです。それは、神様の喜びから遠くにいることにほかなりません。私たちがそれでは駄目だと思い、なんとかしようと思っても、交わりを拒んでしまうような自分の弱さや醜さを自分の力で取り除くことはできないのです。けれども、神様が失われていたこの「私」を、滅びかけていたこの「私」を、見つけ出すまで捜し回ってくださったことに目を向けるとき、「ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて」捜すように、とことん捜し回ってくださったことに目を向けるとき、私たちは自分だけでなく、ほかの人も同じように神様によって見つけ出されたことに気づかされます。自分とほかの人を比べるのではなく、自分もほかの人も見つけ出してくださり、救ってくださった神様の愛に目を向けるのです。そのことによってこそ、私たちは神様の招きに応えて、共に喜ぶ交わりへと入っていくことができるのです。神様は私たち一人ひとりを見つけ出すまで捜し回ってくださいます。見つけたら、喜んで担いで帰ってくるほどの愛で、私たちを愛してくださいます。失われていた私たちを尋ね求め、追われていた私たちを連れ戻し、傷ついていた私たちを癒し、弱っていた私たちを強めてくださる神様の愛によって、私たちは神の招きに応え、失われていたのに見つけ出されたことを共に喜ぶ交わりへ、互いに受け入れ合う主の交わりへと入れられていくのです。

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